「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」

及川 信

       ルカによる福音書 9章 18節〜20節
9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。9:19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

 九章の位置

 九章は、ルカ福音書の前半と後半を区切り、一つの頂きだと言ってよいと思います。これまで書かれてきたことは、今日のペトロのキリスト告白、受難と復活預言、山上の変容を目指して書かれてきたのです。

 キリスト(メシア)

 キリスト教会とは、イエスという歴史の中に生きた一人の人間を、今も生きる「キリスト」と告白し、礼拝する人々の群れです。イエス・キリストとは、「イエスはキリストです」という信仰の告白です。苗字と名前の関係ではありません。私は説教の中でしばしば「主イエス」と言いますが、これも「イエスは主です」という信仰告白です。しかし、「キリスト」にしろ「主」にしろ、当時は一般に流布していた言葉であり、イエス様にだけ使われていたわけではありません。そして、それぞれ多様な意味内容があるのです。
 新共同訳聖書では、しばしば「メシア」と出てきます。メシアはヘブライ語です。ギリシア語訳がキリストです。メシアとは、神様によって特別な任務に就く者を聖別するために頭から油を注いだことに由来する称号(油注がれた者)です。具体的には大祭司、預言者、王のことです。イエス様の時代においては、そういうものすべてを併せた「救世主」という意味合いが強く、ユダヤ人の国を復興させてくれる政治的民族的解放者のイメージが強かったのではないかと思います。
 しかし、ペトロはこの時、政治的民族的な解放者という意味だけを込めて「神からのメシアです」と告白したわけではないでしょう。だとすれば、どういう意味なのか?恐らくペトロ自身も完全には分かっていなかったでしょう。また、この後に続くイエス様の言葉を見る限り、ペトロの告白の内容にイエス様が完全に満足された訳ではないことは明らかだと思います。何が問題なのか?それが今日の問題です。

 祈り

 マタイやマルコ福音書では、今日の場面はフィリポ・カイサリアという場所で起こったことになっています。でも、ルカは地名を省きます。代わりに「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」と言うのです。ルカにとって、場所はある意味どこでも良いのです。むしろ、この時、イエス様が「ひとりで祈っていた」ことが大事なのです。
 ルカ福音書では、イエス様が祈る姿が何度も描かれます。そして、イエス様は、弟子たちに熱心に祈ることを勧めます。イエス様が祈る場面、それはいずれも極めて大切な場面です。
 洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、イエス様は祈っていました。すると、天から降ってくる聖霊と共に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声を聞いたのです。ここで、イエス様は「神の子」として、つまり、神の国の王になるべき者としての歩みを始めたと言ってよいでしょう。しかし、その王の王座は十字架でした。
 十二人の弟子を選ばれる時もイエス様は夜を徹して祈られました。十二人はイスラエル十二部族を象徴します。彼ら十二人は、聖霊降臨の日に誕生する新しいイスラエル、キリスト教会の土台となる人々なのです。そういう人々を選ぶ時、イエス様は徹夜で祈られたのです。私たちがキリスト者として選ばれた時も同じはずです。
 そして、今日の箇所でイエス様は祈っておられます。弟子たちに、ご自分が何者であると思っているかを尋ね、ご自分の受難の死と復活の道を告げる時、イエス様は祈られた。祈らざるを得なかったと思います。
 その後、イエス様はペトロ、ヨハネ、ヤコブという三人の弟子を連れて山に登ります。「祈るため」です。その祈りの最中に、旧約聖書を代表するモーセとエリヤが現れてイエス様と語り合い、「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」との声が雲に包まれている弟子たちに聞こえるという不思議な出来事がありました。ここに福音書前半の一つの頂き(ピーク)があることは間違いありません。
 また、弟子たちに「主の祈り」を教える時も、イエス様は祈っておられましたし、逮捕される直前オリーブ山で汗を血のように滴らせつつ祈られるのです。大事な所では、いつも祈りがあるのです。
 さらに十字架の上では「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ってくださいました。

 波長を合わせるために

 ある学者は、イエス様にとって祈りとは神様と波長を合わせる時であり、御心に従うために必要なものであったと言っていました。確かにそうだろうな、と思います。
 私たちは「祈り」と言うと神様に向かって言葉を発するものだと思っています。それは間違いではありません。祈りは神様に言葉を発するものです。しかし、それは祈りが持っている一つの側面です。祈りのもう一つの側面は、神様からの言葉を聞くことです。「主よ、お語りください」という願いをもって耳を澄ますことです。だから、聖書を読みつつ祈ることがよくあります。祈りながら読むのです。
 今の若い方にはぴんと来ないかもしれませんが、私の若い頃のラジオはチューニングを合わせるために丸いつまみを回しました。また、電波が来る方向にアンテナを合わせるということもしました。そういう操作をしてチューニングが合うまでは、ラジオからはザーという雑音が聞こえるだけです。しかし、チューニングが合った途端に綺麗な音で音楽が聞こえてきたり、言葉が聞こえてくる。
 聖書に何が書かれているかを聴き取ることは、このチューニングとそっくりだと、私は思っています。手先と耳に神経を集中させて、かすかな電波を、そして目に見えない電波をキャッチする。その時に、目の前の文字が語り始めるし、その情景が心に浮かび、その中にいる自分を発見できるからです。それまでは、幾ら読んでも何も聞こえず、何も見えない。もちろん、その場合の電波は聖霊のことです。

 祈る理由

 イエス様は、弟子たちが共にいようと「ひとりで祈った」のです。神様の御心を知るために、その御声を聞くために全神経を集中して祈られたのです。それは、イエス様がこれから弟子たちに重大な事柄について尋ねようとしているからです。ある意味では試験をしようとしている。どこまで分かっているか試そうとしている。生徒にとって試験は怖いものです。でも、本当は教師の方が怖いのです。生徒が何も分かっていなかったら、それは生徒のせいだけではなく教師の教え方が悪いという面があるからです。そういう怖さが、主イエスにもあったのではないか。そう思います。
 既に読みましたように、ヘロデは既にイエス様に警戒心を抱いています。ヘロデに警戒心を抱かせる群衆の噂は、一面では当たっていても正解ではありません。誤解に基づく期待がそこにはあります。そして、群衆はそれまで崇め奉っていた人物が自分たちの期待通りの人物ではないと分かると、期待の大きさに反比例する憎しみをその心に抱くものです。そのことをイエス様はよくご存知です。だから、そういうことに対する恐れもあったのではないかと想像します。
 イエス様は、神の「愛する子」として、「御心に適う」ことをしなければなりません。その御心は、ヨハネから洗礼を受けた時に天からの声が聞こえてきたことに象徴されるように、罪人の罪を背負うこと、そして、罪人に赦しが与えられるために生き、死ぬことなのです。つまり、身代わりになって罪の裁きを受けることです。その御心は、イエス様にとっては耐え難い苦しみに満ちたものです。
 イエス様は神の子です。しかし、マリアから生まれた人の子でもあります。私たちと何ら変りのない人間です。悲しみも喜びも感じるし、痛みも感じる。屈辱には耐えがたい悲しみを感じるし、迫害には恐怖を感じる。そして、刺せば血が流れる肉体を持っているのです。そのイエス様にとって、神様の御心に従うことは耐え難い苦しみです。祈りなくしては出来ないことなのです。神様の声を聞かなければ、励ましを受けなければ、「あなたはわたしの愛する子」、「わたしはあなたを愛している」という言葉を聞かなければ、とても前進することなど出来ないのです。神様が、神様だけが、自分のことを理解し、何者であるかを知っていてくださる。そして、愛してくださっている。その事実を確認しなければ、イエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちに尋ねることはできなかった。それが、イエス様が「ひとりで祈っておられた」という言葉の背後にあるのではないか。私はそう思います。

 ペトロの思い

 「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられた弟子たち、またペトロの思いはどういうものであったのでしょうか?彼らは、その直前に、イエス様から「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を」授けられ、神の国を宣べ伝えるために派遣されました。その際に、彼らは「何も持って行ってはならない」と命ぜられ、その命令に従ったのです。神様の守りを信じて裸一貫で伝道の旅に出かけたのです。それは、師匠であるイエス様の真似をさせていただいたということです。その伝道の旅から帰ると、今度は男だけで五千人の人々にパンを配るという御業に参与させられたのです。配っても配っても無くならないパンを見た弟子たちの衝撃はとてつもなく大きなものだったと思います。
 病を癒された、悪霊を追い出してもらった、パンを食べさせて貰った、そして神の国到来の福音の説教を聞かされた。その一つ一つがその当事者にとっては大きな驚きであり、感嘆や賛美を惹き起こす出来事でした。しかし、イエス様の弟子になる前は群衆の一人であった弟子たちが、病を癒し、悪霊を追放し、説教し、パンを配る人間になっているのです。今や彼らは受け手ではなく与え手です。その彼らが、イエス様が誰であるかに関して群衆とは異なる思いを持っていることは当然でしょう。
 「ヨハネ」「エリヤ」「昔の預言者」とは、来るべきメシアを待ち望みつつ預言した人々です。それぞれ個性はありますが、その点においては同じ人々です。しかし、ペトロは「イエス様こそが、その待ち望まれてきたメシア(キリスト)です」と言っているのです。それは群衆の理解とは本質的に違う理解です。

 受難と復活預言

 しかし、次回読むように、イエス様はペトロを初めとする弟子たちが思い描いていたメシアとは全く異なるメシアなのです。イエス様はすぐに弟子たちにこうおっしゃいました。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

 マタイやマルコ福音書では、この言葉を聞いたペトロが、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言うのですが、ルカはその言葉を書きません。しかし、ペトロを初めとする弟子たちが主イエスの預言を理解できなかったことは、この後の記述を見れば明らかです。

 イエスの思い

 しかし、主イエスは、ペトロの告白を聞いてやはりお喜びになったと思います。祈りをもって選び、これまでのすべての道行きを共にさせ、また神の国到来という福音を宣べ伝える伝道の経験をさせ、パンを配る業に参与させた弟子たちが、群衆とは異なる理解をもっていることを知って喜ばれたでしょう。
 しかし、同時に、この段階から先に進む覚悟、あるいは決意を固めもしたと思う。ここまで分かった弟子には、本当に分かって貰わねばならぬことがあるからです。「あなたは神からのメシアです」と告白できた人間だからこそ、分かって貰わねばならぬことがある。しかし、それは言葉で教えられることではありません。受難と復活に向かう歩みを見せることによってしか教えることは出来ないし、弟子たちがこの後も主イエスに従うことによってしか知ることが出来ないのです。

 キリスト教会?

 イエス様のことを正しく知るためには、聖書を読まねばなりません。しかし、聖書を自分の好みに応じてつまみ食いをし、自分勝手なキリスト像を描くことが往々にして起こりがちなのです。私たちは誰でも、自分好みのキリストを作り出すことにおいては天才なのです。
 世にはあまたの「キリスト教会」があります。しかし、「キリスト教会」と看板を掲げてはいても、その内実は相当に違うのです。
 イエス様が社会の中で差別され、虐げられている人々の友となったことは事実です。世の権力者に対して批判的であったことも事実です。その側面だけを見て、イエス様を反体制運動のリーダーだと理解して、イエス様に従うとは反体制的に社会問題に取り組むことだと理解している「キリスト教会」というものがあります。
 イエス様が病を癒したり、悪霊を追放したりしたことは事実です。その側面だけを見て、牧師がイエス様になり代わって癒しの業を売り物にしている「キリスト教会」というものがあります。
 イエス様が優れた思想家であり道徳的に立派な方であったことは事実です。その側面だけを見て、イエス様の教えを学び、それを身につけることこそ信仰だと思っている人格修養団体のような「キリスト教会」もある。
 イエス様が様々な人々に優しく接し、愛の共同体を作ったことは事実です。その側面だけを見て、ただの仲良しサークルのようになっている「キリスト教会」もある。
 それぞれに聖書を読み讃美歌を歌う「礼拝」と呼ばれることをしているでしょう。そして、それぞれの意味で「イエスはメシアです、キリストです」と説教しているでしょう。しかし、それが聖書に記されている正しいメシア理解、キリスト理解なのでしょうか?イエス様から、口封じされるようなメシア理解、あるいはキリスト信仰である場合もあるのではないでしょうか?

 聖書には何が書かれているのか?

 聖書は全部読まねばなりません。福音書も最初から最後まで読まねばなりません。好き勝手な拾い読みはしてはならないのです。それは危険なことです。そして、全部読むと言っても、ちゃんとチューニングしつつ読まねばならないのです。
 四つの福音書はそれぞれ個性があり、書かれている出来事もそれぞれだし、同じ出来事の書き方も異なります。しかし、福音書の最後に書かれている出来事はすべて同じです。それはイエス様の十字架の死と復活です。そして、すべての福音書に出てくる言葉は、「罪」であり「赦し」です。そして「救う」です。読めば分かります。
 人間が罪人であること、イエス様はその人間の罪の赦しのために十字架に掛かって死に、復活したこと。福音書はそのことを書いているのです。そのイエス様の十字架の死と復活を通して、神様は罪人を「救う」。罪を悔い改めて、イエス様を信じる者を救う。すべての福音書がそのことを書いているのだし、イエス様ご自身がそう語っておられるのです。
 十二弟子に分かって貰わねばならぬこと、これだけは是非とも分かって貰わねばならぬとイエス様が願っていることはそのことです。そして、弟子たちに対するイエス様の願いは、言うまでもなく、私たちに対する願いです。

 あなたがた

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

 ギリシア語は動詞の形で単数形も複数形も分かります。でも、主語を強調したい時にはちゃんと主語が書かれます。「わたし」という一人称単数は「エゴー」です。エゴイズムの語源です。「あなたがた」という二人称複数形はヒューメイスと言います。ここでは、そのヒューメイスが使われています。
 「群衆のことは分かった。世の人々が私のことをどう思い、なんと言っているかは分かった。それでは訊く。あなたがた、あなたがた自身は私を何者だと思っており、何者だと言うのだ?!」
 これ以上ない真剣さをもって、主イエスは弟子たちに問われたのだし、今、この「キリスト教会」の礼拝堂に集まってきている私たちに問われます。
 私たちキリスト者は、誰でも「あなたは神からのメシアです」。「神様に油注がれた方です」と言葉で答えることができます。でも、そのメシア、キリストをどういう意味で使っているのか?それが問題なのです。

 言葉の軽さと祈りの重さ

 この時のペトロの告白は言葉上は正しいのです。しかし、この後の成り行きを見れば、彼らのメシア理解は著しく誤ったものであることが明らかです。一例を挙げれば、彼らはイエス様と最後の晩餐を共にした直後に「自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか」と議論しているのです。イエス様は程なくイスラエルの王の座につくと思っているからです。誰が、その側近の大臣になるだろうかということが、その時の彼らの関心事なのです。
 そういう弟子の筆頭であるペトロを見て、主イエスはこうおっしゃいました。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 シモン・ペトロは答えます。

「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」

 しかし、イエス様はこう言われる。

「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

 何度読んでも痛切な対話です。彼はかつて、イエス様を「メシア」と呼び、ここでは「主よ」と呼んでいます。「あなたのようなメシア、主と一緒なら死も怖くない。どこまでも一緒にいます」と愛と信仰の告白をしているのです。
 しかし、その数時間後には、その「メシア」であり「主」である方を知らないと言う。言ってしまうのです。彼の「あなたはメシアです。主です」という告白の言葉は軽いものです。風が吹いてくればかさこそとどこかへ消える枯葉のようなものです。葉っぱは木につながっていなければ、それがどんなに立派なものでも軽いのです。そして、その軽さが魂の死を招きます。
 ヨブを苦しめたサタンのように、サタンは神に願って、弟子たちをふるいにかけることを許されました。そして、そのこともイエス様はご存知でした。だから、ペトロの信仰がなくならないようにと神様に祈ってくださったのです。そして、その祈りは聞き入れられることを確信されていたと思います。だからこそ、ペトロに「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とおっしゃったのです。
 それは私にとって、やはり痛切な現実です。イエス様の祈りの中で、今日もこうして「イエス様こそメシアです。主です」と告白させていただいているからです。何度も何度も、その行為によって「あの人のことは知らない」と言ってしまったにもかかわらずです。
 裏切りは「あの人のことは知らない」と言うことではなく、「知っている」と言いつつ、キリストと無関係に生きることですから。私たちキリスト者しかイエス様を裏切ることは出来ません。

 神からのメシア

 ペトロの「神からのメシア」という言葉、それはルカ福音書の中でもう一回だけ出てきます。どこだとお思いでしょうか?十字架の場面です。皮肉なことに、そこでは嘲りの言葉として出てくるのです。
 イエス様は、十字架の上で苦しみに悶えながら「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。そのイエス様に向かって、ユダヤ人の議員たちはこう言って嘲ったのです。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

 彼らが考える「救い」、それは何であれ目に見える事柄です。肉体的なこと、社会的なことです。でも、イエス様は「罪の赦し」という「救い」を与えるために十字架に掛かり、そしてその十字架の上で祈ってくださっているのです。その「救い」のために、ご自分の命を捨ててくださっているのです。その「救い」は肉体や社会を含みつつ、更にそれを越える救いです。神様との生死を超えた交わりに生かす救いだし、新しい天地をもたらす救いだからです。その救いを与えんとするイエス様の祈りは、ペトロのためだけではなく、十字架の下で嘲る議員たちのための祈りでもあるのです。彼らは、それを知らないだけです。

 キリスト教会の命

 この後の出来事、十字架の死と復活について丁寧にたどる時間はもうありません。ただ、イエス様の祈りと聖霊降臨によって立ち直ったペトロが何を語ったかについてだけは、どうしても語らなければなりません。
 主イエスが天に上げられた後、ペンテコステの祭りの日に約束の聖霊が弟子たちに降りました。その時、ペトロは、祭りを祝うためにエルサレムに集まってきたすべての人々にこう語りかけました。

「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」


 彼は、イエス様の祈りと聖霊の注ぎの中で立ち直りました。罪に死んだ彼の命は、イエス様の罪の赦しによって復活したのです。救われたのです。その時、彼は最早、「あの人のことは知らない」とは言いません。「あの方こそ、主でありメシアです」と言うのです。聖霊がその説教の言葉を生み出しているのです。その日、彼の説教を聴いて罪を悔い改め、赦しに与り、聖霊を受けた人は三千人ほどであったと記されています。
 ここに新しいイスラエルとしての「キリスト教会」が誕生したのです。その「キリスト教会」はいつも新たに聖霊の導きの中に神様との波長を合わせ、「十字架の死と復活のイエスこそ、私たちのメシア、救い主である」ことを信じ、説教し、賛美することにおいて生きているのです。「この方以外には私たちのメシアはいません」と告白することにおいて生きているのです。そこに私たちキリスト者の命がある。今日も新たにその命を生きることが出来ますように。

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