「一言おっしゃってください」
7:1 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。7:2 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。7:3 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。7:4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 7:5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 7:6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。7:7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。7:8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 7:9 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」7:10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。 私たちは数回にわたってイエス様の説教を読んできた、いや聞いてきました。その説教の締め括りは、イエス様を「主よ」と呼ぶ信仰を真実に生きるとは、主イエスの言葉を生きること、主イエスの言葉によって生きることであるというものでした。 その説教の後に記されていることが、今日の出来事です。 カファルナウムの会堂で起こったこと イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。 直訳風に訳すと「イエスはすべての言葉を民衆の耳の中に語ってから」とか「民衆が聞いている所で語ってから」となります。「言葉」と「聞く」ことが強調された書き方なのです。 カファルナウムという町が出てきます。ガリラヤ沿岸の大きな町です。当時は、三章一九節に「領主ヘロデ」として登場しているヘロデ・アンティパスが支配していました。イドマヤ人の血が入っている人物でもあり、ユダヤ人の民衆とは反目し合う領主でした。今日の箇所に出てくる百人隊長とは、この領主に仕える役人(軍人)だと考えられています。 カファルナウムと聞けば、私たちはその町の会堂で起こった出来事を思い出します。四章に記されていたことです。イエス様が、カファルナウムの会堂で説教された時、イエス様が語る言葉の「権威」に人々が「非常に驚いた」とあります。また、その時、会堂には汚れた霊に取りつかれた人がいました。しかし、イエス様がその霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその人を投げ倒しながらも何の傷も負わせずに出て行った。その様子を見た人々は「皆驚いて」こう言ったのです。 「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」。 イエス様の言葉には「権威」がある。それは、人間が持っている権威とは異なるものです。その権威に触れる時、私たち人間は「驚き」、神への恐れが生じ、賛美が湧き起こるのです。その権威ある言葉との出会い抜きに信仰が与えられることはありません。 言葉の権威と聖霊 ルカ福音書は、他の福音書と比べると「権威」という言葉を最も多く使う福音書です。多くは主イエスの言葉、主イエスご自身に対して使うのですけれど、その権威の由来は聖霊にあります。 イエス様の伝道の開始を告げる場面を、ルカはこう記しています。「イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた」。 ナザレの会堂でイエス様が読んだ聖書の言葉は、「主の霊がわたしの上におられる」というイザヤ書の言葉です。つまり、イエス様の言葉は、「主の霊」によって「権威と力」を与えられた言葉なのです。その言葉を、ルカは「神の言葉」とも言っています。 その「神の言葉」を聞くとは、そして聞いて行うとはどういうことか。それが今日与えられた御言の問題です。 あらすじ 出来事のあらすじはこういうものです。カファルナウムの町にイエス様が入られると、その噂はすぐに広まりました。そして、百人隊長も耳にしたのです。彼は異邦人ですが、ユダヤ人のことを愛しており、その宗教に共感を持っており、会堂の礼拝にも参加していたのだと思われます。そういう人々がいたことは、後で触れることになる使徒言行録の一〇章にも記されています。そして、彼は私財を投じてユダヤ人のための会堂建築を助けたりもしているのです。 その彼にとって大切な部下が瀕死の病に倒れている。なんとかして部下を助けたいのです。彼が、かつてカファルナウムの会堂でイエス様の説教を聞き悪霊追放の業を目の当たりにしたかどうかは分かりません。しかし、その場にいなくても、多くの人々が驚きをもって語るイエス様の言葉に「権威と力」が宿っていることを知っていた。それは確実です。そこで、ユダヤ人の長老を使いに出して、助けに来てくださるように頼むのです。そのことだけでも、彼とユダヤ人との良好な関係が分かります。通常なら反目し合っている者同士のはずなのですから。長老たちは、彼のためにイエス様に「熱心に願い」ます。彼らは、この百人隊長はイエス様が助けるに「ふさわしい」人物だと言うのです。 イエス様が、その依頼をどのような思いで受け止められたのかは分かりませんが、使いの者たちと一緒に彼の家に向かわれます。多くの群衆もついていきました。 しかし、百人隊長の家に着く前に、彼の友人たちがやって来て、彼の言葉をそのまま伝えました。彼は、自分はイエス様を迎えるにふさわしくない人間だから、ご足労には及ばない。でも、権威ある言葉の力は知っている。だから、「ひと言おっしゃってください」と言うのです。 この言葉を聞いたイエス様は、非常に感心されて「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とユダヤ人に向かっておっしゃった。そして、使いの者が家に帰ると、瀕死の病に倒れていた百人隊長の部下は元気になっていた。 以上があらすじです。ルカの関心は、百人隊長の部下(僕)が病から回復したことよりも、異邦人である百人隊長の「信仰」にあることは明らかだと思います。その「信仰」とは、何であるか?です。 ユダヤ人が考える「ふさわしさ」 先ほども言いましたように、この百人隊長は神の民イスラエルの末裔であるユダヤ人ではありません。立場的には、ユダヤ人から税金を取りつつ支配する側の人間です。しかし、その彼がユダヤ人を「愛している」。それは彼らの宗教を重んじているということです。そういう異邦人は当時それなりの規模で各地におり、彼らは会堂における礼拝に参加することが出来たようです。そうでなければ、私財を投じて会堂建設の協力をすることはあり得ないでしょう。 そして、ユダヤ人の長老たちは、そういう彼の行いを見て、イエス様が助けるに値する男、助けを受ける資格がある男だと言っている。その時、彼らはイエス様を自分たちユダヤ人を代表する人物だと見做していたと言って良いでしょう。日頃のご愛顧にお応えして、返礼として百人隊長の部下の病を癒してあげるべきだ。そう考えていたのだと思います。 百人隊長が考える「ふさわしさ」 しかし、当の百人隊長は、部下のことを案じてユダヤ人の長老を使いに出したのですが、そのこと自体を後悔し始めたようなのです。その理由の一つには、ユダヤ人の律法では、ユダヤ人は異邦人の家を訪ねてその家の中に入ることが禁じられていたことがあるかもしれません。もし、イエス様が自分の家の中に入って来られれば、たとえ町の長老がそのことを例外的に認めていたとしても、後々迷惑が掛かるのではないかと思った可能性もあります。 しかし、それだけではないと思います。彼はもっと根源的なことに気づいたのだと思います。先ほども言いましたように、彼がカファルナウムの会堂でイエス様の説教を聞き、悪霊追放の業を間近で見たことはなくても、イエス様の言葉や業の「権威」と「力」については人々の口を通して聞き及んでおり、非常な驚きに満たされていたのです。そのことがなければ、「部下を助けて欲しい」と願い、わざわざユダヤ人の長老を使いに出すことなどあり得ないからです。 その彼が、長老を使いに出した後、「自分はとんでもないことをしてしまった」と思い、慌てて友人を使いに出して、彼の言葉をそのまま伝えさせた。そこで彼は二度も、自分はイエス様に来ていただくにふさわしい人間ではないと告げています。そこには自分はユダヤ人ではないということや、ユダヤ人を支配する側にいる人間であるという理由もあったでしょう。しかし、彼はそういう世間的な身分や立場を越えた次元で自分は「ふさわしくない」と言っているのです。それは、ユダヤ人の長老が彼は「ふさわしい」人間だと言っている次元とは異なります。 主よ 彼は、イエス様に向かって「主よ」と呼びかけます。「主」とは、神様の権威をその身に帯びた存在を意味します。「主の霊がその上に留まって」いる方です。その方を自分の家にお招きすることなど出来ない。そういう畏れを抱いているのです。それは、自分は罪深い人間であるという自覚です。罪人は主に気軽に話しかけるだとか願うだとか、そんなことは出来ません。しかし、罪人だからこそ、「主」に願うしかないこともあります。 ひと言おっしゃってください そこで彼はこう言いました。 「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕を癒してください」。 「しかし、言葉を語ってください」が直訳です。彼が求めているのは「主の言葉」です。前回も言いましたが、イエス様の「言葉を聞く」ことを、ルカは「イエスに聞く」という言い方をすることがあります。イエス様とその言葉、またその業は一つであることを表現しているのだと思います。イエス様の言葉が語られる所にイエス様がおられる、イエス様が働かれることを表わしているのだと思います。 百人隊長は、主イエスの言葉が持つ「権威」、そしてその「力」に対して全幅の信頼を置いているのです。彼はこの世の次元における権威が持っている力を知っています。軍隊の組織の中で生きる者にとって、上からの命令は絶対的です。命令が発せられれば、権威の許に生きる者たちは必ず服従しなければなりません。彼もその権威の許に生きていますし、彼の下には彼の命令の言葉に絶対服従する部下がいるのです。そういう意味で、彼は言葉が持つ「権威と力」をよくよく知っていました。 そして、彼は主イエスが語る言葉の「権威と力」を既に知っていました。そのことを思い起こすことを通して、主イエスが自分の家にまで来てくださらなくても、お言葉を下さればその言葉はその場で力を発揮する。そのことを確信するに至ったのだと思います。 驚く 主イエスは、友人たちを通して語られる百人隊長の言葉を聞いて「感心した」とあります。確かにそういう意味も含まれていると思います。しかし、原文では「驚く」「驚嘆する」と訳されるサウマゾウという言葉が使われています。ルカは、「驚く」を意味する言葉を他にもいくつか使いますが、基本的には奇跡を目の当たりにした時の人間の反応として使います。しかし、ここでは唯一イエス様が主語なのです。だから、「感心した」と訳されたのかもしれません。でも、私は神の御業を見て「驚く」という意味で受け取るべきだと思います。その理由は、後に述べます。 私たちの代表としての百人隊長 先ほども言いましたように、この話は、百人隊長の部下が癒された報告で終わります。しかし、イエス様がどんな言葉を語ったかについては沈黙していますし、その言葉が語られたことで癒されたという確認もありません。そういうことよりも、異邦人である百人隊長がかくまで深く主イエスの本質を見抜き、主イエスが語られる言葉に絶対の信頼を寄せていたことと、そのことを知った主イエスが驚いたことにこそ、関心の中心があるのだと思います。そして、そのことは私たちにとって極めて身近な問題なのではないでしょうか。 今日の箇所に登場する百人隊長は、私たちの代表なのです。今、私は「登場する」と言いましたが、実際には彼はイエス様の目の前に出て来ているわけではありません。彼は使いの背後にいて、その姿はイエス様には見えません。彼にとってもイエス様は見えていないのです。これまでも直接会ったことなどはありません。彼は、イエス様を伝聞によって知っているだけなのです。そういう意味では、カファルナウムの会堂で主イエスの言葉を直接聞き、またその業をその目で見たユダヤ人とは全く違うし、さっきまで主イエスの「平野の説教」を間近で聞いてきた人々とも違います。彼は、人々が語り伝えた言葉を通してイエス様を知り、それだけで「主よ」と呼ぶまでになっている人です。 私たちも同様です。私たちも、イエス様のことを信じた人々が語り伝えた言葉である聖書を読んで、イエス様を「主よ」と呼ぶようになった人間だからです。 その上に、彼は私たちと同じ異邦人です。神の選びの民イスラエルの子孫ではありません。その彼が、主イエスの言葉の権威に心打たれ、全幅の信頼を置き、その部下の癒しを願っているのです。そして、主イエスの言葉を求めている。 主イエスはその現実を見て「驚いた」のです。人々が主の言葉の権威に驚いたように、またその奇跡の御業に驚いたように、主イエスもここで神の御業に触れて驚いたのだと思います。神様は、主イエスの思いを遥かに超えて、既に異邦人に向けて救いの御業を始めておられる。その聖霊の業を知って驚かれたのだと思う。そして、その驚きには神様に対する賛美が含まれているでしょう。 聖霊による異邦人伝道 ルカ福音書の続きは使徒言行録です。その冒頭で、天に挙げられる前の主イエスが弟子たちにこう語っておられます。 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。 主イエスは、基本的にイスラエルの子孫であるユダヤ人に神の国の福音を告げ知らされました。そして、天に挙げられて以降は、ユダヤ人に対する伝道と同時に異邦人に対する伝道を弟子たちに託されたのです。ガリラヤ伝道を始める主イエスに"霊"が満たされていたように、弟子たちに聖霊が注がれ、彼らがその霊に満たされる時、彼らは主イエスの証人となり、すべての人々に福音を宣べ伝える者として遣わされる。主イエスは、そうお語りになった上で天に挙げられていきました。その後、弟子たちに聖霊が降りました。 コルネリウスとペトロ 先ほど、「後で使徒言行録一〇章に触れることになる」と言いました。そこには百人隊長のコルネリウスという人が登場します。もちろん、彼も異邦人です。しかし、ユダヤ人が伝えてきた「神」を畏れる信仰篤き人で、ユダヤ人に多くの施しをしていました。 ある日、彼が祈っていると天使が現れて、「ヤッファという町にペトロがいるから使いを送って自宅に呼ぶように」と言うのです。その使いがペトロの滞在先に着く直前、ペトロはペトロで、「ユダヤ人には禁じられている食物を神が清めたから食べよ」と、幻の中で命じられるのです。その意味が分からず思案している時に、コルネリウスが遣わした使者が来ました。聖霊が、ペトロに向かって「ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」と告げます。そこで、彼はコルネリウスの家に行きます。それは、ユダヤ人の律法では禁じられていたことです。 コルネリウスは、自宅に入ってきたペトロに向かって「今わたしたちは皆、主があなたがたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」と言いました。その言葉を聞いて、ペトロがイエス・キリストの十字架と復活を通して示された神様の福音を説教し、こう言ってその説教を締め括ります。 「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しを受けられる、と証ししています。」 この説教を聞いている最中に、コルネリウスを初めとする異邦人に聖霊が降り、神を賛美し始めました。ペトロたちは、その賛美の言葉を聞いて「大いに驚き」ました。この時は、我を忘れんばかりの驚愕を意味するエクシステーミという言葉が使われています。 ユダヤ人は、長く異邦人は神に捨てられた人々と考えていました。しかし、今、その異邦人に自分たちと同じ聖霊が降り、同じ信仰が与えられ、イエス・キリストを送ってくださった神様を賛美する礼拝が引き起こされている。その賛美の声を聞いたペトロは驚愕し、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言い、「イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた」のです。 すべて聞きたい コルネリウスらがペトロに願ったこと、それは「今わたしたちは皆、主があなたがたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいる」ということです。「神の前」とは、神の臨在の中で、神様の霊が注がれる中でということです。その霊の注ぎを受けつつ、ペトロが主イエスから命ぜられたことを「すべて聞きたい」と願っている。「さあ、今こそ語ってください、主の言葉を」と言っているのです。ここには、礼拝が始まる時の緊迫感がありまあす。 ルカ福音書に出てくる百人隊長はイエス様にお会いしたことがなくても、イエス様の言葉や業を人々から伝え聞くことを通してイエス様が「主」であることを信じた人です。主イエスを通して働く聖霊の業がそこにあったことは明らかです。少なくとも主イエスは、彼がご自身の言葉や業を伝え聞いて信じるに至ったことに聖霊の働きを見て驚き、神様を賛美されたのです。「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」とは、そういうことでしょう。 ローマの軍人であるコルネリウスは、もちろんイエス様に会ったことなどありません。しかし、神に遣わされたペトロを通して神の言葉を聞き、聖霊の注ぎの中で主イエスを信じる信仰が与えられ、罪の赦しの洗礼を授けられることになりました。ペトロたちは、そこに働く聖霊の業を見て、非常なる驚きに満たされたのです。 私たちもまた、直接目で見る形でイエス様にお会いしたことはありません。でも、私たちは「神の言葉」を求めて礼拝に集ってきた者たちなのではないでしょうか?教会の礼拝に来るきっかけや動機は人によって様々です。しかし、二度、三度、また一ヶ月二ヶ月と続く場合、その人の心の中に何があるのかと言うと、それは「神の言葉を聴きたい」というものだと思います。そういう思いを心に抱く人が礼拝に続けて来るのです。 神の言葉を聴ける救い もう何度も語っていることですが、私自身は京都における大学一年生の頃に「本当の言葉」を捜し求めていました。そして、かなり苦しい時期がありましたけれど、その「本当の言葉」は聖書の中にあることが分かりましたし、イエス様の「わたしはよい羊飼い。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」という言葉と出会うことで、イエス様こそ本当の言葉を語る方だと分かりました。そして実は、イエス様が「神の言葉」そのものなのだと分かりました。その時に、洗礼を受けなければこの状態から救われないことも分かりました。でも、洗礼を受けることだけは嫌でした。私の場合は、洗礼を受けることが「本当の言葉」を取り次ぐ牧師になる他にないことだとも分かっていたからです。 しかし、抵抗空しく生まれ育った東京の教会で洗礼を受けました。その後、通い始めた京都の教会は日曜日の礼拝しかないと言ってよい教会でした。牧師さんは七十歳を越える方でした。その牧師さんは、「自分は、ただこの礼拝の中でしか語られることがなく、また聴くことができない言葉を聴き、語ることだけに集中してきた」とおっしゃいました。説教の中でもおっしゃったし、私に直接おっしゃったこともあります。私が、その教会の礼拝に熱心に通いつめた理由もまさにそのことにあります。「そこでしか聴くことができない神の言葉を聴きたい」。ただその願いがあるから礼拝に通いました。もちろん、そのことを通して生じてくる信徒の交わりも信仰を支え、育ててくれる大きな賜物でした。その信徒の方たちも、ひたすら神の言葉を聴きたいと願って礼拝に結集する方たちでした。当時は、日本家屋の畳の間である礼拝堂が一杯になり、静かな熱気に満ちた礼拝が毎週捧げられていました。下宿の部屋に閉じこもっていた私は、礼拝の中で「神の言葉」を聴くことを通して、再び人と交わりを持つことが出来るようになりましたし、ついに、その言葉を聴き、語ることに集中すべき牧師になっていきました。 私にとっては、「わたしはよい羊飼い。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」という主イエスの言葉が与えられたことが救いなのです。その「ひと言」を語りかけてくださる方が今日もいてくださる。そのことを信じることが出来る。それが救いなのです。 人を生かす「ひと言」 皆さんもそれぞれに愛唱聖句があるでしょう。「私はこの言葉に出会って救われた。この言葉があるから生きていける」という言葉があるはずです。主イエスに直接会ったことがあるとかないとか、そういうことは問題ではありません。カファルナウムの会堂で主イエスの言葉を聴き、悪霊追放の業を目撃したことがあるかないかは問題ではない。驚きに満ちた人々の口を通して語られ、また書かれた聖書の言葉を通して、「イエスは主である」との信仰を与えてくださるのは聖霊です。その聖霊によって与えられた信仰こそが主イエスとの真実の出会いと交わりを与えてくれるものなのです。パウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(一コリント一二章三節)と言っています。 私たちは、皆、聖霊によって「イエスは主である」との信仰を与えられ、罪の赦しの洗礼を授けられ、主の晩餐に与ることが出来るようにしていただいたキリスト者です。その私たちを生かすのは聖霊と共に語られる「主の言葉」です。それは聖書であり説教であり、信仰の証しでもあるでしょう。「ひと言」でよいのです。ただひと言、それらの言葉を通して「主の言葉」を聴くことができれば、私たちは生きていくことが出来ます。そして、その言葉によって生きる命は、地上の肉体の命を越える命なのです。今日、その命を生かす「ひと言」を聴くことができた人は幸いです。 今日も、「神の言葉」を聴くことを求めて礼拝においでの求道者の方がおられます。どうぞ、これからも心を開いて礼拝にいらしてください。神様が定めた時に聖霊を与えられ、「イエスは主である」と告白し、神様を賛美する日が必ず来ます。その日が来たら罪の赦しの洗礼を受けてください。そして、共に主の食卓を囲みつつ、御国の完成を目指して歩んでまいりたいと願っています。 |