「いったい、何者だろう」

及川 信

       ルカによる福音書  9章 7節〜 9節
9:7 ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、9:8 「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。9:9 しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。

 順序正しく

 今日の箇所は一読しただけでは、ちょっとしたエピソードの挿入のように見えます。しかし、ルカは福音書の冒頭に「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈する」と書いています。それは本当のことだと思います。こうやって皆さんと少しずつ読み進めていますと、ルカは一つの主題を巡って極めて慎重に、また思慮深く書き進めていることが分かります。ですから、今日はルカの叙述に沿ってご一緒にあちこち読んでいきたいと願っています。

 主題

 ルカは、一つの主題に基づいてこの福音書を書いています。その主題とは、「イエスとは誰か」です。「イエスとは何者なのか」と言っても良い。彼は、イエス様のことを客観的に順序正しく描いているようでありつつ「自分にとって何者なのか」を迫る形で描いているのです。福音書の登場人物がその問題を巡って困惑したり、驚いたり、喜んだり、怒ったりしているのですが、そういうことが読者である私たちにおいても起こるように願いつつ、彼はこの福音書を書いています。

 文脈

 ルカはこれまで、ガリラヤ地方におけるイエス様の伝道活動が大きな反響を呼び起こしている様を描いてきました。今日の箇所は、ある意味ではその頂点です。ガリラヤ地方の領主ヘロデにまでその噂が届いたのですから。しかし、その頂点は、イエス様のエルサレムにおける死を暗示するものでもあります。そのことを通して、「イエスとは何者なのか」を私たちに問いかけているのだと思います。

 様々な称号

 イエス様が何者であるかに関して、ルカはこれまで様々な言葉(称号)で表現してきました。ある学者は、「そのどんな称号も、イエスが何者であるかを言い尽くすことはできない」と言っていますが、確かにそうだなと思います。
 たとえば、天使ガブリエルは乙女マリアに向かって、イエス様のことを「偉大な人」「いと高き方の子」と言います。人でありつつ神の子なのです。マリアの訪問を受けたエリサベトは、マリアの胎に宿る子を指して「わたしの主」と言いました。「主」とは、基本的に神様を表わす言葉です。また、主の天使たちは野宿をする羊飼いに「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と言ったのです。
 伝道を開始されたイエス様から追放されてしまう悪霊たちは「お前は神の聖者だ」「神の子だ」「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」と叫びつつ出て行きました。
 しかし、主イエスに実際に出会い、その言葉を聞き、その業を見た人々の中には、「この人はヨセフの子ではないか」と言う人々がいました。イエス様の故郷ナザレの人々です。自分たちと同じ人間のはずなのに、なぜこんな言葉を語ることができるのかという驚嘆がそこにはあり、また一種のつまずきもあるでしょう。現に、彼らはこの後、イエス様を崖から突き落とそうとするのです。
 また、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう。」と訝しがる人々がいました。これはイエス様を自分たちにとって危険な人物と考えている律法学者とかファリサイ派の人々の思いです。彼らは、この時既に、いつの日かイエスを抹殺せねばと心の中で思い始めているのです。
 その一方で、目の前でやもめの息子が生き返ったことを目撃した人々は、大いなる恐れに捕われつつ「大預言者が我々の間に現れた」と言って神を賛美しました。彼らにとって、イエス様は「大預言者」でした。
 けれど、弟子たちは、イエス様の様々な業を見つつも、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と言っているのです。その弟子たちと同じ言葉を、ヘロデが言うのです。もちろん、込められた思いは違いますが言葉そのものは同じです。
 つまり、ルカは天使の言葉によってイエス様が誰であるかを明言した上で、この地上の人間はイエス様を見て困惑している。むしろ、悪霊たちがその本質を一瞬で見抜いている。そういう現実を描いてきたのです。人々が心に抱く「大預言者」というイメージも当たっている面とまったく見当違いな面とがあります。

 この後の展開

 今日の箇所は、イエス様に派遣された十二弟子が「至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」という記述と、「十二使徒は帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」という記述の間に挟まれています。その後は、「五千人の給食」と呼ばれる大きな奇跡の記事があります。
 その後、イエス様ご自身が弟子たちに「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは今日の箇所に出てくるのと同じ言葉で答えます。すると、イエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われる。それに対して、ペトロが「神からのメシアです」と応答するのです。
 そこで初めて、主イエスはご自分が「長老、祭司長、律法学者たちによって排斥され、殺され、三日目に復活する」と預言をし、九章四四節でもほぼ同様の預言をされます。
 しかし、ルカは「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった」と書いています。
 そして九章五一節に、「イエスは天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあり、以後、主イエスとその一行はエルサレムに向かう旅を始めます。
 このように前後の文脈を見ると、今日の箇所が、ガリラヤ伝道の頂点でありつつエルサレムの受難に向かう助走のような所であることがよく分かると思います。

 ヘロデの戸惑い

 七節を読みます。

「ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。」

 直訳すれば、「領主ヘロデはこれらの出来事をすべて聞いた。そして戸惑った」です。戸惑った理由は、人々の間でイエス様に関する異なる憶測あるいは見解があったからです。しかし、より深い次元では、その一つ一つの憶測が領主としてガリラヤ地方一帯を支配している自分にとって危険なものであったからだと思います。

 出来事すべて

 最初に「領主ヘロデはこれらの出来事をすべて聞いた」の意味を考えます。「これらの出来事すべて」とは直前の出来事だけを指してものではありません。イエス様のガリラヤ伝道のすべてと弟子たちの派遣の両方を指した言葉です。今や弟子たちもイエス様と同じように神の国が到来した福音を町々村々で告げ知らせ、病を癒す業まで始めているのです。当然、多くの人々が彼らの言葉を聞き、その業に触れるために集まってきます。ヘロデの言葉を聞くためにわざわざ集まってくる人などいません。今だって、権力を振るう政治家たちが開く集会の大半は動員された人たちの集まりです。彼らは一人でも多くの人々を集めるために必死です。しかし、イエス様の行く所には何の宣伝もしなくても人々はどんどん集まってくる。そして、今や弟子たちも、イエス様と同じような業をするようになっている。その噂は嫌でもヘロデの許に届きました。
 イエス様や弟子たちが宣べ伝える「神の国」とは「神の支配」のことです。イスラエルという名前も「神の支配」を表わすと言われます。その支配は、明らかに、領主ヘロデの支配とは相容れないものです。しかし、今やその神の支配が彼のお膝元であるガリラヤに広がりつつある。その事態に、彼は非常な警戒心を持ったに違いありません。

 人々の噂 ヨハネ

 さらに、彼を大いに戸惑わせたのは人々が言っていることです。人々も、イエス様が誰であるかはよく分からない。様々な憶測がある。そのことがヘロデの戸惑いの原因の一つです。しかし、その噂のどれをとっても放置しておくことが彼にとって非常に危険なことなのです。それが彼の戸惑いの本当の原因です。
 ある人々は「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言っていました。洗礼者ヨハネです。彼は、イエス様の先駆者として人々に悔い改めを迫った人物です。そして、領主ヘロデの悪事も遠慮会釈なく非難しました。権力者は、そういう者を放置しておくことはできません。ヘロデは、ヨハネを逮捕して牢獄に閉じ込めました。しかし、今日の箇所では、ヘロデはそのヨハネを既に斬首しています。細かいいきさつはマルコやマタイ福音書が記していますが、ルカは結果だけを記します。
 ヨハネのように、この世の権力を恐れず神のみを恐れる者、それなのに多くの人々に影響を与える者を、ヘロデのような権力者は許すことができません。だから、殺したのです。しかし、人々の中に、自分が殺した「ヨハネが生き返った」と言っている者たちがいる。今はまだそのイエスという男はヘロデの悪事をあからさまに非難はしていないようだ。しかし、いつ何時、ヨハネのように「ヘロデは神に背く罪人だ。悔い改めなければ裁かれる」と公言しないとも限らない。そうなったら大変なことになる。そういう恐れが彼にはあったでしょう。

   人々の噂 エリヤ

 ある人々は「エリヤが現れたのだ」と言っていました。エリヤはモーセに並ぶ大預言者で、この後の「山上の変容」と呼ばれる場面でもモーセと共に登場し、イエス様と語り合う人物です。
 旧約聖書の最後に置かれているマラキ書の最後にこうあります。

「見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。」


 キリスト教会の正典である旧約聖書はこの言葉で終わり、新約聖書に繋がっていくのです。そして、イエス様は恐らくヨハネをこのエリヤの到来として理解していたと思います。いずれにしろ、エリヤが来るとは「大いなる恐るべき主の日が来る」ことです。主の審判の日が来るのです。その時に罪を悔い改めていない者は、主によって撃たれて破滅する。そこに、神の国到来の一つの側面があるのです。これもまたヘロデにとっては有り難くない預言です。彼は罪を悔い改めることを拒絶する人間ですから。

 人々の噂 昔の預言者

 「昔の預言者」は、人々の罪に止まらず王や貴族たちの罪を指摘し、悔い改めを迫った人々です。これもまたヘロデにしてみれば厄介な存在です。権力や地位を持っている人間にとって厄介な者、邪魔者は消されることが、しばしばあります。抹殺しなければ、自分たちの地位が脅かされてしまうからです。

 会ってみたい

 これらの噂を聞いて「戸惑った」ヘロデは、「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」と言いました。
 「戸惑った」は新約聖書ではルカだけが使う言葉ですけれど、強い意味をもっています。存在の根底が揺さぶられるような驚きとか困惑を意味するのです。このまま放置しておくことは危険だという恐怖を伴う戸惑いです。
 その戸惑いをもって、彼は「イエスに会ってみたいと思った」のです。直訳では「彼を見ることを求めた」です。「見る」はもちろん姿を見ることだし会うことを意味します。しかし、より深い次元では正体を「知る」とか「理解する」という意味を持った言葉です。そのことを彼は求めた。巷で噂のイエスに興味を持ったから、ちょっと会ってみたいという感じではなく、会うことを切実に求めたのです。それは、場合によっては、ヨハネ同様に殺害しようと思ったということです。
 この先の一三章三一節では、エルサレムに向かうイエス様に対して、数人のファリサイ派の人が近づいて来てこう言いました。

「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」

 ヘロデは、噂が耳に入ってきて以来、イエス様の動向を注意深く見始めたでしょう。部下を遣わして民衆の中に紛れ込ませ、イエス様の言葉や業を監視し、人々の反応を報告させただろうと思います。その上で、彼はイエス様を殺すほかにないと決心し、その殺意が少なくともある人々には知られることになっているのです。
 その時、イエス様は非常にきつい言葉でこう応答されました。

「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、あり得ないからだ。」

 イエス様はいかなる脅しにも屈しません。その結果、ついにヘロデはイエス様に会うことになります。

 ヘロデ イエスに会う

 イエス様は、九章五一節からエルサレムに向けての旅を始められます。それは、「天に上げられる時期が近づいた」からですが、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ないから」でもあります。イエス様は、生きたまま天に上げられるわけではありません。
 エルサレムに入ったイエス様は、民の長老、祭司長たち、そして律法学者らによって逮捕され、処刑すべき罪人としてローマの総督ピラトの許に連れて来られます。彼しか、人を十字架上で死刑にする権限はなかったからです。しかし、ピラト自身はイエス様に処刑すべき罪を見出せませんでした。そこで、たまたまエルサレムに滞在していたヘロデに、ガリラヤ出身のこのイエスという男に対する処分を下すように送りつけるのです。ヘロデは喜びました。

「彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。」

 イエス様はもちろん何もお答えになりません。奇跡を見世物として提供することを求める者たちに何を言ったとしても無意味です。ヘロデは怒りました。これまで絶えずイエスという男の噂を気にしており、脅えてもいたからです。しかし今、そのイエスが惨めにもこの世の権力によって拘束され、なす術もない。その様を見て、「ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスを嘲り、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返し」ました。彼はここぞとばかりに激しい侮辱を与えたのです。口汚く罵り、嘲り、王をイメージする服を着せたのです。これまで不安や恐怖に脅えていただけに、その侮辱の仕方は激しいものだったと思います。
 ルカは、その後にこう書きます。

「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」

 私たちの国の政治の世界で、今もまさにこういう現実を見させられています。目先の利害さえ一致すれば、昨日の敵は今日の友であることは、昔も今も変りありません。

 結局すべての人が

 しかし、こういう政治家、権力者たちだけがイエス様を十字架につけたのではありません。多くの庶民も「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ぶようになったのです。イエス様がエルサレムに近づくにつれて、病気の癒しや悪霊追放などの「しるし」をなさらなくなったということが理由の一つでしょう。
 イエス様は人々の心を知っておられました。最初の受難・復活預言では、「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」とおっしゃいましたが、二度目は、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」とおっしゃっているのです。三度目の預言では、「人の子は異邦人に引き渡されて」という言葉が入ります。つまり、イエス様を十字架につけるのは、権力者だけではない。庶民も同じだし、ユダヤ人だけではない。異邦人もだということです。結局、すべての人によってイエス様は十字架に磔にされる。イエス様は、そのことをご存知だった。そのことをルカは丁寧に書き記していくのです。

 問い

 そして、ルカは、この福音書全体を通して「あなたは、この福音書に記されている方を何者だと言うのか」と、問いかけてくる。私たち一人ひとりにです。イエス様ご自身が、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねた上で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけてこられるのです。
 世界史の教科書などでは、イエス様は、「釈迦、ソクラテス、孔子、キリスト」という感じで「偉人」とか「聖人」と呼ばれる者の一人となっています。だから、日本人に「イエスとは何者か」と聞けば、偉大な人、愛の教師、キリスト教の開祖という答えが返ってくるだろうと思います。それはそれとして、一面の真理でしょう。しかし、先ほども言いましたように、どれをとってもイエス・キリストのことを完全に言い表すことはできないのです。しかし、より本質的な問題は、自分と無関係にイエス様を「何者だ」と言ったところで、何の意味もないということです。

 応答

 「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」との問いに対して、私たちを代表する形で、ペトロは「神からのメシアです」と答えました。その答えが正しいか正しくないかは本質的な問題ではありません。だから、イエス様はそのことに関して何も言いません。しかし、このペトロの信仰告白後に、ご自身の受難と復活を初めて預言されるのです。
 その上で、こう続けられました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」

 イエス様はご自身の命を懸けておられます。私たちの「メシア」「救い主」となるために、「いと高き神の子」として「神の国」「王」となるために命を懸けておられます。そして、その永遠の神の国に私たち罪人を招き入れるために命を懸けておられるのです。聖霊によってマリアに宿った「主」とは、「神からのメシア」とは、そういう方です。
 そして、その方は受難と復活を経て天に上げられ、今は全能の父なる神の右に座し、世の終わりの日に「父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来る」終末の主です。世の終わりに完成する神の国の王なのです。
 この方のご支配の中を生きるとは、やはり命懸けなもとのならざるを得ません。この世の支配の下に生きる命を第一のものとする限り、神の支配の下に生きる命を得ることは出来ません。あっちもこっちも取ることはできないのです。イエスを「キリスト」「救い主」「主」「王」として信じ、従うとは、自分の命を自分で救うことを放棄することです。この世の中での安泰を求めることを放棄し、ただ神の国と義を求めて歩むことなのです。そうすれば、必要なものは加えて与えられることを信じて、主イエスにすべてを委ね、明け渡すことなのです。その時にのみ、主イエスによって与えられ、守られる永遠の命、神の国で生きる命を生き始めることが出来るのです。

「その命を生きよ。私はその命を与えるために、これからエルサレムに向かうのだ。私についてきなさい。そのことに伴う自分の十字架を背負って従いなさい。そこにしか、私が何者であるかを知る道はない。私に会いたいのであれば、罪を悔い改め、私に従いなさい。それが神に帰ること。それが神の国に生きることなのだ。」

 主イエスは、そうお語りになっていると思います。信じて従う者とならせていただけるように祈ります。
 
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