「もう泣かなくともよい」
7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。7:12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。7:13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。7:14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。7:15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。7:16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。 『ブリューゲルの動く絵』 つい先日、『ブリューゲルの動く絵』という映画を観ました。この画家の作品で、私たちがまず思い出すのは『バベルの塔』だと思います。しかし、この映画は『十字架を担うキリスト』と題された絵画の内部に入っていくもので、十六世紀のフランドル地方の厳しくまた欺瞞に満ちた現実と、イエス様が生きた時代、特にイエス様が十字架を担いでゴルゴダの丘まで歩く場面が二重写しになって描かれていきます。一度観ただけでは到底「観た」とは言えず、歴史や文化に関して勉強しながら二度三度繰り返し観れば、さらによく分かるだろうと思わされる映画でした。原題は『ザ ミル アンド ザ クロス』(「製粉機と十字架」あるいは「風車と十字架」)です。(絵を拡大コピーして掲示板に貼っておきました。)絵の左の方に、塔の様に聳え立つ岩山があり、その頂上に風車小屋が建っています。それは小麦粉を作るためのものです。小麦粉は、人々が食べるパンになります。映画の中で絵を説明するブリューゲルの言葉によると、岩山の上は神の居場所であり、そこから眼下に広がる光景はこの世のものです。そして、岩山の風車によって作られる粉は人を生かす命のパンの象徴でもある。 岩山の下では、人々の無邪気な生活があります。しかし、外国の支配者による残虐な弾圧があり、支配者から見て異端とされるキリスト者は捕らえられ、暴行を受けた上で処刑柱の上に縛り付けられ、やわらかい目や頬肉を烏が突いて食べたりしている。その様を人々は見ているのです。そして、程なく忘れてしまうのです。 絵の中心 そういうこの世の情景が描かれている絵の中心に、重い十字架を担いでゴルゴダの丘に向かうキリストがいます。よく目を凝らさないと見えないほどの小ささで描かれています。周りには、大勢の群衆がいます。兵士もいます。しかし、人々の目はその十字架を担うキリストには向けられてはいません。人々が見ているのは、イエス様の十字架を担ぐように兵士に命令されて抵抗しているクレネ人シモンとその妻の方なのです。 画家は言います。「大事なことはいつも見過ごされているものだ」と。「人々は、十字架の死よりも、周辺で起きている瑣末なドタバタ劇を面白がるものだ」と。 そして、その絵の前景には、村人たちが着ている衣装とは全く異なる服を来たイエスの母マリアや恐らくマグダラのマリア、またガリラヤからついて来た女たちの嘆き悲しんでいる姿が大きく描かれています。その中でも特に、マリアの悲痛が際立っています。絵の中に描かれるだけでなく、マリアは映画の中にも登場し、自分の子どもが、一旦は人々によって大歓迎されたのに、その同じ人々によって処刑されていく悲しみを語ります。息子の死に直面する母の悲しみが痛いほど伝わってきました。この異なる時代や場面が一つの絵の中に描かれるのです。 死の支配 今日の箇所には「町の門」が出てきます。その門の中の町で、人々は生活しています。しかし、その門の中で一人の青年が死んでしまった。人は死ねば即座に悪臭を放ちますから、葬らねばなりません。そして、その場所は町の外です。遺体は人々の生活の場である町の中から、門を出て外に運ばれ、死が支配する墓に葬られます。遺体を運ぶ葬列を支配しているのは嘆き悲しみです。特にこの場合、死んだのは青年であり、夫を亡くした寡のたった一人の息子です。寡にとっては愛する一人息子であり、同時に生活を支えてくれる唯一の存在です。しかし、その息子が死んでしまった。その悲しみと嘆きの深さは想像を絶します。彼女は、息子の死を受け止めきれずに泣き叫んでいたでしょう。 その悲しみに寄り添うように「町の人が大勢そばに付き添って」いました。彼らは、それ以上のことは出来ません。私たちも同様です。人間に出来ることは、悲しみに寄り添うこと。それだけだし、それが出来れば十分であるとも言えます。私たちは、なかなか十分なことも出来ないものです。 この時の情景はこういうものでしょう。棺を先頭にした大規模な葬列が町の門から出てくる。その列に加わっている人々は、棺の傍らで嘆き悲しむ寡に寄り添いつつ、やはり泣いている。その悲しみの一団と、イエス様を先頭にした「弟子たちや大勢の群衆」からなる一団が、今、真正面から向き合おうとしているのです。広い道であるはずもありません。通常なら、葬列に出会った一団が道の端に寄って道を譲り、その葬列をうな垂れながら見送るはずです。 ナインはカファルナウムから歩いて八〜九時間もかかる所にあった町で、イエス様の知り合いなど一人もいない町でしょう。寡も町の人も、群衆を引き連れてやって来る男が、最近評判のイエスという人であると分かったわけではないでしょう。分かったとしても、そこで誰かが「何とかしてくれ」と頼むはずもないことです。病ならいざ知らず、死は人にとっては動かすことが出来ない現実であり、死に対して人が無力であることは誰にだって分かっていることだからです。 死がそういうものだから、私たちは死の現実を前にして嘆き悲しむか、その現実を見ないようにするしかないのだと思います。そして、どちらにしろ、忘れていく。そして、自分は死なない者であるかのように暮らす。ある人々は真面目につつましく、ある人々は享楽的に。ブリューゲルの絵も、この世に生きる人間のそういう現実を描いています。しかし、私たちは誰だって死に向かって生きているのだし、棺の中に入るのです。 中心にあること しかし、それだけが現実ではありません。世の中の真ん中を、人知れず十字架を背負って歩いている方がいる。人々がその方を見つめることがなくても、丘の上の風車小屋から見下ろしている方がいる。それも現実なのです。そして、人知れず十字架を背負って歩いている方は、その後、十字架に磔にされて死ぬのです。肉体をもった人として死ぬ。他の犯罪者と同じように死ぬ。 母マリアは、自分の息子が処刑されて死んだ十字架の下で嘆き悲しみます。イエス様が誕生した時のシメオンの預言にあったように、マリアは「多くの人の心にある思いがあらわにされる」ことによって、「剣で心を刺し貫かれる」のです。 映画では、イエス様の遺体は担架に乗せられたまま岩山の高い所に掘られた墓に納められ、足首から先がはみ出ています。その足をマリアが下から見つめる場面があり、その後、村人たちが原っぱで陽気な音楽に合わせて踊る場面で絵の中に描かれる物語は終わります。それは、復活の喜びを先取りした喜びの踊りなのか、何があってもすべてを忘れて、今日も面白おかしく生きていこうとする人間の愚かさや鈍さ、あるいはしたたかな強さを表わしているのか。そこは、解釈が分かれるところだと思います。 いずれにしろ、十字架に死んで墓に葬られたイエス様は、そのようにして死なれた人間だからこそ、神様によって死を打ち破り、復活させられた方になります。その十字架の死と復活が、聖書の中心に描かれていることです。私たちは、絶えず、その中心を見つめていなければならないし、その中心から周囲を見つめていないと、そこで何が起こっているのかの本質が分からなくなると思います。 主 ルカは、こう記しています。 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 ルカ福音書は、他の福音書と比べて「主」という言葉がたくさん出てくる福音書です。そして、十字架に掛かる前のイエス様のことを「主」と記す唯一の福音書でもあります。これまで、「主」と言えば、まずはイスラエルの神、主のことでした。天使もマリアも羊飼いも、そういう意味で「主」と言っていたのです。そして、ペトロとか百人隊長が、イエス様を「主よ」と呼んできました。しかし、今日の箇所では、福音書を書いているルカの言葉として「主」が出てきます。ここが初めてです。そのことには大きな意味があると思います。 ルカは、これから起こる出来事は、「主」としか言いようがないお方が引き起こす出来事だと言っていると思います。そして、「大事なことを見過ごさないように」と注意を喚起しているのだと思うのです。 見る 出来事は、「主がこの母親を見る」ことから始まります。私たちは、先週の百人隊長の部下の癒しという出来事を通して、主イエスの言葉の権威と力を知らされました。その権威と力が発揮されたのは、百人隊長に信仰があった、主の言葉に対する絶大な信頼があったからです。 しかし、今日の箇所では、寡が死人を生き返らせ欲しいと願っているわけでもないし、イエス様を「主」と信じる告白をしているわけでもありません。それなのに、死人が生き返るというとてつもないことが起こる。それは、他でもない「主」が、一人息子に死なれてしまった母親を「見る」ことに始まるのです。主が見る。すると、そこに何が起こるのか? 憐れに思う 主が「憐れに思う」ということが起こるのです。翻訳では省略されているのですけれど、ここには三度も「彼女」という言葉が書かれています。「主は彼女を見た。彼女を憐れんだ。そして彼女に言った。『泣くな』」が直訳です。主イエスの眼差しはひたすら寡に向かっています。夫を失った上に一人息子さえ失ってしまい、ひたすら泣くしかない憐れむべき女に向かっているのです。 私は今、「憐れむべき女」と言いました。この時、彼女と一緒にいた町の人々はまさに彼女を憐れみ、その悲しみを慰めようとしているのです。しかし、ここで「憐れに思う」と訳された言葉(スプラグニゾマイ)は、元来「はらわたが痛む」という意味で、マタイ、マルコ、ルカ福音書にしか出てこない言葉です。そして、マタイやマルコでは、すべて主イエスが主語であって、人が主語になることはありません。 ルカでは三箇所に出てきます。ここ以外では、有名な「善きサマリア人」の譬話と「放蕩息子と父」の譬話の中に出てくるのです。強盗に半殺しにされて道端に倒れている人を「見た」サマリア人は、その人を「憐れに思った」のです。そして、その人に近づき、抱き起こし、町まで連れて行って介抱してあげました。放っておけば死んでしまう人を助けたのです。 また、父の財産を奪うようにして家の門を出て、放蕩の限りを尽くし、身も心もボロボロになって帰ってきた弟息子を「見た」父親は、「憐れに思って」走りより、彼を抱き締めました。そして、「この子は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに、見つかった」と言って、家の中に招き入れました。 いずれの譬話でも、「見る」ことと「憐れに思う」ことが連動しています。そして、「憐れに思う」ことは、ただの思いではなく、相手を生かす、新たに生かす行動と連動しています。主イエスにおいては、「見て、憐れに思い、行動する」。それはいつでも一つのことなのです。そのことを私たちは見落としてはならないと思います。私たちは、見ても見ぬ振りをすることはあるし、何もしないことが幾らでもあるからです。 泣かなくともよい 主は言われます。 「もう泣かなくともよい。」 直訳は「泣くな」です。「泣くな」とは「今まで泣いていたのは当然のことだ、しかし、もう泣くことはない」ということでもあるでしょう。 ここに、主イエスの怒りを感じ取ることも可能です。たとえば、ヨハネ福音書一一章で死んで四日も経っているラザロを生き返らせる時、「イエスは彼女(マリア)が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して」「どこに葬ったのか」とおっしゃったと記されています。死の現実に打ちのめされて泣いている人々を見て、主イエスは心に憤りを覚える。その憤りは、泣く人に対してのものか、人を泣かせる死に対してのものか、それは私にはよく分かりませんが・・ 触れる 今日の箇所において、主イエスがこの寡の置かれた状況、また心境に同情されたことは間違いありません。しかし、主イエスは、ある意味で憤然とした面持ちで、女のほうに自ら近づいていったように思います。そして、棺に手を触れられました。 これまでも、重い皮膚病を患っている者に、主イエスは直接手で触れました。多くの人々が主イエスに触れて病を癒してもらったともあります。この先の三六節以下には、罪深い仕事をしている女が食事中のイエス様の後ろから近づいて、イエスの足に接吻しつつ香油を塗ったことが記されています。その時、主イエスはご自身に触れた女に向かって「あなたの罪は赦された」とおっしゃいました。 人々が主イエスに触れる場合、そこには主イエスへの信仰が前提されています。主イエスから人に触れる場合、そこに前提されているのは主イエスの愛です。その信仰も愛も、「罪の赦し」を巡るものであることは明らかです。そして、人の罪を赦すとは、ただ神のみが持っている権威ある業なのです。イエス様は、主として、今、その業をなさろうとしているのです。 恐れを抱く 「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。 主イエスが、この言葉を発せられると、「死人は起き上がってものを言い始めた。イエスはその息子をその母親にお返しになった」とあります。「お返しになった」は、「与える」とか「渡す」という言葉です。 さすがにこんなことがあるわけがないと思う人は昔からいます。そういう人たちは、死んだと思われていた人が、三日目に息を吹き返した事例とかをあちこちから探し出してきて、「ここで起こったこともそういうことではないか」と推測する。 しかし、どうなんだろうか?そういう解釈は、本当に中心を見ているのだろうか?と思います。ルカは言います。「人々は皆恐れを抱き、神を賛美した」と。 「恐れを抱き」は、「恐れが皆を捕らえた」が直訳だし、現実味があると思います。死んでいた青年が、イエス様の言葉一つで立ち上がり、語り始めた。そして、イエス様はご自身が生き返らせた青年を母親に渡した、あるいは与えたのです。元通りの状態にして、母親に「返した」というよりは、新しい人間として母親に「与えた」と解釈した方が正しいように思います。その時そこにいた人々を恐怖が支配したのです。人は、神の臨在を肌で感じる時に恐れに捕われます。人は、そのままで神の前になど立ち得ないのですから。そして、その神への恐れこそが賛美を生み出すのです。恐れのない賛美は、ただの言葉あるいはただの歌であって賛美ではありません。そして、神への恐れのない礼拝は礼拝ではありません。 預言者 人々は、神への恐れに満たされ、神を賛美しつつこう言いました。 「大預言者が我々の間に現れた」。 今日の出来事の背景に、旧約聖書に登場する偉大な預言者エリヤの物語があることは確実です。エリヤは、自分が世話になった寡の一人息子が死んでしまった時、主に祈り、主は彼の祈りに耳を傾け、その子を生き返らせてくださいました。 その時、寡はエリヤに「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と言いました。 「預言者」とは、主の言葉を聴いて語るだけの人ではありません。その言葉と業を通して、主の言葉の権威と力を現す、あるいは主の言葉の力がその人を通して現れてくる存在なのです。特に、エリヤやその後継者であるエリシャはそういう人物です。彼らが訪れる人々に主は訪れるのです。この時のエリヤに対する寡の言葉もまた、主が自分の所を訪ねてくださり、その御業をなしてくださったことに対する深い恐れから生じた神賛美です。 主の訪れと憐れみ イエス様の言葉による御業を見た人々は、さらに「神はその民を心にかけてくださった」と言いました。「心にかける」は、「訪れる」とも訳される言葉です。神様にとって、心に思うことは行動となって現れるからです。ルカ福音書ではザカリアの預言の中に二度と、今日の箇所にだけ出てきます。そして、「憐れみ」と深い関わりの中で使われているのです。 ヨハネの父ザカリアは、天使の預言どおり、イエス様の先駆者としてヨハネが生まれた時に、聖霊によって賛美と預言を始めました。彼はその冒頭で「主がその民を訪れて解放して下さった」と言いました。ヨハネは、「主の訪れ」を告げる預言者になるのです。主は「神の憐れみによって」「高いところからあけぼのの光」として「訪れる」と彼は言います。それは何のためかと言えば、「主の民に罪の赦しによる救い」を与え、「死の陰に座している者たちを照らす」ためなのです。 つまり、七章で起こっていることは、ザカリアの預言の実現なのです。主ご自身がナインの寡を「訪れ」、「死の陰に座している者たち」に命の光を照らすためです。そのすべては、主の「憐れみ」によることです。 来るべき方 来週は続きを読みます。そこではヘロデに捕らえられていた洗礼者ヨハネが、主のもとに使いを遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねます。その時、主イエスは、病人は癒され目や耳の障碍者たちは見えるようになり、聞こえるようになっているとおっしゃった後に、「死者は生き返り」とおっしゃいました。「死者」は複数形であり、「生き返り」は現在形です。そして、受身形なのです。自分で生き返っているのではなく、主イエスによって生き返らされているのです。ナインの寡の息子のこと、そのことを言っているのであれば単数形のはずだし、過去形で記されるべきことでしょう。しかし、イエス様は「死者たちは生き返らされている」とおっしゃいます。そこには深い含蓄があると思います。 ヨハネの問いは、「いと高き神の許から、死の陰に座している者たちを訪ねられる方、罪の赦しを与えるために憐れみの心に燃えて来られる方、それはあなたですか?」というものです。主イエスは、「そうだ。わたしだ」とお答えになった。それは、ある意味で、「ヨハネよ、安心して死ね。お前は使命を果たした」とおっしゃったということでしょう。そして、「ヨハネ、お前は生き返る」という宣言でもあるのではないか。 ゴルゴダに向かう行列 主イエスは、これからも町々村々を訪れます。それは主の憐れみから出てくることです。そして、そのはらわたの痛みを伴う歩みは、どこに行き着くのかと言えば、エルサレムの町の門の外、ゴルゴダの丘です。 その場面の描き方は、ルカ福音書独特のもので、こういう言葉があるのです。 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。 町の門をくぐって外に出て、「されこうべ」と呼ばれる丘、処刑場に向かう大きな群れがここにはあります。その群れが、主イエスを先頭にして処刑場に向かって歩いているのです。かつて群れの先頭に立ってナインの町の門から出てくる葬列に真正面から立ち向かって行き、棺に触れ、ただ「ひと言」をもって一人息子を生き返らせた主イエスがいました。しかし、今、主イエスは十字架を背負い町の門をくぐって死が支配する処刑場に向かって、また墓に向かって歩いていくのです。主イエスはご自身も死ぬ方として寡の一人息子の棺に触れられたのです。 そして、今、死に向かって歩む主イエスに、嘆き悲しむ女や民衆が従っていきます。彼らは、十字架の下で、あの主イエスの祈りを聴くことになります。 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」。 主イエスの憐れみ、その痛みは、ついにここに行き着きます。私たちの「罪の赦し」のための十字架の死、そこに行く着くのです。 罪の赦しという中心 放蕩息子が父の遺産を手に家を出て自分の好き勝手な人生を生きている時、その時既に、息子としてはいなくなっていたのだし、死んでいたのです。罪は死です。「肉体が生きている」とか、自分は生きていると「思っている」とか、そういう目に見える現実や人間の主観は、神様から見るとまやかしに満ちた虚構なのです。その虚構が現実だと思い、死んでいるのに生きていると思い、見えていないのに見えていると思い、聞こえていないのに聞こえていると思い、そして、肉体の死が最終的な現実であると思っている。それが私たち人間の罪なのです。その罪の中に生きることが死なのです。 その死が支配する罪人の世に、いと高き所におられた主イエスが「命のパン」として、また「曙の光」として、深い憐れみをもって「訪れて」くださったのです。そして、町々村々を訪れ、人々に触れ、また触れられつつ、ついに十字架の死に向かわれたのです。その十字架に、主の「憐れみ」の極みがあるのです。そこに神と人を繋ぐ中心点があるからです。 この世には中心がある。最も大事な中心がある。それが十字架です。この十字架を通してのみ、神と人は結ばれ、人と人も結ばれるのですから。この十字架においてのみ、人の罪が赦されるからです。ここに神の究極の愛、「憐れみ」があるからです。この十字架の主イエスが見えるとき、この十字架の主イエスの祈りが聞こえるとき、それが自分のための祈りだと分かるとき、死んでいた人々は生き返るのです。主の憐れみの中に、新しい命が与えられるのです。だから、この中心である十字架の中に復活の命を見ることが、聖書の正しい読み方なのです。主に触れられた者は、そして、主に触れた者は、そのように十字架を見ることが出来ます。その時、「あなたに言う。起きなさい」という主の言葉を聴き、起き上がることができるのです。そして、大いなる恐れをもって主を賛美することが出来る。 ナインの町の門から出てきた葬列の群れは、恐れと賛美、喜びと希望に満たされて町に帰ることが出来たでしょう。私たちもまた、主に触れられ、主に触れる時、命の光に向かって歩み始めることが出来るのです。 |