「力が出て行ったのを感じた」

及川 信

       ルカによる福音書  8章40節〜48節
8:40 イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。8:41 そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。 8:42 十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。
8:43 ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。
8:44 この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。8:45 イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。8:46 しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。8:47 女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。8:48 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」


 八章―九章の構造

 八章の初めをいつ語ったのかはもう思い出せないくらい前のことになりました。それは、こういうものでした。

すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち・・・・も一緒であった。

 九章の書き出しはこういうものです。

イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。

 一見して、この二つの文章が八章を囲む枠の文章であることが分かります。この枠の部分には「十二人」、つまり十二弟子と「神の国」、そして「悪霊追放」「病気の癒し」という言葉があります。そういう業と共に「神の国」「宣べ伝え」られていくのです。「神の国」とは神の支配のことです。神の言葉と業を通して神の支配はこの地上に広がっていく。そして、八章で、イエス様が神の国宣教の手本を示し、九章で、そのすべてを見てきた十二弟子が派遣される。そういう構造になっていると言って良いでしょう。
 八章の中身を見れば、前半は「神の言葉」に関する主イエスの譬話が中心であり、イエス様は最後に「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」という言葉で締め括られました。
 二二節以後では、一転してイエス様の「業」が描かれます。そこには、ガリラヤ湖上を吹き荒れる風や波をお叱りになって鎮めてしまうイエス様がおられます。そのようにして辿り着いた異邦人の地ゲラサで、強力な悪霊に取りつかれた男をその言葉によってお救いになります。つまり、イエス様の力は自然界に及び、さらに異邦人の地に生きる悪霊にも及ぶということでしょう。自然や悪霊という、人間ではどうすることも出来ないものを支配するイエス様がここにはおられます。また、異邦人をも神の国の中に招き入れるイエス様がいる。
 三九節には、「神がなさったこと」「イエスがしたこと」が並行して書かれています。そういう書き方を通して、イエス様の業は神の御業、それも救いの御業であることを表現しているのです。
 しかし、ゲラサ地方の人々はイエス様にこれ以上の滞在を望みませんでした。彼らにとっては一人の男が救われることよりも、豚の損害の方が重視すべきことなのです。このように経済を最優先させる発想は、今の日本においても同じことです。
 イエス様は、「お供をしたい」と願う男を異邦人伝道のために残して、弟子たちと一緒にガリラヤ湖の対岸に帰られました。今日の箇所は、その場面です。

 ヤイロの娘 十二年の出血の女

イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへ、ヤイロという人が来た。

 ガリラヤ地方の人々は、イエス様の言葉と業を通して現される力を様々な形で見聞きしていました。そこに正しい信仰があったかどうかは別にして、多くの人々はそういう力を持っているイエス様が帰ってくることを待ちわびていたことは確かです。その中でも会堂長のヤイロはイエス様の帰りを待ち焦がれていました。ヤイロの十二歳になる一人娘が何らかの病を得て、治療の甲斐なく死にかけていたからです。
 当時は十二歳でも結婚相手を捜す年齢ですが、そういう娘が親よりも先に死ぬことは当人にとっても親にとっても耐え難いことだし、周囲の人間にしてもそうです。だから、ヤイロはイエス様の前に飛び出して「足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるように願った」のです。
 イエス様は、その「願い」を受けてヤイロの家に向かいます。しかし、そこに十二年間もの出血で苦しむ女性が出てきて手間取っている間にヤイロの娘は死んでしまうのです。その娘の話は来週に回します。
 今日は、二つの出来事に共通している事柄を挙げておきます。その第一に挙げるべきは、ヤイロも女も、人間ではどうすることも出来ない現実を前にして、イエス様だけを頼りにして「ひれ伏し」ているということです。娘は十二歳、女の出血は十二年です。九章の初めには十二弟子が登場します。「十二」はイスラエル十二部族をも連想させる数ですが、一つのまとまった単位なのです。
 また、ユダヤ人の律法においては、生理中の女は「汚れた者」とされており、その女に触れた者は汚れ、女が触れた物に触れることも汚れることとされていました。(そのようにして生理休暇を与えていたという面もあると思います。)死体もそうです。特に祭司は死体に触れてはならないとされていました。
 しかし、女はその律法に定められた禁を犯してイエス様の衣の房に「触れ」ますし、イエス様は死んでしまったヤイロの娘の手を取って「娘よ(原語では「少女よ」)、起きなさい」と語りかける。つまり、死体に触れるのです。触れてはならないものとの接触という点でも、この二つの出来事は共通しています。
 また、旧約聖書において「血は命」です。その血が断続的に流出している彼女は有無を言わさぬ形で死に向かっているのです。そして、治療のために全財産を投げ打っても医者は彼女を癒すことは出来なかった。彼女は死を待つだけです。それは、この段階でのヤイロの娘にとっても同じことです。

 不平等な現実

ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。

 昔も今も、病気が治らないことは実に悲しむべき現実です。精神的にも経済的にも追い詰められるのです。人間が皆病気になり誰もがなかなか治らないのなら、同病相哀れむことが出来ます。しかし、病気や障碍、事故や災害などは実に不公平です。能力や容姿もそうです。それらのものは生まれながらのものであり、努力で解決出来るものではありません。生まれた環境も千差万別です。平和な国に生まれる子もいれば悲惨な内戦が続く国に生まれて虐殺されてしまう子もいる。そういう不公平とか不平等、あるいは理不尽だと言わざるを得ない現実がこの世にはたくさんあります。
 病気に関して言えば、治る人もいれば治らない人もいる。病の故に早死にする人もいれば長寿を全うする人もいる。そういう現実をどう受け止めるか。それは、私たち人間にとって永遠の課題だと言って良いように思います。
 昔も今も変わらない一つの受け止め方に因果応報思想があります。現在の悪しき状態は過去の悪行に原因がある。そう考える。病人自身がそう考えることもかなり辛いことですが、周囲の者たちがそう考えているとすれば、それは相当に辛いことでしょう。多くの人が、「あの人の病気が何年も治らないのは、何か悪いことをしたに違いない。あの病気は罪人に対する神様の裁きの現れなんだ。だから同情しなくてもよい。いや、してはならない」と思って自分を見ているとすれば、その病人は生きていく気力も希望も失せるほかないと思います。そして、現実にそういう絶望の中を生きた人は数知れないし、今もその事実は変わりません。
 この女を見る人々の目は明らかにそういう裁きの目だったと思います。そして、彼女自身が自分をその様に見ざるを得なかったとも思う。そのことの故に、彼女はヤイロのように人々の目の前でイエス様にひれ伏し、「自分の家に来て欲しい」などと頼むことは出来ないのです。そんなことをする資格があるとは自分でも思えない。
 当時のユダヤ人の社会において、公衆の面前で女が男の前に出てきて何かを頼むことなど考えようもないことだったと思います。その上に、彼女は原因不明の病にかかっており、それは出血を伴う不浄の病であり、人々との接触を自ら避けなければならないものなのです。だから彼女は、誰にも気付かれぬように細心の注意を払って群衆に紛れ込み、背後からイエス様に近づき、律法に従うユダヤ人の男性なら誰もが服の裾につけている房に触れたのです。

 イエスに触れる

 六章一九節にこう記されていました。

「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」

 その時の群衆は、遠慮会釈なくイエス様に近づきその体に触ったでしょう。人気者の芸能人の周りに群がるファンや勝ち名乗りを上げて帰る力士の力が漲る体をパンと叩くように。人々はそのようにして芸能人のオーラや力士の力を体に感じたい、体に取り入れたい。そう思っている。
 この時の女がイエス様に触る目的も同じだと思います。でも、触り方は全く違います。彼女は、恐れをもってイエス様の背後から近づきました。周囲の者たちにはもちろん、イエス様にも気づかれぬように背後から近づき、屈みこんでサッと衣の房に触った。なんとかしてイエス様から出てくると言われる神様の力を頂きたかった。その力で癒されたかったのです。かといって、「主よ、私の病を癒してください」と正面きって頼むことなど彼女には到底出来ないのです。

 正面に立つ恐怖

 私は、何かの会場で偉い人の話を聞くとかいう時は、可能な限り後ろの方のそれも角の席に座りたいと思います。一つの理由は、いつも全体を見渡せる所にいたいと思うからです。しかし、それだけではありません。斜めからその人の話を聞きたい。目を合わせることなく聞きたいと思うのです。出来れば自分の前の席に大きな人が座ってくれると尚更嬉しいのです。時折、外部説教者が来てくださる礼拝の時も、本当は一番後ろに座りたいのです。でも、それは多分、私の隣に座らざるを得ない人にとっては迷惑でしょうから仕方なく最前列に座ります。でも、中央通路側ではなく窓側に座ります。正面の間近というのは嫌なのです。いつも斜に構え、どこかで隠れていたい。子ども頃からずっとそういう性質と言うか心と言うかを持っています。
 どうしてそうなるかは明らかです。いつも後ろめたいもの、恥を抱えているからです。不意をつかれて自分をさらけ出すような羽目に陥りたくないのです。でも、こうして講壇の上から皆さんを見ていると、私と同じような人は結構いるのだと分かります。ここからだと、最前列よりも後ろの方が実際にはよく見えるのですが・・。
 礼拝に来るのは、イエス様の話を聞きたいからだし、ある意味ではイエス様と親しく交わり、接したいからでしょうす。でも、礼拝堂に入ると気後れする。始まるギリギリとか少し遅刻すると、最近は後ろの方の席が満席になっていることが多いので、当番長老に最前列にまで連れてこられたりします。すると罰が当たったような気分になる。人々の中に紛れていたかったのに・・と思う。
 私たちはやはり、神様の前に正々堂々とはしていられない人間なのです。礼拝堂に入った時に、目の前に神様がおられる、神様がこれからお語りになる、御業を行われる、それも自分に対して。そう実感する時は、やはり相当な恐れを感じます。人に会いに来たり、よい話を聞きに来たり、讃美歌を歌いに来たりしている時は、まだそういう恐れは感じません。それはそれでよいのです。「時」が来るまではそういうものですし、多くの人がそういう時期を過ごすのですから。でも、信仰をもって礼拝に臨む時は、そういう暢気な思いは持てません。それまでの自分が壊される恐怖と期待、自分が新たにされることの恐怖と期待。そういう矛盾した思いを抱えつつ、私たちの多くはこの会堂に来ています。

 背後から近づく女

 この女は、自分は汚れた人間であることを否応もなく知っていた人間です。聖なるお方の前に出ることなど出来ない、そんな恐ろしいことはないと知っていたのです。だからイエス様の背後から近づく。自分が汚れた人間であり、その体の内に既に呪いとしての死を抱えていることを知っているからです。その悲しみ、その恥を内に秘めながら、でも、だからこそイエス様に触れたい。癒していただきたい。清めていただきたいのです。しかし、その願いを正面きっては言えないのです。
 「背後から近づく女」と聞けば、私たちは七章の終わりに登場した「罪深い女」を思い出すのではないでしょうか。律法を厳格に守り、そのことの故に自らを清い者と確信しているファリサイ派の家の中で食事をしているイエス様がそこにはいました。しかし、その時、娼婦を生業としていた女が恐れに身を振るわせつつ家に入ってきました。そして、イエス様の背後から足もとに近寄り、イエス様の足を涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻をして香油を塗ったのです。その異様な行為を見て、ファリサイ派の人々は激しい嫌悪を感じ、女のなすがままにされているイエス様に対しても嫌悪の感情を抱きました。
 しかし、イエス様はその時、深い慈しみを湛えた眼差しでその女を見たと思います。そして、こうおっしゃった。

「あなたの罪は赦された」。

 人々はますます驚き「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と訝しがったのです。その人々の前で、イエス様はさらにこうおっしゃいました。

「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。

 これは、今日の出血の病の女に対する言葉と全く同じです。主イエスが、この言葉を女に言うまでには、しかし、まだ女がしなければならないことがありました。

 わたしに触ったのは誰か?

 イエス様の周りには群衆が群がっています。押し合いへし合いをしている。当然、何人もの人々の体とイエス様は接触している。しかし、そういう状況において、イエス様は「わたしに触れたのはだれか」と言われます。群衆の中に隠れている一人を捜す。「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と。
 私は仕事柄、多くの人の前で話すことがあります。昨日も市民講座でアブラハムの話をしてきました。大学の教室でも話すし、もちろん礼拝でも話します。そういう時に、多くの人が目の前にはいるのですが、その中の何人かの人の中に言葉が入っていくのが分かる時があります。言葉は目に見えるものではないし、また人の心の中も目には見えません。でも、たしかに言葉がその人の中に入っていく。そして、その人の中で生き始める。それが分かる時があります。もちろん、自分が説教の聴衆の一人である時に、語る牧師の言葉が自分の中に入ってきたことが分かる時もある。そういう時があったからこそ、信仰を生きることになったのです。それは、信仰者であるならば誰でも同じだと思います。
 目の前にいる一人の人と話していたとしても、自分の話した言葉がその人の中に少しも入っていかない。たしかに耳では聞いているし、相槌はうってくれるし、「分かった」とも言ってくれる。でも、少しも分かっていないし、実は聞かれてもいない。言葉がただ二人の間を漂っているだけ。そういうことが分かる時もあります。
 しかし、互いの言葉がその心の中に入っていく時、その二人は人格的に出会い、交わりを持ちます。その交わりが開かれる時、それはその人にとって、それまでの自分から新しい自分に変る時なのです。出会いと交わりは、それが真実なものである限り、それまでの人間を破壊し、新しい人間を作り出していくものです。
 イエス様は、自分に触った者との出会いを求めておられます。イエス様との交わりを持ちたいと強く願いながらも、群衆の中に隠れている人を捜し出そうとされるのです。葉っぱの陰に隠れたザアカイを捜し出し、呼びかけたように。

 イエスの前で、皆の前で

女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。

 彼女は、イエス様が群衆に向けて語った言葉が、まっすぐに自分の中に入ってくることを感じたでしょう。その言葉は、彼女の内部で発酵します。そして、それまでの彼女をその内部から壊していくのです。彼女は、イエス様の衣の房に触った途端に出血が止まったことを感じました。しかし、その「感じ」とは異なる感じで、自分の中にこれまで経験したことがない異変が起きていることを感じたと思う。そのことに得体の知れない恐ろしさを感じつつ、彼女はイエス様の前に進み出てひれ伏したのです。そして、房に「触れた理由と、たちまちいやされた次第を皆の前で話した」のです。 もちろん、これはイエス様に話したのです。しかし、それはそこにありますように「皆の前で話した」ということでもあります。

 結婚の誓約

 昨日の午後、渋谷教会で、私たちの教会の未倍餐会員である嶋田真純さんと奈良の大和キリスト教会の会員である小林香太さんとの結婚式が挙行されました。中渋谷教会からも多くの方が参列して下さいました。司式は大和キリスト教会の市川忠彦牧師です。その司式において強調されていたことは、結婚の約束は神の前でするだけではなく、参列した多くの証人たちの前でするのだということです。参列者は、結婚の誓約を「証人として」聞くということでもあります。今後二人がその誓約から外れることがないように見守り、支えるということでもあるでしょう。
 私にとっては初めての経験でしたが、新郎新婦が結婚の誓約の後に、これから築く新家庭の憲法を皆の前で朗読をするという場面もありました。「ありがとう」と「ごめんなさい」を大切にするとか、朝夕の食事を一緒にするとか、喧嘩しても翌日には仲直りするとか、当たり前と言えばあまりに当たり前、しかし、実際に実行するとなるとなかなか難しい内容のものでした。それを聞いている証人たちも、完全に守っている人はいないでしょう。
 しかし、そういう誓約とか憲法の朗読を、神の前だけではなくそこに集った人々「皆」の前ですることは、やはり大きな意義があることです。二人を愛し、結び付けてくださった神様の愛に応答することは、二人だけの秘め事ではなく、また心の内側のことだけではなく、公のことであることを意味するからです。神様の愛に対する感謝の応答は、そういうものとなって初めて意味があるのです。

 皆の前で話した

 ただちに血が止まったことは、女だけが知っている秘密です。しかし、今、彼女は自分の中に入ってきて発酵している主イエスの言葉の故に、その秘密を「皆の前で話した」のです。
 「話した」は、ただ話したのではありません。原文のアパンゲルロウは、「知らせる」「宣言する」「告白する」という意味のある言葉です。彼女は、自分に起こった事実を皆の前で公に宣言したのです。自分の身に起こったことを人々に知らせ、そしてイエス様への感謝を、その信仰をひれ伏しながら告白したのです。彼女の中にまっすぐに入ってきたイエス様の言葉が、彼女の中で発酵して、こういう信仰の告白を生み出したのです。そんなことを自分がするなんて、彼女自身がいちばんビックリしたでしょう。新たに生まれ変わるとは、そういうことです。

 信仰と救い

 イエス様はその告白を待っておられました。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」

 もちろん、彼女はヤイロの娘のような年若い女ではありません。もう中年に差し掛かった女でしょう。でも、この告白をした時、彼女は、神の子であり神の娘なのです。主イエスを信じ、主イエスの言葉を受け入れ、溢れてくる信仰を告白するとき、人は神の子となる。霊によって新たに生まれ変わるのです。その時、病の「癒し」は、罪と死からの「救い」になる。そして、その「救い」を与えるためにこそ、主イエスは「だれかがわたしに触れた」と言って、一人の女を捜し求められたのではないでしょうか。

 平和のうちに出ていきなさい

 続けてイエス様はこう言われました。

「安心して行きなさい。」

 中渋谷教会は九〇年代後半に礼拝式次第の学びをして、礼拝の初めと終わりに「招きの言葉」と「派遣・祝福の言葉」を導入しました。非常に大きな意味を持つ変更です。その「派遣の言葉」を、この教会の主任牧師として初めて読んだ時、私は心を動かされました。そして、毎週、説教と共にこの派遣の言葉と祝福をするためにこの講壇に立っています。そこで私は皆さんにこう告げます。

「平和のうちにこの世へと出て行きなさい」。

 原語では「安心して行きなさい」と、全く同じ言葉です。礼拝を終えて出て行く者に最も相応しい言葉です。後ろから隠れてであっても、主イエスに触れたいと切実に願って礼拝した方は、今日も主イエスの言葉がその心の中に入り、内部から造り替えられ、恐れを伴う祈りと賛美をもってその信仰の応答をするでしょう。その時、主イエスはその人々にこう言われるのです。

「神の子らよ、あなたの信仰があなたを救った。平和の内に出て行きなさい。」

 「あなたの汚れを、私が引き受けた。あなたの罪を、その結果なる死を、わたしは十字架において引き受けた。わたしを信じなさい。わたしはあなたの罪を贖い、復活した主だ。わたしを信じなさい。その時、あなたは救われる。さあ、平和のうちに出ていきなさい。主なる神を愛し、隣人に仕え、主なる神に仕え、隣人を愛しなさい。わたしはあなたと共にいる。心配しないでよい。」

 皆さんにとって、今日の礼拝がこの言葉を聞く礼拝でありますようにと祈ります。
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