「これに聞け」

及川 信

       ルカによる福音書 9章28節〜36節
9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。9:32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。9:33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。9:34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。9:35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。9:36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

 百周年に向けて


 中渋谷教会は数年間の準備期間を経て、1917年9月29日に「日本基督教会」に属する一教会として伝道を開始しました。その日の説教者は、当時の日本の教会のリーダーの一人であった植村正久です。初代牧師森明は弱冠29歳です。  その日以来、95年に亘って中渋谷教会はこの桜丘の地で伝道を継続してきたのです。およそ百メートルの範囲内で会堂の移転をしてきましたが、現在の会堂は1975年に新築されたものです。創立百周年に向けてのこれらからの5年間は、会堂新築移転や長老の世代交代という大きな山を共に乗り越えていかねばならぬ大切な時期となります。その点につては、来月の全員協議会で少しお話しすることになっています。
 ルカ福音書9章が、この福音書の中で一つの頂点になっているとこれまで何度も言ってきました。そして、その中でも今日の箇所は最も高い頂です。舞台もまさに山の上です。この箇所が創立記念礼拝の説教箇所になったことに、私は神様の導きを感じています。ここには、キリスト教会の礼拝が何であるかを示すものがいくつも含まれていると思うからです。  

 イエス様の祈り

 9章18節に、イエス様は「ひとりで祈った」とあります。これまでの歩みを総括し新たな歩みに踏み出す時に、イエス様は神様の御心を尋ね求めたのだと思います。マリアから人の子として生まれた自分が、本当に神の子メシアとして立てられているのか?そうであるとすれば、その神の子メシアとは何であり、どういう道を歩んでいかねばならぬのか?そのことを改めて神様にお尋ねになったのだと思います。人々は誰もが「この人は何者なのだろう?」と思い、それぞれの思いや期待を抱いている。その中で、弟子たちは、どういう理解を持っているのかも確認しておきたかった。それを聞いた上で、彼らに言っておかねばならぬことがあるのです。
 祈りとは、ただ自分の願いを神様に訴えることではなく、神様の願い、その御心を知り、その御心に従うためのものなのです。その祈りなくして、イエス様はメシアの道を前進できません。
 その祈りの後に、イエス様は「(あなたは)神からのメシアです」という告白をペトロから聞くことになります。しかし、その直前の祈りの中で、「神(から)のメシア」は、神の選びの民であるユダヤ人を治める人々によって「排斥されて殺され、そして三日目に復活する」メシアであることを、イエス様は改めて示されていたのです。そして、そのメシアについて行こうとする人々は誰であっても「日々、自分の十字架を背負って従う」べきことを告げたのです。

 八日目

 「この話をしてから八日ほどたったとき」
とあります。ルカが参考にしたと思われるマルコ福音書には「六日の後」と書かれていますから、ルカが「八日ほどたったとき」と書き換えたのだろうと思います。27節までの話がいつなされたのかは、マルコにもルカにも分からないことです。でも、ユダヤ人にとって七日間は一つの区切りであり「八日目」は第一日目と同じで「週の初めの日」です。それは、神様が天地創造を始めた日であり、「光あれ」という言葉によって命の光を創造された日です。その日から数えて七日目は聖別された安息日です。ユダヤ人はその日に仕事を休み、神様を礼拝するのです。
 しかし、ユダヤ教の中から新しく誕生したキリスト教会は、次第に安息日の翌日、つまり八日目の「週の初めの日」に礼拝を捧げるようになりました。それは、ある意味で「ユダヤ人」であることをやめるという大変なことです。何故、彼らがそこまでして「週の初めの日」に礼拝を始めたかと言うと、その日に神様がイエス様を死人の中から復活させられたからです。そのことによって、死の闇を打ち破る復活の「命の光」が創造されたからなのです。
 ルカが「八日ほどたったとき」と書く時、それは、「これから起こる出来事はイエス様の復活の栄光の先取りとして起こることであり、これは霊によって与えられた信仰の目をもって読む時にのみ分かることなのです」と言っているように思います。ここに記されていることは、十字架に死んだイエス様が復活して、私たちに罪の赦しと新しい命を与えてくださったことを信じる者たちが礼拝を捧げる中で分かることなのです。だから、この時山の上にいた三人の弟子たちはまだ分からないのです。

 最期

 主イエスは「祈るために」山に登られます。その祈りの中で、イエス様の「顔の様子が変り、服は真っ白に輝いた」というのです。ここで使われている「輝く」は、新約聖書にはここだけに出てくる言葉(エクサストラプトー)で、辞書には「電光のように輝く」と記されていました。単に輝くのではなく、凄まじい輝きを放ったということでしょう。  「見ると」は、直訳すれば「すると、見よ」です。読者に注意を喚起する言葉なのです。そこでは、なんとモーセとエリヤが栄光に包まれて現れ、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」
 ここに「最期」とあります。原語ではエクソダスです。聖書でエクソダスと言えば「出エジプト記」のことです。「脱出」という意味もあるからです。今日の箇所のエクソダスは、イエス様の十字架の「死」を意味する言葉です。しかし、その「死」は死で終わるものではなく復活、昇天、さらに聖霊降臨へと繋がる旅立ちでもある。イエス様の死は約束の御国へと向かう死であり、その御国を地上にもたらすための死なのです。イエス様が「エルサレムで遂げる最期」とはそういうものです。最期でありつつ最初なのです。

 モーセとエリヤ

 「モーセとエリヤ」
は、それぞれ律法と預言者を代表する者たちであり、二人合わさって旧約聖書を象徴していると言ってよいでしょう。しかし、「モーセのような預言者」と言えば、イスラエルを弾圧や圧迫から解放するメシアのことであり、当時の人々が待ち望んでいたメシアです。エリヤは、旧約聖書の最後のマラキ書に、「大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と預言されている預言者です。
 つまり、彼らは二人で旧約聖書全体の象徴であると同時に、二人ともメシアと深い関係のある人々なのです。その人々が栄光に包まれて山の上に現れ、イエス様とエルサレムにおける最期(エクソダス)について語り合っている。それは、旧約聖書の時から待ち望まれていたメシアによる救いの御業が、今こそイエス様を通して、それもエルサレムにおける「最期」によって貫徹されることを表しています。M

 ペトロ

 しかし、ペトロには分かりません。彼は興奮して、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と叫びました。「すばらしいことです」とは、「私たちにとってよいことです」が直訳です。
 彼は下界を離れた山の上で、今まで見たこともない光景を見て興奮して、栄光に輝くイエス様とモーセとエリヤのためにそれぞれ仮小屋を建てようと言います。これは、仮の礼拝堂を建てるということかもしれません。彼自身、その時「自分が何を言っているか分からなかった」のですから意味を詮索しても仕方のないことですけれど、彼は三人がその場に留まってほしいし、自分もずっとその場にいたいと望んだのでしょう。ロックコンサートなどで熱狂する若者たちは、このコンサートがずっと続けばよいと願っているのではないでしょうか。この場この時から離れたくない。ずっとこの場にいたい。現実の生活に帰りたくない。そういうことは、誰にもあります。
 「わたしについて来たい者は、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」なんて言われるよりも、日常とはかけ離れた山の上で栄光に輝く三人の偉人を見ていた方が、ペトロにとっては余程よいことであり、彼がその場から離れたくないと思ったことはよく分かります。
 また、その時の彼にとっては、モーセ、エリヤ、そしてイエス様は、三聖人のように同列に並ぶ存在であっただろうと思います。しかし、それは思い違いです。モーセとエリヤ、つまり旧約聖書はイエス様において真実に実現していく、成就していくものなのです。彼らとイエス様は並ぶものでないどころか比較にもなりません。神と人はまったく違います。モーセとエリヤは栄光に包まれますけれど、イエス様は栄光に輝くのですから。

 雲

 イエス様はペトロに何もお答えになりません。その代わりにこういうことが起こりました。

ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。

 「雲」
は、神様の栄光、また臨在を表わす言葉です。エジプトを脱出したイスラエルの民がシナイ山でモーセを通して「十戒」を頂く時、神様はモーセに向かってこう言われました。

「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」

 濃い雲に覆われた山に、民は誰も近づくことは出来ません。罪人は神様に近づくことなど出来ないのです。しかし、ペトロたちは自ら近づいたわけでもないのにその「雲」の方が近づいて来て、その雲に包まれたのですから恐怖を感じたのは当然のことです。彼らは、最早、口を開くことが出来なくなりました。

 わたしの子

 その時、雲の中から声がしました。

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」

 この言葉と似た言葉を、私たちは既に聞いたことがあります。それは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時のことです。イエス様が罪の悔い改めの洗礼を受けたその時、罪人の罪が赦されるために生きなければならず、その最期は神の裁きを受ける死であることを心深くにおいて覚悟されたと思います。しかし、それはあまりにも過酷なことです。イエス様はその時も群衆の只中でひとり祈られました。
 すると「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」のです。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた。これはイエス様だけが聞こえた声だと、私は思います。この声、聖霊と共に与えられたこの言葉を聞くことが出来なかったら、イエス様は荒野における四十日間の悪魔の誘惑を受けることが出来なかったし、まして悪魔に勝利するこは出来なかったと思います。祈りの中で示される御心こそが、イエス様を前進させる力であり支える力なのです。それは、私たちにおいても同様だと思います。
 今日の箇所は、洗礼の時に心密かに覚悟を決められたイエス様ご自身が「誰にも言うな」と命じつつ、ご自身の悲惨な「最期」を弟子たちに告げた直後のことです。イエス様は「祈るため」に三人の弟子を連れて山に登られました。そして、祈るうちにその姿は栄光の姿に変えられていき、ご自分がこれから歩む道は旧約聖書全体を通して神様が定めているメシアの道であることを確認し、確信することが出来たのだと思います。苦難の死の後に栄光の復活がある、と。だから、エルサレムに向かっていくことが御心である、と。神様は、そのことをイエス様に示されたのです<。
 そして、今、神様は人間に対して初めて「イエス様が誰であるか」「その方に対して人はどうあるべきか」を宣言されるのです。

 神の子=王

 「これはわたしの愛する子」
という言葉の背景にあるのは、王の即位式に神様から語られる託宣の言葉だと言われます。詩編2編の中に出てきます。神様は、エルサレムの山の上で即位させた王に対して「あなたはわたしの子だ」と言った上で「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまでお前の領土とする」とおっしゃるのです。
 ですから、ここでペトロたちに「これはわたしの愛する子」と言ったということは、イエス様がそういう圧倒的な力をもった王であることを宣言したということです。

 神の子=僕

 しかし、その次に出てくる言葉、「選ばれた者」は、そのような王のイメージとはかけ離れたものです。この言葉はイザヤ書42章に出てきます。

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の霊の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。」

 これは「僕の歌」と呼ばれる詩の最初のものです。この僕の特色は、「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」です。しかし、そういう無言の僕が「国々の裁きを導き出す」のです。しかし、その裁きは「傷ついた葦をおることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」というものです。これは、詩編2編などで歌われる王のイメージとはかけ離れています。「主の僕」は力強く上から支配する王ではなく、むしろ弱い者たちの友となり、慰め、励ましつつ世の巷を歩く人物です。しかし、それこそが神の霊に導かれた者であり、神の裁きを国々に導き出すものなのだと神は言われる。
 この「主の僕」は、イザヤ書53章では「苦難の僕」と呼ばれる者になっていきます。すべてを読む時間はないので抜粋して読みますが、この詩はキリスト教会のメシア理解、つまり、イエス様がどういう意味でメシアなのかを理解する上で決定的な影響を与えたものです。

 苦難の僕の歌

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
・・・・
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
・・・
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
・・・
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
・・・
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。

 神様が、山の上でペトロたちを雲で包みながら「これはわたしの愛する子、選ばれた者。これに聞け」とおっしゃる時、それはご自身が立てるメシアの裁きはすべての国々の人々を裁くものだが、その裁きはすべての人間の罪を自ら負い、すべての人間に赦しを与えるものなのだという宣言なのです。これは、苦難の僕の歌の書き出しにあるように「だれが信じ得ようか」と言わざるを得ないものです。

 実現した

 イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けてひとり祈っておられる時に、天からの聖霊と言葉を聞き、ご自身がそういうメシアとして立てられていることを自覚させられたでしょう。そこで、故郷のナザレにおける最初の説教でイザヤ書42章を含む預言を読み、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃったのです。しかし、そのことをその時その場で信じることが出来た人はいません。それは無理もないことです。

 神の宣言

 しかし、今日の箇所で、神様はイエス様こそ旧約聖書が証をし、その到来を待ち望んでいる「神のメシア」であることをペトロに告げているのです。そして、最後に「これに聞け」とおっしゃいました。
 「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった」とあります。それは、いつか話す時が来るということでもあります。自分たちが見たことは何だったのか、ひとりだけその山の上におられるのを見つけた方は誰であるのか、そのことが分かった時、ペトロたちはそれまでと全く異なる意味で、イエス様のことを「神からのメシアです」と証するようになるのです。それがいつどの様にして起こるかは、「これに聞け」が何を意味するかに掛かっています。

 「これに聞け」

 「聞け」
とは、単に「話を聞きなさい」という意味ではありません。イエス様が神様の愛する子、選ばれた者として神のメシアであることを知るために、イエス様に関する講義を何時間も聞くことが必要なのではありません。もちろん、信仰は聞くことに始まります。しかし、聞くことで終わるわけではありません。私は今日もそれなりの時間をかけて、イエス様に関して語ってきました。もちろん、説教を聞いて欲しくて語っているのだし、イエス様が誰であるかを知って欲しくて語っているのです。でも、イエス様が神のメシアであることは、今語っている私も、今聞いている皆さんも、この後の生活の中で「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」イエスに従うことによってしか知り得ないことなのです。それは、各自が服従の経験を通して知っていくことなのです。
 「聞け」とは「耳で聞け、そして頭で理解しろ」という意味ではありません。少なくとも、それだけではない。「聞き従いなさい」と言っているのです。いつも新たに聖書を通してキリストの言葉を聞き、また祈りの中で聞きつつそれぞれの生きる現場で従っていく。ただそのことによってしか、山の上で見たこと聞いたことが何であったかは分からない。ただ、そのことによってしか、山の上で見た方が誰であり、何をしてくださったお方か、また何をしてくださるお方であるかは分からないのです。山の上で栄光に輝くイエス様が実は私の罪のために口を開かぬままに屠り場に連れて行かれ、十字架の上で神の裁きを受けてくださった救い主であること、私の背きの罪、過ちをその身に負い、正しい者とするために命を捧げてくださった方であること、そして、死から甦って今も生きて働き給う唯一のお方であること。それは山から下りて「日々、自分の十字架を背負って従う」ことによってしか真実な意味では分からないのです。

 キリスト教会の礼拝

 私たちは、毎週この桜丘の上に建つ会堂でイエス・キリストを礼拝しています。唯一の救い主として礼拝している。中渋谷教会は95年に亘ってその礼拝を継続してきました。その礼拝で語られる説教とは、結局、イエス様こそ「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と神様に言われる唯一のお方であることを宣言しているのです。その宣言を通して何を語るのかと言えば、こういうことです。
 「この方の前に罪を悔い改めてひれ伏しなさい。この方に罪を赦していただきなさい。この方を信じて生きなさい。そこに救いがある。この方を証ししなさい。そのようにして神の支配(国)はこの世に広がり、国々に広がるのだから。私たちはその信仰と証に生きる時に、その本来の命を生きることが出来る。神の栄光を称えることができる。その時こそ、私たちは神の被造物として輝きを放つことが出来る。神様は、そのことを望んでおられる。さあ、『平和の内にこの世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。』そのことにおいて、『神のメシア』が今も生きておられることを証ししなさい。」

 私たちの中渋谷教会は、イエス様こそ神の子であり選ばれたメシア(キリスト)であることを宣言する礼拝を捧げ、礼拝から押し出された日々の証によってこの地に誕生し、そして今も生き続けています。私たちが、毎週「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という神の言葉を真実に聞き、そして従うならば、キリストが私たちの内に生きて働き、ご自身の栄光を現してくださいます。
 罪の中に滅びるほかになかった私たちが、今や神様の栄光を表わす器とされている。神様の憐れみに感謝し、その御名を賛美せざるを得ません。

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