「見抜かれる心の内」

及川 信

       ルカによる福音書 9章46節〜48節
9:46 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。9:47 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、9:48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。

  宇宙と地中

 先日、テレビをつけたらあるりんご農家の方が好きな言葉としてレオナルド・ダヴィンチの言葉が紹介されていました。スイッチを入れた途端に聞こえてきた言葉なので正確ではありませんが、彼はこう言ったようです。
「我々は宇宙のことよりも地中のことを知らない。」
あるいはこうだったかもしれません。
「我々は地中のことよりも遥かに多く宇宙のことは知っている。」
 りんご農家は、毎年土の状態を調べ、その年の土と対話をしながらリンゴを育てているので、ダヴィンチの言葉が好きだということでしょう。それはそれで分かります。しかし、ダヴィンチの言葉は様々なことを考えさせる言葉です。「我々は遠くのことは知っているが、足元のことは知らない。」「人のことは知っているが自分のことは知らない。」「目に見える表面は知っているが目に見えない内面は知らない。」「上ばかり見ているから上のことは分かるが下は見ないので下のことは知らない。」そういうことを言おうとしているのかもしれません。
 これまたテレビのニュースで見たことですが、最近は地中深くの岩盤からシェールガスを取り出すことが出来るようになり、それがエネルギー革命を引き起こし、世界の安全保障の勢力図も書き換わるだろうということでした。しかし、そのガスを採取するために使われる大量の水や化学薬品が地表の自然環境に与える影響についてはよく分かっていないのです。よく分からぬままに目先の利益を求めてどんどん採取が行われていることは、原発と同じ構造でしょう。核のゴミの最終処分場もないままに、はるか未来に至るまで放射能を発し続けるものを作っているのですから。

  文脈

 私たちは2年前の11月の第1週からルカ福音書を読み続けてきて今日で60回目です。そして、今読んでいる9章が大きな区切りであることは間違いありません。
 9章には、ペトロの「キリスト告白」があります。彼は、それまでイエス様と共に生きてきた経験と、神の国の宣教に派遣された経験に基づいて、イエス様こそ神様が選び立て、遣わしたメシア(救い主・キリスト)であると確信して告白したのです。この告白は決定的な意味を持ちます。
 その告白を聞いた後に、イエス様はご自身が殺されて死ぬことと、三日目に復活する預言をされました。その上で、イエス様について行きたいと願う者は誰でも「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と命ぜられました。その後、山の上の変貌の記事があり山の下での悪霊追放の御業がありました。
その御業をする前に、イエス様が「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と嘆かれたことを忘れてはならないと思います。これは痛切な叫びだと思います。イエス様はそのように嘆きつつも、悪霊に苦しめられている子どもを癒してくださり、そこにいた大勢の人々は神の力の偉大さに心を打たれ、驚きに満たされたのです。
しかし、騒然としたその雰囲気の中で、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」と弟子たちにお告げになりました。今、神の偉大さに心打たれている人々もまた、いつの日かイエス様を十字架の死に引き渡すことになる。そういうことです。それはあまりにも悲しい、そして恐ろしい預言です。背筋が寒くなるような言葉です。

「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたからである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。」

 ルカはそう記しています。弟子たちにはイエス様が何をおっしゃっているか分からない。でも、心底恐ろしいことをおっしゃっている。そのことだけは分かる。だから、誰もその意味を尋ねることはしません。この時の雰囲気は想像するとゾッとするようなものがあります。

 ギャップ

 その直後に「弟子たちの間で、自分たちのうち誰(だれ)がいちばん偉いかという議論が起きた」という文章が直接続くのです。このギャップはグロテスクでさえあるのではないでしょうか?
弟子たちは、直前に「神のメシア」が人々の手にかかって殺されることになるという恐るべき預言を聞いているのです。その時、周囲の人々は神を賛美し、イエス様を賛美している。「凄い方が現れた」と言って喜んでいる。しかし、その「人々」によって死に渡されるとイエス様が預言することも凄まじいギャップです。そのギャップに心の底から恐怖を覚えた弟子たちが、その直後に自分たちの偉さを競う。自分たちの中の序列がどうなっているのかを議論する。このギャップの凄まじさに、やはり呆然としてしまいます。
しかし、私たち人間とはそういう者でもあると思います。あまりに怖い体験をすると笑い出してしまうこともあります。最近のテレビ・コマーシャルで、自動車が勝手にブレーキを踏んで衝突を避けるものがありますが、体験乗車した人は恐怖に顔を引きつらせた直後に笑い出します。私たちは恐怖の中に居続けることは出来ません。自分の心身を守るために全く逆のことを考えるものです。

人間の実相

 先週は、この箇所を読みながら色々と思い巡らしていました。そして、数年前に観たアメリカ映画を思い出しました。イラクの戦場から帰ってきた息子が無断で基地から離れ、帰ってこないことを軍から知らされた父親が遠い基地に車で向かうところから始まる映画です。(正確に思い出せないので間違った所もあるかもしれません。)その父親もかつては軍の警察で働いていた人物で、国家への忠誠心もあり、アメリカ軍に対する信頼もあるのです。しかし、彼が基地に着いた時には、無残な焼死体になった息子が近くの原っぱで発見されるのです。軍や警察はその死の真相を隠そうとします。しかし、父親はある女性刑事の協力を得て真相に迫っていくのです。そこで分かってくることは、父親が全く知らない戦場における息子の姿なのです。
息子は他の兵士たちと一緒に捕虜を虐待し、虐殺したりしている。そのことを示す映像があり、それが流出することを恐れた仲間の兵士たちが息子を殺して原っぱで焼いたのです。その事実が知られることは軍にとって非常にまずいことなので隠蔽され、警察も積極的に捜査をしない。しかし、父親と女性刑事が仲間の兵士たちの足跡を追求していくと、息子が殺された直後の時間に仲間たちがすぐ近くのドライブインでステーキを食べたことが分かりました。彼らの一人は父親に向かって、「息子さんのことは本当に申し訳ありません」と口では言うのです。表情にもそれなりに申し訳なさが表れてもいる。でも、その兵士は、「こういう場ではこういうことを言うものだ」と思って言っているだけで、心の底から謝罪しているわけではありません。そして、父親が、息子を殺し原っぱで焼いた直後にドライブインでステーキを食べた理由を聞くと、彼は「自分らも何故だか分からないんですけれど、肉が焼ける匂いを嗅いでいたら腹が減ってきたんです。だから、肉が食べたくなって」と言う。悪びれるわけでもなく、その時の状況と気分を淡々と話すのです。
 その映画が言いたいことは色々あるだろうと思います。軍の警官であった父は軍隊に入った息子を誇りに思っていますし、あどけなかった息子がたくましくなったことを喜んでもいたはずです。でも、その純朴な青年が、戦場では笑いながら捕虜を虐待している。その顔や姿を、父親は映像で見ることになります。その時、彼は知っていると思っていた息子の心の内を何も知らなかったという現実に打ちのめされます。
 息子の戦友たちは、息子と共に命懸けで戦った仲間たちです。しかし、彼らの心は戦場で滅茶苦茶に破壊されているのです。見た目には誰も彼も好青年です。自分たちが殺した仲間の父親と話すときも礼儀正しい言葉遣いで話すのです。しかし、その内容は人を殺し、死体を焼き、その臭いに空腹を覚え、その直後にステーキを食べるというものです。彼の顔や言葉遣いを見たり聞いたりするだけでは、想像出来ないことを彼らはやっており、そのことに自ら戦慄することもない。人間の心の恐ろしさ、あるいは人間をその様にまで破壊していく戦争の恐ろしさをまざまざと感じさせられる映画でした。

   心痛

群衆が騒然とする中で、イエス様が悲壮な決意を胸にしつつ、ひっそりとご自分の受難を語る言葉を聞き、深い恐れに捕われたその直後、弟子たちは自分たちの中で誰が一番偉いのか、大きな存在なのかを論じ始めるのです。理解できないことですが、実際にはよくあることです。何故、あの人がこんなことをしたのか分からないと思うことはよくあります。でも、人は誰でもそういう不可解なものを抱え持っている。それは事実でしょう。
弟子たちが語る言葉を聞くイエス様の「心の内」はどんなものなのでしょうか?これまで長い時間をかけて弟子教育をして来られたイエス様が、その教育の結果としての弟子たちの言葉を聞く。その時のイエス様のことを思うと、私たちはやはり心が痛むのではないでしょうか。そして、私たちもまたこの時の弟子たちと同じであることは既に証明済みですから、他人事のように心が痛むわけではなく、身の置き所がない感じになります。

一人の子供

「イエスは彼らの心の内を見抜き」
とあります。これは「彼らの心の議論(考え)を知り」が直訳です。語り合う言葉の背後にある心の内に何があるかをイエス様はご存知なのです。私たちが知っている以上に知っている。
そこでイエス様が何をしたか。
「一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせた」  のです。
「手を取り」と訳された言葉は、「逮捕する」とか「連行する」という場合にも使われる強い言葉です。イエス様の周りを飛び回っていた子どもを無理矢理引っ張ってきて、その子を「そばに立たせた」のです。「私の側近はあなたたちではなく、この子だ」ということかもしれません。そして、こう言われました。

「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

 「子供」
とは、当時は可愛らしさの象徴ではありません。弱さとか無力の象徴です。役立たずで、価値が低いとされていたのです。私たちの国でも「口減らし」という言葉がありましたように、子どもは時には必要のない存在です。注解書の中に、当時のある男性が旅先から身重の妻に宛てた手紙の一節が紹介されていました。そこには、「もし生まれる子が女だったら捨てろ」と書かれています。スパルタ式で有名な古代ギリシアのスパルタという町では、障碍をもって生まれた子は兵士にはなれないので即座に捨てられたと読んだこともあります。これらの例はいかにも古代的で残酷なようです。しかし、現代の出生前診断で胎児の障碍の有無を検査する「心の内」と古代社会の人々の「心の内」と一体どれほどの違いがあるのでしょうか。現代は、社会全体が「胎児に障碍があれば捨てろ」という無言の圧力をかけている面があるように思います。
能力、効率、成果が重視される社会の中では、いつだって存在価値のある者とない者の選別がなされるものです。そして、主イエスの弟子たち、つまり神の国を宣べ伝えるキリスト教会の土台となる人々もまた、その社会の価値観の中を生きており、その価値観の中で自分の存在価値を誇る思いを持っている。いやその思いに捕らえられている。これもまた耳の痛い話です。こうやって私たちも「心の内」を見抜かれていくのです。

受け入れる

 「受け入れる」
(デコマイ)という言葉は、意図的に使われていると思います。九章の初めで、イエス様が十二弟子を神の国の宣教のために派遣する際、イエス様は「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」とおっしゃいました。「迎え入れる」がデコマイです。それは、弟子たちを仲間として喜んで迎え入れることです。歓迎することなのです。そして、イエス様が遣わした弟子を受け入れるとはイエス様を喜んで受け入れることです。それはイエス様がもたらしている神の国を受け入れることだし、神の国に受け入れられることなのです。神様はそういう者たちを喜んで受け入れてくださるのです。そして、金も食料も何も持たない弟子たちを受け入れることで、その人々は神の国を宣べ伝える神の業に参与することになるのです。
 「子供」は小さな存在であり、無力、無価値な者の象徴です。そういう者を仲間として受け入れる。それは私たちが心の内で願っていることではありません。教会に生きる私たちも心の内ではいわゆる立派な人と仲間になりたいと願っているものです。世によく知られた人が牧師であったり教会員にいたりすると誇らしく思ったりするのです。しかし、それはイエス様から見れば、嘆かわしい現実であると言うほかにないでしょう。

 主観と現実のズレ

 「子供」
に象徴される存在は、小さく無力であるが故に大きな存在の力を必要としている人のことです。愛による助けや庇護を必要としている人です。考えてみれば、私たちは誰だってそういう者として教会に来たのです。そして、主イエスの愛に触れ、主イエスを受け入れ、神様を受け入れ、そのことによって主イエスに受け入れられ、神様に受け入れられ、神様の国に迎え入れられたのです。そのことを最大の喜びとし感謝として生きているのです。弟子たちだってそうであったはずです。それは、彼らや私たちが小さい者であったが故に起こったことなのです。その小ささは今だって少しも変わってはいないのです。しかし、私たちにおいては現実と主観がしばしばずれます。
 多くの方がお感じになっていることであると思いますが、子どもの頃は大人を見るとまさに大人、大きな人に見えました。でも、実際に大人になってみると、自分は子どものままであることが分かります。つまらぬ見栄の張り合いをし、肩書きや地位、あるいは富を持つことで、まるで自分自身が偉い存在、大きな存在になったかのように錯覚します。裏を返すと、そういうものを手にしていない自分は小さく無価値な存在だと思っているということです。子どもの頃から今に至るまでつまらぬ価値観に支配されて生きている。それが私たちの現実でしょう。「大きくなりたい」と願い、そのために努力した結果、今の自分は前の自分よりも、また他人よりも大きな存在であると心の内で思う。しかし、そう思えば思うほど、実は、主イエスの愛、神様の愛とは無縁な存在になっていくのです。愛よりも必要なものがあると思い、それを手にしていると思っているからです。神の国に生きる命を自ら捨てているのです。しかし、それに気づかない。

 必要なものは愛

 小さな者、無力な者に必要なものは愛です。子どもに必要なものは親の愛、大人の愛です。子どもはそれを体で知っています。だから全身で親に愛を求めます。イエス様は、そのように愛を求める者を受け入れるのです。仲間として、命を懸けて愛してくださいます。そのイエス様の愛、イエス様を通して与えられる神様の愛のみによって生きる。その愛を信じて縋るようにして生きる。そういう存在こそ、神様の目には大きな存在なのです。この世における立場がどのようなものであれ、無くてならぬものは唯一つ神様の愛であることを知り、その愛を求め、信じ、縋り、神を愛し、隣人を愛して生きる。そういう存在こそが神の目には大きい。教会においては大きな存在である。神の国では最も偉い(大きい)者である。イエス様は、ここでそういうことを言わんとしているのではないでしょうか。しかし、そのことをこの時の弟子たちが分かったとは思えません。それは49節以下ですぐに証明されます。イエス様の嘆きの深さを思わざるを得ません。

 子供のように受け入れる

 先ほど、「受け入れる」(デコマイ)という言葉は「喜んで迎え入れる」、「歓迎する」ことだと言いました。主イエスから遣わされた弟子をその家に受け入れることは、その人自身も主イエスの弟子になることだし、家を提供することを通して、神の国の伝道の使命に参与することなのです。受身に始まり能動に転じることです。
 この言葉は18章17節にも出てきます。そこで、イエス様はこうおっしゃっています。

「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

 この言葉の意味は既に語ってきたことから明らかだと思います。その弱さ、小ささの故にひたすらに神の愛を求め、その愛を受け入れる人こそ、神の国に受け入れられる人なのです。そして、神の国に受け入れられた人は、神の国を宣べ伝える人になっていきます。私たちがこれから開催するバザーもまた神の国を広める業の一つです。私たちは神の国に招き入れていただいた喜びを分かち合うためにバザーをするのだし、目に見える形では品物やお金のやり取りをするのですが、本当にやろうとしていることは神様の愛を分かち合うことです。その際に重要なことは、自分がイエス様に受け入れられたように受け入れ、愛されたように愛し、赦されたように赦し、我慢されたように我慢することでしょう。

   杯を取り上げる

最後に「受け入れる」(デコマイ)が出てくる箇所は22章17節です。最後の晩餐の席でのことです。

「イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。
『これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』」・・・
「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

 イエス様が「杯を取り上げる」。この言葉が「受け入れる」と同じ言葉です。これはルカ福音書特有の言葉遣いです。
 以前も言いましたように、この最後の晩餐の直後に、弟子たちは再び「自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか」と議論をすることになります。それを知ったイエス様の嘆きと悲しみは想像を越えるものです。私たちなら、もうとっくのとうに我慢の限界を越えています。私たちは、このような愚かにして無価値な者、もっと端的に言えば恐るべき罪人を愛し、受け入れることは出来ません。しかし、それは私たちが罪人だからです。自分が愚かではなく、偉い者だと思っている罪人は、愚かで罪深い者を愛して、受け入れることが出来ないのです。でも、イエス様はそういう者たちを受け入れる。歓迎してくださる。そういう者たちの仲間であろうとし、仲間であって欲しいと呼びかけてくださる。
愚かで罪深い弟子たち、私たちを、神の国に招き入れるために、イエス様はご自身の血の杯を「取り上げて」くださるのです。「いやいや」にではありません。喜んで「取り上げて」くださる。母親がどんなに出来の悪い子であっても満面の笑顔をもって抱き上げるように、イエス様は私たち罪人をその御腕に抱きしめてくださる。そのイエス様の愛の中に、幼子のように飛び込んでいく。それが「最も小さい者」なのです。その者こそが、神様の愛の中に生かされる者なのです。その故に、神の国においては最も偉い(大きな)者なのです。そして、私たちはそういう者になりたいと願っているのです。実は、そのことだけを求めているのです。

心の奥底

私たちの「心の内」、その奥底にある思いは、神様の愛を求めて止まない思いです。恐怖に耐えることが出来ないが故に、その現実から目を逸らして自分の偉さを誇ろうとする人間の心の奥底にあるもの、素直な息子でありつつ戦場では人を虐待する人間の心の奥底にあるもの、仲間を殺した後にステーキを食べる人間の心の奥底にあるもの、それは詩編42編にあるように、一滴の水を求めて涸れてしまった谷川をうろつきまわる鹿が持っている思いです。砂漠のようなこの世を生きる私たちの「心の内」は、実は神様の愛に飢え渇いているのです。命の水を飲みたいのです。
多くの人々は、自分の心の奥底を知りません。上ばかり見て地中を見ないから。表面だけ見て内面を見ないから。私たちが自分の「心の内」に何があるのかを知るためには、イエス様の眼差しが必要です。「心の内を見抜く」イエス様の眼差しの前に立ち、見抜かれていく。心の闇の中を突き詰めて見ていく。その時、切実に救いを求めている自分を知り、心の闇のどん底にまで降って来て、ご自身の血を流しつつ神の国に迎え入れてくださるイエス様に出会うのです。
「心の内」では、私たちは偉くなりたい、大きくなりたいと願っています。そうであるが故に、子どもを受け入れることが出来ないし、自分が子どもであることを受け入れることも出来ないのです。イエス様は、その心の内を見抜かれます。しかし、そこで止まる訳ではありません。さらに奥底まで見抜いて行かれるのだし、それだけでなく奥底まで入って来てくださるのです。私たちを受け入れるためにあの杯を取り上げてくださるのです。人々の手に渡されて無価値なものとして捨てられる定めを受け入れてくださる。罪人に対する裁きを受け入れてくださる。神の子として父の愛だけを信じて、その愛に縋りつきながら、十字架の上にその命を捧げてくださったのです。まったく無力な一人の小さな人間として死んでくださったのです。
だからこそ神様はイエス様を復活させ、その復活のイエス様は、最後の晩餐の直後にも誰が一番偉いかを議論しており、そうであるが故にイエス様のことを「知らない」と言って逃げたペトロを初めとする弟子たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と罪の赦しと命の祝福を与えてくださったのです。この祝福こそ、私たちがその心の内の最も奥深い所で慕い喘ぐように求めていることなのです。そして、私たちはその奥底でイエス様と出会い、その時すべての虚飾から解放されて子どものように神の国を受け入れることが出来るのです。今日の主イエスの言葉を通して、そこまで見抜かれた人は幸いです。神の国はその人のものだからです。そして、その人は、その小ささの故に神の国を証する者となるからです。

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