「この方はどなたなのだろう」

及川 信

       ルカによる福音書 8章22節〜25節
ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。 渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。 弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。

 文脈


 今日の箇所に入る前に、前後の文脈と構造を少しだけ見ておきたいと思います。
 8章1節から21節までは「神の言葉」「神の国」に関する一つの単元でした。その単元の直前には、主イエスが罪深い女の罪を赦す出来事が記されていました。しかし、その場にいたファリサイ派の人々は「『罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう』と考え始めた」とあります。この問いは、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」という問いと枠になってこの単元を囲っています。
 そして、今日の箇所から8章の終わりまでは、嵐を治め、悪霊を追放し、不治の病を癒し、さらに死人を復活させるイエス様が立て続けに出てきます。それらすべてを通して、イエスとは何者なのか?という問いに対する応答が記されているのです。もちろん、その問いと応答はルカ福音書の最後まで続き、さらに続編の使徒言行録にまで続くのです。今日は、その過程をご一緒に聖書を読みつつ辿っていくことになります。

 水 海

 ここに出てくる「湖」はガリラヤ湖のことです。ガリラヤ湖は時に「海」と言われます。人間は地の上に立って生きるものであり、水の上には立てません。まして、水が襲い掛かってくればひとたまりもありません。洪水や津波がどれほど恐ろしいものであるかは、震災以後の私たち日本人もよく知っています。先ほど交読した詩編46編にも「海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」とありました。海の水の恐ろしさは、古代人もよく知っているのです。
 創世記の冒頭の天地創造の場面では、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と記されています。ここに描かれている世界は、水と闇で覆われた混沌の世界です。それは地球の始まりを描きながら、神の裁きによって国が滅亡し、バビロンに捕囚され、夢も希望も持ちようがないイスラエルの民の現実を描いているのです。地球を覆い尽くす水、海は混沌と滅亡の象徴なのです。

 もはや海もなくなった

 聖書は、創世記に始まりヨハネ黙示録で終わります。この二つの書物が聖書全体の枠となって囲んでいるのです。私たちは、そのことは絶えず意識していなければなりません。
 その黙示録の終わり近くに、新しい天と地について記されています。

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。・・・『神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」

 「もはや海もなくなった」。それは、最早、人間を滅ぼす力はない。人を呑み込む死が神様によって呑み込まれた神の勝利を宣言しているのです。
 以上のことを考慮に入れつつ今日の箇所を読んでいくと、どういうことになるのか?それが問題です。

 舟としての教会

 教会は古来、「舟」に例えられます。ノアの箱舟のイメージがその底流にはあるでしょう。
 私たちの国でも、人生は世の荒波を越えて進む船旅に例えられます。福音書が書かれた当時もそれ以後も、キリスト教会はしばしば迫害の嵐に見舞われました。イエス・キリストを宣べ伝えれば宣べ伝えるほど、そして、信じる者が増えれば増えるほど、世の警戒心は強まり、敵意と憎しみが向けられる。教会は、そういう荒波を超えつつ前進してきたのです。常に順風満帆の歩みをして来たわけではないし、これからもそうです。
 それは、主イエスが伝道をしている時、既にそうなのです。ファリサイ派の人々の「罪まで赦すこの人はいったい何者だろう」という問いの中にあるのは、「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(5章)という警戒心あるいは敵愾心です。そういう状況の中を、イエス様と弟子たちは一緒に歩んでいる。それが「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り・・」と言われていることの一つの内容でしょう。教会は、はるかな対岸を目指して主イエスと共に旅を続ける礼拝共同体であり、神の国の伝道共同体だからです。

 おぼれる 滅びる

 しかし、船出をして程なくして暴風が吹き荒れ、大きな波が立ち、彼らはおぼれそうになった。しかし、イエス様はどういうわけか眠っている。脅えた彼らは「先生、先生、おぼれそうです」と叫びました。すると、イエス様はおもむろに起き上がって風と荒波をお叱りになった。すると凪になった。その後の展開を示すわずか数行に込められた意味は深くて広いものだと思います。
 「おぼれそうです」と訳された言葉は原文ではアポリューミという言葉です。英訳聖書では、しばしばペリッシュと訳されています。「滅びる」、「非業の死を遂げる」という意味です。ルカ福音書では、アポリューミが15章に何度も出てきます。群れから迷い出てしまった一匹の羊、無くなってしまった一枚の銀貨、そして放蕩の末に身を持ち崩したあの弟息子、それらすべてにアポリューミが使われます。羊飼いに探し出されなければ、主婦に見つけ出されなければ、そして父親が赦してくれなければ、そのままいなくなり、死んでしまう者達です。
 そして、その死はただ単に肉体が死ぬことではなく、罪の故に神様から見失われる、見捨てられる死であり、滅びることです。捜し求められ、見つけ出され、また赦されなければ滅びる。アポリューミとは、そういう死を意味するのです。そして「おぼれそうです」の中には、その滅びに対する恐れが含まれていることは言うまでもありません。

 主イエスが共にいるのだから

 しかし、イエス様は、「おぼれそうです」と訴える弟子たちの「信仰はどこにあるのか」と嘆かれます。それはどういうことなのか?
 このイエス様の言葉を読んで私が思い出すのは、直前にある種蒔きの譬話です。御言葉を聞くと「しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たち」がおり、その一方で、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」がいる。主イエスのこの言葉を思い出します。そして、暴風が吹き荒れ、波が逆巻き、舟の中に水が押し寄せて来ようとも、その舟には主イエスがいらっしゃる。眠っており、何もなさってくださらなくても主イエスが共にいてくださる。その不思議な静けさを見て安心する。「な〜んだ、主イエスがここでも一緒にいてくださるじゃないか、それなら大丈夫。もし万が一、舟が沈むようなことがあっても、その舟に主イエスが一緒に乗ってくださっている。だから、大丈夫。」そう思える。そして、心が静められる。平安になる。信仰というものの中にはそういう静かな世界があるのではないか?そして、主イエスは、そういう信仰を私たちに求めておられるのではないか、と思います。

 苦難の中で主を求める信仰

 しかし、その一方で、窮地に陥った時に神様に助けを求めることこそ信仰ではないのか、とも思う。詩編107編には、こうあります。

苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
主は彼らを苦しみから導き出された。
主は嵐に働きかけて沈黙させられたので
波はおさまった。
彼らは波が静まったので喜び祝い
望みの港に導かれて行った。

 ここも自然界の嵐や波に苦しめられる船旅を語りつつ、世の荒波に抗して前進するイスラエルの民のことを語っているのです。その荒波に呑み込まれそうになった時、「主に助けを求めて叫ぶ」と、主が「嵐に働きかけて沈黙させられたので波がおさまった」とあります。苦難の時、主に助けを求めて叫ぶ。これが信仰の基本です。その信仰に応えて、主が旅を導いてくださるのです。

 先生から主、キリストへ

 そうであるとすると、ここで弟子たちがイエス様を「先生」と呼びかけていることに注目しなければなりません。
 最初にこの言葉が出てくるのは、ペトロが弟子として召命を受ける場面です。
 そこでは、当初イエス様を「先生」と呼んでいたペトロが、大漁の奇跡を通して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白するに至ります。
 この先の9章には、三人の弟子たちと山に登ったイエス様が栄光の姿に変えられて旧約聖書を代表するモーセとエリヤと語り合うという異様な場面があります。その時も、ペトロは「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と言うのですが、その直後、彼らは神様の臨在に触れて恐れに捕われる。そして、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という神の声を聞く。しかし、この出来事について、彼らは沈黙して誰にも話しませんでした。目の前にいるお方が、自分たちと同じ人間はなく、神の子であり、キリスト(メシア)であることを知らされたからです。
 まだありますけれど、すべて「先生」と呼びかけた人間がその直後に起こる出来事を通して自分の目の前にいる方は単なる「先生」ではなく神に選ばれた者であり、主であること、キリストであることを知り、恐れる。そういう出来事の初めに「先生」という呼びかけが出てくる。
 今日の箇所もその点は同じです。弟子たちは、神様にしかできない御業を目の当たりにして「恐れ」「驚き」に満たされ、「いったい、この方はどなたなのだろう」と言ったのです。これは、「この方を通して神ご自身が現れているのではないか?!」という問いであり、同時に、彼らがイエス様を「主」であり、「キリスト」であると信じるに至る過程を表わしているでしょう。しかし、その「主」であり、「キリスト」であるイエス様を正しく信じ、イエス様に従う旅は平坦なものではありません。

 失う 救う

 イエス様は「それでは、あなたがたはわたしを誰と言うのか」という問いに対して「あなたは、神からのメシアです」と告白をしたペトロを初めとする弟子たちに、近い将来の受難の死と復活を予告された上で、こうおっしゃいました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」。

 ここに出てくる「失う」は、「おぼれる」と同じアポリューミです。「わたしのために命を失う者は、それを救う」とイエス様はおっしゃる。この言葉の意味が分かるためには、経験として知るためには時間が必要でしょう。真の信仰に至る過程(プロセス)が必要なのです。
 ここで主イエスがお語りになっている「命」が何であるかは、ペトロを初めとする弟子たちにはその時は分かりようがないし、イエス様がその命を与えるために来られた「主」であり、「キリスト」であることもまた分かりようがありません。だから、彼らはイエス様に後については行くのですが、最後の晩餐が終わった直後でさえ、自分たちの中で誰が一番偉いかを巡って愚かな議論をしたりするのです。
 その時、主イエスはペトロにこうおっしゃいました。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 ペトロは応えます。

「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」。

 イエスは言われます。

「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」。

 祈る主イエス 眠る弟子たち


 その後、イエス様は弟子たちを連れてオリーブ山に行き、祈ります。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく御心のままに行ってください」と。その時、主イエスは「苦しみもだえ」「汗が血の滴るように地面に落ちた」とあります。
 しかし、その痛切な祈りを主イエスが捧げているすぐ近くで、弟子たちは「悲しみの果てに眠りこんでいた」のです。舟の上では必死になって主イエスに助けを求めた彼らが、ここでは自分たちの救いのために祈り続けておられる主イエスの傍らで「眠り込んでいる」。なんと皮肉なことかと思うし、なんとリアルなのだろうとも思います。私たち人間は、そういう者たちです。
 そして、その後、主イエスの予告どおり、ペトロは三度主イエスを否み、他の弟子たちは皆逃げ去りました。「イエスのことなど知らない。あの人は先生でもなければ、主でもキリストでもない」ということです。

 十字架の死と復活

 その一方で、あくまでも湖の対岸を目指す主イエスは逮捕され、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 と祈りつつ、十字架の上で息を引き取られるのです。
 神様は、十字架のイエス様を下ろすことはなさいませんでした。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と嘲られるご自身の独り子を、十字架から下ろされない。そこで下ろせば、主イエスが死を超えた世界、湖の対岸に辿り着くことが出来ないからです。復活は、御心に従った受難の死を経て初めて辿り着く命だからです。
 その復活の命を与えられた主イエスは、隠れていた弟子たちの前に現れてこうおっしゃるのです。

「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 聖霊による伝道の旅


 「高い所からの力」とは聖霊のことです。聖霊はペンテコステの時に弟子たちに降り、彼らを覆いました。ここで「覆う」と訳された言葉は、服を着る時に使われる言葉で、後で触れるパウロが大切に使う言葉です。
 十字架の死と復活、昇天を経て、聖霊において生き給うキリストを着た時、キリストの力に覆われた時、ペトロを初めとする弟子たちは死の恐れから解放され、これまでは怖くて言えなかったことを大胆に宣言し始めました。
 来週記念する聖霊降臨日(ペンテコステ)で、ペトロは世界各地から集まってきた大群衆を前にしてこう説教しました。

「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」。
「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。


 彼は、このペンテコステの説教の後、イエス様こそ、私たちの罪を赦し、復活の命を与えてくださる「主であり、メシアである」ことをあらゆる国の人々に宣べ伝える旅に出ることになります。その旅は、湖の対岸を目指して前進し続ける船旅に比することが出来るでしょう。各地で石を投げられ、捕らえられ、鞭を打たれる経験をしました。最初はキリスト者を迫害し、後に使徒となったパウロも同じ目に遭いました。世の荒波に抗して苦しい、しかし喜ばしい伝道の旅を継続したのです。その様を伝える使徒言行録を読むと、ペトロやパウロの燃えるような信仰と、非常に深い静けさを感じます。主イエスと一緒の舟に乗って旅をすることには、その両方の面があるのです。
 伝説によれば、ペトロはローマで逆さ十字架に磔にされて殉教し、パウロもローマで消息を絶ちます。彼もまた、その地で殉教したのだと考えられています。それは、彼らが燃える信仰と深い静けさをもって「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしはそのことの証人です。この方こそ、主でありメシアです」。「罪を悔い改めて信じなさい。そうすれば聖霊を受けます。あなたがたは命を得ます」という説教を続けたからです。
 彼らの殉教の死は、世の荒波に呑み込まれた「滅び」ではありません。彼らにとって、主イエスへの信仰と愛に生きることは死を越えた命に生きることであり、キリストの力に覆われた者の死は、「もはや海もない、悲しみも涙もない、神が人と共に生きる」永遠の神の国に旅立つことだからです。

 キリストの勝利

 私たちは今日の午後、墓前礼拝を捧げます。今日は二月に召された小池弘文さんの埋骨も致します。
 そこで私たちは先達の死を悼むのでしょうか?あるいは死者の霊を慰めるのでしょうか?違います。高い所からの力に覆われて、復活のキリストを着た人々は、その死を経て復活のキリストの勝利に与ることを確信し、キリストの勝利を称えるのです。
 パウロは、コリントの信徒に向けて、終わりの日に起こるべきことをこう言っています。

ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。・・・この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。

 この勝利者である主イエス・キリストが、私たちの教会、私たちが乗っている舟に一緒に乗ってくださっているのです。だから、私たちは何があっても安心です。どんなに困難や苦難があっても必ず乗り越えていくことが出来ます。主イエス・キリストが一緒に舟に乗ってくださっている限り、この舟は必ず湖の対岸、神の国に到達するのですから。最後まで耐え忍んで信仰を生きれば、豊かに実を結ぶことになるのです。
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