「幸いと不幸 U」

及川 信

       ルカによる福音書  6章20節〜26節
6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。
6:25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
6:26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」


 主イエスの言葉

 主イエスの言葉を聴くということは、やはり、独特の経験だと思います。主イエスが語る言葉は他のどんな人の言葉とも比較が出来ないものだと思います。誤解を恐れずに言えば、耳を塞ぎたくなる言葉です。まともに向き合うと、胸がかきむしられる感じがしますし、頭も飽和状態になって疲れきってしまうのです。
 主イエスがおっしゃるとおり、主イエスは「新しいぶどう酒」であり、そのぶどう酒が自分の中に入ってきて少しでも発酵し始めると、それまでの自分が内部からひび割れを起こしてくる。だから、慌ててそのぶどう酒を吐き出してしまう。それでも受け入れなければならない時は、主イエスの言葉が持つ発酵力を緩めた上で、つまりガス抜きをして、自分の都合の良い言葉として受け入れようとする。少なくとも私は、毎週そういう思いを一旦は持ちます。しかし、ガス抜きをした主イエスの言葉を受け入れても、私たちは「キリスト者」として力強く生きることは出来ません。この世の者として楽に生きることは出来るかもしれませんが・・。
 今日は今日として、主イエスの言葉、受け入れたらその人間の中で発酵し、古き自分を死に至らせ、新しい命に生かす言葉を聴きたいと願います。古き自分に死ななければ、新しい命に生きることは出来ないのですから。

 キリスト者に向けての言葉

 先週も同じ箇所を読みました。残っているのは「人々に憎まれるとき」「すべての人にほめられるとき」の部分です。もう一度読みます。

人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。


 これらの言葉は、イエス様に従っている弟子たちと、必死の思いで主イエスの許に集まってきた民衆や群衆に向けての言葉です。ですから、誰にでも当てはまるような格言ではありません。キリストに従う者、つまりキリスト者に向けて語っておられる。そのことを踏まえておかねばなりません。少なくともルカがこの福音書を書いた時、主イエスの言葉は様々な迫害の中で懸命に信仰を生きている初代教会の信徒たちに向けてのものです。
 最初に言っておかねばならぬことは、キリスト者の徴は人々に憎まれたりののしられたりすることではないし、すべての人にほめられることでもありません。人からの非難や賞賛が私たちキリスト者にとっての問題ではありません。すべてのことを通して、神が褒め称えられること、そのことを求めて生きるのが私たちキリスト者なのです。

 人の子

 以上のことを踏まえた上で、今日の箇所に聴いていきます。ここには、「憎まれる」「追い出される」「ののしられ」「汚名を着せられる」という恐ろしい言葉が連続して出てきます。そして、これらの言葉の中核にあるのは「人の子」という言葉です。すべては「人の子のために」を起こることなのです。
 福音書に出てくる「人の子」は、主イエスがご自身のことを指して使う言葉です。旧約聖書のダニエル書に、「人の子」が神様から一切の権威と力を授けられるという言葉があります。その「人の子」は、世の終わりに到来して神の支配を完成するのです。そのダニエル書の預言が、主イエスの言葉の背景にあることは間違いないだろうと思います。
 ルカ福音書で「人の子」が最初に出てくるのは、五章一七節以下の中風の者を癒す場面です。主イエスはその時、中風の者を連れてきた者たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」とおっしゃいました。ユダヤ教の権威者であるファリサイ派や律法学者らは、その言葉を聞いて「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」とその心に怒りを覚えます。しかし、主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」とおっしゃって、その人の病を癒す。そういう場面で出てきました。
 以後、六章五節、二二節と出てきます。しかし、「人の子」という言葉の意味を最も端的に知らせてくれるのは九章二一節以下だと思います。その直前の二〇節で、ペトロが弟子たちを代表して「(あなたは)神からのメシアです」と主イエスに対する信仰告白をしています。しかし、主イエスはそのことを公言することを禁じた上で、こうおっしゃいました。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

 ユダヤ人の中心的な人々から排斥されて殺されるとは、つまり、「憎まれる」「追い出される」「ののしられ」「汚名を着せられる」ということです。神様からすべての権威と力を授けられた「人の子」でありメシア(救い主)である主イエスは、人々から絶大な歓迎を受ける一方で、その当初から警戒心や敵意をもって迎えられていました。特に、ファリサイ派や律法学者がそうでした。エルサレムには、さらに民の長老とか祭司長らがおり大祭司もいます。彼らは自分たちの地位を脅かす主イエスを憎み、排斥するのです。社会的に抹殺するだけではありません。神を冒涜する大罪人として十字架に磔にして殺すのです。そのことを承知の上で、主イエスはこの後もエルサレムに向かっての旅を続けていきます。主イエスは人の子でありメシアだからです。
 そして、弟子たちにはこうおっしゃる。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。・・・わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」

 以上のことから分かることは、「人の子」とは、神のみが持っている「罪を赦す」権威を持っている方であるということです。しかし、その罪の赦しの御業は、人々の憎しみを受けて十字架に釘で打ち付けられて死に、三日目に復活するというとてつもない出来事を通して行われるのです。そして、十字架と復活のイエス様は、世の終わりの時に父なる神と聖なる天使たちの栄光の輝きの中で再び世に到来し、神の国を完成させる「人の子」です。この方の言葉を聴いてついて行くとは、自分の十字架を背負いつつ従うことにならざるを得ません。つまり、主イエスが味わった人々からの憎しみや排斥を身に帯びることもあるということです。

 愛に生き得ない人間

 今の日本では幸いにして信教の自由は保障されています。しかし、そうでない時代もありました。そう遠くない過去にキリスト教が敵性宗教として弾圧されたことがありました。西洋ではキリスト教徒が異教徒を弾圧した事実もあります。今の日本では、公教育の現場で教師たちの信教の自由が脅かされつつあると言われますし、それは事実でしょう。国家に対する忠誠が教育の目標であるとされるなら、個人の思想・信条の自由は保障されないことになります。これは大変なことです。
 経済的な利益を最優先する現場でも、自分の思想・信条あるいは信仰に相反することをしなければならないことはしばしばあるのではないでしょうか?生きている現場の目的や秩序が間違ったものであり、それに同調しない時、その人は憎まれたり、追い出されたり、ののしられたりするものです。
 敢えて極端な例を言いますが、人殺しを美化する戦争の最中に「敵だって人間だ。愛さなければいけない」と言えば、袋叩きにあうでしょう。クラス全体が一人の生徒をいじめの対象にしている時に、「いじめはよくない。皆、愛し合うべき仲間だ」と言えば、その途端にそれまでの交わりから排除されるでしょう。愛が必要であることは誰でも知っています。でも、愛に生きることは実に困難なことなのです。
 創業者の孫である会社の会長が「明日までに一億円銀行口座に振り込んでおいてくれ」と電話すれば、何の会議も通さずにそれが実現し、その累積額が百億円を超えてしまう会社もある。そういう間違った体制を持つ会社の中で、会社や会長自身を愛するが故に「王様は裸だ。裸の王様の言いなりになってはいけない、その人のためにも」とは、誰も言えなかった。愛による正しい主張は、自らの立場を悪くするからです。そして、皆が創業者一族を目の前にすると口々に誉めそやしてしまう。それは、お互いに不幸なことです。必ず悲しみ泣く日が来るのです。そして、その不幸の原因は、私たちが真の愛に生き得ないということにあります。

   友のために命を捨てる

 主イエスはある時、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」とおっしゃいました。主イエスについて行く者がキリスト者であり、キリスト者はイエス様の友です。しかし、その主イエスが人々から憎まれ、排斥され、殺される時、友であったはずの者たちは「わたしはあの人のことは知らない」と三度も否む。そして、逃げ去る。「イエス様と一緒にであれば、人々から憎まれ、排斥され、殺されてもよいです」と告白しつつ、命の危険が迫ってきた時にはイエス様とその言葉を恥じて拒絶してしまう。それが弟子たちの現実でした。その現実は、今の私たちにおいても変わることがないでしょう。
 イエス・キリストの愛は「友のために命を捨てる愛」です。その「友」とはいつでも裏切り者になり、また敵にもなる「友」なのです。しかし、そのことを承知の上で、その友を愛し、その友のために命を捨てる。それがイエス・キリストの愛です。そして、主イエスはご自分に従ってくる者たちにも、その愛を生きるようにと求める。
 どうして拒絶しないでいられるでしょうか。受け入れるとしても、ガス抜きをしないで受け入れることができるのでしょうか。

 喜び踊る幸い

 しかし、主イエスは今日の箇所で「わたしの後についてくることは、自分の十字架を負って従うことだ。そこには耐え難い苦難がある。しかし、その苦難に耐える者こそがキリスト者の名に値するものだ」とおっしゃっているのでしょうか?違うのです。
 苦しみに耐えつつ修行者のごとく生きるのがキリスト者ではないのです。私はここを読むと一瞬?然としてしまうのですが、「人の子」のためにののしられ、キリスト者という名の故に汚名を着せられるとき、「あなたがたは幸いである」と主イエスはおっしゃるのです。その「幸い」は、ほのかに感じるようなものではなく、全身全霊を満たすものなのです。だから、「喜び踊りなさい」と言われるのです。これは一体どういうことでしょうか?
 主イエスに従って生きるとは、時に非常な困難、苦難に直面することがあります。それまでの友を失うことがあるでしょうし、仕事を失うこともあるでしょうし、そのことによって家族がバラバラになってしまうこともあるかもしれない。私たちがキリスト者になる時に、そんなことを目指しているわけではないし、悲惨な目に遭うことそのものがいつでも主イエスに従った結果であるはずもありません。私たちはなるべくすべての人と平和に暮らし、また私たちの歩みを通して神が崇められ、讃美されることを目指しているのです。しかし、私たちは欲望に基づく戦争を美化することは出来ないし、人の思想信条の自由を奪うことを肯定することは出来ないし、不正を見て見ぬふりをすることも、その愛の故に出来ないはずです。そして、その愛に生きるとき、「人々から憎まれる」ことはあっても、「すべての人にほめられる」ことはありません。
 しかし、主イエスはその困難や苦難が伴う歩みは喜び踊るような幸いな歩みであるとおっしゃる。その幸いの根拠は、「天には大きな報いがある」ということです。「天」とは、空間的な意味でなく、神様を表す言葉だと思います。神様が報いを下さる。そのことこそが、私たちにとって最大の喜びなのであり幸いであると、主イエスはおっしゃっているのです。

 天における報い

 私たち日本人が「天における報い」と聞くと、通常は死後の天国に招き入れられることをイメージすると思います。つまり、将来与えられる報いです。この世では苦難がある。しかし、信仰と愛に生きるならば、死後に報いがある。主イエスがおっしゃっていることの一つの意味はそういうことだと思います。
 しかし、それだけなのかと言えば、やはり違う。原文では「報いがある」の動詞が省略されていますが、これは現在のことです。主イエスにおいては、未来と現在また天と地は明確に分けられません。主イエスがこの地上に生まれたということは、天の神の国がこの地上に到来したことであり、その神の国に招かれるのは己が罪を悔い改め、主イエスを信じた者たちなのです。そういう意味で、地上の教会は未完成の神の国だと言って良いと思います。その神の国は、人の子であるイエス様が「父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るとき」に完成する。世の終わりにキリストの再臨によって完成する。それが、私たちキリスト者を生かす希望です。
 だから、その希望に生きる私たちキリスト者は、基本的にはこの世には属していません。神の国に属し、その国の住民なのです。そして、この世に神の国が到来することを告げる。「悔い改めて、福音を信じなさい」。そう宣べ伝えて生きる預言者なのです。そうであるが故に、この世の人々の非難や迫害を受けることもあるし、賞賛される場合もあるでしょう。しかし、それらのことに左右されることなく、ただただ神様の喜び給うことを願って生きるのです。神様の喜び給うこと、それが愛に生きることなのです。だから、私たちが愛に生きるとき、天には報いがある。神様が喜んでくださる。そして、それが私たちにとっての何よりも大きな喜びです。親にとっては子どもが喜ぶことが最も大きな喜びなのであり、子どもにとっては親が喜ぶことが喜びなのです。そこには愛があるからです。
 主イエスもまた、人々から憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられ、ついには十字架に磔にされるという悲惨な歩みをなさったのですが、それは苦労したいからやったとか、修行だからなのではないのです。そのようにして、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして父なる神様を愛したのだし、自分を愛するように隣人を愛したのです。そのように愛に生きられたのです。愛がある所にはいつも喜びがあります。苦難を上回る喜びがあるのです。それが、愛に生きる者たちに神様から与えられる一つの報いです。

 いと高き方の子

 「報い」という言葉は、この先の三五節にもう一度出てきます。

「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」

 ここにも、私たちには不可能なことが書かれています。しかし、主イエスはまさに敵を愛し、そのために命まで捨てました。人からは何の報いも与えられませんでした。でも、だからこそ、神様は主イエスに復活の命を与えてくださいました。そして、復活の主イエスは、恩知らずな悪人となってしまった弟子たちのところに現れて「あなたがたに平和があるように」との言葉をもって罪の赦しと新しい命を与えてくださったのです。
 この十字架と復活の主イエスの愛を、その言葉をそのまま受け入れる。そのまま信じることが出来る時、私たちはそれまでの自分に死に、新しい命に生かされていくのです。その時、私たちの心は喜びと感謝に満たされます。主イエスが、私たちの中に生き始めて下さるからです。主イエスが私たちの中に生き始める。その時、私たちの自己保身、自己防衛の殻が破られます。私たちが努力してその殻を破るのではないのです。主イエス・キリストを受け入れれば、それは恐ろしいことですが、主イエス・キリストがその殻を破ってくださるのです。私たちの中で生きて働いて、愛に生きる者として下さる。それがいと高き方の子、神の子です。自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従って生きることが出来る、こんな喜びは他にはありません。主イエスのように愛に生きることが出来るとすれば、それは最早、私たちが生きているのではなく、私たちの中に主イエスが生きるという最大の報いが与えられるのです。
 パウロという人は、ガラテヤの信徒やコリントの信徒に向けて、その喜びをこのように言い表しています。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」


 今日も新たに、主イエスの言葉をそのままに受け入れることを通して、惨めな保身や自己防衛の殻を内側から破って頂いて、私たちのために身を捧げてくださったイエス・キリストへの愛と信仰に生き始めることが出来ますように祈ります。

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