「娘よ、起きなさい」

及川 信

       ルカによる福音書  8章49節〜56節
8:49 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」8:50 イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」8:51 イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。8:52 人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」8:53 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。8:54 イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。8:55 すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。8:56 娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

 汚れとの接触

 今日は、四九節から朗読しましたが、話は四〇節から始まっています。
 異邦人の地ゲラサにおいて悪霊に取り憑かれた男を救われたイエス様は、その地の人々に追い出されるようにしてユダヤ人の地に帰って来ました。そこで、人々の大歓迎を受けたのですが、中でも、切実な思いでイエス様の帰りを待っている一人の人がいました。それはその町の会堂長であるヤイロという人です。彼のたった一人の子である十二歳になる娘が、「死にかけていた」からです。彼は、なんとしてもイエス様に自分の家に来ていただき、娘を癒して欲しかったのです。
 会堂長は職業なのか、人望厚き人に与えられた役職なのかは分かりませんが、会堂長という肩書きが重いものであることは確かです。ユダヤ人社会の中で「会堂」は極めて重要な位置を占めていました。彼らは会堂で律法を教えられ、安息日には賛美と祈りの礼拝を捧げており、その礼拝こそが彼らを結び付けているものだったからです。しかし、出血を伴う婦人病は汚れた病とされ、その病が治らない間、その女は会堂に入ることはできませんでした。汚れた者は会堂には入れないのです。
 死もまた汚れです。日本の神社もお祝いの儀式はしても、葬式はしなかったはずです。神社の境内地に墓はありません。死の汚れを嫌うからです。
 エルサレム神殿ではもちろん町や村にある会堂に遺体が運ばれ、そこで葬儀が営まれることも考えられませんでした。人が死ぬと、その遺体はすぐに町の外に出されて葬られましたし、死体に触れた者は清めの儀式を受けなければなりませんでした。四〇節以下に記される二つの出来事は、その死に至る「汚れ」とイエス様が「接触する」という点において一つの出来事なのです。

 あなたの信仰があなたを救った

 ヤイロは公衆の面前でイエス様の足もとに「ひれ伏し」ました。町の人々からの人望が厚かった人が、なりふり構わずイエスという男の足もとにひれ伏す。そして、一人娘の癒しを願う。それは尋常なことではありません。その必死の願いに応えて、イエス様はヤイロの家に向かいます。しかし、イエス様には群衆が押し合うようにしてついてきのです。
 そして、十二年間も出血が止まらない女とのやり取りが始まりました。イエス様は立ち止まって、群衆の中に隠れている女を呼び出そうとする。ヤイロは、もういい加減にしてくれ!と叫びたい気持ちだったでしょう。一刻も早くイエス様を家に連れて行きたいのに、なんでこんな邪魔が入るのだ!イエス様も、一刻を争うこの時になぜ急いでくださらないのだ?!そういう思いがあったと思います。
 しかし、そんなことにはお構いなく、イエス様は女を呼び出し、ついに「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と祝福し、また派遣をされました。つまり、ここには毎週の礼拝で起こる出来事が記されているのです。私たちもまた、様々な汚れの罪を犯しつつ生きており、恐る恐るイエス様に触れ、呼び出され、信仰を告白し、その信仰の故に清められ、新たにされ、祝福され、そして派遣されるのですから。

 煩わすことはありません

 しかし、その祝福と派遣、救いの宣言がなされたまさにその時に、「会堂長の家から人が来て」、その人が「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わせることはありません」と言いました。ヤイロは高い崖の上から絶望の谷底につき落とされたも同然です。死は、人間がどうしても越えることが出来ない壁ですから。死んでしまった人間に対して私たちが出来ることは丁重に葬ることだけです。だから使いの者は「先生を煩わすことはありません」と言うのです。娘が癒されることを願ってイエス様を呼んだヤイロも同じ気持ちだったでしょう。イエス様が女になど構わずにまっすぐに家まで来てくれれば間に合ったかもしれないのにという忸怩たる思いが彼にはあったでしょう。でも、時既に遅しです。彼は、「お聞きになったとおりです。もうこれ以上あなたを煩わすことはしません」と言おうとしたかもしれません。

 ただ信じなさい

 しかし、イエス様は使いの言葉を聞いて、ヤイロにこう言われました。

「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」

 「信仰と救い」が、「汚れとの接触」と並んで、この二つの出来事を結びつけるものです。そして、「病の癒し」が「死からの復活」へと進んでいくのです。また、本人の信仰ではなく、親の信仰が問われるという変化もあります。
 「恐れ」は聖書において大切な言葉です。様々な意味で使われています。ヤイロの場合は闇の力、死の力に覆われてしまった時に感じる絶望、そういうものが彼を捕らえたのだと思う。そのことに対して、主イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」とおっしゃったのではないかと思います。彼がその言葉を受けて「信じた」かどうかは、本文を読む限りでは分かりません。しかし、「こういう時の信仰こそ、命をもたらす力になるのだ」。主イエスは、そうおっしゃっているように思います。

 死と眠り

 その後、主イエスは、信頼する三人の弟子たちと両親だけを連れて、家の中に入っていきました。その場に集まっていた人々は皆、「娘のために泣き悲しんで」いました。彼らは、皆、「娘が死んだことを知っていた」からです。
 そういう人々を前にして、「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と、主イエスはおっしゃったのです。集まっていた者たちはあざ笑いました。当然の反応でしょう。しかし、私たちはここで立ち止まって深く考えていかねばならないと思います。
 「死」「眠り」と表現することはしばしばあります。日本語でも「永遠の眠りについた」と言えば、「死んだ」ことを意味します。中渋谷教会はかつて十一月の第一主日礼拝を「永眠者記念礼拝」と言っていました。今は「召天者記念礼拝」と言っています。世の終わりの日に起こる死人の復活をキリストの勝利の福音として宣教する教会が、信仰をもって死んだ人々を「永眠者」と呼ぶことに違和感を持ったからです。私たちは永遠に眠るわけではありません。復活して天に挙げられた主イエスから「起きなさい」と言われて起き上がるのです。そのことを信じ、また望みつつ生きているのです。主イエス・キリストに対する信仰を与えられた者の死は復活に向けての死なのです。
 この箇所を読みつつ、ヨハネ福音書のラザロ復活の出来事を思い起こす方もおられると思います。あの時もイエス様は「ラザロが眠っている(コイマオウ)」と言い、また「ラザロは死んだのだ」ともおっしゃった。そして、「あなたがたが信じるようになるため」という言葉もあります。

 眠りの意味

 「死」「眠り」、そして「信じる」がいずれの場面でもキーワードです。
 イエス様はヤイロの娘に対して「眠っている」と言われました。原語ではカシュウドウという言葉です。テサロニケの信徒への手紙で、パウロはカシュウドウを「死んでいる」という意味で使います。彼にとって、「眠っている人々」は、主イエスによって起こされるのを待っている人なのです。しかし、同じ手紙の中で、「救いに関して無関心」「鈍感である」という意味でも使うのです。その部分は、後で引用します。
 ルカ福音書では、二二章四六節にもう一回だけ使われています。いよいよ逮捕され、十字架に磔にされる直前に主イエスは苦しみ悶えつつ「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。その時、イエス様が弟子たちの所に来て見ると、彼らは「悲しみの果てに眠り込んでいた」。コイマオウという言葉です。イエス様は、その様を見て「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われました。こちらの「眠り」はカシュウドウです。一つの現実を異なる言葉で表現することはよくあることですけれど、ひょっとすると、目に見える現実としては眠っているという点で同じでも、イエス様から見れば、この時の弟子たちは誘惑に陥ってしまっている。単に眠っているのではなく、死んでしまっている。そういうことを表わしているようにも思えます。

 起きる

 「起きて祈りなさい」「起きて」(アニステーミ)は、「立ち上がる」という意味と共に、「死人からの甦り」、「復活する」の意味でしばしば使われる言葉です。ここで、イエス様は弟子たちに具体的な意味で地面の上に「立ち上がる」ことを求めているわけではありません。誘惑に陥らないように意識を覚醒して祈ることを求めておられるのです。その時に人は生きるからです。だから、眠りから覚めて「起きる」とは「新たに生きる」ことを意味するのです。

 アダム

 「死」「眠り」について考えていた時に、突然、アダムを思い出しました。アダムは土(アダマ)から造られたと記されています。人間の肉体は土に属する物体ということでしょう。その時の彼は「生きる者」とは言われません。横になっていたか、立ち上がり歩いていたかは別にして眠った状態(死んだ状態)だったのではないかと思います。主は、そのアダムの鼻から「命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。息(ギリシア語ではプノエー)は霊とか風を意味するプニュウマと同類の言葉です。この神様からの命の息が吹き入れられた時、人は初めて生きるのです。神様との霊的な繋がりに生きる、神様と息を合わせて生きる命こそ人の命です。
 「善悪の知識の木から食べると、必ず死んでしまう」の言われる時の「死」は、本質的に肉体の死を意味するのではなく、神様との霊的な繋がりを破壊し、失ってしまう死なのだと思います。命の息を失っても、肉体は生きています。しかし、誘惑に落ちている時、人間の本性における命は既に死ぬのです。「そういう死に陥ってはならない」。神様は、そういう願いを込めて「決して食べてはならない」とおっしゃったのではないか?

 霊的な死

 また、アダムが独りでいる状態は「良くない」と、神様は言われ、彼を深い眠りに落とした上で、彼のあばら骨(愛が宿る場所)から女を造り、二人は一体の交わりを生きるようにされました。
 しかし、彼らは神様の戒めを破り、結果として自分たちの一体の交わりを破壊し、互いに裸では立ち得なくなり、神様が出てくれば葉っぱの陰に隠れる人間になったのです。その時だって、肉体は生きています。しかし、「必ず死ぬ」という神様の言葉は嘘ではなかったのです。彼らは命の息を失い、その息、霊を失ったまま生きているのです。それは「誘惑に落ちて眠っている」と言われる状態、つまり、霊的には死んでいるのではないでしょうか。

 眠りと目覚め

 パウロはテサロニケの信徒への手紙一でこう言っています。

「わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。(中略)神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(一テサ五:五〜一〇抜粋)

 ここで「ほかの人々のように眠っている」とは、罪の世、暗闇の中に生きていることを意味するでしょう。かつての私たちの状態でもあります。肉体的には生きている。この世的には成功している。幸福でもある。しかし、霊的には眠っている。死んでいるのです。闇に属し、闇に隠れて生きているからです。神様の光の前に出てこないからです。しかし、そういう私たちを光の中で新たに目覚めさせるために、主イエスは「わたしたちのために死なれた」のです。

 誰のための福音書?

 私たちは今、ルカ福音書の八章後半を読んでいます。そこに記されていることはいずれも異常な事態です。私たちの多くにとってはあまり経験したことがない特殊なケースだと思います。乗っている舟が暴風によって沈みそうになるとか、悪霊に取り憑かれて裸で墓に住んでいるとか、病の故に汚れた者とされ全財産を失った上に社会から排除されているとか、十二歳の娘が死んでしまう。その中の一つとか二つの経験はあっても、すべてはない。それはこの福音書を書いたルカも分かっています。しかし、彼はそういう特殊な出来事を書き連ねていきます。その理由の一つは、「イエス様はこういう特殊な深刻な現実を生きている人たちにとっても救い主なのです」と語りたいからだと思います。
 しかし、それだけなのかと言えばそんなことはないでしょう。私たちは「世の荒波を乗り越える」と言う場合があります。また、理性が破壊され、当人も周囲の者もどうすることも出来ない病気は今でも様々にあります。しかし、そのことの本質は救いを求めながらも「構わないでくれ」と叫ぶことだと思います。現代の世の中で救いを求めていない人はいません。しかし、私たちは救いを求めつつ、主イエスの足もとに座ること、ひれ伏すことは拒んでいるのです。悔い改めることは拒む。ナザレのイエスを「いと高き神の子」として信じようとしない。それまでの自分に死ぬことを拒み、その結果、新しく生きること、起き上がることを拒むのです。そして、肉体は生きていながら、霊においては死んでいる。十二年の出血の女、そしてヤイロの娘の話もまた、そういう人間存在の根源的現実を語っているのだと思います。つまり、具体的にはみな異なる現実を生きているけれども、すべての人間は霊的には死んでいる。ルカはそのことを書いているのでしょう。だからこそ、その文書は二千年間も世界中の人々に読み継がれてきたのだと思います。

 そこに私がいる

 時折、「まさか今日の聖書の箇所の中に私がいるとは思わなかった。ザアカイは私でした。悪霊に取り付かれていた男は私でした。十二年間の出血の女は私だったのです」という趣旨のことを言われることがあります。それは当然のことだと思います。私自身が、毎週、説教すべき聖書の言葉の中に自分を発見し、そのことにおいて主イエスとまみえることがなければ語るべきことはないからです。
 今日の箇所で言うと、主イエスに癒しは期待するけれど、復活は期待しないで、「ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と言われてしまうヤイロがいます。つまり、イエス様も死の力を前にしては無力だと思い込んでいる。それは他人事ではありません。しかし、その一方で、子どもの救いのために必死になっている姿を見ると、私はまるで眠った人間であるかのように見えます。
 また死に至る病の中に眠り続け、ついに死んでしまった娘がここにいます。その娘に自分を重ねてみると、神様から送られてくる聖霊を心と体に迎え入れず、ただこの世の空気を吸いながら、肉の欲を満たし、信仰が眠ってしまっている自分の姿が見えてきます。そして、ただの土くれとなって塵に帰っていくだけの自分の姿が見えてくる。
 しかし、そういう私のことを諦めることなく、見捨てることもなく、はるばる訪ねてきてくださり、死の汚れが伝染することを厭うことなく、死んでいる私の手を取って、「起きなさい」と語りかけてくださる。そして、命の息である霊を戻してくださる。そういうイエス様が今、私の所に来てくださった。そのことが分かる。
 主イエスの憐れみに満ちた行為と言葉によって霊が戻って来て、私たちの体内に入る時、死んでいた私たちは再び生きる者とされます。目覚めて起き上がることが出来るのです。そこに救いがあるのです。「この子はいなくなっていたのに見つかった。死んでいたのに生き返った」と、父から言われた放蕩息子において起こった出来事が起こる。

 誰にも話さないように

「娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。」

 かつてナインという町に住むやもめの一人息子を死から生き返らせた時は、人々は「恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また『神はその民を心にかけてくださった』と言った」とあります。イエス様も、口止めをされませんでした。しかし、ヤイロとその妻には口止めされた。それは恐らく、彼らの「非常な驚き」は、まだ神の御業を見ての「恐れ」「賛美」ではなかったからでしょう。いつの日か、彼らにも霊が入ってきた時、彼らは主を賛美する証人になると思います。

 証人として歩む

 私たちは、この箇所を読みつつ様々な感想を持ちます。人それぞれでしょうし、それで良いのです。しかし、今日の礼拝を「霊と真の礼拝」として捧げ、新たに証人としてこの世に派遣されるためには、聖霊の注ぎの中に置かれて、また聖霊に身を委ねて「恐れるな、ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる」という言葉を、今日、主イエスが自分に語りかけておられることを感じ取り、そのイエス様を信じることが必要です。また、主イエスの手から出てくる力を感じ、「起きなさい」という命の言葉を聴けた人は、聖霊によって目を覚まし起きることが出来るでしょう。そして、十字架と復活の主の証人として歩み始めることが出来るのです。
 皆様にとって、今日の礼拝がそういう礼拝でありますように祈ります。
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