「家をどこに建てるか」

及川 信

       ルカによる福音書  6章43節〜49節
6:43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 6:44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 6:45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
6:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。6:47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。6:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。6:49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」


 「山上の説教」と「平野の説教」

 久しぶりにルカ福音書に戻ってきました。今日で、主イエスの「平野の説教」と呼ばれる箇所が終わります。その終わりに、家を建てる例話が出てくるのはマタイ福音書の「山上の説教」と同じです。私は、今日の説教題を「家をどこに建てるか」にしてしまいました。それは「山上の説教」のことが頭にあったからです。そこでイエス様は、イエス様の言葉を聞いて行う者は岩の上に家を建てる賢い人であり、聞いても行わない人は砂の上に家を建てる愚かな人であるとおっしゃっています。しかし、ルカの「平野の説教」の方では岩と砂が比較されている訳ではなく、地面と地面の下にある岩が対比されているのだし、なによりも家を建てる前に岩に届くほど深く地面を掘るか否かが問われています。つまり、「家をどこに建てるか」よりも、家を建てるためにすべきことが重視されているのです。昨年のクリスマス前によく読まずに説教題をつけたものですから、そのことを見落としていました。

 内と外

 前回の説教の後半で、四三節以下の「木」に関して語りました。木がどういう木であるかは結ぶ実を見れば分かると、主イエスはおっしゃいます。つまり、内面が外面に出てくるのであり、どれほど外面を取り繕ったところで内面と外面の違いは隠せるものではないのです。特に、神の前ではそれは不可能です。神様を侮ってはいけません。
 四二節には、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」とあります。「偽善者」とは元来、仮面を被ったり白粉を顔に塗って様々な役を演じる役者のことです。そういう取り繕いによって人の目を欺くことは出来るでしょう。しかし、神の目を欺くことは出来ません。

 「主よ」と呼ぶ

 そのことを念頭に置きながら四六節以下を読まければならないと思います。イエス様はこう言われます。

「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」

 直前では、「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」とおっしゃっています。心に善いものを入れた人からは良い言葉が出てくるし、悪いものを入れた人からは悪い言葉が出てくるのだと。しかし、四六節以下では、同じ「主よ」という言葉が出てきたとしても、その言葉に相応しい行いをしない者たちがいるという事実をイエス様は指摘されます。
 しかし、命の水が流れる川のほとりに立ち続けることによって心が善くされている人の言葉は、口からでまかせではあり得ません。心から溢れる告白として「主よ」という言葉が出てくるのだし、その告白に基づく行いが伴うものです。
 私が「命の水が流れる川」と言う場合、それは教会のこと、何よりも礼拝のことを意味しています。その礼拝にしっかりと根を張り、命の息である聖霊と共に命の言葉である神の言葉を受け入れ続ける。ただそのことによって、真実に「主よ」と呼ぶ者とされる。そして、その主に従う真実なキリスト者とされていくのだと思います。その礼拝に根を張ることのないままに「主よ」と言ったところで、それは行いとなって現れようがないのだと思います。

 心から溢れ出てくる信仰告白

 ここに出てくる「主」という言葉が何を意味するかについては見解が分かれます。「先生」とか「師匠」という意味だと解釈する人もいます。でも私は、神と等しい権威を持つ方を表わしていると思います。
 初代教会の信仰告白の一つは、「イエスは主である」というものです。この告白は聖霊を与えられた者にしか成し得ない告白であると、パウロはコリントの信徒への手紙で言っています。使徒たちの宣教の言葉を聖霊の導きの中で聴く時にのみ、人はイエス様が主であること、神と等しい権威をお持ちであることが分かる、いや信じることが出来るのです。そして、その信仰から溢れ出てくる告白が「イエスは主である」なのです。この告白をすることによって迫害されることが確実であっても、その苦難を越える喜びや希望が与えられている者は、イエス様を「主よ」と呼び続けて来たのです。

 主と従

 そして、誰かを「主」と呼ぶことは、自分は「従」である。従う人間、僕であると言っていることと同じはずです。「この方を『主』と呼んで従うこと、それこそが私にとっての最大の喜び、最大の名誉、何にも替え難い誇りである」。そう確信して、主に従って生きる。それが、誰かを「主よ」と呼ぶ人間の生きる姿のはずです。
 今も言いましたように、キリスト者とはイエス様を「主」と信じ、崇め、従う人間のことです。しかし、実際はどうなのでしょうか?「主よ」と呼ぶのはこの礼拝の時だけになっているのではないか?そのことは深刻に問われるべきことだと思います。私たちのキリスト者としての生命に関わることだからです。もし、日常の生活の中で「主よ」と呼ぶこともなく、主に従うこともないならば、それは肉体は生きていても、キリスト者としては死んでいる。そういうことになってしまうからです。
 私たちは、毎週礼拝からこの世へと派遣されます。イエス様を「主」と信じて、主に従って生きるために派遣されるのです。中渋谷教会が用いている派遣の言葉によれば、「神を愛し、隣人仕え」「神に仕え、隣人を愛する」ために派遣される。しかし、私たちは気がつけば、この世の中で力を持つものを主と崇めて仕えたり、私たち自身を主としていることが多いものです。権力や富やこの世の名誉を求め、卑屈になったり傲慢になったりする。そして、つまらぬ争いに明け暮れ、「勝った、負けた」と一喜一憂している。
 なぜ、そうなるかと言えば、神の言葉に毎日触れないからだと思います。神の言葉を日常の中で読んだり、黙想したりしないからです。礼拝の中でしか聴かない。読まない。口にしない。だからだと思います。

 流れの畔に植えられた木

 前回、木の話をした時に読んだのは詩編一編です。その詩は、「いかに幸いなことか」と歌い始められます。その「幸いな人」とはどんな人かと言えば、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」なのです。そういう人は「流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない」のです。
 「主の教え」とは、主の言葉、神の言葉のことです。その言葉を昼も夜も聴き、口ずさむまでになる。それは、その言葉によって生きることだし、その言葉に従うことです。巷に溢れている吹けば飛ぶような言葉、ただの情報伝達の言葉や単なる知識の言葉と、主の言葉は全く質が異なるものです。本当に深く聴くならば、それは従うことにならざるを得ない言葉なのです。

 聴従

 英語で「従う」「服従する」を意味するオベイという言葉があります。そのオベイの語源は、ラテン語で「聴く」を意味するアウディーレであるとある本に書かれていました。辞典を見ると確かにそうでした。「聴く」ことと「従う」ことは切っても切れない関係があるのです。日本語でも「聴従」という言葉があります。
 怪しげな教祖の戯言のような言葉を聞いて従ってしまうことは、自ら人生を破壊することになります。しかし、人を生かす言葉、救いに導く言葉を聴いて従うことは、決して破壊されることのない人生を生きることです。
 そして、その場合、その言葉とその言葉を語る方は一体です。私たちは、その言葉を語る方はただお一人、主イエス・キリストであると信じ、その主イエス・キリストの言葉を聴き、従うキリスト者なのです。

 来て 聞く

 主イエスは言われます。

「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。」

 主イエスのもとに「来る」。そして、その言葉を「聞く」。まずそのことが起こらなければ、その「言葉を行う」ということは起こり得ません。
 この「来て」「聞く」という言葉は、イエス様の「平野の説教」が始まる直前に出てきていました。イエス様が山の上で十二弟子を選んだ後に平野に下山してみると、「大勢の弟子とおびただしい民衆が・・・・イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた」のです。原文では「来た」「聞く」は繋がっており「聞くために来た」です。「イエスの教えを聞くため」は意訳で、直訳は「彼に聞くため」です。こういう表現で、言葉と存在また行為が、主イエスにおいては一つになっていることを暗示しているように思います。
 また、イエス様は説教の途中で、「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」とおっしゃるのです。弟子や群衆は目の前で主イエスの説教を聞いているのですから、「あなたがたに言っておく」でも十分だと思いますが、主イエスは敢えて「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」とおっしゃる。キリスト者とは、何よりも主イエスの言葉を神の言葉として聴く者たちなのです。(私は、この場合の「聞く」は「聴従」の意味を含めて、漢字では「聴く」と書きたいと思います。)

 神の言葉の権威

 ルカ福音書は、そのことを特に強調する福音書だと思います。五章は、ゲネサレト湖における大漁の奇跡とペトロの弟子への召命が記されている所ですけれども、こういう書き出しです。

「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた」。

 イエス様の言葉は「神の言葉」だと多くの人々が思っていたのです。何故かと言えば、湖畔の町カファルナウムの会堂で語られた主イエスの言葉の「権威」に人々は驚いていたからです。また、イエス様が言葉一つで悪霊を追い出すのを見て、「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」と言って驚いていたのです。
 主イエスの存在、その言葉と業、それがすべてある意味では神の言葉としての力と権威をもったものだと思いますけれど、その神の言葉を聞きたいと、大勢の人々が集まってきた。それは礼拝の場面を象徴しているでしょう。皆さんも、今日、人の言葉ではなく神の言葉を聴きたくてここに集まってきたはずです。私も、です。
 その時、主イエスは一晩中漁をしたのに魚一匹も獲れずにいたペトロの舟に乗って、岸辺に座る群衆に向けて語ったのです。
 その上で、主イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とペトロに命ぜられました。ペトロは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と言って嫌がりました。当然でしょう。でも、その後、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って網を降ろした。すると網を破るほどの夥しい大漁になったと記されています。
 イエス様の言葉を聴き、その言葉に従う。そのことを通して、彼は目の前におられる方が「主」であることを知ったのです。そして、イエス様の前にひれ伏してこう言いました。

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。

 目の前にいる方が神の言葉を語る「先生」ではなく、神と等しい権威を持った「主」であると知るのは、その言葉に聴従した時なのです。そして、目の前に主がおられることを知るとは、自分の罪深さを知ることです。それ以外に、真実な意味で主を知るということはありません。そして、主を知った者は主のみ前にひれ伏すしかありません。

 罪を赦す権威

 これまでご一緒に読んで来ましたように、その後、主イエスは重い病に罹っている者たちを癒したり、罪人の代表格である徴税人のレビを弟子に招き、共に食卓についたりされました。それは、当時のユダヤ人にしてみると、ことごとく神の律法に違反するような行為でした。しかし、主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」とおっしゃりつつ、その業をお止めにならないのです。
 ユダヤ人にとっては、「罪を赦す」ことは人間には出来ません。それは神様だけが持っておられる権威ある業だからです。だから、ユダヤ人の代表者である律法学者らは、イエス様のことを「神を冒?する者だ」と思うのです。冒?罪は死刑に値する罪です。主イエスはもちろんそのことをご存知です。でも、その罪の赦しの業をお止めにならない。そこには「主の力が働いている」と、ルカは記しています。

 説教の冒頭と末尾

 以上のことを踏まえた上で、主イエスの「平野の説教」を振り返ってみたいと思います。
 説教の冒頭には、
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」「しかし、富んでいるあなたがたは不幸である、あなたがたは飢えるようになる」
 とあります。「貧しい者」「富んでいる者」が対比されています。
 そして、その説教の末尾においても「善い人」「悪い人」が対比され、主イエスの言葉を「聞いて行う人」「聞いても行わない人」の対比がされています。そして、冒頭も末尾も、この世において対極的な人生を歩んでいる人々がどうなるかは将来はっきりすることであると告げている。その点でも冒頭と末尾は対応しています。

 説教の中心・罪の赦し

 そして、冒頭と末尾に挟まれた中間で何が語られていたのかと言えば、それは敵への愛であり、人の罪を赦すことです。

「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」。
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。
「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」


 これが、この説教の中核の言葉です。主イエスが説教の最後におっしゃる「わたしの言葉」とは、この愛と赦しを命じる言葉なのです。この言葉を聞いて行う人。それが家を建てるために、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置く」人なのです。揺るぐことのない岩に突き当たるまで深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てる人とは、神様に赦されたように人を赦し、そしてそのことの故にさらに神様に赦される。そういう歩みをする人のことです。

 罪の赦しとしての十字架

 主イエスは、人の罪を赦すためにこの世に生まれ、そして、神を冒?していると言われてもその歩みをお止めになりませんでした。その行き着く先は、あの十字架の死です。主イエスを、神を冒?する罪人として磔にした人々は、十字架を見上げつつ「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と嘲っている。しかし、主イエスは、嘲りつつご自分を殺す者たちのために祈られる。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

   この方の十字架の死、そこに私たちの人生の土台を据えるべき岩があるのです。ルカ福音書のどの箇所を読んでも、その箇所を深く掘り下げていけばそこには十字架の死がある。その死による罪の赦しがある。その事実に突き当たる時、私たちは初めて十字架の主の前にひれ伏すことが出来るのだし、主イエスの言葉を自分の最も奥深くに受け止めることが出来るのです。「主が自分の罪のために十字架に掛かって死んでくださった」。その事実を信じる時にのみ、私たちは主の言葉に従う僕になることが出来るのです。そして、その時、決して破壊されることのない家を建て始めることが出来ます。

 結ぶ 行う

 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」と、主イエスはおっしゃいます。この「結ぶ」という言葉と「行う」という言葉は、原文では同じです。木はすぐに実を結ぶわけではありません。実を結ぶのは未来のことです。しかし、何もしないで実を結ぶわけでもない。命の霊と命の言葉をいつも新たに吸収し続け、その栄養を枝の先々まで行き渡らせることをやっているのです。そういう日常的な行いの結果、時が来れば実を結ばせるのです。
 主イエスは、洪水が押し寄せる時が来るとおっしゃっています。私たち日本人にとっては体感的に分かることです。津波は川を逆流して襲いかかってきました。また昨年近畿地方を襲った豪雨と洪水も恐るべきものでした。そういうことは今後も必ず起こります。私たちは自然の中に生きているのですから。その時までは、どこにどのように家を建てようと平穏な生活を送ることが出来るかもしれません。しかし、いざ洪水が襲ってきた時、家をどこにどのように建てたかは、決定的な差異となって現れます。
 もちろん、「家」とは私たちの人生の比喩でしょう。人生は人それぞれです。そこに目に見える形で平等はありません。大きな病や事故に遭わないまま晩年を迎える人もいますし、生まれた時から障碍があり、病が続く人もおり、災害や事故に見舞われる人もいます。全く不平等としか言いようがないのです。しかし、誰もが死ぬ。その点は平等です。そして、その死に対して、この世の財産とか権力とか名誉は何の力も持ちません。
 そこで力を持つのは、罪人の罪を赦すために十字架の上で死に、だからこそ三日目に復活させられた主イエス・キリストその方だけです。この方を自分の「主」、救い主と信じて生きている。主イエスを絶えず自分の中に受け入れて、主イエスの霊と言葉によって生きているという事実。ただそれだけが、すべてを破壊する死という現実に対する唯一の力なのです。

 律法による死 信仰による命

 パウロという人は、まさに主イエスの力、主イエスを信じる信仰の力によって生きた人だと思います。彼は、ガラテヤの信徒に向けてこう書き送っています。

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。

 ここで「律法」とはユダヤ教の律法ですが、律法の字句を表面的に守って善行を積み、その善行の故に救いを勝ち取ろうとする人生を表わしています。キリスト者になる前の彼は、熱烈な律法主義者でした。そして、キリスト者を憎み、迫害していたのです。
 しかし、今、そういう自分は「死んだ」と、彼は言います。表面的に律法の字句を守り、外面的な善行を蓄積することは自己中心や傲慢の罪の蓄積でしかないことを、復活のキリストとの出会いを通して知らされたからです。その時、彼はそれまでの自分に死にました。
 そして、続けてこう言うのです。

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

 彼はもちろん、肉において生きているのです。しかし、この時のパウロは肉体の命が生きていることを、「生きている」とは表現しないのです。彼が「生きている」のは、彼の内にキリストが「生きている」からです。彼の内に、彼のために、その罪の赦しのために、ご自身の身を十字架の上に捧げられた「キリストが生きている」。そのことの故に「彼は生きている」。それがキリストへの信仰を生きるということの現実だし、流れのほとりに植えられた木の現実なのです。
 自分の罪の赦しのためにご自身を捧げてくださったキリストが復活して今も生きている。そのことを信じ、ひたすらに今生きておられるキリストの言葉に聴き従い、愛と赦しの業を継続する。それが、彼が「生きる」ということなのです。その命は、肉体の死によって滅びる命ではありません。洪水によって破壊される命ではないのです。主イエスの言葉を深く深く掘り下げ、そして、自分の最も奥深い所に受け入れるとは、十字架と復活の主イエスを受け入れることであり、主イエスに受け入れられるということです。主イエスと共に十字架につけられ、そして主イエスと共に復活の命を生きることであり、神の国が完成する時に新しい体を与えられることだからです。

 たゆまず善を行う

 その彼が、説教と言ってもよいガラテヤの信徒への手紙の最後の方で、こう語りかけています。そこに「行う」という言葉が出てきます。

思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

 これは所謂「善行の勧め」ではありません。そうではなく、キリストを受け入れなさいという「信仰の勧め」です。彼は、ここでこう言っているのだと思います。

 「キリストがあなたの罪の赦しのために死んでくださった、その愛を信じて受け入れなさい。そして、キリストが今もあなたの内に生きておられる、その命を信じて受け入れなさい。ただその時にのみ、あなたは善を行うことが出来る。敵を愛し、人の罪を赦すことができる。神の敵であった私たちは、神に愛され、主イエス・キリストを通して罪を赦され、今、新しい人間として生かされている。この恵みの事実を、いつでもどこでも忘れてはならない。いつも新たに主を呼び、主に祈り、主の言葉に聴き、そして従いなさい。それは愛と赦しに生きることである。そして、神様からの愛と赦しを与えられることなのだ。十字架と復活の岩の上に土台を据えて生きる人生が結ぶ実は、永遠の神の国に生かされることである。その実を刈り取るために、主イエスの言葉を聴いて、それを行いなさい。」

 これはパウロを通して語られた主の言葉です。主は、今もそのようにして私たちに語りかけて来られるのです。この言葉を聴いて従う人は幸いです。神の国はその人のものだからです。「幸いな人生を生きよ」。主イエスはそう招いておられます。恵みに満ちたこの招きに応えることが出来ますように。

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