「どう聞くべきか」

及川 信

       ルカによる福音書 8章16節〜18節
8:16 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。8:18 だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」

 書かれている言葉をすら聞き取る

 先週、たまたま読んだイザヤ書の言葉に深く心を揺さぶられましたので、その言葉を読むところから始めさせていただきます。

「その日には、耳の聞こえない者が
書物に書かれている言葉をすら聞き取り
盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。
苦しんでいた人々は
再び主にあって喜び祝い
貧しい人々は
イスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る」。
(イザヤ書二九章一八節)

 私たちは聖書という書物から神の言葉を聞きたいと思って読みます。もちろん、その場合は目で読むのです。「書物に書かれている言葉」とは目で読む言葉、文字です。しかし、「その日」には、文字に記された言葉を耳で聞くことができるようになる。また、それまで見えなかった目が見えるようになる、とイザヤは語ります。何が聞こえ、何が見えるのか。それは「主の言葉」が聞こえ、「主の姿」が見えるのです。その時、苦しんでいた者は「主にあって喜び祝い」、貧しい人々は「喜び踊る」ようになる、とイザヤは語ります。主の言葉として。
 ここに出てくる「その日」をどう理解するかは問題です。「世の終わりの日」とも言えるし、「歴史的なある時点」とも言えるでしょう。しかし、聖霊を求める祈りの中で聖書を読み続けている「ある日のある時」、一瞬であっても、主がお語りになっている声が聞こえ、また主の御姿が見える。ここに主がおられること、臨在しておられ、私に、また教会に語りかけていることが分かる。そういう「時」と受け止めてもよいし、そのようにこの言葉を聞くべきだとも思います。そして、「その時」ほど大きな喜びを与えられる時はありません。
 私たちは毎週、この礼拝において「その日」「その時」を期待して集まってきているのではないでしょうか。そして、主なる神様や主イエスも、「その日」「その時」に起こるべきこと、つまり私たちが主の言葉を「聞き」、主の臨在を「見て」「喜び祝い」「喜び踊る」ことを期待しておられるのです。つまり、神様の霊と言葉によって、私たちが喜びに満たされる礼拝を、神様の方がむしろ強く願っておられると思います。

 文脈の中で

 今日の箇所は、種蒔く人の譬話の続きです。学者たちは、別々の機会に語られたイエス様の言葉が集められてこの文脈の中に置かれたと言いますし、私もそう思います。この三つの言葉がそれぞれ何を語っているのかも問題だし、それが合わさっていることの意味も問題です。しかし、更に問題なのは、その三つの言葉がこの箇所に置かれていることです。そのことで新たに獲得される意味があるはずです。
 八章の冒頭に主イエスと一緒におり、弟子たちの一行に奉仕をしている女性たちがいました。彼女たちは、主イエスの肉の家族ではなく、主イエスを中心とした神の家族とされているのです。そういう意味で、一節に始まる単元は二一節まで続きます。その単元のテーマは、「神の国」であり「神の言葉」です。そして、「神の言葉」をどう聞くか。そして、聞いた言葉をどう行うか。それが「神の国」に生きることが出来るか否かに関わる重大事であると、主イエスはお語りになっているのだと思います。主イエスの家族とは、「神の言葉を聞いて行う人たちのこと」だからです。

 一つの格言

 主イエスは、こう言われます。

「ともし火を灯して、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入ってくる人に光が見えるように、燭台の上に置く」。

   これは、何であれその目的に適った使い方をしなければならないという格言のようなものだと思います。たとえば、「洗面器を茶碗のように使う人は、愚かだ」ということです。そのことをこの文脈に当てはめるならば、せっかく蒔かれた神の言葉を、神の言葉として聞かない者は愚かだということになるのではないでしょうか。
 すべての人に同じ言葉が語られているのです。今も、百人以上の人が同じ説教を聞いており、同じ聖書を読んでいます。しかし、その言葉をどのような言葉として読み、あるいは聞くかは千差万別でしょう。そして、その聞き方の違いはいずれ大きな違いになって現れてくるものです。

 新たに生まれる

 今日はパウロの手紙の言葉をいくつも引用しますが、テサロニケの信徒に向けて書いた手紙一の中にこういう言葉があります。

「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。(二章一三節)

 イエス様も地上に肉体をもって生きておられた時は、一人の人間、ナザレのイエスとしてお語りになっていたのです。ある人々は、そこに「神の言葉」があると信じましたが、他の人々はあくまでも「人の言葉」として聞いていました。そして、それは今も同じです。キリスト教会の中にも、あくまでもイエスは一人の人間であり、人間として神の御心に従ったのだと主張する人々がいます。しかし、それは一面だけを見て、「それがすべてだ」と言う愚挙です。聖書は、イエス様は人でありつつ、独り子なる神であると告白しているのですから。聖書はちゃんと読み、ちゃんと伝えなければなりません。
 イエス様でさえそうなのですから、自他共に人間と認めるパウロの言葉はどこからどう見ても人間の言葉です。その時代や、男性であることや、ユダヤ人であることなどに制約された「人間の言葉」です。
 しかし、先週のイースター礼拝において語ったように、パウロは彼の思想を語っているのではありません。彼の「心の一隅」において出会ってしまった神様、十字架と復活の主イエス・キリストのことを語っているのです。彼はケファ(ペトロ)たちと同じく、復活の主イエスの愛に打ちのめされ、罪に死に、恵みによって新たにキリスト者として生まれた人です。彼らは等しく聖霊を受けたのです。その時パウロは、キリスト教の迫害者から、イエス・キリストを宣べ伝える伝道者に造り替えられていきました。迫害する者から迫害される側になったのです。それは当然です。彼は裏切り者なのですから。その衝撃、そこにある痛みと喜びは計り知れないほど強いものです。

 聖霊を受けて読むと

 彼らにとって「神の言葉」が書かれている「聖書」とは、私たちが「旧約聖書」と呼ぶものです。彼らは、いつも新たに聖霊を求め、そして聖霊を注がれながら旧約聖書を読んだのです。その時、それまで幾ら読んでも見えず、聞こえてこなかったことが、見えたり聞こえたりしてきた。それが、先週のイースター礼拝でお読みしたコリントの信徒への手紙一の一五章です。彼はこう言います。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。キリストは、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」。

 このパウロの言葉を、「神の言葉」、神の語りかけ、今この礼拝における語りかけとして聞けるとするならば、それはその人の目が開かれ、耳が開かれたからです。それは聖霊の導きとしか言いようがありません。聖霊なる神様が私たちの心に働きかけて、心の目を開き、耳を開いて、それまで見えず聞こえなかった神の言葉を啓示してくださるのです。そして、その言葉は信じる者たちの中で生きて働き、豊かな実を結んでいくのです。
 パウロは、テサロニケの信徒たちが信仰を守り、御言葉に生かされている様を知って、心から神様に感謝し、喜びに満たされて手紙を書いているのです。その時、神様もまた喜びに満たされているでしょう。「神の言葉」が、その本来の目的に適って聞かれているからです。それは神様にとって大きな喜びです。

 御言葉が生きて働く

 少し前に、若い牧師さんの説教を読みました。その中で、ご自分の少年時代の思い出が語られていました。その方のご両親は熱心なキリスト者で、毎週車で数十分かけて礼拝に通われたそうです。そして、帰りの車中では決まって礼拝説教の感想を嬉しそうに話し合っていたというのです。少年は、両親の話を通して牧師が語る説教の内容を知り、人が語る言葉を通して神の語りかけを聞けることや、聖書の文字を通して神の言葉を聞けることが、どれほど大きな喜びであるかを知らされていったのです。神の言葉を聞ける喜びは溢れ出てくるものであり、人と分かち合わざるを得ない喜びなのです。そのことを少年時代に知らされたその人は、社会人になって以後、神の召しを受けて牧師となり毎週説教をすることになりました。
 つけられたともし火を燭台の上に置き、部屋に入ってきた人に光が見えるようにするとは、こういうことなのではないかと私は思います。

 隠れているもの

「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」。

 これも元々は、隠したい悪事もいつかは露見してしまうという意味の格言でしょう。しかし、その言葉をイエス様がおっしゃる時、そしてこの文脈の中に置かれる時、どういう意味が生じてくるのでしょうか。
 聖書に記されている文字は、人が書いた文字です。また、私が語っている説教も、人が語っている言葉です。私が聖書に記されている言葉を読み、色々調べたり考えたりして思うところを語っているのです。しかし、聖書は聖霊の導きの中で書かれたのですし、聖書を説き明かす説教が聖霊の導きの中に与えられ、語られるとすれば、それは「神の言葉」であり「種」なのです。
 種は地に蒔かれると人に踏みつけられたり、鳥が食べてしまったり、地中にもぐって芽を出したりします。しかし、芽を出しても水が不足して枯れてしまうこともあり、茨に塞がれてしまうこともあります。でも、よい地に蒔かれたのなら、百倍の実を結ぶのです。前回言いましたように、道も石地も茨が生える地も良い地も、種を蒔くその時、表面はどこも同じ土であり、違いが見えるわけではないのです。
 土地の違いは種が蒔かれた後に次第に明らかになっていくのです。種が蒔かれた人間がどういう人間であるか、あるいはどの様にその種を受け入れたかは、後になって分かってくる。「隠れていたものがあらわになってくる」とは、そういうことでしょう。
 この礼拝の後に、私たちがそれぞれどういう人間であるか。今日の言葉で言えば、どのように聖書の言葉を読み、その説き明かしである説教を聞いたが明らかになってくるのです。今は私を含めて、皆同じように神の言葉を聞いていますから、なんら違いは見えませんが、今は見えない隠れたことがいずれ見えてくる。それはたしかなことでしょう。

 秘められたもの

 しかし、それだけなのか?と言うと、それだけではないと思います。
 「隠れているもの」とは、聖書の中でもどちらかと言うと恥ずべきことに関して使われています。しかし、「秘められたもの」は必ずしもそうではありません。コロサイの信徒への手紙の中で、パウロは、こう言っています。

「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められていた計画が・・明らかにされた」。「その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」。

 この秘められた計画としてのキリストとは、私たちの罪のために十字架で死に、三日目に復活して今も聖霊において生きておられ、私たちを新たに生かしてくださるキリストです。そして、世の終わりに復活の栄光を与えてくださる希望のキリストです。聖書は、このキリストを証ししているのです。私たちが属する日本基督教団の信仰告白(週報の裏面)こういう言葉で始まります。

「我らは信じかつ告白す。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。」


 私たちは、この「告白」にアーメンと言う者たちです。かつて、聖書を読んでも何も分からなかったのに、今は、聖書はキリストを証しする神の言葉であることが分かるようになったのです。聖霊を求めつつ読めば、また聖霊を求めつつ説教を聞けば、そこにはキリストの愛、キリストの救いが語られていることが分かり、喜びが溢れてくるのです。

 聖霊の業

 前回、神の言葉である種と、その種を蒔かれた地、つまり人は区別がつかないと言いました。種はその人の中で生きもし死にもするからです。ケファ(ペトロ)に蒔かれ、パウロに蒔かれた種は、彼ら自身の中で大きく成長し、そして彼らを通して多くの人々にキリストを伝え、悟らせていきました。聖霊の注ぎの中で語られ、また聞かれるキリスト証言は、聖霊の導きの中で生きて働き、見える者には見え、聞こえる者には聞こえる神様の「秘められた救いのご計画」を明らかにしていくのです。だからこそ、私たちは聖霊の注ぎを祈ることによって聖書を読むし、説教を語るし、説教を聞くのです。

 どのように聞くか

 私が学生時代に通っていた京都の北白川教会は、月に一回程度、長老や会員が説教していました。北白川教会の精神的な母体である中渋谷教会もかつては長老たちがしばしば説教していました。いつ何時、説教を頼まれるか分からないのですから、長老たちは毎週必死で説教を聞いていたでしょう。自分も語らねばならないと思う人は、暢気に聞くわけにはいかないし、まして寝てなどいられません。教会に限らず、近い将来、自分が人前に立ってきちんと責任あることを語らねばならないとなれば、誰でも必死になり、先輩や教師の語ることを聞きます。語ることは聞くことから始まるのですから。
 私は学生時代に洗礼を受け、牧師になる道しかないのだと観念し始めました。しかし、牧師になれば、毎週、この牧師から聞いている「説教」というとてつもないことを自分もすることになる。それは、考えるだけで恐ろしいことでした。しかし、当時の私は、七十歳を優に超える牧師が全精力を傾けて語る説教を神の言葉として心で聞きました。そして、その言葉が自分の中で次第に大きくなり、この言葉をお語りになる神様を全精力を傾けて語る以外に、私の応答の仕方はないのだと思わされました。今はますます強くそう思います。皆さんも、神の言葉をその心で聞くならば、それぞれの応答の仕方、実の結び方があります。そのことは真剣に問うべきだと思います。いや、神様が真剣に問いかけているのです。その問いを受けることは大きな恐れですが、応答することはさらに大きな喜びです。
 以前の任地だった松本の教会では、献金のお祈り当番がありませんでした。だから、献金の時に司式者がいきなり「それでは〜〜さん、献金の祈りをお願いします」と講壇の上から指名するのです。その祈りの中では、今の中渋谷教会とは違って、説教に対する応答があることが当然視されていました。司式者は説教中は会衆席にいますから、誰が寝ていて、誰が熱心に聴いていたかなんて分かりません。だから、怖い。私は説教しながら人の顔も心の中もほぼ見えますから、今日はあの人を指名しない方がよいなと思うこともたまにはあったのです。でも、そんなことはお構いなしに司式者は、「それでは〜〜さん献金の祈りをお願いします」と言っていました。だから、献金が終わるまで、その教会の礼拝には一種の緊張感が走っていました。誰が指名されるか分からないのですから。そして、幸いなことに、私はほとんど毎週、信徒の方たちの祈りを聞きつつ、説教者以上に御言葉を深く広く聞く人々がいることを知らされて本当に深く慰められましたし、拙い人の言葉を通して神ご自身が語るのだという真実を常に新たに示されました。このことは説教者にとって大きな喜びであり、支えなのです。説教を通して神様が語ってくださると信じ、聞く耳のある人は聞くと信じることができる。だから、毎週語ることが出来るのです。もちろん、説教者は何よりも聞く耳をもって聞かねばならず、聞いたことを語るのですが。
 中渋谷教会では、月に一回聖研祈祷会を長老たちに担当して頂くようにしました。私はとても助かりますし、いつも様々に教えられて感謝なのです。そういう場合、翌月の担当をしなければならない長老は、普段は来られなくても出席なさいます。来月は自分が聖書の学びをして何ほどかの事を言わねばならないと思えば、誰だって必死にならざるを得ないでしょう。そして、聖霊の導きを求めて必死になって聞けば、その言葉はその人の中で生きて働き、豊かな実を結ぶのです。イエス様が、そうおっしゃっています。

 持っている人は

「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」。

 この言葉も、事業をする時に元手となる資金を潤沢に持っている人はその資金を使って更に大きな富を得るのだけれど、資金がなくその日暮しが精一杯の人は、そのなけなしの金すらなくなっていく有様を言い当てた言葉であったかもしれません。しかし、主イエスはここでは何をおっしゃっているのでしょうか。
 八章二一節までの問題は「神の言葉」であり「神の国」です。そのことを踏まえて考えねばなりません。
 ルカ福音書を読み進めて来て、弟子たちと同じくらいの頻度で出てきたのは律法学者やファリサイ派の人々です。イエス様に関心がありつつ絶えず不信感を抱き、ついに「神を冒?する者」としてイエス様を処刑する側につく人々です。彼らは旧約聖書の言葉とそれに基づく律法の知識がありましたし、その律法に基づく生活をしていました。そして、そのことによって自分たちは神に義とされ、神の国に招き入れられると確信していたのです。自分たちは神の言葉を理解し、神様のことも誰よりもよく知っていると思っているのです。
 主イエスは、ここで「持っていると思うものまで取り上げられる」と言われます。その「持っていると思うもの」「神の言葉」とするなら、ファリサイ派や律法の専門家は、まさに自分たちは神の言葉を持っていると思っている人々です。
 先ほども言いましたように、パウロはかつてファリサイ派のエースでした。一流の律法学者から聖書に関する英才教育を受け、熱心なユダヤ教徒としてキリスト教会を迫害していた人です。しかし、復活の主イエスと出会い、聖霊を与えられて以後は、それまでの自分の知識など塵芥(ちりあくた)のようなものだと断言するのです。文字を読み、その表面的な意味を知ったところで、何の意味もないのだ、と。彼は、「文字は殺し、霊は生かす」と言います。聖書の言葉を、自分の思いの中に取り込んで勝手に用いる者は、それは、文字を解釈しているに過ぎず、神の言葉が持つ命を生きることは出来ません。自分自身を殺しているのです。
 しかし、それに対して、聖書の言葉を通して神様の言葉を聞きたい、聞こえた神様の言葉には従いたい、応答したいという信仰の心を持っている人には、聖霊が豊かに与えられ、御言葉が語りかけられ、御顔を拝することが許され、喜びが溢れてくるのです。

 聖霊と御言葉に生かされる喜び

 「霊」「息」は原文では同じ言葉、プニュウマです。胎児は母の胎の中では酸素を臍の緒から摂取して生きています。しかし、胎から出来た途端に肺呼吸をする人間に新しく生まれます。息をしつつ生きる人間になるのです。その息をしなければ、人間は死ぬのです。
 私たちキリスト者は聖霊を与えられて誕生した者です。それまでも肉体は生きていました。胎の中で生きていた赤ん坊のように、肉体の命はあったのです。しかし、聖霊を与えられ、キリストへの信仰を生きるキリスト者として新たに誕生したのです。その「キリスト者の命」は、神様から送られる命の息を吸いながら生きるものなのです。いつも新たに吹き込まれる命の息を呼吸し、その霊の導きの中で神様の言葉を読み、聞き、そして語る。そのことによって神の国を生きるのです。
 聖霊を求めることなく聖書を研究し、聖書に書いてあることは分かった、神様とはどういう方か分かったと思うことは、聖書の言葉も神のことも自分の手に持ったと「思う」ことです。でも、それは思っているだけで、実は、何も持っていない。それは惨めなことです。そういう人々の宣教の言葉は空しいのです。 主イエスは、今日も御言葉の種を蒔いてくださいました。「どのように聞いているか注意しなさい」と言いつつです。私たちは聖霊を求めつつ読むのだし、聞くのです。そして、聖霊が与えられる時、目で読む文字の中に神の声が聞こえます。そして、説教を通して神様が語りかけておられることが分かります。この礼拝堂の中に私たちの罪のために十字架に掛かり、三日目に復活し、ケファに現れた主イエスが、私に現れているその御姿が見えるのです。その時、私たちは喜びに満たされ、立ち上がって賛美をせざるを得なくなるのです。そして、主なる神も主イエスも、私たちの喜びに満ちた賛美を待ち望んでいるのです。そこに天地を貫く礼拝の賛美と喜びがあり、それが弟子たちにのみ知らされる神の国の秘密なのです。私たちは今、その秘密を知らされているのです。そして、私たちを通して神の国の秘密は明らかにされていくのです。
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