「神の国の福音」

及川 信

       ルカによる福音書  8章 1節〜 3節
8:1 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。 8:2 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、 8:3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

 わたしの母、わたしの兄弟たち

 三月の聖句として正面玄関に掲げている聖句は、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」という主イエスの言葉です。歩きながら、あるいは立ち止まって聖句を見上げる方がいます。そういう方たちにとって、この主イエスの言葉はどのように響くのかなと思います。
 この言葉は、ルカ福音書八章二一節の言葉です。イエス様の母と兄弟たちがイエス様に会うためにやって来た。しかし、家の中は人でごった返しており、母や兄弟は近づくことさえできませんでした。そこで、人に頼んだ。その人は、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」とイエス様に告げました。その時のイエス様の答え、それが、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」なのです。教会の前を歩きながらこの言葉を読んだ人がそのことを知ったら、この教会の門を叩くことはないだろうと思わないわけでもありません。

 実は招き

 このイエス様の言葉ほど冷淡な拒絶の言葉はないとも言えます。お腹を痛めて産んだ息子にこんなことを言われたら、その母は一体どれほど嘆くだろうかと思います。兄弟たちにしてもそれは同じでしょう。
 しかし、イエス様はこの言葉を、家の外にいる家族を拒絶するために言ったのではないと思います。むしろ、逆です。家の外に立つ肉親の家族たちに、神の家族になってほしい、神の家族の一員としてこの家の中に入ってきて欲しい。そういう熱い思いがこもった招きなのだと、私は思います。しかし、その「神の家族」になるためには、それまでの肉の家族としての関係を根本的な所では切らねばならないのです。そうすることによって、さらに深い関係、主イエスの愛で愛し合う交わりが生れてくるのです。

 神の家族

 キリスト者になるとは神の子になることです。私たちは子として神様を「アッバ、父よ」と呼ぶ「兄弟姉妹」です。中渋谷教会では、互いに「兄弟姉妹」と呼ぶことは多くありません。しかし、言葉として使おうが使うまいが、私たちが兄弟姉妹であることは事実です。教会の交わりの中では、夫婦とか親子もまた主にある兄弟姉妹です。また、他人とも主にあって兄弟姉妹となる。そういう全く新しい関係性の中に入るためには、それまでの古い関係性を捨てざるを得ません。しかし、それは私たちにとってそれほど簡単なことではありません。そして、主にある兄弟姉妹となった者同士が、互いに主の愛で愛し合うこともそんなに簡単なことでないことを、私たちは知っているはずです。
 今日の箇所は、前回の罪深い女の話の余韻の中で、「神の国」とは何であるかを語る箇所です。そして、「神の国」とは別の言い方をすると「神の家族」です。だから、今日の箇所と一九節以下の神の家族に関する話は、一つの単元を構成する枠のような構造になっていると思います。

 神の国

 そのことを踏まえた上で、これまでどのような箇所で「神の国」という言葉が出てきたかを振り返っておきたいと思います。
 最初に出るのは、四章四三節です。そこでイエス様はご自身を引きとめようとする人々に対して、こうおっしゃいました。

「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」。そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

 今日の箇所でも同じことが言われています。神の国の福音を告げ知らせ、宣教する(宣べ伝える)。そのために神様から遣わされたイエス様は、町々村々を隈なく歩き回るのです。そして、この後には十二人の弟子たちを派遣し、七十二人の弟子たちを派遣されます。可能な限り多くの人々に、神の国が到来したことを宣べ伝えようとされるのです。イエス様の生涯はまさに伝道の生涯なのです。
 そして、ルカ福音書の最後では、復活の主イエスが弟子たちにこう言われます。

「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。
「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。


 「神の国」とは、十字架と復活のメシアによって与えられる罪の赦しのことです。罪の赦しを通して私たちは神の子となり、兄弟姉妹となり、その愛の交わりに生かされるのです。そこに神の国がある。誰もが悔い改めることを通して、その国の中に生かされることが福音であり、救いです。
 復活されたイエス様は、イスラエルの町々村々を越えて、「あらゆる国の人々」にその救いを与えるための伝道を継続されるのです。そのために、あの「十二人」に高い所からの力、聖霊が与えられるのです。その聖霊を注がれた弟子たちは、福音の使徒として、あらゆる国の人々に宣べ伝えるための旅を続けます。その働きが、ルカ福音書の続きである使徒言行録に記されているのです。そして、今、私たちがここで礼拝を捧げていることは、今も主イエスがこの国の人々に神の国を宣べ伝えているということなのです。

 イエス様と一緒にいる者たち

 しかし、その伝道は「十二人」だけがするのではありません。主によって神の家族にされたすべての人がするのです。その最初が、今日の箇所に記されていることだと思います。
 ここには、町や村を巡って神の国の福音を宣べ伝えるイエス様と「十二人も一緒だった」と記されています。しかし、その直後にマグダラのマリア、ヨハナ、スサンナ、「そのほか多くの婦人たちも一緒であった」とあるのです。
 私たちは現代に生きていますし、それも現代の教会に生きていますから、こういう記述にさほど違和感を感じずに読んでしまうかもしれません。しかし、少し前までは、男女の席が決まっていることはよくありました。私の前任地である松本の教会も、私が赴任した当初(二十五年前)は礼拝堂の右側に男性が座り、左側に女性が座っていました。昔の中渋谷教会もそうだったという話を聞いたことがあります。それは教会の信仰に基づく決まりではなく、かつての日本の儒教的な教育の影響でしょう。今は、男女が渾然一体となっています。この方がキリストの教会らしいことは言うまでもありません。
 しかし、イエス様の時代のユダヤ人社会においては、成人男子と女や子どもとでは画然とした違いがありました。神殿の造りも、成人男子の庭には女や子どもは入れませんでした。その点では、女は子どもと同じ扱いなのです。律法学者、民の長老、祭司長という社会の上層にいる人々は皆男です。そして、ラビと呼ばれる律法学者の弟子たちも皆男です。女はいません。
 そういう男中心のユダヤ人社会、あるいは「この世」の中に、イエス様は「神の国が到来した」ことを告げるのです。それは、非常に過激というか、激烈なことです。まさに古い革袋の中に、これからどんどん発酵する新しいぶどう酒が注ぎ込まれてくるようなことだからです。もし、そのぶどう酒を入れ続けていたら、古い革袋としての社会体制は内側から破壊されていきます。権力を持った男たちが、そんなことを許すはずもありません。拒絶するのは当然のことです。
 主イエスは、この後、これ以上ない激しさで拒絶されます。しかし、そのことをご承知の上で、イエス様は町々村々を経巡り歩き、神の国の福音を宣べ伝えられるのです。

 神の国の逆転 一

 かつて人口の八割が自分は中流階級だと思っていた日本も、今や勝ち組、負け組みと言われるような格差社会になっています。かつては見えなかった階層がはっきり見えてきています。そして、富に恵まれた人は笑い、そうでない人は泣く。そういう現実があります。あからさまな身分制度があるわけではないにしても、社会の中で上に立つ者と下に立つ者はいます。
 当時のユダヤ人社会のような宗教的社会においては、上に立つ者とは神に近いものであり、下に立つ者は神から遠い、あるいは見捨てられた人となります。神に祝福された人々は健康や富に恵まれ、見捨てられた人々は病気や貧しさに見舞われるということにもなる。
 しかし、そういう社会の中で、イエス様はこう言われるのです。

「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたが笑うようになる」。


 「この世」においては、富を持っている人々が幸いなのです。そこには神様の祝福があるからです。罪人はその祝福がないから飢えるようなことになるのであり、泣く羽目になるのだ。それがこの世の人々の論理です。しかし、イエス様はその論理と真っ向から対立し、対決されるのです。

 神の国の逆転 二

 洗礼者ヨハネ、彼が偉大な人物であることは当時の多くの人々が認めていました。しかし、イエス様はこうおっしゃいます。

「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。

 ここでも、常識では決して分からない神の国の現実が語られています。社会の常識の枠内に留まろうとする限りは、この神の国を受け入れることはできません。イエス様がおっしゃる神の国を受け入れるとは、それまで自分が生きていた社会、またその常識の外に出るしかないのです。それが新しい革袋になることであり、古き自分に死んで新しい自分に生まれ変わるということです。洗礼を受けるとはそういうこと。教会に生きるとはそういうことなのです。より良い常識人になることではありません。常識は弁えているけれど、神の国をもたらしてくださった主イエスへの信仰に生きることなのです。
 だから、主イエスが宣べ伝え、もたらしておられる神の国を受け入れる人はまれなのです。そのことを、主イエスは「笛吹けど踊らず」と言って嘆かれました。多くの人々、特に世の上層階級を生きている人々は、洗礼者ヨハネが禁欲すれば「あれは悪霊に取りつかれている」と敬遠し、イエス様が罪人と食事をすれば「あれは大酒飲みだ」と軽蔑したのです。
 その後、ある町の中で娼婦を生業としていた「罪深い女」が、泣きながら罪の赦しを乞い求め、イエス様を愛しました。イエス様は、その女に向かって「あなたの罪は赦された」とおっしゃった。しかし、その場にいた男たちは、そのことにたいして嫌悪感を抱いたのです。

 十二人と婦人たち

 「神の国」の福音を告げる今日の箇所は、罪深い女の罪が赦された出来事の続きです。そして、それは「神の家族」とは何であるかを告げる一九節以下と枠を為しているのです。ここで強調されていることは、イエス様と「一緒に」いたのはあの「十二人」だけではなく多くの「婦人たち」もいたということです。このことが当時の社会の中でどれほど常識外れのことであるかは、既に語ってきたことからお分かりいただけると思います。婦人たちがいる。彼女らはそれぞれの持ち物を提供しあって、主イエスと弟子たちの一行に奉仕をしていました。この現実の中に既に、神の国とは何であるかが明らかにされているのです。

 二人の女性

 婦人たちの中でどういう人物であるかが分かるのは二人です。一人は、イエス様によって「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」であり、もう一人は、「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」です。スサンナはここにしか出てきませんし、どういう女性かは分かりません。マグダラのマリアとヨハナ、この二人はイエス様と一緒にいる女性たちの代表でしょう。しかし、その二人はこの世ではとても一緒にいるような人たちではありません。ただ、主イエスにおいてのみ一緒におり、共に奉仕を捧げることが出来る女性たちなのです。

 マグダラのマリア

 マリアは、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」女性たちの代表です。彼女は、七つの悪霊に取りつかれていたのです。「七」は完全数ですから、手の施しようがないほど心身の障碍、あるいは病魔に襲われていたのだと思います。「悪霊」とは神様に敵対する力です。だから、マリアはその力に完全に支配されている罪深い女、ということにもなります。祭司だとか律法学者たちは、尚更彼女をそういう罪人として見たはずです。そして、救いようがないと見たのです。自分には罪がないと思う人間は、他人のことを救いようがないと見るものです。
 けれども、七つの悪霊に取りつかれたマグダラのマリアは、自分には罪がないなどとは到底思えません。罪があるが故にこのような形で裁かれている。そう思わざるを得なかったでしょうし、人々の侮蔑と嫌悪の視線にさらされつつ耐え難い悲しみを抱いていたでしょう。あの罪深い女が、外につまみ出されるのも覚悟の上で、イエス様に近づいてその足に接吻したように、マリアもまた必死の思いで主イエスに近づき、救いを求めたでしょう。そのマリアの信仰を主イエスは受け入れて下さったのです。そして、彼女をご自身との交わりの中に入れ、主イエスと共に歩む教会の交わりの中に招き入れてくださったのです。マリアは、そのことにどれほど大きな感謝と喜びを感じたでしょうか。彼女は、その時以後、まさに主イエスに献身をしたのです。

 どのように愛すればよいのか

 後に、マグダラのマリアは直前に出てきた罪深い女、つまり町の娼婦と同一人物だとする伝説が生まれてきました。そして、娼婦から聖女へと生まれ変わった女として、マグダラのマリアは宗教画家が好んで描く女性となったのです。
 今から四十年も前に、『ジーザス・クライスト・スーパースター』というロックミュージカルが作られ、世界中で大ヒットしました。今も舞台で演じられています。そのミュージカルの中でも、マグダラのマリアは元娼婦として描かれています。そして、弟子のユダが、マリアの愛と信仰を受け入れるイエス様をなじるのです。「その女がどんな女か知った上で、彼女の愛を受け入れるのか?!汚らわしい」と。しかし、イエス様は断固として彼女をかばい、弟子の一人として接します。その主イエスの愛に心打たれるマリアが歌う歌は、私にとっては若い頃から忘れることができない歌の一つです。
 I don't know how to love him.「この方をどのように愛したらよいのか分からない」という歌です。「男は嫌と言うほど見てきた。しかし、こんな人とは会ったことがない。こんな愛で愛されたことはない。この方のような愛で愛されることは、最早それまでの自分ではいられなくなること。それが怖い。でも、この方の愛を受け入れないで生きていくことは最早出来ない。でも、この方をどの様に愛したらよいのか、私には分からない。でも、愛していきたい。自分のすべてを捧げて、この方を愛していきたい」。そういう心をマリアが歌うのです。
 この演劇はすぐに映画化されて、日本でも上映されました。私は、イエス様を信じてよいのかどうか迷っていた高校生の時に何度か観ました。そして、この歌には心かき乱されました。今はまたその頃とは違う意味で、やはり心が揺さぶられます。
 主イエスの愛に打たれる。愛には愛で返したい。でも、主イエスの愛にどうやって応えたらよいのか、それは分かりません。そんなことが出来るとも思えない。ただ、私は私として、主イエス・キリストというお方がかつており、今も生きておられること。今でも私たちを愛し、神の国の福音を宣べ伝えて下さり、神の国に招いてくださっていることを礼拝で語り続け、またどこでも、時が良くても悪くても語り続けることなのかもしれないと思います。そんなことで済む話ではないとも思いますが、そんなことでもちゃんとやるのは私には大変なことです。皆さんも、それぞれに主イエスの愛に応答するあり方があるはずです。

 ヨハナ

 このマリアに対して、ヨハナは、全く対極にある女性だと思います。彼女はガリラヤの領主ヘロデの家令の妻です。高級官僚の妻です。そして、夫クザが仕えているヘロデとは、自分の罪を容赦なく暴く洗礼者ヨハネを牢獄に閉じ込めている男です。イエス様は、そのヨハネの後を継ぐ形で登場した人物です。だから、ヘロデは後にイエス様を処刑することに加担することになる男です。
 そのヘロデに仕える夫を持つのがヨハナです。マリアとは似ても似つかないというか、生涯顔を合わせるはずもない女性です。しかし、彼女は、ガリラヤ地方一帯に噂が広まっていたイエス様に興味を持ち、その説教を聞き、その業を見たりしたのでしょう。そして、イエス様の愛の力に心打たれて、回心してしまったのでしょう。それだけでなく、ヘロデに仕える夫を残して家を出てしまったのではないでしょうか。彼女はイエス様と一緒におり、自分の持ち物を出して、イエス様と弟子たちの伝道旅行を支えていたのですから。
 イエス様や十二弟子たちの伝道の旅は、旅館から旅館を泊まり歩くものではありません。イエス様は、「狐には穴があり、鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない」と言われたことがあります。時には野宿をしながら、神の国の福音を宣べ伝えるのです。一緒にいる女たちも、寒さ、暗さ、ひもじさに耐えつつ奉仕を捧げるのです。上流階級のヨハナが、埃にまみれ、昼は太陽の光に照らされ、夜は夜露に濡れながら、庶民階級、それも罪人とされていた女性たちと共に主イエスの一行に奉仕を捧げているのです。それは、常識では考えられないことです。

 奉仕

 「奉仕する」とは、食事の給仕という意味でしばしば使われる言葉です。しかし、次第にそれは教会の中で重要な役割を果たす「執事」を意味する言葉にもなっていきました。教会の活動にとってなくてならぬ働きの一つです。
 たとえば、今日の午後は年に一回の「計画(予算)総会」を開催します。しかし、その前に食事をします。普段は女性たちが、そして年に数回は男性たちが食事当番をしてくださいます。しかし、総会の時は、後片付けをする方が議事に参加できないと困るので、おにぎりとかサンドイッチを手配します。その手配を誰がしているかはほとんどの人が知りませんし、それはそれでよいのです。しかし、総会の前に昼食を食べなければ穏やかな気持ちで総会を開くことは出来ません。特に私は空腹になると普段以上に短気になるからです。そういう方は他にもいるだろうと思います。
 少し別の意味ですが、来るイースターの祝会にしろ、クリスマスの祝会にしろ、様々な手配、準備をして下さる方たちがいなければ和やかに楽しい祝会を持つことは出来ません。また、毎週、掃除に来てくださる方たちもいます。そういう数々の奉仕のお陰で、教会は清潔が保たれ、円滑に行事をこなしていくことができるのです。そして、その奉仕を捧げてくださる方たちの顔はいつも嬉しそうです。そこには、主イエスに愛されている喜びがあり、主イエスを愛し、兄弟姉妹を愛する喜びがあるからでしょう。

 主にあって一つ

 主イエスと一緒にいた婦人たちは、立場も身分もそれまでの生きてきた境遇も何もかも違います。しかし、誰も彼もが、主イエスの愛に心を打たれ、何とかしてその愛に応えたい、主イエスを愛し、互いに愛し合って生きたいと思っている。その一点において同じなのです。そして、その一点が神の国の中核です。私たちは、その一点において神の家族とされているのです。
 先週今週と受洗や転入によって四人の女性たちが教会の一員になりました。全く異なる経緯を経てこの教会に導かれてきた方たちです。しかし、今は、神の国の中に生き、神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら旅を続けるこの教会の一員です。そのことを心から感謝したいと思います。

 最後まで仕える

 ルカ福音書は、この後、主イエスの種蒔きの譬話を記します。そのテーマは、神の言葉を聞いて行うこと、それも行い続けることです。聞いても行わない、あるいは暫くは行っても止めてしまうなら、それは空しい。しかし、聞き続け、行い続ける、信じ続ける、愛し続けるなら百倍もの実を結ぶ、と主イエスはおっしゃいます。
 マグダラのマリアとヨハナ、またガリラヤの婦人たち、彼女たちはそういう百倍の実を結ぶ人たちでした。なぜそれが分かるかと言うと、彼女らはこの後もずっとイエス様と一緒におり、奉仕を続けたことが明らかだからです。
 ルカ福音書はそのことをとても丁寧に書いています。彼は、イエス様の十字架の場面、また埋葬の場面、そして復活の場面のそれぞれに「ガリラヤから従ってきた婦人たち」がいたことをはっきり記します。
 復活の場面だけを読みます。安息日が明けた日曜日の朝、最後の奉仕として、イエス様のご遺体に香料を塗ろうと墓に行ったのは十二弟子ではなく彼女たちです。
 そこで彼女たちは、天使にこう告げられました。
「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
 この天使の言葉を男の弟子たちに告げたのは、「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた婦人たちであった」と書かれています。そして、男の弟子たちは女たちが告げた言葉を「たわ言のように思った」とあります。
 ガリラヤからエルサレムまでの厳しい伝道の旅路を、食事の準備を初めとする様々な奉仕によって支え続けたこの女性たちが、十字架の目撃者であり、埋葬の目撃者であり、そしてイエス様が復活されたことの最初の証言者になるのです。彼女らの証言こそが、十字架、埋葬、復活の出来事がすべての福音書に記されることの元になっているのです。
 女、子どもを一人前の人間として扱わない社会の中で、主イエスは「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とおっしゃり、罪の赦しを求める女性を一人また一人と弟子に迎え入れていかれました。そして、主イエスの愛に心打たれ、主イエスを愛し、喜びをもって奉仕を捧げ続けた女性たちが、神の国の土台である十字架の死と埋葬と復活の証人となっていくのです。そこにも、主イエスがもたらした神の国の姿が現れています。私たちは、その神の国の原型としての教会に迎え入れられた神の子であり、神の家族です。昼食後にもたれる総会にも、その恵みに対する感謝と賛美をもって臨みたいと思います。
説教目次へ
礼拝案内へ