「イエスの孤独」

及川 信

       ルカによる福音書 9章49節〜56節
9:49 そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」9:50 イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」 9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。9:52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。9:53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。9:54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。9:55 イエスは振り向いて二人を戒められた。 9:56 そして、一行は別の村に行った。

 大きな区切り

「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」


 ルカ福音書はこの言葉によってそれ以前と以後が区切られます。イエス様は、これまでイスラエルの北部であるガリラヤ地方で伝道活動をして来られました。4章14節からその歩みは始まっています。そして、その終盤にペトロによる「キリスト告白」があり、第一回目の受難・復活預言がありました。その後、山の上で栄光に輝くイエス様がモーセとエリヤとエルサレムで遂げる最期について語り合い、ペトロ、ヨハネ、ヤコブが「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」という神の言葉を聞いたのです。いずれも重要な出来事です。これがガリラヤ伝道の頂きです。

 心の内を見抜かれる

 しかし、その山を下りると弟子たちの不信仰が剥き出しの形で現れてくるのです。彼らはイエス様の受難預言の意味が分からず、恐ろしくて尋ねることもないままに「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」について議論し始めるのです。これは恐るべきことですが、私たちにおいては日常的に起こっていることでもあります。
 彼らの「心の内を見抜かれた」イエス様は、幼子を側に立たせてこう言われました。

わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。・・・あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

 今日は礼拝の中で幼児祝福式をしましたので、この言葉の意味を心新たに聴くよい機会でもあると思います。イエス様は、自分と人とを比較して人よりも少しでも大きな存在になろうとする大人たちの心の思いを見抜かれます。そして、その大人たちの思いとイエス様のこれまでの言葉や業がどれほど遠いものであるかを語られたのです。
 イエス様はたしかに偉大な業をなし、偉大な言葉を語ってこられました。人々からの賞賛を浴びています。しかし、その「人々」がエルサレムでは「十字架につけよ」と叫ぶことになるのです。そのことをイエス様はご存知でした。
 イエス様は、当時の幼子と同じように無価値な者として石ころのように捨て去られて行きます。しかし、だからこそ神様によって勝利の復活を与えられ、栄光の主とされていくのです。この時の弟子たちは、そのことをまったく理解していません。納得もしていないのです。

 イエスの名

 今日の箇所には、ペトロと並んでしばしば出てくるヨハネとヤコブ(彼らは兄弟です)が登場します。マルコ福音書では、彼らはイエス様から「雷の子」とあだ名をつけられていますので、気性が激しかったのでしょう。そのヨハネがイエス様に突っかかるようにしてこう言います。

「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」

 「やめさせようとした」
は一人称複数形で書かれており、「私たちはやめさせようとした」が正確な訳です。この行動は単にヨハネだけのものではなく弟子集団のものなのです。
 また、「お名前を使って」は、直前に出てくる「わたしの名のために」と同じ言葉です。イエス様の名、それは神様の力を現します。10章17節では、伝道に派遣された七十二人の弟子たちが喜んで帰って来る様が記されています。そこで彼らは「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と言うのです。イエス様の「名」とはそういうものでもあります。

 特権意識

 でも、今日の箇所の少し前、イエス様と三人の弟子たちが山の上にいた時、残りの弟子たちは悪霊に取りつかれた男の子を癒すことが出来ませんでした。これは9章の冒頭でイエス様から悪霊追放の権能を与えられて派遣された経験のある者たちとしては屈辱的な出来事でした。その時、男の子の父親は、イエス様に向かって「お弟子たちに頼みましたが、できませんでした」と泣きついたのです。彼らは大いに恥をかき、イエス様は嘆きました。弟子たちにしてみれば、自分たちと共にイエス様に従っているわけでもない者たちがイエス様の名によって悪霊を追い出している、その事実が我慢ならないのです。その気持ちはよく分かります。
 仲間内では互いに競い合っていても、いざ共通の敵が出てくると一致団結することはよくあることです。この時の弟子たちもそうでした。イエス様から「わたしの名のために幼子を受け入れなさい。あなたたちも小さな者となれ」と言われて、意味が分からないけれども反感を抱いたヨハネは、「それでは、許可もなくあなたの名を使って悪霊追放している者たちも受け入れろってことですか、あの者たちも仲間として受け入れろってことですか」と問うたのではないでしょうか?
 ここには一種の特権意識があります。自分たちこそがイエスの直弟子なのであって、他の者たちは自分たちより格下でなければならないという意識があるのです。そして、本来格下の者たちが何故か悪霊を追放出来ることへの苛立ち、嫉妬があるでしょう。

 セクト主義

 また、ここにはある種のセクト主義もあると思います。やっていることは同じだけれど、それぞれのグループの主導権争いとか面子の問題で一つにはなれない。一旦組織が出来ると、こういうことがよく起こります。イエス様の「名」において一つとなり、互いに協力し合えばよいのですがなかなか出来ないのです。
 イエス様はかつて異邦人が住むゲラサの地で、裸で墓場に暮らしていた男から悪霊を追放したことがあります。その男は、イエス様に従って行きたいと願いました。しかし、イエス様は、地元に残ってその地でイエス様の御名を証することを求められたのです。
 人にはそれぞれの道があり、持ち場があります。十二弟子のように、エルサレムまでの道行きをすべて同行するように召された者もいれば、自分の町や村でイエス様の名によって伝道することを求められている者もいます。教会には、牧師もいれば長老もいれば信徒もいます。その一人ひとりに持ち場があるのです。牧師だけがイエス様に従っているわけではありません。まして特別信仰が強いわけでもないし、理解が深いわけでもない。牧師の世界の中でも、誰が一番偉いかを競っているようなことは幾らでもあるのです。信徒の中にもあるでしょう。こういうことはどこにでもあるのです。
 大事なことは、自分たちの組織を守ることではなく、どういう場であれ、どういう仕方であれ、イエスの名において生き、そして証の業をなすことです。私たちは互いにその働きを認め合い、イエスの名において一つとなって生きることが求められているのではないでしょうか?具体的にエルサレムまでの道行きをイエス様と共にせずとも、イエス様への信仰を持ち、その名において人々から悪霊を追放しているのであれば、それはイエス様に従っていることです。イエス様に従う具体的な場所や方法まで一つになることが信仰の一致を意味するわけではありません。
 ご承知のように、キリスト教の世界においても教派間の相違や路線の相違などで対立してしまうのです。そういう対立を作り出す私たちに向けて、イエス様は「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」とおっしゃっているのだと思います。

 天に上げられる時期

「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」

 「天に上げられる」
とはイエス様が十字架上で殺され、三日目に復活し、使徒言行録によれば四十日にわたって弟子たちに「神の国について話し」た後に天に上げられることです。「時期」と訳された言葉は「日々」が直訳です。十字架の死から昇天という神様の救いのご計画が実現する「日々」がいよいよ迫ってきた。そういうことがここで言われていることです。
 その時、イエス様は「エルサレムに向かう決意を固め」られました。原文は「顔を向けられた」です。イエス様は、決然としてエルサレムに向かっていくのです。原文では三回も「顔」が出てきます。「先に使いの者を出された」は「彼の顔の前に遣わした」ですし、「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたから」は「イエスの顔がエルサレムに向けられていたから」です。
 イエス様が決然とその顔をエルサレムに向けられる。それは、神様が定めた時が迫ったからです。イエス様の行動は神様の定めを受け止めるものであって、外的な状況判断によるものではありません。神様が定めた時、それは山の上でエリヤとモーセと話し合った「エルサレムで遂げようとしている最期」に向かう時です。「最期」(エクソダス)とは「脱出」とか「救出」という意味を持つ言葉です。人々を罪の支配から脱出させる、救出するために十字架で死に復活することです。それは神様の定め、ご計画であり、イエス様ご自身が立てた計画ではありません。そのことがイエス様の決意を不動のものとするのだと思います。
 それは私たちにおいても同様であるはずだし、同様でなければならないはずです。しかし、私たちの場合はここでの弟子たち同様、時を見誤ったり、神様の計画と自分の願望を取り違えたりしがちなのです。ヤコブとヨハネの姿を見れば、それがよく分かります。

 サマリア人

 イエス様は北部のガリラヤ地方で神の国の説教をして来られました。エルサレムは南部のユダヤ地方にあります。その北部と南部の中間にサマリア地方があります。そこにはサマリア人が住んでいるのです。サマリアはかつて北王国イスラエルの首都があった地域です。しかし、紀元前の8世紀に北王国はアッシリアに滅ぼされ、民の多くがアッシリアに捕囚される代わりに外国人が移住させられてきたのです。それ以来、サマリア人とユダヤ人とは犬猿の仲ですからしばしば摩擦や衝突が起こるのです。ですから、余程のことが無い限り互いに接触はしません。
 現在のイスラエル国内にはまるで刑務所のような高い壁があちこちに建っており、パレスチナ人とユダヤ人の居住地を分けています。そして、ユダヤ人が少しずつパレスチナ人の土地に侵入していわゆる実効支配をしています。それは長くその土地に住んでいるパレスチナ人にとっては耐え難い屈辱です。ですから、その両者が和解することはほとんど不可能だと思わざるを得ない状況です。民族や国家の敵対関係は海を隔てたものであってもなかなかシンドイものですが、陸続きのすぐ近くに敵対する者同士が住んでいるのは本当に大変なことだと思います。昔もそうでしたし、今も日常的に流血事件が起こっているのです。悲惨なことです。

 勘違い

 イエス様はそのサマリア人の村を通るために先に使いを出されます。しかし、村人は歓迎しませんでした。イエス様の一行がエルサレムに向かうことを知ったからです。普通に考えれば、エルサレム神殿に巡礼にいくことだからです。ユダヤ人とサマリア人の対立の原因は民族的なものであると同時に宗教的な正統争いなのです。エルサレムの正統性を認めないサマリア人がエルサレム神殿に行く者たちを歓迎するはずもありません。
 そこでヤコブとヨハネはこう言います。

「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」

 「天から火を降らせて焼き滅ぼす」という言葉の背景にあるのは列王記下1章に記されている預言者エリヤにおいて起こった事例が背景にあります。
 ヤコブとヨハネは、ここではイエス様を「先生」ではなく「主よ」と呼んでいます。この時の彼らにとっては、神の力を発揮することが出来る人間という意味だと思います。翻訳だとよく分かりませんが、ここで彼らが言っていることは、「主よ、あなたは、天から火を呼んで彼らを滅ぼすことを私たちにお望みでしょうか」です。「望む」のは主ですが、火を呼んで彼らを「滅ぼす」のは自分たちです。そして、彼らは主がそのことを望むように願っているのです。
 彼らは、少し前に「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と言われたばかりです。ここでは明らかにサマリア人はイエス様と弟子たちに逆らっているのです。「逆らっているのだから味方ではない。敵だろう。敵であるならばエリヤがしたように、あなたも敵を滅ぼしてよいのではないか。そうすべきだろう。そのために、私たちを用いてくれ。」そういうことだろうと思います。しかし、ここには主客転倒があるのではないでしょうか?

 宗教の怖さ?

 こういう所が宗教の怖さ、あるいは盲目的な信仰の怖さと言うべきだろうと思います。
 この国における伝道が困難であることの原因の一つに、多くの日本人が「宗教は怖い」と思っていることがあると思います。講義をしている大学の学生たちの授業感想レポートを読んでも、そのことを感じます。世界で起こっている戦争のいくつかは明らかに宗教がらみです。少なくとも、外見上はそう見える。熱狂的な原理主義者が敵に対する攻撃や報復を叫ぶ姿をテレビで見るからでしょう。彼らは、その攻撃や報復を正当化するために「神の名」を使います。「自分たちの敵」は「神の敵」となるからです。だから、敵を滅ぼすことは神の御心に適うということになるのです。自分たちこそが神に敵対しているかもしれないという疑いを一切持たない時、その信仰は恐るべきものとなります。
 先日のアメリカの大統領選で勝利した大統領の勝因の一つに、潜伏していたアルカイダの首領を殺害できたことが挙げられていました。アメリカの多くの人々が、裁判をすることもない殺害を支持したのです。その中には、多くのキリスト者もいたでしょう。
 自分たちを脅かす者には断固とした態度を取る。殺害も辞さない。やられたことは倍返しでやり返す。これはお互いが思っていることであり、可能な限りやっていることです。どちらかに正義があり、どちらかが悪であるということではないでしょう。しかし、そんなことを言っていたら埒が明きませんから、「自分たちは正義であり敵は悪であり、神は自分たちの味方である」と思い込む。双方ともそう思い込む。そして、自分たちの敵を滅ぼすことを神も望んでいるに違いない。そう思い込む。こんな恐ろしいことはありません。

 イエスの孤独

 しかし、そのことをイエス様の直弟子たちがやろうとしているのです。イエス様の孤独は深いのです。どんどん深まっていきます。ガリラヤ伝道の最終局面は弟子教育の一つの段階の終了を意味します。しかし、その時に彼らは優越感を剥き出しにして、特権意識を振りかざしました。そして、イエス様が神様のご計画に従って受難に向かおうとするその時に、主の名を乱用し、自分の願望を主の願望と取り違えているのです。
 キリスト教国と言われる国々は戦争を開始する時に礼拝をして、聖職者が戦勝を祈願します。もちろん、イスラム教国でも事情は同じでしょう。どこの国だって、誰だって、神は自分たちの味方だと思わなければ戦争などしようもないのです。しかし、キリスト教会が護国神社とか靖国神社と同じ機能を果たしてよいのか、イエス様がそのことを望んでおられるのか、それは大いに疑問です。
 主イエスは、ヤコブとヨハネに「わたしは望む。お前たちが天から火を呼び寄せて敵を滅ぼすことを」とおっしゃったのでしょうか。

 顔の向き

 イエス様の顔はエルサレムに向かっています。御自分の十字架の死に向かっている。でも、弟子たちの顔は敵に向かっている。あるいは自分自身の栄誉とか権力に向かっている。まったく違う方を向いているのです。
 イエス様はご自身の受難と復活を預言された後、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」とおっしゃいました。
 弟子たちは「自分はイエス様に従っている。他の者たちは従っていない」と思っている。でも、実際には彼らも全く従っていないし、自分を捨ててはいないし、まして「日々、自分の十字架を背負って」などいないのです。ひたすら自分の命を救おうと思い、人の命は滅ぼしてよいと思っている。それなのに、自分たちは主の味方であり、弟子であると思っている。
 私たちはいつも重大な誤解をするのです。主の名を使っていれば何をしても主は自分の味方だと思っている。とんでもないことです。主イエスは、私たちの願望や欲望を満たす装置ではありません。私たちが、主の望みに従うのであって、主が私たちの望みに従うわけではありません。この当然のことを、私たちはあまりにしばしば忘れてしまうのです。そして、私たちこそが神様の敵になる。

 振り向いた

「イエスは振り向いて二人を戒められた。」


 イエス様は「振り向いた」のです。エルサレムに向かっていた顔、最期の日々に向かっていた顔、十字架に向かっていた顔を、愚かで傲慢な弟子たちの方に向けられたのです。その時のイエス様の顔はどんなものなのでしょうか?皆さんは、今、その顔をその心で見ることが出来るでしょうか?一体、どんな顔をしてイエス様は私たちを御覧になっているのでしょうか?少なくとも、先ほど講壇に上がっていた幼子たちを見るお顔とは違うでしょう。

 振り向いてペトロを見つめられた

 私は、イエス様が「振り向いた」と聞いて思い出す場面があります。22章54節以下です。オリーブ山で祈られたイエス様はユダの裏切りによって逮捕され、大祭司官邸に連れて行かれます。ペトロは恐る恐る官邸の中庭に入って行きました。夜のことです。人々は焚き火をしていました。夜の闇に紛れていたペトロは火の光りに照らされます。
 その時、ある女中がペトロをじっと見つめて「この人も一緒にいました」と言いました。彼は「わたしはあの人を知らない」と言うのです。そういうことが三回繰り返されました。そうしたら、突然鶏が鳴いたのです。主イエスの預言どおりです。
 ここでルカはこう記します。不思議な記述です。

主は振り向いてペトロを見つめられた。

 54節に、「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った」とあるのですから、イエス様は中庭にいるはずもありません。でも、ルカは「主は振り向いてペトロを見つめられた」と書くのです。そして、「ペトロは『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」と記します。
 実際にイエス様がペトロの反対側を見つつ中庭に立っていたかどうかは問題ではありません。もし、そのことが問題であれば、私たちは決してイエス様に振り向かれて見つめられることはありません。しかし、イエス様は今でも、あらぬ方向を見つめ、あらぬことをしてしまう私たちに心を痛めつつ、でも決して見捨てることなく振り向いて見つめてくださるのです。そして、戒めてくださる。憐れんでくださる。そして赦してくださり、我慢して共に歩みつつ導いてくださるのです。そのことが分かるか分からないかにすべてが懸かっています。
 ペトロはこの時泣きました。子どものように泣いた。主イエスの悲しみと憐れみの心が伝わったからです。そして、主イエスがなぜ十字架に磔にされて死なねばならぬかが少し分かったからだと思います。

 諦めないイエス

 しかし、今日の箇所では、ヤコブもヨハネも振り向かれるイエス様の顔を見ても、また戒められても、イエス様の悲しみも憐れみも分からなかったでしょう。イエス様は、そういう弟子たちを連れて、「別の村」に行かれました。イエス様は、サマリアの村人を敵だとは思っておられないから。あるいは「敵を愛し、迫害する者のために祈る」のがイエス様だからです。
 そのイエス様に従い、イエス様の名において神の国の到来を告げ知らせるのが弟子たちの使命なのです。しかし、彼らがその使命を自覚して使徒の務めを果たすためには、まだ時間が必要です。既に「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、我慢しなければならないのか」と嘆かれたイエス様の嘆きはまだまだ続きます。そして、今もそれは続いています。私たちキリスト者がそれを続けさせている。主イエスは今も孤独でしょう。
 でも、イエス様は諦めないのです。私たち弟子がどれほど愚かで傲慢であっても、その都度、振り向いてくださり、戒め、慰め、励ましてくださいます。ペトロにもイエス様はこう語りかけてくださっていました。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 この直後に「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と彼は言うのです。そして、程なく「あの人のことは知らない」と言う。でも、そのペトロの方を振り向いてくださるイエス様がいる。彼の信仰が無くならないように祈ってくださるイエス様がいます。そして「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言ってくださるイエス様がいます。今もです。イエス様は、孤独の中でただ歯を食いしばってひとり我慢しておられるのではありません。私たちのことを諦めず、見捨てず、私たちのために祈り、語りかけてくださっているのです。今もです。

 今泣いている人は幸い

 だから、私たちは「立ち直る」ことが出来るのです。今日から、心新たに主の御心を尋ね求め、主の望みだけを行いたいという信仰を新たにすることが出来るのです。それは幼子の信仰でしょう。
 小さい頃、私は親によく言われました。「さっき泣いたカラスがもう笑った。」私たちは大人のつもりだけれど、子どもです。子どもであることが分かればよいのです。子どもである自分を受け入れればよいのです。子どものように、イエス様の愛と赦しを求めて生きていけばよいのです。愚かだから失敗します。挫折します。泣きたくなります。でも、泣きながらイエス様に赦しを乞うのです。イエス様は振り向いて赦してくださいます。そして、「さあ、涙を拭いて、また頑張ればいいじゃないか。今日からわたしの後についてきなさい」と言ってくださるのです。今、そのイエス様の顔を見、その声を聞くことが出来た人は幸いです。今泣いている人は幸いです。笑うようになるからです。

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