「来るべき方はあなた?」

及川 信

       ルカによる福音書  7章18節〜23節
7:18 ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、7:19 主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
7:20 二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」
7:21 そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。
7:22 それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。7:23 わたしにつまずかない人は幸いである。」


 先週は、寡の一人息子が、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」というイエス様のひと言で生き返った場面をご一緒に読みました。その場にいた人々は、神が自分たちの所に訪ねてくださったことを知り、恐れに捕われつつ賛美を捧げたのです。そして、イエス様のことは「ユダヤ全土と周りの地方一帯に」広まり、洗礼者ヨハネの耳にも入っていったのです。

 ヨハネの誕生

 ルカ福音書は、ヨハネの誕生の次第を記す唯一の福音書です。既に高齢になっていた祭司ザカリアは、神殿で神様に礼拝を捧げている時に、天使から男の子が生まれることを告げられました。その子は「イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる」使命を帯びていると言われます。ザカリアはそのお告げを信じることが出来ず、そのことの故に口が利けなくなったのです。しかし、実際に男の子が誕生し、ヨハネと名づけた時、彼は聖霊に満たされて、赤ん坊のヨハネに向かってこう語りかけました。

「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを
知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による」。

 「神の憐れみの心」
による「罪の赦しによる救い」が与えられる。それは、主の「訪れ」、到来よってもたらされる。その主とは、「死の陰に座している者たちを照らす光」です。ですから、死人が生き返るという出来事は、まさにザカリアの預言の実現なのです。

 預言者ヨハネ

 ヨハネは、幼い頃から自分に与えられた使命を父親から聞かされつつ成長したに違いありません。事ある毎に聞かされたでしょう。そういう幼少時の体験は、当人にとっては決定的なものです。
 彼は成人してから家を出て、荒野に住むようになりました。それがユダヤ教の一派の禁欲的な共同生活であったか、修行者のように単独で住んだのかは、ルカ福音書には記されていません。マタイ福音書では「らくだの毛衣を着て、イナゴと野蜜を食料としていた」とあります。一種異様な人物であることは間違いありません。
 ルカ福音書では、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」とあります。預言者とは、こういうものです。神の言葉が降るから、その者は神の言葉を語るのです。自分の思想とか主義主張を語るのが預言者ではなく、自分が語りたくないことでも、神の言葉が降った限りはその言葉を語らなければならない。それが預言者です。彼は、そういう預言者となったのです。
 その彼が、神の民イスラエルに語ったことは、厳しい裁きの到来でした。彼は、その裁きをする方が来る前に「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を」受けるように説教したのです。そのヨハネから洗礼を受けようとして、多くの人々がヨルダン川の畔に集まってきた。しかし、彼はその人々に向かって、「蝮の子らよ」と呼びかけつつ、見せ掛けの悔い改めなど、神の怒りの前では何の意味もないと断言するのです。厳しい人です。

 多様なメシア像

 当時のユダヤ人は、それぞれにメシアを待ち望んでいました。そのメシアは、ある人々にとってはローマ帝国やヘロデ王家の弾圧や抑圧から解放してくれる政治的民族的指導者でした。しかし、ある人々にとっては最後の審判をするために天から降って来て、アブラハムの血筋を引きつつ、さらに律法を忠実に守っている者たちを天国に迎え入れてくれる救い主でした。
 そういう多様なメシア(キリスト)像がありましたが、誰もが自分のイメージに合うメシアが到来すること、自分の所を訪ねてくださり、救ってくださることを願っていた。それは確かなことです。しかし、その「救い」とは何であるかは、メシア像の多様性と同じく多様な理解があります。

 イエス様とヨハネの関係

 三章一五節には、こうありました。

「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」。

 その後、ヨハネは、自分の後から来る方は「聖霊と火」で洗礼を授け、麦と殻を分け、「殻を消えることのない火で焼き払われる」お方だと言ったのです。
 そして、ヨハネは領主ヘロデの不当な結婚を非難し、ヘロデによって牢に閉じ込められたと書かれています。しかし、それ以前に、イエス様は民衆の一人として洗礼を受けておられます(「ヨハネから」とは書かれていませんが、前提でしょう)。そして、祈っておられると、聖霊が降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から来たのです。しかし、これはイエス様だけが聞いた言葉で、ヨハネも周りにいた人々も聞いたわけではないでしょう。
 つまり、ルカ福音書においては、ヨハネとイエス様は一対一の関係で対面したり、語り合ったりはしていないのです。マタイ福音書では、イエス様とヨハネが対話する場面があります。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきです」とヨハネは言ったのです。ヨハネ福音書では、イエス様のことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と弟子たちに証しする場面があります。しかし、ルカ福音書にはありません。ルカ福音書においては、ヨハネはイエス様と直接会っていないのですから、イエス様が誰であるか、どういうお方であるか、まだ分かってはいないのです。今日の箇所を読む時に、そのことを覚えておかねばならないと思います。

 問答

 イエス様の宣教の御業を弟子から知らされたヨハネは、恐らくまだイエス様と会ったことがない弟子の二人を選んで、イエス様の所に送りました。(ルカは、ここでもイエス様を敢えて「主」と記します。)そして、こう言わせるのです。

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

 彼らは一字一句変えることなく、イエス様に尋ねました。「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた」とあります。つまり、これまで同様の御業をなさっており、その姿をヨハネの弟子たちに見せたのです。その上で、こうおっしゃいました。

「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

 イザヤの預言

 イエス様の言葉の背景にあるのは、イザヤ書の預言です。そこには、神様が到来して、ご自身の裁きをなさる時、「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」とあります。あるいは、神が選び、その上に霊を注がれる僕が立てられると、その僕は傷つき倒れている人々に「息を与え、目を開き、捕われ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」とある。
 「貧しい人は福音を告げ知らされている」は、イザヤ書六一章の言葉です。そして、それはイエス様が宣教を開始された時、故郷ナザレの会堂で最初に読まれた言葉でもあります。

  「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである」。


 「主が油を注がれた」が、メシアという言葉の元来の意味です。主の聖なる御業を為すために選ばれた者を意味します。
 主イエスは、ヨハネの弟子に対して、メシアの業として貧しい者たちへの福音の説教と病や障害からの癒しを挙げておられます。そして、最後に、「わたしにつまずかない者は幸いである」とおっしゃる。それは一体、どういうことなのか?それが、今日の問題だと思います。

 ギャップ

 ヨハネは、自分の後に来る方は罪を裁くために来ると説教したことを言いました。罪を裁くことを通して、救いを貫徹するお方です。そういうメシアです。しかし、ヨハネの耳に入ってくるイエス様は、ヨハネが抱くメシア像とは何かが違うのです。貧しい者と富める者が逆転するとか、そういうヨハネに似た激しさが主イエスの説教の中にもあります。また、病人が癒されたり、死人が生き返ったりというのも激しいことであるに違いありません。
 しかし、そこにあることは、罪に対する裁きではなく、むしろ赦しです。圧倒的な裁き主としてのメシアではなく、罪人とされていた病人や障碍者を訪ね歩いて癒し、罪人とされている徴税人を弟子として招き、食卓を共にされるメシアです。イザヤ書にあるように、身体的、精神的、社会的に弱く、宗教的には汚れているとされている人々を、新たに立ち上がらせていく「主の僕」の姿がそこにはあります。その「主の僕」は、祝福がないとされていた人々に向かって、「あなたがたは幸いだ」と告げるのです。あなたがたこそ、祝福されるのだ、と。
 そして、「敵を愛し、憎む者に親切にせよ」「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と説教される。その「憐れみ」とは、ザカリアの預言にあるように「罪の赦しによる救い」を与えるためのものです。病や障碍の癒しもまた、単に肉体の回復をもたらしているのではなく、罪の赦しを与えているものなのです。そのように赦された者は、互いの罪を赦し合いなさい。それが主イエスのメッセージです。
 主イエスの宣教活動は、しばしば主張されるように、社会から疎外されている人々に社会復帰をさせているという次元のものではありません。まして、ローマ帝国やヘロデ家を打倒する革命運動などではない。また、見た目に分かる形で麦と殻を分ける最終審判者としての裁きでもない。当時の人々も、現代の私たちも、自分で勝手にメシア像を描いて、それと合致するメシアだけを受け入れようとします。しかし、それはまさに本末転倒なのです。私たちは、聖書に描かれているメシアを正しく知らねばなりません。そうでなければ、真の救いに与ることは出来ないからです。

 主の僕としてのメシア

 先ほど、イエスの言葉の背景にあるのはイザヤ書の言葉であると言いました。神に遣わされ、「神の訪れ」として裁きを行う「主の僕」のイメージがそこにはあります。しかし、主イエスの時代の人々にとって、イザヤ書の預言は大きな意味を持つものではありませんでした。彼らが待ち望んでいたメシアは、地上から到来するにせよ、天上から到来するにせよ、もっと強いメシアなのです。
 しかし、イザヤ書の預言が告げるメシア・救い主は「主の僕」であり、それは「苦難の僕」と呼ばれるようになります。その僕がどういう僕であったか。イザヤ書五三章を飛ばしながら読みます。

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
・・・・
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。


 当時、人々はこの僕を、罪のゆえに神に裁かれ、捨てられていると思っていたのです。しかし、彼が死に墓に葬られた後に、実は、彼が受けた苦しみと死は、自分たちの罪をその身に負ったが故のことであることを知るのです。少なくとも、そのことを知らされたごく少数の人々がいる。
 続きを読みます。

彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
・・・・
わたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
・・・・
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
・・・・
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
・・・・
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
・・・・
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。


 この五三章は「苦難の僕の歌」と呼ばれますが、強いメシアを待ち望む主イエスの時代のユダヤ人にはまったく重んじられていませんでした。しかし、主イエスは、神に立てられたこの僕の姿にご自分の使命を見出されたのだと思います。そして、弟子たちを初めとする初代のキリスト教会は、この「苦難の僕の歌」こそ、イエス様の十字架の死を預言したものだと信じたのです。それは、まさに「つまずき」を越えて信じたのです。

 つまずきの十字架

 主イエスは、「わたしにつまずかない者は幸いである」と、ヨハネの弟子たちにおっしゃいました。「つまずく」とはスキャンダルの元になった言葉が使われています。
 ルカ福音書の説教を始めて今日で四一回目の説教になります。これまでに何度、十字架の場面を読んだか分かりません。最初からそこを読むつもりで説教の準備を始めるわけではありません。ただ、どの箇所を読んでも、その箇所の奥深くにあるものは何であるかを掘り下げていけば、どうしてもイエス様の十字架の死に行き着きます。その十字架こそが、ルカ福音書が、いや聖書全体がその上に立っている土台の岩なのだと思います。十字架の死に行き着くとは、復活に行き着くということでもあります。そして、ルカ・使徒言行録の流れでは、聖霊降臨と弟子たちの世界伝道へと行き着き、そして今、キリスト者として生きている私たちに行き着くことなのです。そのようなものとして聖書全体を読まないと、表面だけをなぞることで終わりますし、好きな所だけを読んで勝手なメシア像を抱いて真実の救いに与りそこねることになるのです。
 主イエスが十字架に磔にされた時、ユダヤ人の議員たちは「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と嘲笑しました。兵士たちは「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言って侮辱しました。
 神に「選ばれた者」とか「ユダヤ人の王」という呼称は、メシアを意味する言葉です。先ほどから言っているように、メシア像には多様性があります。しかし、共通するのは、自分を救うことが出来る存在であるということです。十字架に磔にされて死ぬメシアなど、それこそスキャンダラスな存在です。神に選ばれ、神に立てられた王が、罪人として十字架に磔にされて死んでしまうなどということはあり得ません。多くの人々は、そんなメシアを信じはしません。「つまずく」のです。嘲りや侮辱は「つまずき」の徴です。それは現代においても同じことです。

 この方こそメシア

 しかし、イエス様は十字架に釘を打たれて磔にされながら、そのすべての人間のために祈ってくださいました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

 その後、隣の十字架の上で主イエスの祈りを聞き、自分の罪を告白して、赦しを乞い求める罪人に対して、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とお告げになりました。そして、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と祈って息を引き取られたのです。主イエスは、奇跡的な方法で十字架から降りてくることはなかったし、そのまま天に挙げられることもなかったのです。死んだのです。そして、その死体は墓に葬られることになるのです。
 しかし、ルカ福音書が告げていることは、「この人こそが神に選ばれ、神が立てた王、メシアなのだ」ということです。この方こそが、「多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負い。自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人」だからです。
 主イエスの癒しの業、死人の生き返り、貧しい者たちへの福音宣教、そのすべてはここに行き着くことなのだし、実はここから生まれてくることです。そのことが分かる。そして、それはすべて私のためであると分かる、いや信じるその時、私たちはこの方を神からのメシア、私たちの救い主と崇めざるを得ません。そして、その信仰の故に救われるのです。神様との新しい命の交わり、愛の交わりの中に生かされるようになるからです。

 ヨハネの迷い?

 そのことと関連して、先週の説教のある部分に修正と付加をしたいと思います。
 先週私は、主イエスに対するヨハネの問いをこう言い換えました。

 「いと高き神の許から、死の陰に座している者たちを訪ねられる方、罪の赦しを与えるために憐れみの心に燃えて来られる方、それはあなたですか?」

 ヨハネは、このように問うているのだと解釈しました。それは、ザカリアの預言に沿った解釈です。一つの筋は、たしかにこれでよいと思います。
 そして、そのヨハネの問いに対して、主イエスは、「そうだ。わたしだ」と答えたのだと解釈したのです。これも一面の真理ではあります。
 しかし、これだけではない、と思うようになりました。ヨハネは、「来るべき方」を父ザカリアの預言通りの方として考えていたのだろうか?と思います。彼の説教の言葉とザカリアの預言の言葉との間には、微妙なズレがあると思います。そして、彼に伝わってくるイエス様の言葉と業から想像するメシアの姿と、ヨハネが抱くメシア像の間にも微妙なズレがあると思うのです。そこでヨハネは一抹の不安を覚えたのではないか。「神からのメシア」とは、本当はどういうお方なのか。そのことをちゃんと知らねばならないと思ったのではないか。死が近づいている今、そのことを知りたい、と。
 この点は、学者や説教者で見解が分かれます。ある人は、ヨハネの確信は揺らいでいないと言います。先週の私は、どちらかと言えば、そちらの立場でした。しかし、今日の私は、ヨハネは揺れていたと思います。巷で大評判になっているイエスという人物は、父ザカリアから聞かされ続けた罪の赦しを与えるメシアなのか、それとも自分が「神の言葉」を受けて語った裁き主としてのメシアなのか。それとも、ザカリアや自分が語る以上の何者なのか?そのことが分からない。そういう迷いがあったように思うのです。

 私たちとヨハネ

 先ほども言いましたように、マタイとヨハネとルカ福音書の伝えるヨハネ像は一致していません。洗礼者ヨハネをどう位置づけるかは難しい問題です。
 しかし、そういう問題とは別に、ヨハネは現代を生きる私たちキリスト者に近い存在のように思えてきました。彼は直接イエス様に会ったことはありません。その言葉を直接聞いたこともなく、その業を自分の目で見たこともなく、その手でイエス様に触れたことも、イエス様の手で触れられたこともない。すべては伝聞で知っているだけです。私たちもそうです。だからこそ、イエス様と出会い、「わたしがあなたの救い主だ」と直接言って貰いたいと願うのです。
 「キリスト教の人って、霊能者みたいにキリストが見えたり、キリストの言葉が聞こえたりするのですか?」と聞かれることがあります。そういう時、「いや、そんなことはありませんよ」と答えると、「そうなんですか」と怪訝な顔でがっかりされたり、「やっぱりそうなんですよね」と妙に安心されたりして困る場合があります。いずれの反応を見ても、ちゃんと伝わっていないなと思うのです。信仰の世界は、言葉による正解はないので、算数の正解を伝えるような訳にはいきません。しかし、私たちは誰にでも分かる正解を求めているものです。
 先週私は、イエス様は、ヨハネの弟子に向かって、「そうだ。わたしだ」と答えたのだと解釈をしました。ある意味で、それは今も正しいとは思います。しかし、イエス様は誰もが同じように理解し納得する形でお答えになったわけではなく、そのこと自体が大切なことなのではないかと思うようになりました。
 イエス様は、具体的な行為をヨハネの弟子たちに見せ、そしてその行為を言葉で告げ、「わたしにつまずかない者は幸いである」とおっしゃいました。それは、「わたしのしていることをあなたがどう見るか、そこに掛かっているのだ。答えは、あなた自身が見つけるものだ」という意味なのではないかと、今は思います。

 「正しい人」

 主イエスの十字架上の言葉を聞き、その死を見て、議員たち、兵士たち、群衆たち、イエスに従ってきた婦人たちは、それぞれの思いを持って帰っていったでしょう。しかし、その中で、イエス様を十字架に磔にした異邦人である百人隊長だけが、「この出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」とあります。通常なら、「正しい人」は十字架に磔にされることはありません。しかし、「正しい人」だから、イエス様は十字架に磔にされたのです。そこで何が言われているのかと言えば、「多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負い。自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」ということです。
 百人隊長は、この「正しい人」の十字架の死の姿に「神の訪れ」を見たのだし、「罪の赦しによる救い」の御業を見たのです。そして、神を賛美したのです。十字架の主イエスを見て、そこに「罪の赦しによる救い」を与える「神からのメシア」の姿を見出す人はまれです。目に見える姿は同じ、耳に聞こえる言葉は同じ。でも、そこに何を見、何を聞き取るかは、人によって全く違う。同じ聖書を読んでも、同じ説教を聞いても、違うものを見たり聞いたりしているのだし、何も見ず、何も聞こえていない人もいるのです。目が塞がれ、耳が塞がれているからです。また、そういう時は、誰にでもあるのです。

 来るべき方

 十字架に磔にされた方が「来るべき方」、メシア、救い主であることは誰にとっても正解ではないし、そういう正解を言葉によって与えることが神様の御心でもない。その正解は、聖霊の導きの中でメシア(キリスト)の真実の姿を示され、信じる者にとっての正解であり、救いなのです。
 パウロはコリントの信徒にむけてこう言っていたでしょう。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Tコリント一章一八節〜二五節抜粋)

 私たちは、聖霊の導きの中で、聖書に記されているイエス様こそ罪の赦しを与えてくださるメシア、キリストであると信じる者とされました。聖霊によって「つまずき」を取り除かれたのです。主イエスは、そういう者たちを「幸いである」と言ってくださっているのです。その「幸い」を感謝し、今日も聖霊の注ぎの中で、主イエス・キリストと父なる神様を賛美し、この世における一週間の歩みを始めたいと思います。

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