「手を伸ばしなさい」

及川 信

       ルカによる福音書 6章 6節〜11節
6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」6:10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

 安息日

 前回に引き続きユダヤ人が命がけで守ってきた安息日における出来事です。安息日を守るとは、具体的に言えば普段の仕事をしない、家事もしないということです。自分の力で生きることをせず、神が生かしてくださることを信じ、神の愛の御手に自分を委ねる。そして、人はパンを食べて生きるだけではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものであることを確認し、神様を賛美する。神を神として崇めることを通して人間として生きる。そういう意味で、安息日を守ること、礼拝を守ることはユダヤ人にとっては人間として生きることなのです。そのことを抜きにすれば、人はただ本能に従って食べて排泄して生きる動物と同じになってしまうのです。食べるために仕事をし、食べるために生きる存在になってしまう。そういう本末転倒が起こるのです。
 前回、出エジプト記や申命記に記されているモーセの十戒を読みました。そこには、安息日は神様の創造の御業を覚え、また出エジプトに代表される救済の御業を覚えるために仕事を休むべきことが記されていました。そして、それだけでなく安息に与るのはイスラエルの成人男子にとどまらず、妻も子どもも奴隷も外国人も区別なく与るべきことが記されていたのです。さらに家畜も皆、安息日には仕事を休み、神様の祝福を頂き、救済の御業に与るのです。「安息日を守らねばならない」という律法は、そういう普遍性あるいは平等性を作り出すものでもあるのです。自分たちの民族だけとか、国籍を同じくするものだけではなく、外国育ちの他宗教を信仰してきた者たちも皆、安息日には休むのです。そして神様の祝福を分かち合う。救いを分かち合うのです。神様はイスラエルの民だけを創造したのではなく、世界中すべての民を創造し、愛しておられるのです。また、かつてエジプトの奴隷として苦しい体験をしたイスラエルは、事情があって今は奴隷になってしまっている者たちと安息日を共にすることを通して神様の愛を分かち合うのです。
 このように、安息日を守る意味は実に深く広いものです。この点については、理屈で学んでどうなるわけではなく、私たち自身が主の日の礼拝を守り続ける中で深く広く知っていくことだと思います。

 本末転倒

 主イエスは、この日もいつもの安息日のように会堂に入り、教えておられました。聖書を朗読した後、人を生かす神の言葉の説き明かしをしておられたのです。しかし、その会堂には右手の萎えた人がいました。一〇節に「手は元通りになった」とありますから、多分、成人になって以後何らかの病の後遺症で手が麻痺してしまったのだと思います。そういう肉体的な障碍は、当時は何らかの意味で罪の結果と考えられていました。ですから、この人は障碍の故にまともな仕事ができずこき使われる下働きをするか、物乞いをするかという生活上の惨めさを抱えた上に、宗教的な意味では神に裁かれた者、あるいは見捨てられた罪人という烙印を押される悲しみを味わっていたと思います。
 律法学者やファリサイ派の人たちは、律法の精神よりもむしろその字面を守ることに熱心な人々でした。そして、人々が律法の規定を破る罪を犯せば、その償いの行為を求めていたのです。それは当然のことのように思えますが、そこにはいつも本末転倒になる危険性があります。
 本来は、子どもを非行から守るための学校の規則が、生徒たちの反抗心や隠れた非行を促し、教師と生徒、良い子と悪い子の間に壁を作り互いに警戒心を抱かせるようになってしまう。そういうこともしばしばあるものです。
 この時も、主イエスに対して警戒心を抱いているファリサイ派や律法学者たちは、礼拝の最中ですら主イエスが安息日の規定を破るかどうかだけに注目していました。これも本末転倒です。安息日には、命の危険がない限り医者も手当てはしてはいけないことになっていました。右手が萎えた状態は命の危険とは関係がありませんから、その人を癒すとすればそれは明らかに安息日の規定に違反します。そのことを承知の上でイエス様が癒しの業をなされば、彼らは「あの男は異端者だ、危険な人物だ、会堂で説教などさせてはいけない、逮捕しなければならない」と訴えることができます。彼らは、そのための機会を狙っていたのです。礼拝中にです。
 そのことをご存知の上で、主イエスは右手の萎えた人を会衆の真ん中に立たせました。そして、「手を伸ばしなさい」と命じた。すると、「手は元通りになった」のです。
 ファリサイ派の人々や律法学者たちは「怒り狂って、イエスを何とかしようと」話し合いました。一刻も早くイエス様を社会的な意味で葬り去らないと彼らの地位は危うくなってしまうからです。理屈ばかりこねて何も出来ない彼らより、力強く神の言葉を語り、癒しの業をして下さるイエス様のほうに人々の信頼は向けられていくことは火を見るより明らかだからです。彼らの心を支配しているのは、そうなってしまうことに対する恐怖でしょう。自分たちにとって都合の良い秩序を保ち、身の安全を保ち、自分たちのための平和を維持する。それが正義であり、神の御心に適うことだと確信する者は、自分に反する者は、神の敵として抹殺することが正しいことだと確信します。しかし、その確信は、安息日を定めた神様の心とは正反対のものなのではないでしょうか?

 二〇〇一年九月十一日

 今日九月十一日は、私たちの国にとっては三月十一日の東日本大震災から半年が過ぎた区切りの日です。同時に、世界の歴史を変えたと言っても過言ではないニューヨーク・ワシントン同時テロ事件から十年目に当たる日でもあります。あの時以来、世界は「テロとの戦い」という言葉に巻き込まれていきました。アメリカにとっては、歴史上初めて全く意表をつく形で本土が攻撃された衝撃は計り知れないものがあるでしょう。三千人近い人々が一瞬のうちに命を奪われ、今なお多くの人々の死亡が確認されず骨の破片などによる身元確認が続いています。亡くなった方たちの家族、友人たちは数万人に上り、今なお癒えぬ傷を負っておられます。それは、まことに痛ましいことです。

 愛国心 報復

 しかし、その一方で、哀悼の意を表すだけでは済まされない現実が、あの時以来始まりました。二〇一一年九月十一日以降、アメリカは「愛国心」で塗り固められていきました。かねてから不和の関係にあったイスラム過激派からのテロ攻撃によって多くの人々が無差別に殺されたのです。ですから、愛国心はそのまま敵愾心になりました。私たちが今、震災によって以前よりも国を愛する心が強くなり、国民同士の連帯意識が強まっているのとはまるで違うのです。私たちは自然に敵愾心を抱く訳ではありません。その力に脅威を感じ、むしろ謙遜にさせられています。
 しかし、敵愾心を内容とする愛国心は人間をさらに傲慢にします。誰よりも自分たちが強いと思っている人々にとっては、敵から攻撃されること自体が我慢ができないことであるのは、当然のことでもあります。
 時のアメリカ大統領は、破壊されたビルの瓦礫の上に立ち、救助活動を続ける消防隊員を初めとする多くの人々を前にして、得意満面の笑顔を浮かべながら「かかってこいテロリストども。我々は報復してやる。我々はテロリストを必ず裁く、彼らと関わりのある者も、彼らを匿っている者も裁く。必ず正義の鉄槌を下す」と演説をし、やんやの喝采を受けました。たしかに卑劣にして残虐なテロ行為を許してはなりませんし、その行為を計画し、実行した者たちや関係者は法の下に裁かれなければなりません。しかし、現実には、殺害に対する裁きは何倍もの殺害でした。世界に共通の法などはなく、結局、暴力で強い方が勝ち、勝った方が正義なのです。私たち人間の世界では。そして、正義を行うことは善いことです。
 当時、一部ではありますが、アメリカ国内に「我々は世界に平和と民主主義を広めているはずなのに、何故こんなに憎まれるのか?その理由を考えたほうがよい」という意見もあると報道されていました。しかし、そういう冷静な議論は「愛国心」という名の敵愾心や憎しみの前に掻き消されていきました。そういうことは、どこの国でも起こることです。
 アメリカ大統領は、開戦を決意する直前に教会で礼拝を捧げました。その大統領が、「我々は世界中の多くの人々から愛され、尊敬されるのではなく、恐れられ、憎まれる者になってしまった。味方や仲間を作るつもりであったのに、敵を作ってきてしまった。キリストは愛を教え、人のために命を捨てることに勝る愛はないと教えられたのに、そのキリスト教的文化を誇る我々が、いつしか『剣を持つ者は剣で滅びる』というキリストの言葉通りの道を歩んできてしまったのかもしれない。諸君、ここは冷静に、すぐさま報復などせずに、なぜこういうことになってしまったのかを考えよう。そして、敵とも心を開いて話し合い、敵を仲間にするために歩み出したいと思う」と演説したとしたら、その場は非難の声で満ち溢れ、大統領は狂信的愛国主義者によって命を狙われかねません。少なくとも、彼の政治生命はその直後に終わったはずです。
 しかし、彼はあの時「安心してくれ、必ず報復する」と言いました。そして、その直後に大統領の支持率は史上最高の九十二パーセントに跳ね上がったのです。多くの人々が同じことを考え、また願っていたからです。彼は、その人々の代弁をしたということでもあります。そして、その報復は「目には目を」どころではありません。目も鼻も口も滅茶苦茶にしたのです。二つの国の政府を破壊し、テロで殺された人の数倍の人間を殺す報復でした。それが、アメリカにとっての正義なのです。
 私たち日本人も、北朝鮮のミサイルが日本の国土の上を飛んだと聞けば、ミサイル攻撃に対しては先制攻撃をしても良いという論調が一気に高まりますし、中国の漁船が海上保安庁の巡視船にぶつかってくれば、反中感情が盛り上がります。もし、首都圏にテロ攻撃がなされれば、日本の国民の多くも「報復せよ」と叫ぶのではないでしょうか。それがこの世の現実です。
 しかし、「報復」は必ず連鎖し、新たな敵を生み出していきます。今やアメリカでは、アメリカ国内で生まれ育った青年がテロを起こす危険性にさらされ、国内の監視が強化されていると言われます。内部で疑心暗鬼と敵意が渦巻き始めているのです。もちろん、軍隊を送ったアフガニスタンやイラクの市井の人々がアメリカを支持しているわけでもない。むしろ今回のことで反米に転じた人の方が多いでしょう。
 自分たちの安全、自分たちにとっての平和を権力や武力を用いて作り出し維持しようとする時、その安全や平和を壊すと見做した者を抹殺しようとする。それが私たち人間の現実です。
 アメリカの大統領もテロ攻撃の首謀者も、それぞれ神の名のもとに人殺しを正当化します。その「神」は、多くの日本人が考える「神」ではなく聖書に記されている神なのです。キリスト教の神もイスラム教の神も、本をただせばアブラハムの神なのですから。しかし、双方がやっていることは、その神様の願いとは全く逆のことであることは明らかだと思います。しかし、神を信じ、神に従うと口では言いつつ、神よりも自分を愛する時、私たち人間は敵を作り出し、敵を殺すことが神の御心だと確信してしまう。しかし、それは神の敵になることなのです。本当に恐ろしいことです。

 善 命

 主イエスは、礼拝の中でファリサイ派の人々や律法学者たちにこう言われました。

「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

 答えは明らかだとも言えます。善を行い命を救うことが、神様が定めた律法の心でしょう。でも、彼らは答えません。答えることができないのだと思います。
 それにはいくつかの理由があるでしょうが、その点には今日は触れません。しかし、善とは何か?命とは何か?命を救うとは何か?は決して自明のことではないことも事実です。「善」は立場によって変わります。アメリカの大統領からテロリストと呼ばれる人たちは彼らなりの「善」を行っているのだし、テロリストと戦うと言いながら他国の政府を破壊し、無辜の市民の多くを殺してしまうこともまた、その人たちなりの「善」なのです。何が本当の善であり、善いことを行うとは、どういうことなのでしょうか。これは難しい問題です。
 命とは何か?この問いも実に難しい。主イエスがここで「命」とおっしゃる場合、それは単に肉体の命のことでしょうか?右手の萎えた人は現に生きているのです。また、死に瀕しているわけではありません。片手に障碍を負っているだけです。だから、彼の障碍を癒すことは単に肉体の命を救うことではあり得ません。そうであるとすれば、命を滅ぼすとはただ肉体の命を殺すことではないことになります。

 善を行う

 「善を行う」と訳されたアガソポイエオウという言葉は、ルカ福音書ではここと六章三三節、三五節に出てくるだけです。そこに出てくる主イエスの言葉は、ファリサイ派や律法学者にとどまらず、私たちすべての人間にとって衝撃的なものだと思います。まさに崖から突き落とされるような言葉なのです。
 二七節から飛ばしつつ読みます。

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。・・・ 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。・・・しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

 ここに二度「善いことをする」と出てきます。そこでの「善いこと」は、この世では「善いこと」ではありません。この世では、敵は憎むものです。私たちを憎む者にはそれ相応の対応をしなければなりませんし、悪口には悪口で対抗し、侮辱には侮辱で対抗する。それがこの世の常識であり、この世における善であり、そして正義です。そして、私たち「いと高き方の子」として生きるべきキリスト者も、しばしば「この世の子」として生きていると言わざるを得ないのではないでしょうか。
 しかし、神様が人間に望む「善いこと」、それは敵を愛すること、自分を憎む者に親切にすること、悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈ることなのです。そして、それこそ安息日の礼拝において教えられていることです。イエス様は、会堂でそのことを教えておられたに違いありません。そして、イエス様が右手の萎えた人にしたことこそ「善いこと」であり、「命を救う」ことのはずです。それは、この世の子としての命が死んで、「いと高き方の子」つまり神の子の命を与えることなのではないかと思います。しかし、その「善いこと」は、どのようにして行われたのでしょうか。

 立ちなさい

 イエス様はここで右手の萎えた人に「立ちなさい」と命ぜられました。(「立って」とありますが、これは「真ん中に出なさい」と同じく命令形です。)そして、命令に応えて人々の真ん中に立った人に向かって「手を伸ばしなさい」と命令された。すると、「手は元通りに」なりました。
 この「立ちなさい」という言葉は、この先の七章に出てきます。そこには頼りにしていた一人息子が死んで悲しみにくれるやもめがいます。息子は既に棺の中です。しかし、イエス様はその棺に手を触れて、こう言われました。

「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」

 「起きなさい」「立ちなさい」と原語(エゲイロウ)では同じです。死人が新しい命を与えられる。復活させられる。その現実を、この「立ちなさい」は表現しているのです。
 そうだとすると、「右手が萎えた人」の本質は「既に死んでいる」ということになります。だからこそ「立ちなさい」と言われるのです。聖書において、「罪の値は死である」と言われます。その死は、肉体の死を意味しません。少なくともそのことだけを意味しないのです。罪は神様との関係の喪失を意味するからです。様々な形がありますが、神様との関係を失うこと、そして敵になってしまうこと、そのことが罪でありその結果が死なのです。ですから、それは肉体的には生きながらにして死んでいることがあるということです。

 右手

 この出来事はマルコ福音書にもマタイ福音書にも出てきます。でも、萎えた手が「右手」であると書いているのはルカだけです。そこには意味があるように思いました。右手とは通常、利き手のことであり仕事をする手のことです。その手が萎えるとは仕事ができないことを意味します。
 しかし、その仕事を「善いことをする」ことと考えるとどうなるのでしょうか。私たちは、安息日に神様から教えられる善いことをしているのでしょうか?敵を愛し、憎む者に親切にし、悪口を言う者の祝福を祈り、侮辱する者たちのために祈ることをしているのでしょうか?そういう仕事をちゃんとしているかと言われれば、私たちの右手はまさに萎えている、麻痺していると言わざるを得ないと思います。この世の中で善いこととされることはしています。報復をします、無視をします、悪口を返します。自分を愛してくれる人ならなんとか愛せます。自分に善いことをしてくれる人には善いことが少しは出来ます。
 しかし、それは罪によって死んでいる人間のすることであり、それ以上のものではありません。父なる神様の憐れみ深さに倣うものではなく、「いと高き方の子」の業ではなく、右手が萎えた「この世の子」の業に過ぎません。この世の中での善は、神の目から見れば悪であり、この世の中で自分の命を救うことは善ですが、それは人の命を殺すことで成し遂げられる場合がしばしばであり、それは結局、自分の命を滅ぼすことになるのです。しかし、その事実が私たちには分からない。私たちは、主イエスの十字架上の言葉にあるように、まさに自分のしていることが分からないのです。右手だけでなく、頭や心も麻痺しているのです。手は頭や心の指令によって動いているのですから。
 「核の平和利用」という美しい言葉を作り出し、「これは安全なのだ」という神話を自ら作り、それが安全でもなんでもない恐ろしく危険なものだと分かった後も、目先の利益を考え、命よりも利益や便利さを重んじて、なおも自分の手で作り出した安全神話にすがり付こうとする。そういう所にも、心も頭も麻痺してしまった人間の傲慢と愚かさは現れていると、私は思います。
 そして、人間は善をなし得ず、命を自ら救うことは出来ないのです。その事実を謙虚に認めない限り、神の子としての新しい命は与えられず、真の善を行うことは不可能なことだと思います。

 善を行う者はいない

 パウロはローマの信徒への手紙二章で、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」と断言した後に、そのことを示す旧約聖書の言葉をたくさん引用しています。

「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。
ただの一人もいない。
・・・・
その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。
彼らの目には神への畏れがない。」


 あの大統領もテロリストの首謀者も、大統領を支持する人々もテロリストを支持する人々も、皆「罪の下にある」ことに変わりはなく、ここにいる私たちもその点で何も変わりません。私たちは悟っておらず、道に迷っており、善を行えず、破壊と悲惨を作り出し、平和の道を知りません。六五年前の世界大戦以後も破壊と悲惨を産み出すだけの戦争を繰り返し、今もその戦争に備えなければならないのです。それは、神を畏れていないからです。先週ご一緒に読んだ詩編一〇編には「神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている」とありました。まさにそうなのです。表面的には会堂に来て礼拝をしている。しかし、その心の中には敵を落とし入れよう、報復しようという思いが渦巻いている。それが神の御心に適うことだと確信している。そういう恐るべき錯誤から脱出できないのです。自分が実は神に逆らい、神の敵になっていることが分からないのです。

 敵に対する神の愛

 パウロは、神の民ユダヤ人の傲慢の罪を暴きつつ、その罪人に対して神様がなしてくださった救いの御業、新しい命の創造の御業を語ります。

「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。・・・ 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマの信徒への手紙五章八節〜一〇節抜粋)

 「敵を愛しなさい」と言われた主イエスは、その締め括りの言葉として「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とおっしゃいました。
 「善いことをする」とは、まず何よりも神様の業なのです。神様は、神様の名を自分の欲望のために利用し、神様を礼拝しつつ侮る者たち、ご自身に逆らう敵を憐れんでくださったのです。そして、その「憐れみ」は心の中の同情とは全く別のものです。具体的な存在として、また具体的な業として現れる憐れみ、愛です。神の独り子イエス・キリストを通して、その十字架の死と復活を通して示された愛です。命の源である神様との愛の交わりを失い、敵対し、自らの命を破壊し続けている惨めにして愚かな私たちに対する怒りを、神様は御子イエス・キリストに向けることを通して、私たちと和解して下さったのです。そこに神様の私たちに対する善い業があり愛があるのです。御子は罪人に対する神様の怒りと愛をその全身で受け止めて十字架に磔にされて死に、その死人の中から立ち上がらされ、そして弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和がある」と祝福してくださいました。これが、御子イエス・キリストが私たちにしてくださった善いことです。この業を通して、イエス様は私たちの命を救ってくださったのです。そして、そのことを信じる者たちの罪は赦され、新しく神の子として造り替えてくださったのです。ここに神様の憐れみが現れているのです。

 を行うための礼拝

 私たちにとっての安息日、それはイエス様が十字架の死から復活され、「あなたがたに平和がある」と語りかけてくださった日曜日です。その日曜日、私たちは仕事を止め、この礼拝堂で神の言葉を聴き、そして、イエス・キリストを通して与えられる善いことに与るのです。罪の赦しという救い、新しい命の創造という御業に与るのです。老いも若きも、男も女も、日本人も外国人も、そして敵も味方も、主イエスを通して与えられた神様との和解という救いを分かち合うのです。そして、その礼拝を与えられた者たちは、和解の使者としてこの世に遣わされる。敵を憎み、報復が善であり正義であると信じているこの世に、敵を愛し、そのために祈りつつ死に、復活された主イエスを証しするために派遣されるのです。私たちはそのことのために生きているのだし、その命を生きるために安息日の礼拝は無くてならぬものです。この礼拝を通して、私たちは本末転倒の錯誤から解放され、本来の人間として造り替えて頂けるのです。
 主イエスは、今日、私たちにこう語りかけてくださっていると、私は信じます。
 「立ちなさい。私は今日、あなたに善いことをしよう。あなたの命を救おう。その萎えた右の手を癒そう。手を伸ばしなさい。今日から神の子として善いことをする日々を歩み始めなさい。」祈ります。
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