「しかし、あなたがたに言っておく」

及川 信

       ルカによる福音書 6章27節〜36節
6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

 イランの報復刑

 先々週のある新聞の中に、イランの裁判に関する記事が出ていました。見出しは「報復刑 ためらうイラン」というものです。内容はこういうものでした。
 夫の不倫相手の女性が家にやって来て、後ろから妻を棒で殴りつけ、妻の顔に硫酸をかけたのです。彼女の目はもちろんのこと顔の七割がやけどし、幼い子どもには破壊されてしまった自分の顔を見せることが出来ないのです。夫は石打の刑で死刑を宣告されており、その愛人に対してはその目に硫酸をかけて失明させるという判決が地方裁判所では下されており、最高裁判所が支持すれば実行されるとのことです。硫酸をかけられた妻は、「報復は私のように視力も顔も人生も失った者のためにある。私は敬虔なイスラム教徒。神の教えに従う」と言っているのです。ご承知のようにコーランの中に「目には目を・・すべての障害に同様の報復をせよ」とのおきてがあるからです。
 しかし、コーランには「報復を控えて許すならば、それは自分の罪の償いとなる」という言葉が続いています。その言葉に基づいて、自分の顔に硫酸をかけて失明させた男を許すという女性もいたそうです。その女性は、「許しという行為には、報復にはない喜びがある。私たちが偉大な国民であることを世界に知ってほしかった」と言っていました。

 報復の連鎖・拡大を防ぐために

 イスラムの法はイスラムの信徒に対するものです。他の宗教や文化の中に住む人々に向けたものではありません。今日の箇所でイエス様は、「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」とおっしゃいます。今私たちが読んでいる「平野の説教」と呼ばれるものは、イエス様に従っている弟子たちやイエス様の言葉や癒しを求めて必死に集まってきた者たちに対する言葉です。それらの人々は、すべて神の民ユダヤ人です。そのユダヤ人の裁きの基準は旧約聖書に記されている律法です。その律法の中にもこういうものがあります。

「命には命、目には目、歯には歯・・・・をもって償わねばならない」。(出エジプト記二一章二三節〜二五節抜粋)

 この定めは報復とか復讐を奨励するためのものではなく、まずは人に損害を与えることを防ぐためのものですし、損害を与えられた側がその憎しみによって、与えられた損害以上の報復をすることを止めるためのものです。私たちはしばしば倍返しとか三倍返しをしてしまうからです。そうすることによって、更なる報復を産み出していくのです。
 二〇〇一年九月十一日のニューヨーク・ワシントン連続テロ事件に端を発したいわゆる「テロとの戦い」は、まさにそういうものです。殺された人間の数の何十倍も殺すのです。しかし、アッラーの神の名を語るテロ組織の首謀者を十年掛かって殺しても、新たに敵意と憎しみを産み出すだけで何の解決にもなりません。しかし、アメリカの大統領は、首謀者を殺害した後、「これは偉大な勝利だ。正義は貫徹された」と言い、最後に「神がアメリカ合衆国を祝福してくださいますように」と言いました。アメリカの多くの子どもたちがそのテレビ演説を見たでしょう。その子どもらは「人を殺した人間は裁判にかけずともこうやって殺すことが勝利であり、正義なんだ」と思うのではないでしょうか。
 私たちは今、幼児祝福式をしましたが、子どもたちに対して「正義の殺人などはない。人を殺した時の勝利者は罪であり悪魔であり、もしそういうことをしてしまった時には、神様のみ前にひれ伏して赦しを乞わねばならない」ことを、自らの悔い改めをもって教えていかなければならないのではないでしょうか。神は決して不法な仕方で人を殺すことに対して祝福をなさらないと、私は信じます。

 しかし、わたしは言う

 しかし、テロ首謀者とか独裁者とかが、正当な裁判にかけられることもなく、無残に殺されたことを聞いたり見たりするとき、私たちは何かやりきれない思いを持つと同時に、心のどこかで「当然の報いだ」と思っているものです。「ああいう人間は無残に殺されるべきだ」と思っている。
 そういう私たちに、主イエスは「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」とお語りになるのです。これは、心ではどう思っていても、表面上は親切にしなさいということではなく、心から愛して、その愛を実行に移しなさいということです。
 私たちは、こういう言葉を出来れば聴きたくないのではないでしょうか。私たちは、自分に出来ないことを要求されたくはありません。私たちにとって耳心地が良い言葉は、誉め言葉です。また、やる気が出るのは、頑張ればなんとか出来る善いことを言われた時です。しかし、主イエスの言葉はそのいずれでもありません。私などには、「もう勘弁してください」と言いたくもなるものです。しかし、主イエスは私たちを落ち込ませるためにお語りになっているはずもありません。それでは何のためか?

 愛する

 そこで、ルカ福音書の中で「愛する」という言葉がどのような箇所で使われているか調べてみました。「愛する」という言葉は、実は今日の箇所が最初です。「敵を愛する」という所で「愛する」という言葉が最初に出てくるのです。多分そうなのではないかと思ってはいましたが、やはり、「愛する」とは、基本的に通常は敵対している者同士とか、互いに決して触れ合わない者同士の間で起こる事として出て来ていました。一つだけ例を挙げます。
 ある時、律法の専門家が「永遠の命を受け継ぐために何をしたらよいか」とイエス様に尋ねます。イエス様は、「律法には何と書いてあるか」と問い返される。すると専門家は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と書かれていると答える。主イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃった。
 しかし、私たちは誰も、自分を愛するようには隣人を愛してはいません。それは少しでもまともに自分の現実を見ることができるなら、明らかなことです。律法の専門家もそれが分かったのです。そこで彼は、「自分を正当化しようとして」「わたしの隣人とはだれですか」と主イエスに問いました。その問いを受けて、主イエスがお語りになったのが「善きサマリア人の譬話」です。
 それはこういうものです。追いはぎに襲われ身ぐるみ剥がれた上に、半殺しにされて道に倒れている人を、ユダヤ人の信仰を代表する祭司やレビ人は見てみぬ振りをして通り過ぎた。しかし、普段はユダヤ人とは犬猿の仲であるサマリア人は「憐れに思った」のです。思っただけではない。彼はその人に近寄って助け、町までロバに乗せて運び、宿屋に泊まらせて治療費も何もかも出してあげたという話です。
 「隣人」とは、隣にいる人のことではありません。その人の隣人になるかならないかが問題なのであり、隣人になるためには愛すること以外にはないのです。愛さなければ、隣の人は無関係の他人です。しかし、イエス様が語る愛は、敵意や憎しみを越えて愛することなのです。その愛を生きた時にのみ「永遠の命を受け継ぐ」ことになると、主イエスは言われるのです。

 私たちの愛

 私たちにとって通常の愛とは、「自分を愛してくれる人を愛する」ことだし、「自分によくしてくれる人に善いことをする」ことだし、「返してもらうことを当てにして貸す」ことです。これだって出来ないこともあるくらいです。
 私たちは「悪口を言う者に祝福を祈る」ことは出来ないし、「侮辱する者のために祈る」ことも出来ない。「頬を打つ者にもう一方の頬を向ける」ことよりも打ち返すことが正義であり当然のことと思います。「上着を奪い取る者」からは取り返そうとします。それをしてはいけないとなれば、一体、どこに正義があるのかと言わざるを得ないと思います。また、「求める者には、だれにでも与える」ことは出来ません。私たちは与える人を選びます。自分に敵対し、侮辱する者には何も与えたくはないのです。当然のことです。
 しかし、主イエスは、ご自分の言葉を聴き、その招きに応えて従うことを選び取っている者たちには、敢えて「敵を愛し、憎む者に親切にしなさい」とお語りになるのです。

 憎む

 ここで「憎む」という言葉がありますが、この先の一四章で、主イエスは後についてくる大群衆の方を振り向いてこうおっしゃっています。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(一四章二五節〜二七節、三三節)

 家族を憎み、自分の命すら憎む。十戒には、「あなたの父母を愛しなさい」とあり、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」が律法の中核にあるのに、ここでは父母を初めとする家族を憎み、自分の命を憎まない限り、主イエスの弟子として生きることは出来ないと言われる。ここまで言われたら「なんてひどい話だ。もうついていけない」と言って主イエスから離れたくなります。その離反はいつでも背反となり、それは敵意や憎しみにもなるのです。
 私たちは心地好い言葉を言ってくれない者を嫌います。二者択一の決断を迫り、断念することを求める者を遠ざけるものです。そして、私たちは曖昧な状態を好むものです。あっちもこっちも手にしておきたいと望むのです。しかし、主イエスは、そこに永遠の命を受け継ぐ道はないと言われるし、本当の喜びや幸いはないと言われるのです。
 主イエスはこう言われます。

「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 ここで「愛する」とか「憎む」とは感情の問題というよりは選択の問題です。あるいは決断の問題です。二つの内のどちらを選ぶのかという問題であり、それは取りも直さずどちらかを捨てること、断念することを意味します。

 実はそこに主イエスがいる

 そのことを知らされた上で改めて今日の箇所を読み直すと、その言葉の中に主イエスご自身のお姿が見えてくるように思いました。主イエスの敵はこの後次第に増えていきます。主イエスを憎む者が増えていくのです。そして、その人々は偽りの裁判を開いて、主イエスを罪人として十字架に磔にします。その間、主イエスは絶えず悪口を言われ、侮辱されました。頬を打たれ、上着を剥ぎ取られ、何もかも奪い取られて裸で十字架に磔にされたのです。しかし、主イエスを憎み、悪口を言い、侮辱し、頬を打ち、上着だけでなくすべての尊厳を奪っていく者たちを、主イエスは憎み、悪口を言い、侮辱し、奪い返すために戦ったのかと言えば、そんなことはありません。主イエスは、殴り返すことなく、奪い返すこともない、一切の尊厳を奪われても、その者たちを呪いません。むしろ、そういう者たちを祝福し、そういう者たちのために祈られたのです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 そうなのです。私たちは自分が何をしているのか知らない罪人です。不倫も、妻の顔に硫酸をかけることも、無差別テロ攻撃をすることも、その報復を何十倍にして返すことも、すべて神様から見れば死に値する罪です。しかし、それを愛だ、正義だ、平和のためだ、当然の権利だと主張しつつ実行しているのが私たちです。そのようにして、自らに死を招いているのに気づかない。
 神様は、そういう私たちを見て、まさに身もだえしつつ苦しまれています。私たちを愛してくださっているからです。愛するが故に、苦しむのです。そして、愛するが故に、罪に対しては裁きがあることを教えなければなりません。神様こそ、正義を貫徹されるお方なのです。その神様が愛によって正義を貫徹するために決断して下さったこと、選び取って下さったこと、それが独り子であるイエス様をこの世に送るということです。
 その神様の決断によってマリアから生まれた人の子であるイエス様が決断して下さったこと、それは自分の親兄弟との愛の交わりの中に生きることではなく、また自分の命を愛して平穏に生きることでもなく、私たち罪人の隣人となる道なのです。それは、自分の命を憎む道です。ご自分を憎み、侮辱し、すべてを奪って殺す者たちを愛する道なのです。その愛の極みが、罪人の罪が赦されるようにと祈りつつ、罪の裁きを身代わりに受けて死ぬ十字架に表れているのです。この十字架の死の中にこそ神様が与える永遠の命を受け継ぐ道があるのです。だからこそ、主イエスは「自分の十字架を背負ってついて来なさい」と言われるのです。

 あなたがたに平和があるように

 弟子たちは、主イエスの言葉を聴いたその時は、主イエスが何をおっしゃっているか分からなかったし、聴きながら感じたことは、私と同じだと思うのです。「そんなことは出来っこない。無理です」。彼らはそう感じたでしょう。実際、彼らは主イエスが人々に捕らえられる時には恐れをなして逃げてしまいましたし、ユダはその前に裏切っています。主イエスへの愛を貫くことは出来なかったのです。自分の命を愛し、主イエスを憎み、主イエスを捨てたのです。しかし、そのことを通して、彼らは生き延びた喜びを味わったのでしょうか。全く逆です。自分の罪に打ちひしがれ、死の闇に呑み込まれ、悲しみと絶望の中に佇むしかなかったのです。
 しかし、十字架の死から復活された主イエスは、ご自身を憎み、捨てた弟子たちの真ん中に立って下さいました。そして、「あなたがたに平和があるように」と宣言して下さいました。罪を赦し、新しい命を与えてくださったのです。それが主イエスの愛です。彼らはその愛で愛されていることを知った時に、本当に深い喜びに満たされました。

 喜びに生きる使徒たち

 ルカ福音書の続編である使徒言行録は聖霊を注がれて以後、主イエスの十字架の愛と復活の力を全世界の人々に証しする使徒にされた者たちの伝道の有様が記されている書物です。彼らの伝道は目を見張るものでした。イエス様を罪人として殺したユダヤ教の大祭司やサドカイ派と呼ばれる人々はその伝道活動を見逃すことは出来ようはずもありません。彼らは、一斉に立ち上がって使徒たちの迫害を開始しました。武器を持たず無抵抗の彼らを捕らえることは簡単ですから、彼らを捕らえて牢に閉じ込め、厳しく尋問し、イエス様のことを語ることを禁じました。しかし、かつて自分の命を愛し、主イエスを捨てて逃げたペトロたちは、今や迫害者の前でこう証しするのです。

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

 つまり、彼らは自分たちを迫害する者たちが罪の赦しを得ることが出来るように聖霊と共に証しているのです。
 「罪を悔い改めてイエス様を救い主として信じなさい。そうすればあなたたちも赦されるのです。私たちはあなたたちを愛しています。イエス様が愛しておられるのですから、私たちも愛します。あなたたちが私たちに何をしようと、あなたたちのために祝福を祈ります。私たちですら赦されたのです。あなたたちも悔い改めて信じるなら赦され、新しい命、愛と赦しに生きる命を与えられます。」
 彼らは、そう言っているのです。これを聴いた祭司長らは怒り狂って、「使徒たちを殺そうと考えた」とあります。当然でしょう。赦す権威を持っているのは自分たちだと思っているのですから。しかし、結局、この時は、全員を鞭で打ってから、「イエスの名によって話してはならない」と命じた上で釈放しました。しかし、使徒たちはその後も、「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせた」とあります。そんなことをすれば、いつかは殺されます。そして、実際にそうなっていきました。しかし、その時の彼らの心の有り様をルカはこう記しています。

「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ。」

 主イエスは、「人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」とおっしゃいました。そのイエス様の言葉は、この時の彼らにおいて実現しています。彼らは、この時、主イエスの言葉が分かったでしょう。彼らの多くは迫害の末に殉教の死を遂げていきました。しかし、彼らが心の底から求めたのはこの世における人の賞賛ではないし、安穏な生活でもありません。神様からの報いです。

 決断して愛に生きる

 主イエスは、私たちの罪を全身に受け止めて、罪に対する神様の裁きを受け止めてくださいました。そういう道を選択されたのです。そのようにして、私たちを愛することを決断してくださったのです。私たちは、その主イエスによって今も愛されているのです。その主イエスが、私たちに「敵を愛しなさい。憎む者に親切にしなさい」と語りかけてくださっているのです。それは、私たちに出来ないことを言って困惑させたり、絶望させたりするためであるはずもありません。そうではなく、「私を、私の愛を信じて受け入れる時、私があなたたちの内に生きて働くのだ。そして、私が生きた愛を生きることが出来るのだ。今、私はあなたの心の扉をノックしている。私を受け入れなさい。そうすれば、あなたたちは、敵を愛し、憎む者に親切にすることができる様になる」と語りかけてくださっているのです。
 私たちも今日新たに、決断したいと思います。主イエスを愛し、自分の命を憎み、主イエスの愛に生きる。それこそが、実は自分を真実に愛することなのだし、敵を隣人に変える道なのです。そして、私たちが幼子たちに全力で伝えるのは、この愛の道です。
説教目次へ
礼拝案内へ