「まず自分の目から」

及川 信

       ルカによる福音書 6章27節〜36節
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」


 聴き手は弟子

 私たちは、今、主イエスの平野の説教と呼ばれる箇所を少しずつ読み進めています。この説教の聴き手は主イエスの「弟子たち」です。それは、今日もこうして神の言葉を聴こうとして集まっている私たちキリスト者のことでもあります。そのことは、二七節の「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」という言葉からも明らかです。

 ギブ・アンド・テイク?

 こうおっしゃってから、イエス様は「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」に始まる一連の言葉を語り始められました。前回は三七節の「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」までをご一緒に聴きましたが、今日もそこから始めます。
 この三七節の言葉だけを聴くと、人に対して善いことをすれば善いことが返ってくるという因果応報、あるいはギブ・アンド・テイクの法則をイエス様は語っているかのように思えます。しかし、三五節以下には、「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」とあります。私たちはしばしば自分のことは棚に上げて、「あの人は恩知らずだ」と憤慨することがよくあります。しかし、それは他の人が私たちのことを見て、同じように憤慨することがあるということでしょう。善意に善意が返ってくることは、人の世では法則でも何でもありません。それは、言葉の元来の意味で「有り難い」ことだと思います。

 恵み

 三二節からは三度も「恵み」という言葉が繰り返されていました。「自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか」と。この「恵み」は、人からの返礼あるいは報いのことではありません。神様からのものです。だから、人間関係を問題にしているようでありながら、主イエスが問題にしているのは単なる人間関係ではないのです。人間同士の関係の中に存在する、あるいは人間同士の関係に介入してこられる神様との関係、そのことこそ見つめなければならない、そのこと抜きに人間同士の関係も本当のところでは成り立たない。そういうことをおっしゃっているのだと思います。
 神様は、「恩を知らない者にも悪人にも情け深い」のです。そして、イエス様は「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とおっしゃいます。神様は、ご自身が与えた憐れみに対して少しも感謝しない者たちをも愛し、すべてのものを与えてくださっている。つまり、関係を持とうとしない者とも関係を持とうとしてくださるのです。好意に対して悪意で返す者にも尚好意を与えてくださる。その神様の愛を受けている者として、神様に愛されているように人を愛していく。そこに神様が主イエスを通してもたらしてくださった人間関係、最も深い愛の交わりの基盤がある。そういうことが、言われているのではないかと思うのです。
 神様の愛はどこでどのようにして与えられているのか、その内容は何かと言えば、究極的には赦しだと思います。

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」

 「裁く」とか「罪人だと決める」とは判決を言い渡すことです。しかし、それは基本的に私たち人間が出来ることではありません。私たちの裁きとか判決はあくまで暫定的なものですし、所詮は罪人がすることです。もちろん、人間が定めた法やその時代の常識に基づいてある行為の善悪を評価し、時には罰を与えたり、与えられたりすることがありますし、それは必要なことでしょう。しかし、そういう行為に対する裁きと、ある人を「罪人である」と決め付ける裁きとは全く別物です。決め付ける者自身も神様から見るならば罪人なのです。そのことが見えていない人間が、他の人間の絶対的評価を下すことは出来ないし、してはならないのです。しかし、私たちはしばしばそういうことをしている。

 同じ秤?

 ここで「裁かれることがない」「罪人だと決められることがない」「赦される」と受身形が三度繰り返されますが、行為の主体は記されていません。こういう場合、その行為の主体は人ではなく神様なのです。「人を裁かなければ人から裁かれない」のではなく、神様から裁かれないということなのです。神様から赦される。主イエスは、そのことを既に「恵み」という言葉で表現していたのだと思います。と言うのは、次にこういう言葉が続くからです。

「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」。

 一読した時は意味がよく分かりませんでした。「同じ秤で量り返される」という言葉と、「あふれるほど量りをよくして、ふところに入れられる」という言葉がどう両立するのか分からなかったのです。色々な解釈の可能性があるようですけれど、私こう考えたいと思います。
 麦などを売買する際に使われる秤は手に持てる四角い箱、枡でした。その枡で麦を掬い取り、山盛りになった部分を板でそいで一杯分とするのです。そうすることで、一杯分の量を正確に量るのです。しかし、神様は同じ枡を使うのですが、掬った後にその枡を揺すってどんどん麦の密度を濃くしていく。さらに上からも手で押し付けて平らにした後に、溢れるほどの麦を上にもって山盛りにする。そして、当時の服は寸胴のようなもので腰にベルトをしていたのですが、そのふところを開ければお腹の部分が大きなポケットのようになります。そのふところに山盛りの麦をドサッと入れてくださる。同じ秤を使っているのだけれど、私たちが量る量の何倍もの量の麦を入れてくださる。そういうことをおっしゃっているのではないか?神様は、そういう恵みを私たちに与えてくださる。イエス様は、そうお語りになっていると思います。

 未来の報い

 翻訳では、三七節も三八節も「あなたがたも赦される」「あなたがたも与えられる」と現在のことのように書かれています。しかし、原文では三八節の「与えられる」「ふところに入れてもらえる」も未来形なのです。つまり、これは将来のことなのです。その将来のことを、イエス様は断定的な形でおっしゃっている。与えられるかもしれないではなく、与えられる、と。それは信仰において極めて大切なことだと思います。将来与えられる神様からの恵みを信じて、望みと喜びをもって今を生きる。それが、信仰を生きる私たちに与えられた大きな幸いだと思います。

 見える

 三九節以下で問題なっているのは、「見える」ということです。もちろん、肉眼の目の問題ではありません。たとえば、私は楽譜を見ても外国語を見ても何が何だかよく分かりません。そういう者が、音楽を教えたり言語を教えたりすることは出来ません。そんなことをすれば、教える方も教えられる方も間違った方向に進み、ついには穴に落ちてしまって途方に暮れることになります。「盲人が盲人の道案内をすることが出来ようか」とは、そういうことだと思います。しかし、見えていないのに見えているつもりになって人の上に立ちたがるのが、私たちの性格でもあります。
 この盲人の道案内についての言葉は当時よく知られた諺のようです。マタイ福音書の方では、当時のユダヤ人の宗教的指導者である律法学者やファリサイ派の人々に向けた言葉として出てきます。その人々は、律法に込められた神様の心を理解せず、字面だけを人に適用し、「あの人は罪人だ」、「あの人は義人だ」と決めつけ、裁いていました。その人々に対する言葉なのです。
 しかし、ルカ福音書の中では、その人たちに対して使った言葉を、ここで主イエスはご自身の弟子たちに向けているのです。主イエスの弟子である私たちもまた、敵を愛さず、赦さずに生きているならば、次第に敵に似てくる人間だからです。私たちは敵を憎み続けている間に、実は敵に似てきてしまうのです。これは私たちが絶えず気をつけていなければならないことです。愛しても赦しても理解されず、受け入れられず、憎まれ続けたりすると、私たちも次第に憎み返していく。それが当然だと思うようになる。そして、気づいた時には同じ穴のむじなになっている。そういうことは、しばしば起こることではないでしょうか。

 修行を積む?

 そういう意味で、「弟子は師にまさるものではない」とは本当のことです。学問上の師とか、仕事上の師である場合、中には師を超える弟子はいるでしょう。それこそが弟子のあるべき姿だと言うべきかもしれません。
 しかし、私たちの師はイエス様です。私たちがどれほど努力し、修行しも、決して超えることができる方ではありません。超えるどころか足元にも及ばないのです。主イエスがおっしゃるように「弟子は師に勝るものではない」のです。しかし、主イエスは続けて「しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」とおっしゃる。これも恐ろしい話です。こんなことがあるのか?それが問題です。
 「修行を積む」と訳された言葉は、修繕する、調整する、完全なものにすることを意味します。ガリラヤ湖で漁師たちが網をつくろっている、というようなところで使われます。
 しかし、原文では受身形なのです。それは大事なことだと思います。ある英訳聖書は、「完全な訓練を受けた者ならばその師のようになるだろう」と訳しています。つまり、弟子に修行をさせる師がいるのです。弟子が修行しているのではなく、修行させる師がいる。その方の指導をきちんと受ける、受け続ける、その果てに弟子も師のようになる可能性が開けてくるということだと思います。その可能性は「だれでも」が強調されているのですから、すべての人にあるのであって、「あの人はなれるかもしれないけれど、私などとてもとても」と卑下したり、「私のような者にこそ可能性があるのであり、あの人は駄目だ」と高ぶるようなものではありません。素質が問題ではないのです。弟子とは、師の訓練を受けることにおいて弟子なのです。私は修行を十分積んだから・・などということはあり得ないのです。
 その弟子として生きようとしている者たちに、主イエスは続けて「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか」とおっしゃるのです。「あなたは見えていないのだ」と主イエスはおっしゃるのです。

 主イエスの眼差し

 先ほども言いましたように、ここでの問題は「見える」ことです。これまでの説教で何度か言ってきたことですけれど、主イエスはご自身に敵対する者たち、ご自身を憎み殺そうとする者たちのその心の奥底にあるものを見ておられるのです。人は憎しみによって生きるものではありません。憎むことを糧にして、それだけで生きているという現実があります。新聞にしばしば載ることですけれど、犯罪被害者のご家族の方の中には、殺された娘のために、暴行された上で殺された息子のために犯人を憎み続け、犯人に死の判決が下されるまでは死ぬに死に切れないという思いを口にされる方たちがいます。想像を絶する苦しみがそこにあり、そこにおいて憎むという感情が生じることは当然のことです。私はそのことの善悪を論じることは出来ないと思います。しかし、私は、人は憎しみという感情に支配される時に生きることは出来ないと思います。少なくとも、その本来の生を生きることは出来ない。それは本当に悲しいことです。
 人を殺したり暴行したりする人もまた、既にその前にその本来の生が滅ぼされているのです。何らかの苦しみや悲しみ、怒り、憎悪などに支配されて滅んでいる。そして、その滅びに他人を巻き込んでいく。そういう憎しみの連鎖が起こっていく。それが私たちが今肉体をもって生きている人の世の一つの現実だと言わざるを得ないと思います。肉体を生きていても、人として死んでいることはいくらでもあるでしょう。
 主イエスは、そういう人の世にお生まれになったのです。ひとりの赤ん坊として。そして、人々を愛し、その愛の故に人々から憎まれていきました。しかし、主イエスは、憎しみをもって生きている一人ひとりの心の中の呻きを聴き取り、その深い悲しみを見つめていかれるのです。
 私がイエス様を信じるその最も深い理由は、そのことにあると思います。普段は意識もしない思い、また意識したくない心の現実、そしてそこから生み出されてくる言動のすべてを主イエスはその最も深い次元で見つめてくださっている。そして、心から嘆いたり、喜んだりして、たしなめたり、励ましたりしてくださる。聖書を読んでいて感じることは、その主イエスの眼差しの深さです。憐れみに満ちた眼差しによって見つめられ、善きことも悪しきことも見透かされ、見通されていく。その時に、この方の前では裸の赤ん坊のように信頼してそのふところに抱かれるしかないし、それでよいのだと思える。この方の前では。そして、その時、主イエスが私の心の中に生きてくださる。その最も暗い所に光を灯してくださる。

 偽善者よ

 私たちは自分の心の奥底が見えません。自分では見えないのです。見えないままに、人のことは色々と目に付いて「ああだ、こうだ」と言っているのです。愚かなことです。その愚かさから抜けきれないのです。主イエスは、そういう私たち、主イエスの弟子たちに、はっきりとこう言われる。

「偽善者よ。まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目に見えるおが屑を取り除くことができる。」

 「偽善者」という言葉は、時に私たちキリスト者の代名詞として使われる言葉です。元来の意味は役者のことだと言われます。お面をかぶってその都度異なる役柄を演じる者たちのことです。それが表の顔と裏の顔を使い分ける偽善者の意味となったのです。この言葉も、マタイ福音書では律法学者やファリサイ派の人々に向かってイエス様がおっしゃる言葉の中にしばしば出てきます。たとえば、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ」という風にです。二三章だけで六回も出てくるのです。
 しかし、ルカ福音書では合わせて三回だけです。そして「偽善者よ」と呼びかけられる対象は「弟子たち」「群衆」、そしてユダヤ人の会堂を管理する「会堂長」たちです。立場は様々なのです。つまり、師の訓練を受ける者であれば誰でもその師のようになれるのと同じく、弟子であれ、群衆であれ、当時のユダヤ教の代弁者であれ、よき師の訓練を受けなければ、いつでも偽善者になれるということでしょう。そして、ルカ福音書における「偽善者」とは、マタイとは違って表の顔と裏の顔を使い分ける者たちのことではありません。
 一箇所だけ紹介しますが、主イエスは群衆に向かってはこうおっしゃっています。

「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」

 日本では、天気は基本的に西から崩れたり晴れたりします。イスラエルでもそうなのです。雲が西に出るのを見れば、「にわか雨になる」と当時の人々は言っていました。しかし、そのように天候の移り変わりを分かる人々が、イエス様がこの地上に到来して以後の変化を見分けることができない。今が何の時であるかを見分けることができない。目が節穴になっている。そういう目しか持っていない者を、主イエスは「偽善者」と呼ばれるのです。
 そして、こういう現実は誰でもが生きているものであり、鈍い人だけの現実ではありません。素質の問題ではなく、よき師からよき訓練を受けているか否か、いや受け続けているか否かの問題だと思います。

 良い木  悪い木

 今日も少し先まで読みます。

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。・・人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

 ここだけ読むならば、良い人と悪い人がおり、その違いは変ることがないという印象を持ちます。しかし、主イエスはその直前に弟子たちを「偽善者よ」と呼んでいるのです。それは彼らが永遠に偽善者であると決め付けてのことではなく、むしろ「偽善者にはなるな」という呼びかけでしょう。ここも同じだと思います。「悪い木にはなるな」と呼びかけておられるのです。良い木も悪い木になる可能性があり、その逆もまたあり得るということです。それでは、善し悪しの分かれ道はどこにあるのでしょうか。
 木というものは、ある所に植えられればそこにじっとしているものです。そこで思い出すのは詩編一編です。そこでは、朝に夕に御言に親しみ、御言を口ずさむまでになっている人が「流れのほとりに植えられた木」にたとえられています。そして、こう言われるのです。

その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。


 清い命の水が流れている川のほとりに植えられたらそこに立ち続ける。そして、命の言葉、命の霊をその根っこから吸収し続ける。木に出来ることはそういうことです。しかし、毒で汚染された水が流れる川のほとりに立ち続けていれば、その根っこから吸収するものは毒なのだから、内側からその木を滅ぼすでしょう。見た目は立っていても、中はぼろぼろ。よい実を結んだり、葉を茂らせたりすることはありません。たとえ結んでも、その実は永久のものではありません。
 私たちの世は、どう考えても清い命の水が流れている川ではありません。ここに立ち続けていれば、私たちはよい実を結びますか?そんなことはありません。それはこの世を生きている誰もが感じていることだと思います。命の水が流れる川を知らないからその場に留まっているしかないのです。そして、この世の中で実をならせ、葉を茂らせたいと思っている。しかし、それは所詮、この世の中でのものであって、時が来れば腐ってしまい、枯れてしまうような空しいものです。誰だって信仰を与えられる前は、そのようにしか生き得ないのです。そこしか生きる場所がないのですから。
 しかし、私たちは恵みによって主の言葉を聴く機会を与えられ、この世の中に神の子主イエス・キリストが到来したことを知らされました。そして、主イエス・キリストは、ついに私たち罪人の罪を洗い清めて下さるために十字架に磔になって死んでくださったことを知らされました。そして、その主イエスが復活し、今も聖書を通して、また礼拝の中で聖霊を注ぎかけつつ語りかけてくださることを知らされ、主イエス・キリストを信じたのです。わが救い主、と。その時、私たちはこの世の中に生きながら、キリストの教会という命の川の流れに移され、そこに植えられた木にして頂いたのです。
 私たちが自ら清くなって、自ら歩いてこの川のほとりにやって来たのではありません。主イエスに見いだされ、主イエスに連れてきて頂き、ここに植えていただいたのです。そして、主イエスが私たちをいつも新たに赦し、鍛え、養ってくださっているのです。その命の言葉と聖霊と聖餐の糧を通して。
 それらすべてを通して何を与えてくださっているのかと言えば、それは私たちの罪を赦す愛です。ご自身が罪人の身代わりになって罪人と決められ、その罪人としての裁きを受けることを通して、私たちに神の赦しを与える愛です。そして、復活の命に与らせてくださる愛です。その愛を私たちはこの川の流れのほとりで与えられ続けている。その愛は、私たちが神を愛し人を愛する愛の何倍、何十倍の愛です。その愛を私たちはふところに注ぎ入れられているのです。

 ふところ

 「ふところ」(コルポス)という言葉は珍しい言葉ですが、来週とその次のクリスマス礼拝で読むことにしているヨハネ福音書に二回出てきます。いずれも非常に重要な箇所ですが、今日は一箇所だけ引用します。一章一八節です。

律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 「神を見る」ことは罪人には出来ません。しかし、父なる神の「ふところにいる」お方が、その神を示してくださったのです。それは独り子なる神イエス・キリストが父と一体の交わりをしているからです。そういう方だから、神を示すことが出来るのです。「ふところにいる」とは、その交わりを表しているのです。そのイエス様が「恵みと真理」を私たちに示し、また与えてくださるのです。この「恵みと真理」とは、ほぼ聖餐の度ごとに私が読む言葉の中で語られていることです。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 憎しみに捕われ、人を裁きつつ自らを滅ぼしていく私たちの身代わりに、罪なき神の独り子主イエスが十字架の上で血を流しながら罪の滅びをその身に受け、そして復活を通して滅びを打ち破ってくださった。その福音に神の「恵みと真理」が現れているのです。そして、私たちは「恵み」によってその「真理」を知らされた者たちです。だから、私たちもまた愛と赦しに生きる他にないのです。与えられた恵みと真理、独り子を通して与えられた愛を分かち合って生きる以外にないのです。私たちは、主イエスの弟子として愛と赦しに生きる。生きようとする。その私たちの「ふところ」に、神様は巨大な愛と赦しを入れてくださるのです。それは主イエス・キリストご自身だと言ってよいと思います。主イエスが私たちの「ふところ」に入り、そこで生きてくださるのです。その一体の交わりに生きる時にのみ、私たちは愛と赦しに生きることが出来るのです。私たちが実らせる実、茂らせる葉とはそのことです。
 私たちはこの実をならせ、葉を茂らすために、私たちはこれからも川のほとりに立ち続けましょう。活ける愛なる神様を礼拝する。そのことにおいて与えられる御言と聖霊を通して、私たちは主イエスに鍛えられ、主イエスに見つめられ、自分のことも見つめることができるようになります。そして、その目から丸太を取りのけることができるようになる。その時、私たちは誰であってもその心の奥底では罪の支配からの救いを喘ぐように求めていることが見えてくるのです。誰も好きで憎しみなどで生きているわけではないのです。好きで罪を犯しているのではないのです。誰だって救われたいのです。そのことが見えてくる。その救いを与えるお方は主イエス・キリストだけだとはっきりと見えてくる。その時、主イエス・キリストが私たちを通して現れてくるのです。

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