「幸いと不幸 T」

及川 信

       ルカによる福音書  6章20節〜26節
6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。
6:25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
6:26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」


 一人一人への問いかけ

 私が朗読した聖書の言葉に関して、皆さんがどういう感想をお持ちなのか、お一人お一人にお尋ねしたいと思うことがしばしばあります。今日の箇所などは特にそうです。きっと様々な感想をお持ちだろうと思うのです。「貧しい人々」とか「富んでいる人々」とは、どういう人々のことなのか?年収幾ら位が貧富を分ける基準なのか?今飢えている人々は幸いであり、今満腹している人々は不幸である。それぞれの状況が逆転する時が来るからであるとは、一体どういうことなのか?教会学校の礼拝では、私は子どもに質問して、その応答を聞きながら説教しています。でも、ここでは無理でしょうから、自問しつつ語らせていただくことにします。

 盛者必衰の理?

 今年の初めから、北アフリカのアラブ諸国の独裁政権が民衆のデモをきっかけとして崩壊しています。権力と富を一族で独占し、民衆を弾圧してきた人々は、まさに文字通り富んでおり満腹しており、笑いながら我が世の春を謳歌していた人々でしょう。しかし、権力を手中にした当初、彼らは民衆からの支持を得、英雄視されてもいたのです。その時、彼らは多くの人々から褒め称えられていました。しかし、それが実は不幸の始まりであり、彼らは次第に腐敗し、ついには追放され、また無残に殺されてしまいました。それは、歴史の中で何度も繰り返されてきたことです。
 主イエスは、ここでそういう歴史の現実を言おうとしておられるのか。「諸行無常、盛者必衰の理、奢れる者久しからず」とおっしゃっているのか。一面から見ると、確かにそうだとも言えると思いますが、それだけではないでしょう。そして、いわゆる「無常観」と主イエスの言葉の間には本質的な違いがあると思います。
 そもそもここで言われている「幸い」とか「不幸」は、一般的に考えられているものと同じなのか?もし、違うとしたらそれは一体どういうことなのか?主イエスは、どういうことをおっしゃっているのか?
 こういう問題を考えるためには、結局、聖書を丹念に読むしかないのだと思います。根源的な問いはすべて聖書から来ますし、その答えもまた聖書の中にあるのだと思います。

 主イエスの周りにいる者たち

「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。」

 主イエスは山の上での徹夜の祈りをされた後、十二使徒を選出されました。その上で、多くの弟子たちと山を下りて来られたのです。そこには、メシアの到来を待ち望んでいた民衆と病や汚れた霊にとり憑かれて苦しんでいる群衆が、イエス様になんとかして触れようと願って集まってきていました。そして、彼らが主イエスに触れると、主イエスから力が出て癒されたのです。それは、単に肉体や精神の病が癒されたことに留まりません。主イエスによる病の癒しは、罪を赦して、神様との交わりに生きる命を回復することなのです。
 今、主イエスの周りにはいる人々は、ユダヤ全土から集まってきました。電車やバスがあるわけでも、自家用車があるわけでもありません。健康な人だって数十キロの徒歩の旅は大変なことです。まして彼らの多くは病人なのです。その彼らが自分の足で、あるいは家族や友人の担架に乗せられてやって来る。それは並大抵のことではありません。なけなしの金をはたいて旅費を賄い、一縷の望みを主イエスにかけてやって来たに違いありません。
 私の学生時代に、まだ学会では認められていないワクチンが癌に効くと評判になり、多くの癌患者やその家族がワクチンをもらうために全国から殺到するということがありました。私もある人から頼まれて、その説明会に参加するために行列に並んだことがあります。そこに集う人々は、治療のために既に多額のお金を使った上で、最後の望みをそのワクチン投与に賭けている人々でした。その姿は見ているだけで苦しくなるようなものでしたが、私は主イエスの周りに集まってきたおびただしい数の人々のことを思い出しました。

 弟子たち

 弟子たちの代表であるペトロは、元々ガリラヤ湖の漁師でした。しかし、主イエスと出会い、己が罪を知らされて恐れに捕われた時、主イエスから「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と語りかけられたのです。その意味深な言葉を聞いた時に、彼らは「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」のでした。
 また、当時のユダヤ人社会で罪人の代表格はローマの独裁者のために税金を不当に集める徴税人でした。しかし、そのことを承知の上で自ら徴税人になり不正な富を得ていたレビもまた、イエス様から「わたしに従いなさい」と言われた時に、「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」のです。
 その時から彼らは収入の道を失いました。養わねばならぬ家族も路頭に迷ったでしょうし、親族からは気が変になったと言われたでしょう。しかし、それだけではありません。彼らは、それまで生きていた社会的基盤を失うことにもなるのです。主イエスに従って歩むことは「人々から憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられる」ことでもあるからです。
 なぜかと言えば、この時の主イエスは、ユダヤ人社会の権力者であるファリサイ派や律法学者らの怒りを買っており、彼らは「イエスを何とかしようと話し合っている」のです。主イエスを取り巻く状況は、次第に緊迫の度を深めています。その中で、ご自身に従ってくる弟子たち、それはまさに捨て身で従ってくる者たちです。そういう弟子たちを見て、主イエスは語り始めているのです。「貧しい人々は、幸いである」と。これは激烈な言葉です。

 幸いな人

 しかし、ルカ福音書は最初から激烈です。いきなり天使ガブリエルが登場して何を告げるのかと思うと、ザカリアと不妊の女エリサベツという老夫婦の間に男の子が生まれると告げるのです。次は、まだヨセフと結婚生活をしていない乙女マリアに神の子が宿ると告げる。いずれも到底信じ難い言葉です。しかし、マリアは「お言葉どおり、この身になりますように」と天使の言葉を受け入れます。それもまた捨て身の信仰と言ってよいものでしょう。
 そのマリアに対して、エリサベツは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言います。「なんと幸いでしょう」とは、今日の主イエスの「幸いである」の単数形です。

 飢えた人

 そのマリアが、有名な「マリアの賛歌」(マグニフィカート)を歌います。その中に、こういう言葉があります。

「主は・・・
権力ある者をその座から引き降ろし
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。」


 これも激烈な言葉です。ここに「飢えた人」と出てきます。しかし、その人々は主によって「良い物で満たされる」のです。その次の「富める者を空腹のまま追い返されます」は意訳です。直訳は、「何も持たないで返される」です。
 「良い物」とは神が与えてくださる良い物のことで、食べ物を意味するわけではありません。ですから、「飢えた人」とは食べ物を求めている人に限定されるものではありません。神が与えてくださる良い物に飢えている人のことです。その「良い物」を持っていないのです。そして、自分が持っていないことを知っている。だからこそ「良い物」を神様に求める人、それが「飢えた人」のことでしょう。

 貧しい人々

 それは「貧しい人々」に関しても同じだと思います。貧しさとは、金銭的な意味だけではなく、身体的精神的な意味も含めての貧しさであり、命の貧しさだと思います。そして、貧しい人々とは、そのことに気づいている人々、否応なく気づかされている人々のことなのではないでしょうか。
 ペトロたちは大金持ちではなかったでしょうが、生活に不自由するほど貧しかったわけではありません。彼らは主イエスについて行けば、極貧生活から脱出して豊かになれると思って従い始めたのではありません。主イエスに出会ったその時、ペトロはひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったのです。自分は神様との交わりを生きることが出来ない者だ。彼は、そのことを自覚させられたのです。たとえ生活レベルに満足していたとしても、神様との交わりの中に生かされる豊かさとは程遠い自分がいる。その点における貧しさを知り、実は自分は飢えた存在であることを知ったのだと思います。その貧しい現実からの解放を切望する。その思いが、主イエスを拒絶しつつ主イエスを求める彼の態度に表れているのだと思います。徴税人のレビも、その本質においては同じことでしょう。

 いかに幸いなことか

 聖書の中で「幸い」という言葉を調べていけば大変な量になってしまいますが、たとえば詩編の中で「いかに幸いなことか」と言われる人々は「主を避け所とする人はすべて。」(二:一二)、「背きを赦され、罪を覆って頂いた者は。」(三二:一節)、「あなたの家に住むことができるなら。まして、あなたを讃美できるなら」(八四:五)という人々です。
 また、イザヤ書にはこういう言葉があります。
「それゆえ、主は恵みを与えようとして・・・立ち上がられる。・・・なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。」(三〇:一八)
 これらの言葉から分かること、それは主の憐れみの故に罪を赦され、主を避け所とし主を褒め称えつつ生きる、それこそが人間にとっての幸いだということです。この世の富とか名誉とか地位を持つことが幸いなのでない。そういう意味での豊かさが、人間にとっての幸いの根拠ではないということです。己が罪を知り、その貧しさや飢えを知り、自分の惨めさに気づいて泣く人こそが、主の恵みを求めて、主を待ち望むのです。そして、そういう者こそが主に受け入れられ主を受け入れ、主を避け所とし神の家に住み、心からの喜びをもって讃美できる幸いを味わうことができるのです。

 どちらの幸いを選ぶのか

 こういう言葉を読みつつ、私はヨハネ黙示録の言葉を思い出しました。そこにはこうあります。

「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」(三章一七節)

 主イエスは、年収が幾ら以上の人は富んでいる人で、それ以下の人は貧しい人という区分をした上で、富んでいる人は不幸で貧しい人は幸いだとおっしゃっているわけではありません。
 黙示録では、この後、こういう言葉が続きます。

「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。」(三章一九節〜二一節)

 私たちの心の戸を叩いて、中に入ってこようとして下さる主イエスを受け入れる。そこにこそ人間の幸いがあるのです。その幸いに与るためには、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気づき、悔い改めなければなりません。そのこと抜きに「あなたがたは幸いである」と主イエスから言われることはありません。この世において、人々から「あなたは幸せね」と言われることと、主イエスから「幸いな人よ」と言われることは本質的に違うのです。私たちは、どちらの幸いを求めるのか?!そのことが問われているのではないでしょうか。

   泣いている人 寡

 「今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」と、主イエスは言われます。人はどんな時に泣くのでしょうか。ルカ福音書の中にも何回か「泣く」という言葉が出てきます。
 この先の七章を見ると、夫に先立たれた寡の一人息子が死んでしまった葬式の場面が出てきます。寡というだけで、当時の社会の中では相当に悲惨な境遇なのですが、頼りにしていた一人息子まで死んでしまうとは、まさに不幸のどん底に陥ることです。当時の多くの人々は、そこに神の裁きを見た、つまり寡の罪を見たと思います。その眼差しにさらされつつ、母親の目からは止めどもなく涙が流れ落ちたのです。
 その姿を主イエスは御覧になりました。そこで「憐れに思い」、寡に向かって「もう泣かなくともよい」とおっしゃり、棺に手を触れて「若者よ、あなたに言う。起きなさい」とおっしゃったのです。「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」とあります。
 主イエスが「触れる」、あるいは主イエスに「触れる」と主イエスの中から「力」が出て、病が癒されたと先週の箇所にありました。その「力」とは、罪を赦す力だし新しい命を与える力です。それが、この時死人の復活という形で実現しているのです。この復活の命は、お金を幾ら積んだ所で買える命ではありません。主イエスだけが、与えることの出来る命だからです。

 泣く人 罪深い女

 同じ七章に、「罪深い女」と言われる女性が登場します。「罪深い女」とは、体を売る仕事をしていることを示しています。そういう女が一般人の家の中に入ることなど許されないことです。まして律法に厳格なファリサイ派の人の家など、近づくだけでも恐ろしいことです。しかし、ある時、主イエスがファリサイ派の人に招かれて、彼の家で食事をしている時にとんでもないことが起こりました。
 厳格な家の中に、見た目で遊女であることが分かる女性が入ってくるだけで異常なことです。それなのに、彼女は、後ろからイエス様に泣きながら近づき、その涙でイエス様の足を濡らすのです。そんなことをされたら、なんて無礼なことをするのか!と叱りつけるはずです。しかし、イエス様は女のなすがままにされます。女は自分の髪の毛で涙をぬぐい、イエス様の足に接吻をして香油を塗る。
 主イエスは黙って女の行為を受けられました。イエス様を招待したファリサイ派の人は、不快感を露わにし、またイエス様に対する不信感に満ちています。しかし、イエス様は「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言った上で、女に向かってこうおっしゃるのです。

「あなたの罪は赦された。」「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

 これもまた、激烈な言葉です。その直後の八章一節に、「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅路を続けられた」と記されています。主イエスとこの女との間に神の国の現実がある。ここに福音があるのです。
 人々から何を言われようが、ただこの方だけが私の罪を赦して下さる救い主であることを信じる。そして、泣きながらイエス様に触れ、愛と信仰を告白する時、主イエスはその人を憐れみ、罪の赦しと新しい命を与えて下さるのです。この世の富も名誉も手にしているファリサイ派の人は、主イエスと一緒に食事をしても空腹のまま、つまり何も手にしないで別れるだけです。どちらが、幸いなのでしょうか?
 主イエスは、貧しく飢えており泣きながら生きている罪人を捜し求め、その人々を神の国に招き入れる福音をもたらしつつ旅を続けるのです。私たちも、この方に捜し出され、招かれたが故に、今、この礼拝堂で主イエスを讃美する礼拝を捧げる者とされたのではないでしょうか?私たちは、その時の幸いを今も生きているでしょうか?最初の愛と信仰と喜びを、今も瑞々しく生きているのか?貧しく飢えており泣いていた人も、いつしか自分は富み満腹であると笑う人になっている場合もあるものです。

 泣く人 ペトロ

   イエス様は、この後、エルサレムに向かって旅を続けます。そして、六章の段階で「イエスを何とかしようと話し合った」人々の計画は、彼らにも思いもかけない形で実現していくことになります。主イエスが選んだ十二使徒の一人であるイスカリオテのユダが、主イエスを裏切り主イエスを殺したい権力者の手に引き渡すのです。そうなる直前、ペトロは「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟をしております」と告白をしていました。しかし、主イエスが捕らえられた後は、「わたしはあの人を知らない」と三度も言うのです。
 何もかも捨てて主イエスに従ってきたペトロです。でも、彼は命を捨てることは出来ませんでした。他の弟子たちも皆、逃げたのです。誰だって同じです。
 ルカ福音書では、ペトロが主イエスを否認した三度目に、「主は振り向いてペトロを見つめられた」と記されています。その主イエスの目には深い憐れみが湛えられていたでしょう。ペトロは、その眼差しを受けつつ、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という主イエスの言葉を思い出し、「激しく泣いた」とあります。泣いている彼は、その時、不幸です。自分の罪深さを思い知らされているのですから。
 ガリラヤ湖で大漁の奇跡を目の当たりにした時、彼は自分の罪深さに打ちのめされ、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と主イエスに懇願しました。この罪の自覚こそが、彼が何もかも捨てて主イエスに従っていく契機でした。しかし、今、彼は主イエスのことを知らないと否認したのです。自分の愛と信仰は強い、死の恐怖にも打ち勝つほどに強い、私は愛と信仰において他のどの弟子よりも豊かであり富んでいる。そう自負をしたその時、彼は主イエスのことを「知らない」と言って否むのです。実は、この時ペトロは、自分は富んでいると思いつつ、裸であり、惨めな者だったのです。その惨めさを主イエスはご存知であった。そのことを知った時、彼は激しく泣くほかにありませんでした。

 主イエスの祈り

 主イエスは、ペトロが主イエスを否んでしまうことをご存知で、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とおっしゃっていたのです。
 主イエスは、あの十字架の上で、何をしているか分からぬままに罪を犯す罪人たちを赦してくださいと祈りつつ死んでくださいました。そして、三日目の日曜日に復活し、泣きはらした目をしていたであろうペトロを初めとする弟子たちが集まる部屋の真ん中に立って下さったのです。そして、「あなたがたに平和がある(ように)」と告げてくださった。自分の命を救おうとしてその命を失ったペトロを初めとする弟子たちの罪を、主イエスは十字架の上でご自分の命を捨てることを通して赦し、彼らに新しい命を与えるために復活して下さったのです。
 この事実を信じて受け入れる者、それは富める者ではあり得ず、満腹している者でもあり得ず、自分の人生に満足して笑っている者でもあり得ないでしょう。それは、貧しい者、飢えている者、泣いている者です。自分の罪を知り、罪人である自分に本当に必要なものが何であるかを知っている者です。つまり、主イエスによる愛と赦し、ただこれだけが自分の命を豊かに生かす「良い物」であることを知り、それを切実に求める者だけです。
 私たちは、今、どういう者なのでしょうか?
 主イエスによる救いに一縷の望みをかけて集まってきた民衆や群衆でしょうか?何もかも捨てて主イエスに従っている弟子でしょうか?愛する息子を失って泣き崩れる寡でしょうか?自分の罪深さに泣き崩れる女やペトロでしょうか?
 それは、お一人お一人、異なるでしょう。ただ、私たちがそれぞれ誰であろうと、主イエスは今日、その私たちに「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と語りかけている。それは確かなことです。この言葉を聴いて、己が罪を知り、主イエスの愛と赦しに縋りつき、主を避け所とする者は幸いです。
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