「あなたがたが与えなさい」
9:10使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。9:11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。9:12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」9:13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」9:14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。 9:15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。9:16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 9:17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。 今日の箇所は「五千人の給食」の奇跡と呼ばれる記事で、四つの福音書すべてに記されている唯一のものです。それだけ多くの人々の記憶に残った大事件なのです。実際、男だけで五千人という群衆が五つのパンと二匹の魚で満腹したのですから、その噂は広く伝わって行っただろうと思います。この奇跡について福音書によって記述の仕方が異なり、そこにそれぞれの福音書の個性が表れます。しかし今日は、ルカ福音書においてこの出来事がペトロのキリスト告白の直前に置かれていることの意味を考えていきたいと思っています。 文脈 今日も前後の文脈を少しだけ振り返ることから始めます。9章の最初から登場するのは「十二人」、つまり主イエスが選ばれた十二弟子です。イエス様はこれまでずっと弟子たちの前で神の国の伝道を継続してこられました。説教をし、また癒しや悪霊追放の業をなさってきたのです。弟子たちは、そのすべてを見てきました。弟子たちが最初にすることは、何よりも師匠のするすべてのことを見ることです。そして、その十二人に「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになり」、「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために」遣わされたのです。しかし、その時、主イエスは彼らに「何も持って行ってはならない」とお命じになりました。その命令を受けて「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやし」たのです。 その次の段落に、ヘロデの戸惑いと「いったい何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」という疑問が差し込まれています。この問い、あるいは問題がペトロの「神からのメシアです」という「キリスト告白」に繋がる問いとなります。また、イエス様とは何者であるかは福音書全体の主題であることは言うまでもありません。 ヘロデの問いに続くのは、派遣された使徒たちの伝道報告です。ルカは明記していませんが、多分、イエス様は弟子たちを少し休ませる意図をもってベトサイダという町に向かわれたのだと思います。しかし、群衆はイエス様たち一行の後を追い、イエス様は嫌な顔をせずに彼らを迎えました。そして、これまで同様に「神の国について語り、治療の必要な人々を癒し」ました。そうこうする内に夕方になったので十二人は心配し始めました。男だけで五千人、全体では万をはるかに越える大群衆を飲まず食わずのままにさせ、野宿をさせるわけにはいかないからです。 しかし、イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお命じになり、その後、お読みしたような次第で皆が食べて満腹し「残ったパン屑を集めると十二籠もあった」のです。 9章に入って「十二」という数がここまでに4回も出てきます。そして、ルカの場合はこの出来事の直後に、イエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と、弟子たちに鋭く問われるのです。これはもちろん、今日ここに集まっている私たちへの問いです。 ですから、「十二人」と「イエスは何者か」という問いが密接な関係を持っていることは明らかです。そして、その関係の中心に「神の国」がある。つまり、神の支配の到来です。その神の支配とは何を表わすのか、またその国の王はどういうお方なのか。その国はどのようにして広まっていくのか。それが9章の問題だと思います。 弟子の訓練 イエス様が弟子たちを鍛え始めていることは明らかです。神の国が到来したという喜ばしい現実、その福音はいつの日か必ず弟子たちを通して全世界に広められていくべきものだからです。ルカ福音書に出てくる最後の言葉は、復活された主イエスの言葉ですが、それはこういうものです。 「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、3日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力(聖霊)に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 この後に起こる聖霊降臨によって「苦しみを受け、3日目に死者の中から復活する」メシア(王・キリスト)の到来、つまり神の国の到来が弟子たちを通して全世界の人々に宣べ伝えられていくことになります。彼らは、その命を懸けて十字架と復活の主イエスの愛とその支配(守り)を証していきました。 群衆にとってのイエス 今日の箇所に戻りますが、イエス様としては、使徒としての働きをして帰ってきた弟子たちを少し休ませたかったのだろうと思います。しかし、「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った」のです。「従った」とも訳される言葉ですが、彼らも必死なのです。イエス様の言葉を聞きたい、その御業に触れたい。そのことを通してヘロデに代表される「この世の支配」から、「神の支配」の中に生かされたい。そう願っている。この時の彼らにとって、イエス様はいつの日か到来する「神の国」の道備えをする預言者です。それが洗礼者ヨハネであれ、エリヤであれ、他の誰かであれ、彼らにとってイエス様は預言者の生まれ変わりなのです。 荒野とパン この時、イエス様たちはまだベトサイダの町には入っておらず、その手前の「人里離れた所」にいたようです。「荒野」とも訳される言葉です。「荒野におけるパン」と聞くと、出エジプト後の荒野放浪40年の間に、主が天からマナという不思議な食物を与えてイスラエルの民を養ったことを私たちは思い起こします。この出来事は、イスラエルの民にとって決して忘れ得ない救いのしるしです。 しかし、主は約束の地カナンに入る直前に、モーセを通してイスラエルの民にこう語りかけたことも忘れてはならないでしょう。 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」 主イエスは洗礼を受けた直後に荒野で40日間、何も食べずに、悪魔から誘惑を受けられました。その時、悪魔は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」とイエス様に言います。しかし、イエス様はただひと言「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。そのことも今日の箇所を読む時に想起すべきだと思います。 預言者とパン 必ずしも「荒野」とは関係がありませんが、列王記下4章にエリシャという預言者にまつわるこういう話が出てきます。ある地方に飢饉が襲ってきた時、一人の男が「神の人」とも呼ばれていた預言者エリシャの所に「初物のパン、大麦パン20個と新しい穀物」を持ってきたのです。エリシャが召使に「人々に与えて食べさせなさい」と命じると、召使は、「どうしてこれを百人の人に分け与えることができましょう」と答えます。しかし、エリシャはもう一度同じ命令をしつつ、こう付け加えるのです。 「主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」 召使がエリシャの命令に従うと、「主の言葉どおり彼らは食べきれずに残した。」 五千人の給食の背景には、こういった旧約聖書の物語があるだろうと思います。そうであるならば、イエス様こそモーセのような大預言者、エリシャのような大預言者の生まれ変わりだと当時の人々が思ったとしてもおかしくはないように思います。 貧困と飢餓と幸い しかし、この箇所はイエス様が預言者の再来であると言っているのかと言うとそうではない。少なくとも、それだけではないと思います。 イエス様が弟子たちにおっしゃることは大体どれをとってもすぐには意味が分からないし、納得出来るものではありません。「何も持って行ってはならない」もそうだし、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」もそうです。何を言っているのか、何故そんなことをおっしゃるのか、十二弟子たちには分からなかったと思います。彼らの身になってみると、茫然とするだけではなく腹が立ちます。「一体どういうつもりで、そんなことをおっしゃっているのですか。もういい加減にしてください」と言いたくなるのです。 しかし、イエス様ご自身が絶食による飢えを経験しているのだし、無一文で伝道をしているのです。 そのイエス様が、ある時、弟子たちを見つつ言われた不思議な言葉を覚えておられると思います。これもこの世の現実とは全く異なる神の国の現実を表わす言葉です。 「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。 今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。」 この言葉も、聞いただけでは意味が分かりません。イエス様の言葉は経験しないと分かりません。「飢え」は、単に食物を食べることが出来ない飢えに止まらず、生活上の様々な困難を含むと思いますけれど、神の国の現実の中に病気の癒しとか飢えが満たされるという具体的現実が含まれていることは大事なことだと思います。イエス様がもたらす神の国の現実は、ただ内面の平和に関することだけではないからです。 神の国の現実は、基本的にキリストの体なる教会を通して現れるものです。しかし、その「教会」とは中渋谷教会とか聖ヶ丘教会とか、そういう各個教会のことだけではありません。キリストの体なる教会の働きはいわゆる社会事業にまで広がるものです。教育、医療、福祉、平和活動など様々な分野に跨るものなのです。日本ではまだ数えることが出来る程度ですけれど、各地に建つキリスト教を土台とした学校や病院、福祉事業所、貧困や平和などの社会的問題に取り組む団体もまた、キリストの体なる教会の一部として神の国の現実を世に広めていく使命を担っているのです。中渋谷教会と関係の深い日本聾話学校もその一つです。 もちろん、そういうキリスト教系の団体の活動だけでなく、信仰をもって社会の問題に取り組む信徒ひとりひとりもまたキリストの体なる教会の一部であることは言うまでもありません。 「今飢えている人々が満たされる」とは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という主イエスの命令に従う者たちを通して実現していくのです。各個教会はそのために献金を捧げつつ、そういう現場で働く人々を輩出し、また支える必要があるでしょう。神様は、飢えている人々とそうでない人々が世界に存在することを喜ばれません。神様の支配の中では、すべての者が自分が持っている物を捧げて分かち合うべきなのです。 私たちもまた何らかの意味で、その様にして助けられ支えられた経験がありますし、助け、支える側に立ったこともあるでしょう。そのどちらも貴重な経験です。貧しく飢えているが故に満たされる「あなたがた」も、飢えている人を満たすために与える「あなたがた」も、イエス様にしてみれば幸いな人々なのです。しかし、貧しい者を顧みることなく、自分だけが富み、満腹し、笑っているだけの人々は不幸です。互いに愛し合う神の国に生きてはいないからです。そして、そのままである限り、来るべき裁きに耐えることが出来ないからです。イエス様は、そういう人々が不幸な人生を生き、結局は滅んでしまうことをお望みではないのです。だから「あなたがたは不幸だ」と言って悔い改めを求めておられるのです。 社会事業 昨日、「キリスト教書店ハンナ」が来て、定期購読している『ミニストリー』(宣教)という雑誌を置いていきました。私は、土曜日には、朝から説教原稿を少し書くと他のことをして少しも落ち着きません。郵便だとか夕刊が来たとか分かると即座にとりに行き、本や雑誌が来るとパラパラとページを捲ります。今回の雑誌のテーマは「教会の中心で『宣教』を考える」というもので、冒頭には来週説教に来てくださるキスト・岡崎・さゆ里宣教師ご夫妻の記事が出ていて嬉しく読みました。 その雑誌の中ほどに、『震災一年対談』「クリスチャン企業、クリスチャンNGOの働きを聞く」です。対談者の一人は日本国際飢餓対策機構の方で、もう一人はパンの製造会社の社長をしつつ様々な支援活動をしている方でした。その社長さんは、賞味期限が3年のパンの缶詰を作って自治体や学校に買ってもらい、2年が過ぎたところで会社が「下取り」をして、国内の災害地や海外の飢餓地域にNGOを通して送っているそうです。海外の貧困の極みにある飢餓地域では、その缶詰は中身のパンを食べた後コップとしても使えるということで非常に喜ばれているのだそうです。こういう働きも、広い意味でキリストの弟子たちの働きなのであり、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という命令に応えることの一環なのだと私は思います。各個教会もその働きには連帯すべきですし、私たちの教会も僅かながら社会事業に対して献金を捧げています。 教会と福祉のこころ 雑誌の後半には「教会と福祉のこころ」という連載記事があり、今回は高齢者福祉施設で働く方が「食事をともに」という題の文章を寄せていました。その方によると、「食事は通常気の合った者同士がするもので、施設では人付き合いの苦手な男性が独りで食事をするケースがしばしば見受けられる。しかし、そういう人と職員が一緒に食事をすることが本当に大切なことだ。なぜなら、食事を共にすることを通して、その人を神の御許に立ち返らせることが出来るからだ」と言うのです。そして、イエス様が町の嫌われ者であるザアカイの家に行き、一緒に食事をする場面を引用しておられました。 全体交流会 私たちは来週の午後、キスト先生も交えて全体交流会を持ちます。賛美の練習は春からやっています。その交流会のテーブルの席は伝道委員会の皆さんがよく考えて決めます。その基準は、普段の昼食の時には隣り合わせでは食べないであろう方たちを一つのテーブルにつけるということです。そのようにして、相互の交わりを深め、食事と共に神様の愛を分かち合うことを願っているのです。 イエス様が大勢の群衆を50人ごとに座らせるのは、気の合った者同士だけでまとまるのではなく、たまたま近くにいた者たちを一緒にさせて食事を分かち合う交わりを造り出すという意図があったのだと思うのです。 分からないこと、分かること そこで、さらに考えなければならないのは、人はパンなしで生きることは出来ないけれども、パンだけで生きるわけでもないということです。 この「五千人の給食」の出来事がイエス様の十字架の死と復活と並んですべての福音書に記されている理由は、その目撃者が桁違いに多かったことがあるでしょうし、あまりに不思議な出来事であったからでもあると思います。五つのパンと二匹の魚だけで恐らく万を越える人々が満腹した。この出来事を経験した人は、以後に出会うだれかれ構わずその日のことを話して聞かせたに違いありません。 この奇跡が一体どのようにして起こったのか?それは今の私たちには分かりません。イエス様がパンを裂く度にパンが手の中で増えていったのか。それとも弟子たちが籠からパンを出しても出してもなくならなかったのか。そういうことは分からないのです。ただ、この出来事はその規模の大きさと不思議さだけで語り伝えられたわけではないし、このように聖書に残っているわけでもないことは分かります。 中心としての食卓 私たちは8年前から「神の家族としての教会形成」を目指して歩んでいます。そのヴィジョンを掲げる際に、私が強調したことは「家族の中心は食卓だ」ということです。教会は食卓を中心にした家族なのです。その食卓は、私たちにとっては何よりも聖餐の食卓です。 初代教会では、当初、礼拝と食事は結びついていたと言われます。貧しい者たちも教会に集えば食事が出来る。そういうものであった。そのうち、礼拝の中で厳かに祝われる信徒の祭りとしての聖餐と、未信者も含めて皆で共にする愛餐が分かれていったと言われます。来週の全体交流会やクリスマスとイースターの祝会は、私たちが一堂に会する大切な愛餐のときです。しかし、年に15回守られる聖餐式は教会の中心です。 私たちプロテスタント教会の多くは、毎週聖餐の食卓に与る礼拝を捧げているわけではありません。それは、説教を通して与えられる御言葉を命のパン、人が生きていく上で不可欠の糧と信じているからです。その御言葉の礼拝もまた、私たちにとっては広義の意味で食事の時なのです。 出来事の伝承 ある出来事が記念される場合、それは言葉だけで伝承されるわけではありません。その出来事を再現するなんらかの儀式を通して伝承されていくのです。9章の出来事も、教会の礼拝の中で言葉として語り続けられただけでなく、聖餐や愛餐を伴う形で語り伝えられたからこそ伝承されてきたのだと思います。そして、それは昔に起こった出来事として語り伝えられたのではありません。いつも新たに起こっていることとして語られたのだし、またその食事が再現されたのです。 「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて、弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」 「パンを取り」「賛美の祈りを唱える」「裂く」という言葉は、イエス様と弟子たちの最後の晩餐とか、二人の弟子たちと復活の主イエスとの食卓の場面にも出てきます。 最後の晩餐では、イエス様は「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」とおっしゃいました。この言葉と動作を初代教会は聖餐式の中で受け継ぎ、今に生きる主イエスの体、その命を分かち合いました。そして、それは今も本質的に変わることなく受け継がれていることです。 また、弟子たちは復活の事実を女たちから聞いても信じることが出来ませんでした。弟子の中の二人は、すっかり絶望して郷里のエマオに帰っていこうとしたのです。しかし、復活の主イエスは、彼らを追い求め、語りかけてくださいました。でも、彼らの目は遮られていて、それがイエス様だとは分からなかったのです。イエス様は、その彼らに対して「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たちよ」と嘆きつつ「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光にはいるはずだったのではないか」と言い、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明」されました。 そうこうする内に、今日の箇所と同じように夕方になりました。弟子たちは、それがイエス様であることを知らぬままに、イエス様を自分たちの家に招き入れました。しかし、夕べの食卓についた時、イエス様は突然、その家の主人のように振舞われました。 「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」 ここから先は、私にとっては特愛の箇所です。 「すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」 この後、彼らはエルサレムに帰っていき、他の弟子たちと共に復活の主イエスの祝福を受け、ペンテコステの日に聖霊を注がれ、あらゆる国々の伝道へと旅立っていったのです。 イエス様が分かった時に、イエス様は肉眼では見えなくなりました。しかし、それでも彼らの心に灯された信仰の炎は燃え続けたのです。イエス様が、彼らの中に生き始めたからです。これはよく分かります。 初代教会 エルサレムの初代教会の様子はルカ福音書の続編である使徒言行録に記されています。そこでも食事の大切さは強調されています。その当時、洗礼を受けて教会の一員になるとき、人々は自分の財産を差し出して共同生活をしたと言われています。この世のあり方を捨て、神の国の中に全身全霊入っていき、霊と肉の糧を共に分かち合ったのです。 その初代教会が特に熱心に守っていたことを、ルカはこう書いています。 「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」 使徒の教えの中には今日の出来事を語る説教も入っているでしょう。彼らは、パンを裂く食事を共にする中で五千人の給食を想起し、最後の晩餐を想起し、さらに復活の主イエスとの食事を想起したのです。そして、その食事の中心に今も食卓の主として臨在しておられる主イエスその方を共にしたのです。 神からのメシア 説教の冒頭で語りましたように、ルカ福音書ではこの出来事の後に「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と、イエス様が弟子たちに問いかけます。そして、ペトロが「神からのメシアです」と答える。この問答が、福音書の前半と後半を区切るものであることは言うまでもありません。この時からイエス様はご自分の受難と復活を預言し、山の上で栄光の姿に変るところを3人の弟子たちに見せ、エルサレムへの旅を始めるのですから。 ペトロは、これまでイエス様の説教を聞いてきましたし、悪霊追放や病の癒しという奇跡を見てきた十二弟子の代表です。また、説教と癒しという点ではイエス様の真似事を経験させてもらった十二弟子の代表です。その彼が、五千人の給食という奇跡を経験した時、それも「あなたがたが与えなさい」と言われ、その命令に従うことにおいて経験した時、彼にとってイエス様は預言者の再来ではなく、預言者がいつの日か神のもとから来ると告げていたメシア(キリスト)その方であることが分かったのです。聞いた時は信じ難く、また腹立たしくもあるイエス様の言葉に従うことを通して、彼はそのことを知りました。そういうものです。イエス様がメシアであるとは、イエスの様の言葉に従わねば分からないことなのです。 その後、ペトロたちは「神からのメシア」とは、苦難を経て復活の栄光に入り、人々の罪を赦し、神の国に招き入れるメシアであることを衝撃的な形で知らされていき、聖霊の注ぎを受けた後は、命を懸けて証をしていくことになります。イエス様の言葉を語り、その業をなし、礼拝においてパンを裂き共に祈ることを通して、人が生きるためになくてはならぬ命のパンを分かち合い、イエス・キリストの命を、その愛を分かち合っていったのです。そのようにして、神の国を宣べ伝えていったのです。 そして、その命のパン彼らだけで、またその場にいる人々だけで食べつくすことが出来るものではありません。「十二の籠」に溢れていくのです。イエス・キリストの命とは、イエス・キリストの愛とは、そういうものです。 あなたがたが与えなさい 私たちは、その命を、その愛を礼拝の度ごとに与えられ、そして分かち合っています。そして、これから始まる一週間は、溢れる恵みを人々と分かち合うためにこの世へと出ていくのです。そうやって十二人から始まった神の国の伝道は、今も世界中でなされており、この国でも私たちを通してなされていくのです。その栄えある使命を与えられていることを感謝して、「あなたがたが与えなさい」という言葉を聴く者でありたいと願います。 |