「祈りと選び」
そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。 中渋谷教会の伝統 「天地が崩れるようなことがあっても礼拝はやめません」。 中渋谷教会の初代牧師森明の言葉です。今から八十八年前の一九二三年(大正十二年)九月二日の日曜日の午後、森牧師は山田松苗という女性会員にこの一言だけを言って立ち去ったと言われます。言うまでもなく、その前日の九月一日は関東大震災が起こった日でした。 今日は創立記念礼拝として礼拝を守っています。今年は東日本大震災が起こった年でもあるので、久々に『中渋谷教会八十年史』を手にとって山田松苗さんが記された「教会と関東大震災」と題がつけられた文章を読み返しました。震災翌日の日曜日は交通機関も止まり、東京全体が破壊され、多くの人々が死にまた傷つき倒れ、食料も水もなく多くの人々が茫然自失の状態でした。山田松苗さんは、このような非常時には礼拝に行かないのは常識的なこととしていました。当然の判断でしょう。しかし、その日曜日の午後、麻布にお住まいだった松苗さんの所に、病弱の森明牧師が渋谷から徒歩で訪ねてこられ、「天地が崩れるようなことがあっても礼拝はやめません」と一言だけ言って立ち去っていった。 このエピソードは、私の前任者である嶋田順好牧師の「教会創立八十周年の志」という文章の中にも出てきます。嶋田牧師はその長い文章の最初に「一、礼拝に集中する群れ」を置いています。礼拝に集中することこそ中渋谷教会の守るべき伝統だと言うのです。 今日、皆さんのお手元に配られている「会報」の巻頭言に、私は山田松苗長老の文章を長く引用した上で二〇〇四年から掲げている「教会形成のための十年ヴィジョン」との連関を書きました。創立から九十四年を経た今も、私たちは神の家族として礼拝に結集する教会形成を続け、その礼拝において伝道していることを皆さんと一緒に確認したかったからです。 キリスト教会の伝統 今年三月の大震災は金曜日のことであり、日曜日にはまだ津波の水が完全には引かない教会もありました。物的、人的被害は関東大震災をはるかに上回ります。しかし、いずこの教会にも集まれる信徒が集まってきて日曜日の礼拝は捧げられ、洗礼式が執行された教会もありました。その方たちは礼拝を守ることが義務だから仕方なく集ってきたのではなく、まさに天地が揺り動かされるような経験の中で、主イエスの言葉を聞かないではいられない、主イエスに祈らないではいられなかったから集って来られたのだと思います。その方たちは、会堂には来られない信徒の方たちと祈りを一つにして、今も生きておられるイエス・キリストを礼拝したでしょう。苦しみを訴え、助けを求め、疑問を投げかけつつ、御言に聴いたでしょう。 私たちが震災に見舞われたとしてもそれは同じです。万が一、私が遠くに外出中に震災に遭い、日曜日にこの会堂まで帰り着くことができないことがあったとしても(被災地では実際そういう教会もあったのですが)、集まれる信徒だけで礼拝を守る。御言を読み、祈り、賛美する礼拝を守る。必ずそういう礼拝が捧げられることを信じています。 イエス様が死から甦った日曜日、主の日に主イエス・キリストを礼拝する。それがキリスト教会が誕生した時からの伝統です。そのこと抜きに、教会は今も生きて働き給うキリストを証しする共同体として建ち続けることは出来ません。今、被災地ではこれまで教会に来なかった地元の方たちが礼拝に集い始めていると先日お聞きしました。今のような苦難の中でこそ、人は活ける神の言葉を求めるのです。その時、教会がいつもの主の日と同じく礼拝を捧げていなければ、私たちは神様から与えられている重大な使命を果たすことが出来ません。それほど悲しいことはないと思います。中渋谷教会も二千年前に誕生した聖なる公同の教会の一つとして、その使命を九十四年間果たしているのです。 天地は滅びるが・・・ ある時、主イエスは弟子たちにこう言われました。 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(ルカ二一章三三節) このイエス・キリストの言葉を聴かずして、私たちは望みを持ってこの世の中を生きていくことは出来ません。何故なら、この世はいつか滅びますし、私たちもいつか死ぬからです。その死と滅びに向かっているだけならば、何故苦しい人生を生きなければならないのか、私には分かりません。私たちは主の日の礼拝毎に、主イエスを通して与えられている、そして与えられようとしている救いがあることを、御言を聴くことによって確信させられます。そのことで望みをもって生きることが出来るのだし、主イエスを讃美して生きる喜びが与えられるのです。 イスラエルの選び 先週は、藤掛順一先生を通してカルヴァンの教会論の学びをしました。その中で、先生は「神の選び」に関して触れられました。カルヴァンの「予定」という言葉と共に「神の選び」が躓きになった方もいるようです。その点については、これから一年をかけて分団の学びを通して語っていきますが、今日の箇所にも「選び」が出てきます。聖書を「神の選び」を抜きにして読んだら何がなんだか分からないものになります。聖書は神と人間との間の契約の書物であり、その契約は神とアブラハムの契約であり、神とイスラエル十二部族との契約です。彼らは選ばれた者たちです。彼らだけが、祝福に与るためにではなく、全世界のすべての人たちが、天地の造り主なる神の祝福に与るためにです。そのために彼らは主を礼拝し、主を証しして生きるのです。しかし、その主なる神の民イスラエルは主イエスの時代には律法主義、悪しき選民主義、独善に陥り、神の選びを無にしていました。 そこで神様は、新しい契約の民を造る為に、イエス・キリストをこの世に送られたのです。今日の箇所は、新しいイスラエル十二部族の選びに関する箇所です。 十二使徒の選び イエス様が徹夜の祈りを通して弟子の中から選ばれた十二人の使徒たちについて詳しく語ることはしません。これまで出てきた人物はガリラヤ湖の猟師であったペトロ、兄弟のアンデレ、ヤコブとヨハネです。彼らは弟子になるための訓練を受けていたわけではありません。聖書を深く学んでいたわけでも、熱心に律法を守りつつ生きていたわけでもないでしょう。どこにでもいる平凡な男です。その点で、復活の主イエスとの出会いによって使徒とされたパウロとは全く違います。しかし、ペトロたちは主イエスの「わたしに従いなさい」という招きに応えたのです。網も舟も捨ててイエス様に従ったのです。それが決定的なことです。すべて新しいことは、イエス様の選びによる招きと応答に始まるからです。 徴税人のレビ、彼はマタイとも呼ばれる人ですが、彼などは当時の社会の中では罪人の中の罪人でした。しかし、彼も主イエスへの招きに応えて「すべてを捨てて従い」ました。新しい人間になったのです。それが決定的なことなのです。 ここに登場する十二人は、そのようにして主イエスに従った弟子たちの中から、主イエスの祈りによって「使徒」として選び立てられた者たちです。つまり、後に主イエスによって派遣され、イエス様こそ神に立てられたメシアであり主であることをその説教と業を通して証言するために選び立てられた者たちです。 その中には、漁師や徴税人だけでなく、政治的宗教的に非常に厳格な考えを持ち、時にテロや暴動なども起こしかねない「熱心党」と呼ばれたグループに入っていたらしいシモンもいるし、後に主イエスを祭司長たちに引き渡すことになるイスカリオテのユダも入っています。そのことの意味は、いつかご一緒に考えることになるでしょう。いずれにしろ、この十二人は神の民イスラエル十二部族に代わる新しい神の民の代表です。主イエスがそういう者として選んだからです。 なぜ、この時なのか この十二人が選ばれた時期は、ファリサイ派や律法学者たちが、イエス様に対して「怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」直後のことです。彼らはガリラヤ地方に突然現れて力強い説教と悪霊追放などの業をして人々の賞賛を浴び始めたイエスという男がどういう人物かを見極めるために、遠く近くからやってきた人々です。そして、「あなたの罪は赦された」と病人に語りかけるイエスや、安息日に障碍者を癒すイエス、罪人らと食事を共にするイエスに対して当初は疑念を持ち、それがついに殺意にまでなったのです。 主イエスは、そういう彼らのことを、「古い皮袋だ」と言いました。古い皮袋はこれから醗酵する新しいぶどう酒を入れると破裂してしまいます。だから、新しいぶどう酒を拒むのです。イエス様が、己が罪に気づき、悔い改めて新たに神の民となるようにと招いても、彼らは古いぶどう酒のほうがよいと言って、新しくなることを拒む。そうなると、結局、新しいぶどう酒を抹殺するしかなくなります。 全世界の祝福の源となるために選ばれたアブラハムの子孫であり、神の支配を打ち立てるダビデの子(メシア)の到来を待ち望むユダヤ人の代表者たちは、いつしか神の選びを誤解し、選びを自己の所有物であるかのように錯覚してしまったのです。それは彼らを選んだ神様の御心に真っ向から逆らうものですが、彼ら自身は自分たちこそが神に従っていると確信している。えてして、そういうものです。 その有様を痛切な形で知らされたイエス様は独り山に行き、神様に問いかけたのではないでしょうか。神様の選びの意志は今も変わらないのか、イスラエルを捨てることはないのか、全世界の民を祝福するというご意志は変わらないのか?メシアを送って世界に救いをもたらす約束はどのように果たされるのか?そのことを祈りの中で神様に尋ね続けられたのではないかと思います。 その祈りに対して、神様が応えた形が十二使徒の選びなのではないでしょうか。神様は、ごく普通の庶民の中から主イエスに従う弟子を選び、さらに主イエスがもたらしてくださった救いを宣べ伝える使徒を選ばれたのです。この使徒たちが、新しいイスラエルの土台となるのです。 祈るイエス様 イエス様が神様に祈る。ルカ福音書ほど祈るイエス様を強調する福音書はありません。何度も出てきます。 その最初は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面でした。罪なきイエス様が罪の悔い改めの徴である洗礼をヨハネから受ける必要はありません。しかし、イエス様はヨハネから洗礼を受けられました。人間の罪をその身に負うためにです。それは、イエス様に罪がないからこそ出来ることであって、罪人は他人の罪を背負うことは出来ません。 しかし、罪に対しては裁きが下るのです。イエス様が罪人の罪を背負うとは、イエス様が罪人の代わりに神の裁きを受けることを意味します。それは恐るべきことです。神に見捨てられることだからです。父なる神様との一体の交わりを生きているイエス様にとって神様に見捨てられる裁きを受けることは、まさに絶望のどん底に落とされることです。私たち罪人には想像もし得ないことです。 そのことを感じておられるイエス様は、洗礼を受けられた直後、人知れず祈られました。それは神様の御心を尋ね求めるためでもあるでしょうし、神様からの励ましを求めるためでもあったと、私は思います。 その時、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた」とあります。神の民イスラエルのみならず、すべての罪人の罪を背負い、神の裁きを受ける。そして、世界中の民を新たな祝福の中に生かす。そのための絶望的な苦しみに向かって歩み出そうとするイエス様に向かって、神様は、聖霊を下しつつ「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と声をかけてくださったのです。聖霊を受けながらその言葉を聞くことを通してイエス様は力を得て、神に立てられた王、メシアとしての歩みを始めたのだと思います。 受難・復活預言 その歩みは説教と癒しの業を中心としたものでした。多くの民衆はそこに神の力を見、ファリサイ派や律法学者は悪霊の力を見ました。そういう中で、イエス様はご自分に従ってくる弟子たちに向かって、こう尋ねられたのです。 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 ペトロが代表して答えました。 「あなたは神からのメシアです。」 主イエスは、そのペトロの信仰告白を聞いた後に、神からのメシアとはユダヤ人の代表者によって排斥されて殺され、三日目に甦るメシアであることをお告げになりました。そして続けてこうおっしゃった。 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」 こうおっしゃってから、ご自分が世の終わりに栄光に輝く姿で再臨するメシアであることも告げられました。 山上の変容 その後、主イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に祈りに行かれました。その時、主イエスの姿が真っ白に輝き、旧約聖書を代表するモーセとエリヤが栄光に包まれて登場し、イエス様と語り合うのです。その内容はイエス様がエルサレムで遂げようとする最期についてです。その様を見てペトロたちは自分で何を言っているのか分からぬほど興奮してしまいます。そういう彼らを神の臨在のしるしである雲が包み込みます。その時、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」との声が彼らにも聞こえました。 イエス様は、神が選んだメシアです。それは十字架の死という苦難を経て復活の栄光に包まれるメシアなのです。更に、世の終わりに再臨するメシアなのです。それは、これまでにない全く新しいメシアなのです。これまでメシアと呼ばれてきた者たちは皆死にました。しかし、イエス様は違います。だから、この方の言葉は天地が滅びても滅びることがないのです。その言葉を聞き、イエス様をメシア(キリスト)と信じて礼拝する者の命は天地が滅びても滅びることがない命に造り替えられます。イエス様の願いは、弟子たちがそれまでの命に死んで新しい命を生きることであり、更に彼らが使徒として、その命を与える救い主、メシアを全世界の人々に宣べ伝えることです。 オリーブ山で祈り 次にイエス様が祈るために山に行かれるのは、そのご生涯の最後の時です。マタイやマルコ福音書ではゲツセマネの園で祈られたとされる場面を、ルカは「オリーブ山での祈り」としています。ルカ福音書では、山で祈られるイエス様が今日の箇所を含めて三度出てきますが、そのすべてが決定的な場面です。 今日の箇所は新しいイスラエルの土台となる十二使徒を選ぶ場面です。次は主イエスが受難と栄光のメシアであることを三人の弟子たちに示す場面です。そして、二二章ではいよいよイエス様が十字架の死に向かわれる場面なのです。イエス様はすべての弟子たちを従えて山に登り、彼らとは少し離れた所でひざまずいてこう祈られました。 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままになさってください。」 主イエスの願いは、十字架の苦難を取りのけて頂きたいということです。人間の罪を背負って父なる神様に裁かれて死ぬという恐るべき苦しみを取りのけて欲しい。イエス様は、そう祈られます。しかし、その最も深みにある願いは、父なる神の御心が実現することであり、その御心が行われることなのです。 洗礼を受けた時に聖霊を注がれながら聞いた言葉は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」という言葉でした。イエス様は父の御心に従って罪人の罪を背負うために洗礼を受けられたのです。それは罪人に対する裁きを身に負うことです。その御心を、今こそ生きなければならない。そのための力を、イエス様は神様に求めておられるのです。 また、かつて山の上で栄光の姿に輝きつつ聞いた言葉、「これはわたしの子、選ばれた者」という言葉を実現していく。そのための力を求めてイエス様は必死になって祈っておられるのです。このように祈る主イエスに対して「天使が現れて、イエスを力づけた」とあります。そこで、イエス様はますます「苦しみもだえ、いよいよ切に祈り」「汗が血の滴るように地面に落ちた」のです。この時、神様は言葉をもってイエス様にお答えになることはありませんでした。イエス様が神の御心を歩みとおすことができるように天使を送って力づけられたのです。 しかし、それは罪人を救うために、父が愛する子を犠牲として捧げるということであり、そこにある神様の心の痛みを思うと、言葉もありません。具体的には、愛する独り子が、神に従っていると確信している者たちによってなぶりものにされ、ついには処刑されるのを黙って見続けるということなのです。その痛みを、父も耐えてくださるのです。私たちの救いのために。 十字架の祈り そのオリーブ山での祈りの後、イエス様は犯罪者に挟まれる形で十字架に磔にされることになります。人々は、十字架に磔にされた者を嘲笑うものです。 その嘲りの中、主イエスは祈られます。嘲る者たちのために祈るのです。 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 その祈りを聞きながら、イエス様に有罪判決を下したユダヤ人の議員たちは「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と嘲笑い、異邦人の兵士たちは「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱しました。でも、皮肉なことに彼らの言葉はイエス様が誰であるかを言い当てているのです。イエス様はまさに神からのメシアであり、ユダヤ人の王だからです。世界を祝福するために神に選ばれたユダヤ人の王とは、世界の民の王のことです。その王、つまりメシアの王座は実は十字架であり、その十字架において実現した神の御心はすべての人間に罪の赦しを与える救いなのです。主イエスは、その救いをもたらすためにアブラハムの子、ダビデの子として生まれ、アブラハムへの約束、ダビデへの約束を全く新しい形で実現をするべく選ばれたメシアだからです。 主イエスはそのすべての業をなし終えられた時、大声で叫ばれた後、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と祈りつつ息を引き取られました。主イエスは、その最初から最後まで父なる神様に祈りつつその地上の生涯を全うされたのです。 祈りは神が聞くもの 祈りは神様に向かって捧げるものであり、神様がお聞きになるものです。主イエスの祈り、そのすべては神様の御心を求める祈りであり、御心に適う祈りです。だから、神様はその祈りに応えて御心をなしてくださるのです。 十字架の上で我が身を生贄として捧げ、私たちの罪の赦しを求めてくださった主イエスの祈りを神様はお聞きくださいました。そして、御手に委ねられた主イエスの霊を神様は引き取り、墓に葬られた三日目の日曜日、死人の中から復活させられたのです。そして、復活の主イエスは、主イエスが逮捕された時に、「お前もあの男の弟子ではないか」との問いに対して、「あの人のことは知らない」と言って逃げ去ったペトロを初めとする弟子たちに出会って下さり、「あなたがたに平和があるように」と告げてくださいました。彼らの罪は赦されたのです。そして、主イエスが天に挙げられて以後、聖霊が降る時に、彼らは力を得て、イエス様がキリスト(メシア)であることを全世界の人々に宣べ伝える使徒となることを約束してくださったのです。 その日から五十日後、主イエスが天に挙げられて十日目。ペンテコステの日に、弟子たちがエルサレムの家の中でひたすら祈っている時、約束どおり聖霊が天から彼らの上に降りました。その時、かつて自分の命を失うことが怖くて自分の十字架を捨てて逃げ去ったペトロたちは敢然と立ち上がりました。そして、主イエスのために自分の命を捨ててこう説教したのです。 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。・・・ だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 これが、キリスト教会が誕生した時の説教です。聖霊によって真理を示され、聖霊によって力を与えられた使徒たちの説教が教会を、つまり新しいイスラエルを誕生させていったのでもあります。彼らは使徒として立てられて以後、裏切りや逃亡という大きな挫折を経験しました。しかし、イエス様の選びは変わることなく、ついにこのような説教をする者とされたのです。 教会とは、毎週毎週、イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しと復活による新しい命、神との平和という福音を礼拝において語り続け、賛美し続ける神の民なのです。そして、私たちはその民として主イエスに選ばれ、立てられ、今日もこうして礼拝をしているのです。ただただ主に感謝し、讃美するほかにありません。 |