「わたしに従いなさい」

及川 信

       ルカによる福音書 9章21節〜27節
9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。9:27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

 「分かる」ということ

 前回の説教で「聖書は拾い読みするのではなく全部読まねば駄目だ。好きな所だけ読んで『イエス様はこういうお方だ』『ああいうお方だ』と決め付けてはならない」と言いました。もちろん、そこには創世記からヨハネ黙示録まで全部読むべきだという意味も込めてはいます。しかし、それは実際には大変なことです。分からないまま読み続けることは難しいし、妙な解釈をしたまま「読んだ」と思ってしまうことは困ります。前回の言葉で言えば、ラジオのチューニングを合わせるように、神様から送られてくる聖霊を受け止めることが出来るなら、一つの言葉から聖書全体が分かるということもあります。たとえ読んでいない箇所がたくさんあっても、「聖書が分かった」と言って良いという面があると思います。
 しかし、その「分かった」は、一+一=二であることが分かったように、明日も明後日も「分かっている」わけではありません。「分かった」と思ったことが明日は分からなくなる、あるいは「分かった」からこそ、分からないことが出てくる。そして、「分かった」ことを生きることが出来ない苦しみが始まる。そういう類のことなのだと思います。
 私が聖書を全部読むことを強調し、また今もルカならルカを最初から最後まで読むことを、私自身にまた皆さんに課しているのは、出来れば避けて通りたいところがいくつもあるけれども、そこを避けたら元も子もないからです。

 「ありのままのあなたでいい」?

 最近、世間でもキリスト教世界でもしばしば耳にする言葉は、「ありのままのあなたでいい」という言葉です。これは耳心地のよい言葉です。こういう言葉を神の愛を表現する言葉として使う場合があります。そのこと自体を否定するつもりはありません。神様が私たち一人ひとりを掛け替えのない人間として創造してくださった。その事実を受け入れて感謝しよう。そういう意味で使うのであれば、それはその通りだと思います。しかし、聞いていると「ちょっと違うんじゃないか」と思うことがしばしばあります。どこかで微妙にずれていることがある。
 私たちは弱い存在です。そして、ずるい存在です。一人ひとりの人間に対する神様の特別の愛を意味する言葉が、次第に人間の弱さやずるさをもそのまま肯定する言葉のようになっていく。「今のまま、何も変わらなくていいんだ。神様は、私の弱さもずるさも皆ご存知で、それでも愛し受け入れてくださっているんだ」。そういう風に受け止めていく。そして、安心する。そして実は更に堕落する。そういうことが起こっているように思います。
 「ありのままのあなたでいい」が、私たちにそういう安心を与える言葉であるとするならば、イエス様の「悔い改めなさい」という言葉は何の意味もないことになります。イエス様が私たち人間に「悔い改めなさい」とおっしゃる時、それは、私たちが被造物としての本来の姿を失っているとの指摘であり、「そのままでは駄目だ」という断定であり、だからこその招きだと思います。
 しかし、私たちはそういう否定的な言葉を聞きたくないものです。地震や津波はいつか来るなんて聞きたくはないし、原発の事故がまたいつか起こるなんてことも聞きたくはない。そして、自分がいつか死ぬということも聞きたくはない。でも、聞かないで、無視していてもそういうことは起こるときは起こるのです。そして、私たちは必ず死にます。そのことをまともに受け止めて、今のままの有様や態度ではその事態に対処できないと分かれば、真剣に悔い改めなければなりません。根本的に自分のあり方を変えねばなりません。しかし、そういうことに対して、私たちはえてして腰が引けるものです。大きな痛みを伴うからです。だから、「ありのままのあなたでいい」と言ってもらいたい。

 頂点を越える恐ろしさ

 なぜ、こういうことを長々と話すかと言うと、九章一八節以下は私が読むことも説教することも恐れている箇所だからです。そんなことができるはずもありませんが、できれば飛ばしたい。そういう箇所です。「ペトロのキリスト告白」「受難と復活預言」、そして次週ご一緒に読むことになる「山上の変容」は、ルカ福音書の一つの頂点だと言ってよいと思います。しかし、この箇所を読むことは私には恐ろしいことです。一つ一つの言葉が突き刺さってくるからです。
 イエス様もこの頂点を越えていくことは恐ろしかったに違いありません。この頂点の向こう側にはエルサレムへの道があるからです。しかし、越えて行かねばならない。その時、イエス様はひとりで祈られました。そして、悲壮な覚悟をもって「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子に問いかけ、また「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と語りかけているのです。そこには、イエス様の絶対的な孤独、また悲しみがあると思います。その孤独の悲しみが痛いです。そして、イエス様を「神のメシアです」と告白しつつ、そのメシアに自分を捨ててついていけない「弱い自分」、あるいはついていかない「ずるい自分」がイエス様の悲しみを深めていることが、身の置き所がなくなるのです。だから、こういう箇所は読みたくはないと思う。「ありのままのあなたでいい」とは言われないからです。

 何者なのだろう?

 ルカ福音書においては、これまで様々な人がイエス様のことを「何者なのだろう?」と言ってきました。そして、それぞれの人間が勝手なイメージを抱いて脅えたり期待したりしていました。そういうものに囲まれる中、イエス様は「ひとりで祈られた」のです。ご自分のことを知り、何よりも愛してくださる父なる神に祈らざるを得なかったのです。イエス様ご自身が自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って前進し、メシアになっていくために祈りが必要だったのだと思います。

 様々なメシア期待

 その祈りが終わった後、イエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子に問われました。これは問う側にとっても問われる側にとっても恐ろしい問いです。そこに両者の存在が掛かっているからです。
 ペトロは応えました。

「神からのメシアです。」

 直訳すれば「神のメシアです」となります。人々は、この「神のメシア」に様々なイメージを抱きます。また、様々な期待をします。芸能界のアイドルにファンが勝手なイメージを抱くように「メシア」という言葉にも勝手なイメージを抱いて偶像化する。そういうことが昔も今もあります。教会の中でもあります。イエス様は厳しいお方だ、いや優しいお方だ、「ありのままのあなたでいい」と言ってくださるお方だ・・・と自分の願いを押し付けるものです。ペトロたちも例外ではありません。そのことをイエス様はよくご存知です。それ故にこう続きます。

イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

 「あなたが『神のメシアだ』と言う『わたし』は、必ず多くの苦しみを受け、排斥され、殺され、復活することになっている」とおっしゃる。これは人々が「メシア」に抱くイメージとは全く異なります。想像すら出来ないことです。だから、イエス様は弟子たちに「このことを誰にも話さないように命じ」られるのです。

 「なっている」

 ここで「なっている」という言葉が使われています。何度も出てくる言葉です。ギリシア語ではデイです。それは、神様の定めであり、そうであるが故にイエス様が主体的に選び取って歩まねばならぬ道を表す言葉です。ベルトコンベアーのように自分が何もしないままに運ばれていくのではありません。イエス様が神様の定め、あるいはご計画を全存在を懸けて受け止め、そして従う。そこで初めて実現すること。それがデイで表わされるものです。
 イエス様が従っていく道、それはイスラエルの代表者に「排斥される」道です。「排斥される」とは、よく吟味された上で捨てられることです。社会から抹殺されるだけでなく、殺されることなのです。神に立てられたメシアとして、神と人を愛した結果がそれなのです。人々はそのようにイエス様を評価し、その様に扱う。イエス様は一切の抵抗をしません。「排斥される」も「殺される」も受身形で書かれています。言うなればされるがままです。裏切られても憎まれても人を愛していく。祈りの中でその道を示されたイエス様は、その道を歩む決断をされたのです。

 受動と能動

 その道の果てには死があります。死んだらイエス様も最早何も出来ません。神を愛することも人を愛することも出来ません。死ぬとはそういうことです。
 ここに「三日目に復活することになっている」とありますが、正確に言えばここも受身で「三日目に復活させられることになっている」です。イエス様は最早能動的には何も出来ない。ただ死体となって墓の中に横たわっているだけ。しかし、その「わたし」を神は復活させてくださることになっている、とイエス様はおっしゃる。それは、神様に対するイエス様の信仰の告白だと思います。ただ信じている。神様は、いや神様だけはそのことをなしてくださる。罪人を救うためにメシアを立て、罪の世に遣わされた神様のご計画は、メシアの十字架の死と復活を通して実現する。そのことを信じている。だから、一切を神様の御手に委ねてこの道を歩む。そういう御決意がここにはあるでしょう。徹底的な受動を生きる能動的な決意があるのです。

 皆に言われた。

 「それから、イエスは皆に言われた」とあります。これは不思議な言葉です。二一節には「イエスは弟子たちを戒め」とありますし、イエス様の周りには弟子たちがいることは文脈上からも明らかです。しかし、ここでルカは敢えて「皆に言われた」と書く。「弟子たち全員」という意味であるとすれば、二一節の言葉は全員に向けてのものではなかったのかという疑問が出てきます。そこで、五千人の給食の時からイエス様の周囲には群衆もおり、その群衆に対しても言われたのだと解釈される場合もあります。しかし、ある人はルカ福音書を読む読者に対して語りかける意味でルカは「皆に」と書いたのだと解釈します。
 原文は定冠詞がつかない「すべての人」です。私は、弟子も群衆も読者も含め、イエス様に「ついていきたい」と思う「すべての人」に対する言葉だと思います。つまり、「この時この場にいる人にだけではなく、読者をも含めてイエス様のことを少しでも知り、この方についていきたいと思うすべての人に対する言葉なのですよ」と、ルカは言っているのだと思う。私たちへの言葉です。だから怖いのです。

 捨てる 失う

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」

 ここで「捨てる」と訳された言葉は関係性を否定する、否認するという意味を持っています。一二章九節のイエス様の言葉、「人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」「知らない」がそうです。その後、大祭司の家の庭で、イエス様の弟子であると疑われたペトロがそれを「打ち消す」時に使われる言葉でもあります。いずれも自分の利益のため、自分の命を守るために、イエス様を否認する。その関係を捨てる。そういう場面です。
 私たちは自己愛の塊ですから自分を捨てることは出来ません。しかし、イエス様はご自分についてこようとする者にそのことを求めます。捨てること、実は自分の命を救うことになるからです。無茶な修行をするとか、雑念を振り払うための荒行苦行をすることを求めておられるのではありません。そうではなく、自分の命を自分で救おうとすることを放棄しなさい、と求めている。イエス様に従うが故に自分の命を失うことを求める。この「失う」は「滅ぼす」とか「殺す」とも訳される言葉です。しかし、イエス様に従うが故に、自分の命を失う者、殺す者は、実は、その命を救うことになるのです。だから、イエス様はそのことを求められるのです。非業の死とか殉教の死を求めているのではなく、私たちが命を得ることを求めてくださっているのです。しかし、それはこの言葉を信じて従わねば分からない言葉です。

 日々、十字架を背負う

 また、イエス様は「日々」とおっしゃる。「日々、十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。「十字架」のことを人生の重荷のように言われることがあります。病気とか障碍とか、様々な困難な事態を指して「これがわたしの十字架です」と言う場合がある。でも、イエス様はここでそういうことをおっしゃっているわけではないでしょう。「わたしに従いなさい」が主文ですから。イエス様に従って生きることが、日々十字架を背負って生きることになるのです。
 もちろん、「十字架」と言えば処刑によって殺されることですから「十字架を背負う」とは殉教の死を意味するとも言えるでしょう。でも、「日々」そういう意味で死ぬはずもありません。死ぬのは一回です。イエス様は、「日々、従う」ことを求めておられるのです。私たちの前を歩んでくださっているのはイエス様です。そのイエス様に従えば、世から排斥されることがあり、時代が時代であれば迫害に遭い、処刑されることもあるでしょう。しかし、その地上の最期が何であれ、日々、イエス様だけを信頼し、愛し、従っていく。イエス様が神を愛し、人を愛して生きたように、神を愛し、人を愛して生きていく。日々十字架を背負うとは、そういうことだと思います。

 愛国

 数年前からフェイスブックという通信手段が話題になっています知り合いからメールで「友達として承認して欲しい」という意味のものが届き、訳も分からず「承認する」とキーボードを押すと、どんどん友だちなるものが増えていくのです。私にとっては不気味な世界でもあります。でも、時に良いこともあります。
 最近、前からの友人が中国の反日デモの中で撮られた二枚の写真をフェイスブックに掲載していました。一つは、若い女性がポスターくらいの紙に大きな字でアッピール文を書いて胸の前にかざしている写真です。その文章は日本語で訳すとこういうものだそうです。

「私たちは戦争も地震も水害もすべて経験した。私たちの領土は殴ったり、壊したり、燃やしたりすることで守るものではない。お願いだから傷つけるのは止めてください。私たちの祖国は愛で満ち溢れていることを思い出してください。」(抜粋)

 もう一枚は、気勢を上げている群衆を背にした三人の男子高校生が「暴力反対」「愛国には理性を」と書かれた画用紙を頭の上に掲げている写真です。彼らの表情は怒りと恐怖がない交ぜになったようなものです。
 両方とも中国国内のツイッターというパソコンの掲示板に掲載されたもので、高校生の画像を投稿した人は「彼らこそが中国の希望」というコメントを載せているそうです。
 もし、この二つの事例が事実であるとすれば、若い女性も三人の高校生も決死の覚悟を持ってやったことは間違いありません。「愛国」という言葉は一つですが、そこから出てくる行動は正反対のことがしばしばあります。国を愛するとはどういうことかで見解は真っ二つに分かれます。最近の中国の国内で、この女性や高校生のような主張を自らの顔を出しつつ主張することは命懸けのことだと思います。
 戦時中の日本の社会の中で「敵を愛しましょう」と言えば「非国民」として投獄されたでしょう。あるいは、「キリスト以外を礼拝することはできません」と言えば、やはり投獄されました。
 今、教育現場において「愛国教育」が叫ばれ、日の丸への敬礼、君が代斉唱の強制が進められています。しかし、国を愛するが故に「日の丸」に敬礼したり、「君が代」を斉唱したりすることは出来ないと拒否する教員や保護者や生徒たちがいます。私のような保護者や生徒には処分が下されることはありません。でも、公務員である教員には処分が下されます。処分する方も国を愛するからそうしているのでしょう。愛とは何かを吟味することはないでしょうが、とにかく自分たちは国を愛していると思っている。しかし、ひょっとしたら、国を愛しているのではなく、自分を愛し、その地位を守ろうとしているだけかもしれません。処分される教員は、その人として国を愛しているのです。中には、キリストを愛し、その信仰に基づいてそういうことをしている人もいる。
 「愛国無罪」と叫びながら破壊活動をする人も「愛国心」からそうしているのでしょう。あの騒動の中で愛と理性を訴える人も彼らとしての「愛国心」からそうしている。しかし、権力を持った側、多数の側の愛が少数の者の愛を排斥し、時と場合によっては処刑する。そういうことはいずこの国の歴史の中でも繰り返されてきたし、今も繰り返されている現実です。
 イエス様もまたそういう人間の歴史の中に生きておられるのだし、そのことを誰よりも深く知っておられました。そして、イエス様はご自分を愛しその肉体の命を救う道を選ぶことも出来ました。しかし、イエス様はイスラエルという特定の国を愛する道ではなく、天地万物を造り、人を創造し、世界を救いへと導き続ける神を愛し、「すべての人」を愛する道を選ばれました。そして、その道を歩むことを、イエス様について行こうと思うすべての者に求めるのです。
 私たちキリスト者は、いわゆる「愛国」に生きるのではなく神を愛して生きる。その時に、自ずと国の愛し方は変ってくるでしょう。神を愛することを知らなかった時と愛し始めた時とでは、国を愛する愛し方は変ってくるし、他国に生きる人々を愛する愛し方も変ってきます。また自分を愛する愛し方も変ってくるし、当然、自分を愛するように隣人を愛するその愛し方も変ってくるはずです。

 恥じる

 イエス様は、神への愛と人への愛を教えるイエス様の言葉を「恥じる」者を、イエス様が世の終わりに審判者として来る時に「恥じる」。そうおっしゃる。これは弱くてずるい人間にとってはあまりにも厳しい言葉です。要するに「口先の信仰告白ではなく、日々の生活を通して、わたしに従うなら従う、従わないなら従わないと態度を鮮明にしなさい」ということだと思うからです。「自分の心地好さ、人からの評価を求めて生きるのか、それとも、わたしの弟子として生きるのか、そのどちらかをはっきりしなさい」。イエス様はそうおっしゃっている。違うでしょうか。

 神の国を見る

 そして、最後の言葉、「確かに言っておく」は、「本当のことを言う」と訳した方が良いように思います。では、「本当のこと」である「ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」とは、どういう意味なのか?色々な解釈があります。
 私は、主イエスが逮捕される直前に弟子たちに語った言葉に注目すべきだと思います。その時、弟子たちは自分たちの中で誰が一番偉いかという愚かな議論をしているのです。あの緊迫した最後の晩餐の直後にです。でも、そういう愚鈍な彼らに向かって、主イエスは実に不思議なことをおっしゃるのです。私には理解できません。

「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカ二二章二八節〜三〇節)

 その直後に、彼らはイエス様を否認していくのです。自分の命を救うためです。その様にして自分の命を殺してしまう。しかし、そのことをご存知の主イエスは、ペトロに対して「あなたの信仰がなくならないように祈った」「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とおっしゃるのです。
 この主イエスの言葉は、聖霊降臨を通して実現していきました。聖霊によって力づけられたペトロは、「人々が十字架につけて殺したイエスを、神は復活させて、主とし、メシアとなさったのです。悔い改めなさい。そして、罪を赦していただきなさい」と説教したのです。その時、十二弟子は教会を支える十二使徒になったのです。彼らは、その後、世界中に神の愛による支配、神の国を宣べ伝え始め、その働きが今も受け継がれているのです。
 ここに至るまでに、彼らは無理解と失敗と挫折を繰り返しました。これ以後もやはりそういうことがある。私たちも同様です。しかし、主イエスは諦めません。彼らを諦めないのです。そして、「すべての人」を諦めない。捨てない。だから私たちは今日もこの礼拝堂にいます。私たちを主イエスが諦めないからです。そして、私たちすべての者に、今日も新たに「わたしについて来たい者は、日々、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と語りかけてくださる主イエスが臨在しているこの礼拝堂、そこに主の支配、神の支配がある。ペトロたちは死ぬ前にその現実を見たし、私たちもその現実を見ているのです。その私たちはいつの日か、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神を称えるのです」(フィリピ二:一〇〜一一)というパウロと同じ希望をもって、今日も明日も明後日も信仰と希望と愛に生きるのです。主が「わたしに従ってきなさい」と言ってくださり、主が先立ってくださるからです。だから、私たちは何度失敗し、挫折しても、自分自身のことも諦めないし、弱くてずるい人間の歴史も諦めないで前進していけるのです。その歩みの果てに神の国の完成があり、私たちの復活があるのです。私たちは、そのことを信じているのです。

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