「拒絶と招き」

及川 信

       ルカによる福音書  8章19節〜21節
さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

 イエスと一緒にいる人々

 八章の冒頭には、主イエスが「神の国の福音」を町々村々に宣べ伝える旅を続けたとあります。その直前に記されていた出来事は、誰が見ても娼婦であることが分かる罪深い女がイエス様によって罪を赦されたということです。「神の国」に生きるとは、罪の赦しを与えられて初めて可能なのであり、この世の身分や功績とは関係がない。それが主イエスがもたらした幸福の知らせ、「福音」と呼ばれるものです。
 主イエスは、一人でも多くの人々にその幸福を生きて欲しいと願って伝道の旅をされるのです。しかし、その幸福を生きるためには、それまでの生き方の転換、「罪の悔い改め」という転換が必要です。そういう転換をした人々が、八章の初めに出てくる人々です。
 そこには十二弟子がいます。それだけでなく、悪霊を追い出された女たちやヘロデの家令の妻もいて、イエス様と一緒に伝道の旅をしていたのです。その有り様が神の国の現実を現しています。しかし、それは当時の人々にとっては驚きであり、大きなつまずきでもあったと思います。主イエスが引き起こしている出来事はあまりに過激なことだからです。
 十二弟子たちは、生まれながらの弟子ではありません。元は漁師であったり、徴税人であったりした人々です。ちゃんと職業や家庭を持った人たちです。何もすることがない暇人であったわけではない。その人たちが、それまでの職業を捨て、ひょっとしたら家族と別れて、突然現れて自分を招くイエス様の後をついて行き始めたのです。私たちの家族の中からそんな息子が出てしまったら、どれほど怒り、また嘆くか分かりません。そして、イエスという男を恨むでしょうし、憎みさえするのではないでしょうか。自分の子どもが得体の知れない新興宗教の教祖に洗脳されて人生を台無しにされたと思う他にないのですから。
 悪霊を追い出してもらった女たちは、それまでも社会から除け者にされていたでしょうから、自分を救ってくれたイエス様に人生を賭けてついて行くことは理解できます。しかし、「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」という女性が家柄も身分もまた夫も捨てて主イエスに従い、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕する」共同体の一員になるのは常軌を逸していると言わざるを得ません。
 「神の国の福音」という言葉は聞くだけなら耳心地が好い言葉です。しかし、神の国到来を告げ知らせる「神の言葉」を聞いて、その言葉に従って生きることは時に激烈なことなのです。それは、それまでの人生との決別、それまでの人間関係との断絶を意味するからです。新しいぶどう酒をその中に入れれば古い革袋は破れざるを得ないのです。同じ仕事を、同じ人々の交わりを持っていたとしても、その仕事の仕方、交わりの仕方は、それ以前とは本質的に違ったものにならざるを得ないのだし、そこにこそ主イエスがもたらした「幸福」の内容があるのです。

 神の言葉を聞く

 とにかく、主イエスの周りには十二弟子がおり一行に奉仕する女たちがいました。そして、四節以降を見ると、方々の町から多くの人々が集まってきています。主イエスを通して語られる「神の言葉」を聞くためにです。それがこの時の目に見える状況です。
 そして、主イエスはその弟子たちと群集に向けて「種を蒔く人の譬話」をなさいました。「神の言葉」を聞いてもあっと言う間に失う人もいれば、しばらく信じても試練に遭えば身を引く人もいる。思い煩いや富や快楽に心惹かれていってしまう人もいる。しかし、「立派な(美しい)善い心で御言葉を聞き、よく(しっかり)守り、忍耐して実を結ぶ人たち」もいる、と主イエスはおっしゃいます。だからこそ、「聞く耳のある者は聞きなさい」。「どう聞くべきか注意しなさい」とおっしゃってきたのです。神の言葉を「どう聞くか」によって、「隠れているものがあらわになり、秘められたものは公になってくる」からです。

 マルコ福音書では

 今日の箇所は、そういう一連の話の終わりに位置します。そのことをよく理解しないと読み間違えてしまいます。私は今日の説教題を「拒絶と招き」としました。いつも題は苦し紛れにつけますが、この題は間違いではないけれど正解でもないと、今は思います。
 イエス様の母や兄弟たちがイエス様を訪ねてきた話は、マタイの十二章やマルコの三章にもあります。私は、マルコ福音書三章に出てくる話が好きで何回か説教したことがあるのです。そこでは、イエス様に関して「あの男は気が変になっている」という噂があることを知った母や兄弟たちが、イエス様を「取り押さえに来た」と記されています。その時、イエス様は大勢の人でごった返す家の中にいました。だから、家族は家の外に立っており、人を介してイエス様を呼びます。でも、イエス様はすげなく「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か」とお答えになり、「周りに座っている人を見回して」こう言われたのです。

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 これは強烈な場面です。ここにはイエス様の激しい拒絶があります。しかし、それは同時に、「外に立っていないで、この家の中に入って来なさい」という強烈な招きでもあります。「わたしと肉の家族であることを捨て、神の家族となりなさい」という招きがある。しかし、母や兄弟たちがその時またその後、イエス様の拒絶と招きにどのように応えたか、それは分かりません。また、マルコ福音書ではこの出来事の後に種蒔く人の譬話が出てきます。

 ルカ福音書では

 しかし、ルカ福音書では譬話の後に家族が来ることになっています。実際にはどうであったかは分かりません。
 マルコではイエス様は「気が変だ」と言われています。それは本当のことです。「気が変」とは、人間社会の規範の外に立っていることだからです。イエス様が、人間社会の規範の中に収まるはずもありません。イエス様はユダヤ教の権力者だけではなく多くの人から「気が変だ」と見られていたでしょう。
 しかし、その一方で人々はイエス様の言葉を聞き、その業を見て「偉大な預言者が我々の間に現れた」「神はその民を心にかけてくださった」と言ったのです。これも本当のことです。この言葉はルカの七章に出てきます。ルカは、こちらの側面を強調しているのです。現実はいつも多面的であり単純ではありません。どちらも本当のことなのです。
 そして、ルカにおいてもイエス様の周りには群衆が集まって来ています。「神の言葉」を聞くためにです。その中心には十二弟子がおり、女たちがいる。でも、ルカではイエス様は家の中にはいません。二〇節には「外に立っておられます」とありますが、それはマルコ福音書の言葉が残った結果だと思います。これまでの記述で、イエス様が家の中にいることは想定されていないと思います。そして、何よりもイエス様の母や兄弟たちは、種蒔く人の譬話の後にやって来るのです。それがマルコとルカの決定的な違いです。

 何しに来たのか?

 家族は何しに来たのでしょうか?マルコ福音書に記されているように、イエス様を取り押さえて故郷に連れ戻すためでしょうか?それは違うと思います。でも、彼らがイエス様のことを心配していたことは間違いありません。洗礼者ヨハネから洗礼を受ける頃までは、イエス様も世の風習に倣ってその家の長男として家業を継ぐという義務を果たしていたはずです。しかし、ある日、イエス様は家を出て、家族と離れ、神の国の伝道活動を開始したのです。電話はないし、まして携帯電話などありません。出て行った者との連絡手段はないのですから、家族としてはただ心配しつつ帰りを待つほかにないのです。しかし、イエス様の偉大な言葉や業の噂は地域一帯に広まっていきました。当然、家族の耳にも入ったでしょう。
 家族と他人は違います。家族の目は他人の目とは違うのです。他人には「偉大な預言者」に見えても、母にしてみれば自分の乳房をふくませ、オムツを換えた可愛い息子です。その息子が今何をしているのか?「偉大な預言者」と言われてもいるが、「気が変だ」とも言われている。実際のところ何をしているのか、元気にしているのか、自分の目で確かめたい。そう思うのは当然でしょう。ナザレの村に残った弟たちだって同じです。幼い頃は兄弟喧嘩もしたであろう兄が今は何をやっているのか。その現実をこの目で見たいと思ったでしょう。
 しかし、はるばる訪ねて行くとイエス様は群衆に囲まれており近づくことさえ出来ない。彼らはびっくりしたでしょう。それでも、自分たちが来たことを知らせれば、群衆を掻き分けて会いに来てくれるに違いない。そう思って、人を通して会いに来たことを伝えたのです。

するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

 イエス様は、人々に語ることを中断して家族と会う時間を取ることは拒絶しておられます。しかし、マルコ福音書におけるほど強く拒絶しているわけではないでしょう。そして、マルコにおけるほど強く招いているわけでもない。それは、イエス様の母や兄弟たちも、肉親として会いに来ただけではなく他の群衆と同じようにイエス様が語る言葉を聞きに来ている。そういう面があるからだと思います。ここでも現実は多面的なのです。

 母マリア

 ここで、ルカ福音書における母マリアのことを思い出しておきたいと思います。彼女は天使ガブリエルが現れて受胎告知をした時、大いなる畏れに捕われつつ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言った人です。そして、その後に「マリアの賛歌」を捧げました。神の言葉への従順がマリアの特徴です。
 しかし、彼女も単純ではありません。イエス様が十二歳の時に、エルサレム神殿から帰る一行からイエス様が無断で離れて一人神殿に残って学者たちと話しをしているということがありました。三日間も探し回ったマリアは怒って「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と詰問しました。でも、その時のイエス様の答えは?然とするものです。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

 「両親には、イエスの言葉の意味が分からなかった」とあります。ただ、母マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」と記されています。自分たちには見えないイエス様の姿がある。隠れているものがある、秘められたものがある。そのことをマリアは心に納めたのです。その隠れているもの、秘められた神様のご計画は、まだ現れてはきていません。そして、イエス様の弟たちは、こういう母に育てられた息子たちです。それなりの影響を考えるべきでしょう。

 聞くこと、守ること

 この先の一一章には、こういう記事があります。イエス様が人々に語っている最中に、一人の女が「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と言ったというのです。しかし、イエス様はこうお答えになりました。

「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

 ここにも一種の拒絶、あるいは否定があります。女の言ったことは、神の国に生きる幸いとは異なるものです。この地上における、また肉における幸いです。素晴らしい息子を持った母親は幸いだと、女は言ったのです。しかし、イエス様はそれとは別の神の国に生きる霊的な幸いがあることを女に伝えたいと思っておられるし、さらにご自分の母や兄弟たちにも伝えたいと思っておられるのです。愛する家族に幸福になって貰いたいと願っておられるのです。家族を愛しているから福音を聞いて信じて欲しいのです。悔い改めて欲しいのです。愛しているからです。

 聞くこと 行うこと

 もう一カ所、「神の言葉を行う」あるいは「守る」ことに関して主イエスの言葉を思い起こしておきたいと思います。それは「平野の説教」の結論部です。イエス様は、ご自身の言葉を「聞いて行う人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった」とおっしゃっています。
 こうして見てみると、イエス様はすべての人々に御自身の言葉を聞いて行うこと、つまり、心に信じてしっかりとその言葉を守り続けることを願っておられることは明らかです。単純な行動を求めておられるのではないのです。言葉を守ること、失わないで留めることを願っておられるのです。イエス様の言葉を聞いたからと言って、すぐに何か効果が出るとか現世利益があるわけではありません。しかし、聞いた言葉をしっかりと心に留めて生きることは、必ず襲ってくる様々な艱難辛苦や死によっても揺り動かされることのない土台の上に家を建てることなのです。神の国に生きるとか、神の家族の交わりに生きるとは、そういうことなのではないでしょうか。そして、そこに揺るぎない幸福がある。その幸福を生きて欲しい、主イエスはそう願って、招いておられるのです。
 「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」は、母や兄弟をも含めて、主イエスの周りに神の言葉を聞くために集まっているすべての人をその生死を越えた家族の中に招く言葉でしょう。

 家 家族

 どんな家でも、しきたりとか伝統とか家風があるだろうと思います。その家の中で「真っ当である」と評価されることがあります。親の学歴が高い家の子は、一定水準を満たさないと一人前として認められない。そういうことがあります。またボクシングが命みたいな家だと、子どもは世界チャンピョンになってやっと親に認められる。だから中学校も行かずにボクシング漬けの日々を送る。そういうこともある。商売の家なら長男は商売を継ぐことが当然。牧師の家に生まれると、牧師になるのが当然。親がそう思っていなくても、そういう見方をする人がいます。私の親は幸いにしてそうではありませんでした。しかし、兄や私が信仰を生き始めるまでは神様に対して申し訳ないような感情を持っていることは、当時も分かりました。そういう家の中では、信仰を持っていない、あるいは拒絶している間は、立派な大人になって世間からどれほど認められていても半人前ということです。「汝なお一つを欠く」ということです。そういう感じの牧師家庭やクリスチャンの家庭は多いでしょう。そして、親が信仰に熱心であればあるだけ子どもは反発を強め、いい加減そうに見える親の子どもが早く洗礼を受けたりして唖然とする。そういうこともある。神様のなさることは分かりません。洗礼がゴールでもありません。
 私は、「信仰の継承」という言葉を否定するつもりはありません。でも、信仰は継承できるものではない。それは確かなことだと思います。他人であれ、子どもであれ、伴侶であれ、兄弟であれ、自分の信仰を与えることは出来ません。そもそも信仰とはそういうものではないのです。
 技術を継承することと信仰を継承することは、全く違います。文化や風習を継承することは出来るでしょう。正月に松飾りを飾るとか、クリスマスにはツリーの飾り付けをして皆でケーキを食べるとか、そういうことはその家族にそのような意志があれば継続できるし、形を継承することは出来ます。でも、信仰を継承することは出来ません。
 信仰は、その人がキリストと出会う以外に誕生しないからです。霊と言葉によってイエス・キリストに出会う。そして、愛の衝撃を受ける。それまでの自分が深い所で突き崩される。自分の罪を知る、その罪の赦しのためにイエス・キリストが十字架に掛かって死んでくださったことを知る、そしてその方が復活し、今は教会をその体として聖霊と聖書の言葉によって、また説教を通して語りかけてくる。そのことをその人自身が知る。経験する。そして、このイエス・キリストというお方との交わりを生きることを自分の最も深い所に置いて歩みを始める。そこに信仰の出発があります。
 そんなことは人から人へと「継承」できるものではありません。ただただその人が「神の言葉」を聞くことです。神の言葉を聞く、聞く耳をもって聞く。そこにしか信仰の出発はありません。だから、私たちは祈りをもって語るしかないのです。語った言葉が聞いた人の中でどうなるかは、私たちのコントロール外のことです。

 愛がなければ

 主イエスは種蒔く人の譬話でそのことをお語りになっているのです。そして、ご自身の家族が会いに来た時も、敢えてすべての人に当てはまる形で、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とおっしゃった。それははるばる会いに来た母や兄弟たちを、十二弟子や女たちが既に生き始めている神の国、神の家族の交わりに招くためでしょう。そこに主イエスの家族への愛、まだ人の目には隠れている愛、秘められた愛がある。私はそう思います。神の国の伝道は、この愛から出るものです。相手が多くの人々であれ、家族であれ、その根っこは同じです。愛なのです。私たちの伝道も、愛がなければ何の意味もないし、愛がないなら、キリストの名前など出さない方が余程よいでしょう。

 格言の隠された意味

 ルカは、今日の場面の直前に格言と言ってもよい主イエスの言葉を三つ並べています。その言葉を、家族との関係性の中に置いて読んでみると、主イエスは家族であっても誰であっても灯を隠すことなく見えるようにされたと言えるし、今は隠れている家族の未来がいつか明らかになるとおっしゃったとも言えるでしょう。そして、彼らの未来は、彼らがイエス様の言葉をどう聞くかに掛かっている。自分の息子あるいは兄であるイエス様の言葉を、神の言葉として聞き、しっかり守るならば、彼らは主イエスと神の家族になるでしょう。しかし、聞けども聞かずであれば、主イエスと持っていた肉の家族の関係すら失う。そういうことをお語りになっているように思えます。
 ルカは福音書の続きを書いた唯一の人です。使徒言行録がそれです。その使徒言行録の一章には、主イエスが天に挙げられて以後、イスカリオテのユダ以外の十一人の弟子たちがエルサレムの二階家で熱心に祈る場面があります。そこにはこう記されています。

「彼ら(弟子たち)は皆、(あの八章に登場していた)婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」

 イエスの母、イエスの兄弟たちは、八章以来、ここに再び登場するのです。
 「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」という言葉は、主イエスの十字架の死、そして、復活、そして昇天を経て実現していったのです。主イエスが灯した光は、肉の家族が神の家族になるという秘められた救いのご計画をあらわにし、公にしていったのです。主イエスの言葉を息子や兄の言葉としてではなく、神の言葉として聞くことが出来た母や兄弟たちは、ついに主イエスと一緒に伝道の旅をしていた弟子たちや女たちと同じ家の中で熱心に祈る者とされていったのです。自分の罪が、自分の息子、自分の兄の十字架の死と復活を通して赦される福音を信じる者とされていったのです。その中でも特にヤコブという弟はペトロと並ぶエルサレム教会の重鎮となりました。

 アッバ 父よ

 最後に、神の家族になるとは信仰的にはどういうことなのかをローマの信徒への手紙のパウロの言葉から示されたいと思います。信仰は聖霊の導きによって与えられるものだと、彼は言います。そして、こう言うのです。

 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。・・この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。・・もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 私たちは「神の子」として神様の家族に迎え入れられるのです。イエス様の母も兄弟も皆同じです。神の国、神の家族の中では神の子です。子であるからこそ相続人なのです。栄光を受け継ぐ相続人です。それでは、その「栄光」とは何でしょうか?その先の方で彼はこう言っています。

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

 「御子の姿に似た者にする」とは、神の国で復活の体を与えられることです。罪の赦しの行き着く先、福音の究極、それは神の国における復活なのです。
 今日読んだ主イエスの言葉も、神の御子としてのご自身の栄光に向って生きるようにという招きです。その招きに応えて生きるとは、キリストと共に苦しむことでもあります。この地上で信仰と希望と愛に生きることは、苦しいことです。決して楽なことではありません。イエス・キリストの地上の歩みは、十字架の死という悲惨に向かう歩みだったのですから。そのキリストに従う歩みに苦しみがないなんてことがあるはずもありません。愛に生きることは、赦しに生きることです。赦すことは罪人には苦しいことです。しかし、赦せない苦しみには救いはありません。赦す苦しみの中にしか希望はありません。赦すことは、それまでの自分が死ぬことです。そこにしか新しい命に生かされる希望はありません。
 主イエスが十字架の死と復活、そして昇天と聖霊降臨を通して私たちに与えてくださった罪の赦しと新しい命に生きる。それが主イエスの母、兄弟、つまり神の子として生きることです。
 すべての苦しみと死を乗り越えて復活の栄光に与っておられる主イエスが、信じる私たちの歩みを支え、共にしてくださるのです。だから、私たちは御言を、その光を隠すことなく、人々に見えるように灯して行きましょう。見る人は見るし、聞く人は聞きます。そして、神の時が来れば、その人は神の家族になるのです。互いに赦し合い、愛し合い、神の栄光をその身をもって現す神の子となるのです。

説教目次へ
礼拝案内へ