「イエスに従うとは」

及川 信

       ルカによる福音書 9章57節〜62節
9:57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」9:59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。9:60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

 愛は死のように強い

 旧約聖書の中に「雅歌」というものがあります。普段は読むことがない書だろうと思います。私もむかし読んだきりもう何年も読まずに来ました。でも、今日のイエス様の言葉を読みつつ色々思い巡らしていた時、「雅歌」の中にこういう言葉があることを思い出しました。

愛は死のように強く
熱情は陰府のように酷い。
火花を散らして燃える炎。
大水も愛を消すことはできない
洪水もそれを押し流すことはできない。
愛を支配しようと
財宝などを差し出す人があれば
その人は必ずさげすまれる。
(雅歌8章6節後半〜7節)

 この言葉が「雅歌」の中で何を意味するのか、そのことを私はよく知りません。恐らく、愛というもの、それも神様の愛の次元は私たちが考えるようなものではない。すべてを呑み込みすべてを押し流してしまう大水や洪水すらも、愛に対しては無力である。まして、財宝を差し出しても何の意味もない。しかし、私たち愚かな人間は、しばしばそういう低次元のことをする。そういうことなのではないかと思います。

 次元の違い

 私たちは今、ルカ福音書9章を読んでいます。9章の主題は、「神の国」「弟子たち」と言ってよいでしょう。9章の冒頭でイエス様は十二弟子を「神の国を宣べ伝え病人をいやすために」遣わされます。以後、もっぱら弟子たちの教育と訓練をしてこられたのだと思います。今日の箇所の直前にある対話においても「イエス様に従うとはどういうことであるか」、「神の国はどういうものであるのか」を教えておられるのです。しかし、彼らはイエス様が何をお語りになっているのかが分かりません。生きている次元が違うのです。次元が違うと言葉は通じません。

 弟子 神の国

 今日の箇所には三人の人物が出てきます。イエス様の弟子になろうとする人物です。その三人に対するイエス様の言葉はいずれも厳しいものであり、誰だってその言葉を聞けばうな垂れて、後ずさりをするほかにありません。私たちの誰も、イエス様の弟子になどなりようがないことを思い知らされるからです。しかし、イエス様の弟子として生きることが「神の国」を生きることなのであり、それこそが救いなのです。イエス様の弟子にならずして、私たちは「神の国」に生きることなど出来ません。そうであるとすれば、厳しい言葉を言われたからといって、諦めてしまうわけにはいかないでしょう。

 求めよ、さらば与えられん

 先週は宮崎先生が「求めよ、さらば与えられん」と題して説教をしてくださいました。そこで、「求めよ」とは「求め続けよ」ということであり、それはまた「教会に集う者たちが共に求め続けよ」ということであると教えられました。さらに言えば、既に与えられているものをこれからも求め続けよということでもある。つまり、イエス様を通して既に与えられている神の国を求め続けよ、罪の赦しを求め続けよ。そうすれば、それは必ず与えられるということでした。
 今日登場する匿名の三人が、その後どうしたのかは分かりません。「こりゃ駄目だ」と思って諦めてしまったのか、それともイエス様の言葉の意味、その次元を理解しようと求め続けることによって新たな思いで「主よ、あなたに従います」と言って従い始めたのか、それは分からない。この箇所は私たちへの問いかけですから、私たち自身がその答えになるのです。

 進んで行く

 「一行が道を進んで行くと」
とあります。「進んで行く」はポレウオマイという言葉です。ルカはこの言葉を意図的に使っています。51節の「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」のエルサレムに「向かう」がポレウオマイで、「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」もポレウオマイです。
 「決意を固める」とか「目指して」は、「顔を向けた」が直訳です。まっすぐにエルサレムのほうを見つめて前進する主イエスがそこにはおられます。しかし、師の心を知らぬ弟子たちはいつもあらぬ方向を見ている。 そういう文脈の中で今日の話が出てくるのです。この文脈を考慮すれば、今日の箇所は単純に「弟子の覚悟」(新共同訳聖書小見出し)を教えるものとして読めないだろうと思います。

 どこに何を持つか?

 弟子たちと共にエルサレムに向かうイエス様に、ある人が「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。イエス様の答えを直訳すると「狐は穴を持っており、空の鳥も巣を持っている。しかし、人の子は枕する所をどこにも持っていない。」あるいは「枕する所を持たない」となります。原文では「持つ」という言葉が使われているのです。狐や鳥は自分たちに必要なものとして穴や巣を作っています。動物にとっても帰って来て安心して眠る場所は必要なのです。人間にとっては尚更必要です。しかし、イエス様はそういう安住の場所を「持っていない」。「持ちたくても持つことが出来ない」という面があるでしょう。しかし、敢えて「持たない」とおっしゃっているのだとも思います。
 直前の段落では、イエス様たちはサマリア人の村に入ることを拒まれました。イエス様は、いつでも行く先々で歓迎されたわけではなく、やむをえず野宿をされたことが幾度もあったでしょう。イエス様はお生まれになったその時既に、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」のです。この地上に枕する所を持たない歩みは、誕生の時から始まっているのです。その行き着く先が十字架です。
 しかし、イエス様の言葉を聞いてすぐに表面的な意味で納得してはならないと思います。イエス様は、伝道を開始して以来絶えず野宿していたわけではありません。ガリラヤ伝道の時は弟子のシモン・ペトロの家を定宿とし、エルサレム滞在中はマルタとマリアの家を宿としていたと思われます。だから、「枕する所がない」は、「毎日野宿をする」の意味ではなく、「この地上に安住の地を確保して生きているわけではない」。あるいは「この世に最終目的地を持っているわけではない。ここで生きて、ここで死んで、墓の中に永眠するために生きているわけではない」。そういう意味なのだと思います。
 イエス様の答えを聞いた人が、どういう反応をしたかは分かりません。想像するに、何を言われているか分からぬまま、この時はその場を立ち去ったのではないかと思います。

 父の葬り

 イエス様は別の人には「わたしに従いなさい」と招かれました。その人は、イエス様を「主よ」と呼んでいるにもかかわらず、こう答えます。

「まず、父を葬りに行かせてください。」

 父を葬る、これはユダヤ人社会の中では最大の義務だったそうです。もちろん、日本の社会でも父の葬儀をしない息子は親不幸者であり、かつての封建制社会の中ではその土地に住むことは許されなかったでしょう。ここで、この人の父が今死んだばかりかとか危篤なのかと詮索することに意味はありません。問題は、この世における最大の義務とイエス様に従うことのどちらが大事なのか、優先すべきなのかだからです。

 死者に葬らせよ?!

 イエス様の言葉はこれまた衝撃的なものです。

「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」

 これは何を意味しているのでしょうか?「死んでいる者」と「死者」は原文では同じで「死人」の複数形です。でも、死人が死人の葬儀など出来ようはずもありません。表面的な次元に立つ限り、イエス様の言葉は全く意味不明です。
 15章には有名な「放蕩息子と父の譬話」があります。その中に、「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言う場面があります。「死んでいた」は「死者だった」です。もちろん、息子は家を出た時からこの時まで肉体としては生きています。しかし、父の目から見れば、財産をふんだくって父の家を出て行くこと自体がもう既に本来の命を失っていること、死んでいることなのです。
 今日の箇所もその意味で受け取るとすれば、神の国の宣教を受け入れずに、この世の富や地位を求めて生きていること自体が死んでいることなのです。今の日本の現実で言えば、信仰を持たない普通の人々は死んでいる。葬儀はそういう人々に任せなさい。しかし、神の国を信じて受け入れている者は、そういう葬儀をするのではなく神の国を言い広めなさいとおっしゃっていることになります。しばしば、そのように解釈されますし、当たっている面があると思います。
 私の話の流れでは「遊び暮らして死んだ者の葬儀は同じ穴のムジナに任せておけ」と、イエス様がおっしゃったことになります。しかし、あの譬話は弟が出て行った後も家に残って父に仕えていた兄が実は父を愛しておらず、父の家に入ることを拒むところまで続きます。兄は父と同じ家に住んでいても同じ愛を生きているわけではない。父の心を我が心としているわけではない。真面目で親孝行に見える兄の内実が暴かれていく話でもあります。
 目に見える行動が放蕩か孝行かが問題なのではなく、その心が、また生きている次元が、この世なのか神の国なのか、それが問題なのではないでしょうか。そういう意味では、真面目に息子の義務を果たしている兄もまた「死んでいる者」ということになります。彼はもちろん、父が死ねば長男の義務として父の葬りをするでしょう。しかしそれは、イエス様がもたらした神の国に相応しい葬儀なのか?それが問題です。

 泣くな

 ルカ福音書では、これまで二度、死者が出てきました。一つは、ナインという町の寡の一人息子が死んだ場面であり、もう一つは会堂司ヤイロの娘が死んだ場面です。いずれの場面でも、遺族はもちろん集まってきた人々も泣いています。愛する人の死を前にした時、私たちは泣くしかないのです。私たちは死者に対しては墓に葬ること以外に何も出来ないのですから。
 イエス様は、そういう人々の悲しみをその身に受け止めてくださいます。泣く者と共に泣いてくださいます。しかし、いつまでも共に泣き続ける訳ではありません。一人息子を失った寡には「もう泣かなくともよい」とおっしゃり、ヤイロの娘の死を悼んで泣いている人々には「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」とおっしゃいました。そして、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」「娘よ、起きなさい」と呼びかけて生き返らせたのです。いずれの場合も、人々は驚愕しました。まったく次元の違う現実を目の当たりにした時、私たちはただ驚き恐れるものです。

 神の家族の葬儀

 今日は、皆さんのお手元に「会報」11月号が配られています。巻頭言は召天者記念礼拝で語った説教の要約です。その中で、私はWMさんの埋骨式に触れつつ「イエス様は・・私たちの『罪を赦し』、『墓から贖い出す』ために復活し、今は聖霊と御言において私たちを導く道、真理、命として共に生きてくださっているのです」と語っています。
 ヨハネ福音書11章には死後四日も経ち墓に納められているラザロに対してイエス様が「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ぶと、ラザロが墓から出てきたと記されています。
 中渋谷教会では会員が亡くなった場合、基本的に会員の皆さんにお知らせします。亡くなった方と親しかったかどうかは別にして、ご都合のつく方はご参列いただきたいと、私は願っています。毎回多くの方が参列くださって感謝しています。私たち教会員同士は肉の家族ではありませんが、神の家族です。その神の家族としてご遺族たちに「神の国を言い広める」務めがあると、私は信じています。
 「亡くなったあなたのご家族はイエス・キリストを信じる信仰によって罪赦されています。だから、その方にとって死は滅びではありません。死は復活に至るものなのです。私たちは近い将来、ご遺骨を墓に納めますが、そこが信仰者にとっての終の棲家ではありません。私たちが永遠に枕する所は墓の中ではなく、神の国です。イエス・キリストを信じて生きた者は、イエス・キリストがその十字架の死と復活と昇天を通して切り開いてくださった道を通って神の国を目指して進んで行くのです。信仰に生きる命は肉体の死で終わるものではありません。どうぞイエス・キリストを信じてください。そして、望みをもってください。あなたも礼拝にいらしてください。」

 そのように告げる。神の国を「言い広める」。それが、私たちの教会の葬儀です。だから、それは教会を挙げて捧げるべきものです。牧師の説教だけでなく、皆さんの賛美の声、力強く「アーメン」と唱和する声を通して、ご遺族に神の国を告げ知らせるのです。そのようにして主イエスの慰めを共に分かち合う。それが既に神の国の中に生かされている私たちキリスト者、イエス様の弟子の葬儀だと私は思います。
 だから「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」とは、単純に「父親の葬儀など神の国の宣教に比べれば大したことではない。私の弟子になろうとするあなたはそんなことをする必要はない」ということではないでしょう。そうではなく、「あなたは、最早泣き続けるほかにない葬儀をする人間ではない。それは死んでいる者たちがやることだ。あなたは、今死を目前にしているのであろうあなたの父のもとに行きなさい。そして、神の国の到来を伝えなさい。それが、あなたのすべきこと。あなたに出来ることなのではないか。」イエス様は、そうおっしゃっているように思います。

 本当の父

 次の人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言います。最初の人の問題は、枕する所としての家であり、二番目の人は親でした。そして、三番目の人は家族です。家、親、家族、それは私たちがこの世を生きる上で大切なものです。イエス様も「父母を敬う」戒めを大事にされましたし、「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」(マタイ19章5節)とおっしゃっています。家族の大切さを説いておられるのです。
 しかし、その一方でこういうこともありました。イエス様が十二歳の時、家族全員でエルサレム神殿に参拝に行った後、イエス様だけが父母に何も言わずに神殿に残り、境内で学者たちと論じ合っていたのです。三日後にわが子を境内で見つけた母は怒りました。するとイエス様は「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えたというのです。ここでルカは敢えてマリアとかヨセフの名は記しません。私たちの誰にでも当てはまる出来事として書きたいのだと思います。
 前任地の松本でのことですが、会員の女性が三つ子を産み、その三人の子どもを連れて教会学校に通ってきていました。その子たちはもう高校三年生になっています。その子らが四歳か五歳の頃のことです。お母さんと三つ子が揃って家に帰ったら、お父さんが疲れて炬燵に足を入れたまま眠っていたのだそうです。そのだらしない姿を見た三つ子の一人が、「ねえ、お母さん、このお父さんは本当のお父さんじゃないんだよね?」と言ったのだそうです。もちろん、それは「本当のお父さんは神様だよね?」ということなのですが、お母さんは「どう答えたらよいか困った」と言うので、私は例によって大笑いをしました。

 神の愛

 イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とおっしゃいました。たしかにそうなのだと思います。
 地上の家族、肉の家族もまた神様が与えてくださったものなのです。父も母も、妻も夫も、子も孫も、父なる神様が与えてくださったものです。だからこそ大事なのです。貴重なのです。自分のものではないからです。私たちがどれほど家族を愛したとしても、家族の罪を赦し、墓から贖い出すことは出来ないし、救うことは出来ません。それが出来るのはイエス・キリストの父なる神様だけです。父なる神様が最も強く私たち一人ひとりを愛し、家族を愛してくださっているのです。私たちと家族の罪を赦し、墓から贖い出してくださるのは、主イエス・キリストの父なる神様だけです。
 イエス様に従うとは、その神様の支配、愛による支配を信じて、神様の御心に従うことです。それが神の国を生きることであり、実はそのことが家族を本当の意味で愛することなのです。

 イエスと家族

 イエス様も、家族と別れて神の国の宣教を始めました。そして、今、エルサレムに向けての旅を始めておられる。父ヨセフは早死にしたのではないかと考えられていますから、マリアは寡です。その母を残して長男であるイエス様が枕する所もない旅を続け、最後には十字架に磔にされて死んでしまうのです。それが、イエス様の本当のお父さんの御心だからです。イエス様が残された母の悲しみを慮ることを最優先されるのであれば、とてもその道を歩むことは出来ないでしょう。でも、イエス様にとっては父の御心を生きる道しかないし、その道を選択することは復活と昇天に至ることであり、天に至る道を開かない限り、母も兄弟も死者によって葬られる死者になるだけです。残された者たちが泣き崩れる葬儀をして終わる命を生きるだけなのです。
 枕する所のない旅を続けた結果、エルサレムで十字架に磔にされる。そのことを知りながら、イエス様は顔をまっすぐにエルサレムに向けられました。後ろを振り返ることはなさいませんでした。それは何故か。家族を愛しているからです。肉における家族を救いたいからです。神の国に招き入れたいのです。そのことを最優先しているからです。だから、イエス様は「後ろを顧みる」ことをせずに前を向いて進んで行き、その後を従ってくるように招いてくださるのです。それは厳しい修行への招きではなく、「死のように強い愛」に生きることへの招きでしょう。
 イエス様が神の国の宣教の旅に出てしまった時の母マリアの嘆きは深かったでしょうし、弟たちの怒りや失望も強かったに違いありません。でも、マリアも弟の一人であるヤコブも、イエス様の死と復活、そして昇天と聖霊降臨を経て誕生したキリスト教会のメンバーになっていったのです。イエス様が、この世における息子としての義務や家族との義理を果たすことなく前進することを通して、義務や義理を遥かに上回る愛を与えたからです。「雅歌」にあったように、大水にも洪水にも呑み込まれず、流されることのない神の愛を与えたから、イエス様の家族は神の国に生きることが出来るようになったのです。

 福島教会

 先週の木曜日、私は福島教会の聖研祈祷会で奨励をさせて頂きました。今回で三回目です。今週の土曜日には、日曜日の伝道礼拝の説教者であり、午後のコンサートの演奏者でもある井上とも子先生を福島教会の似田兼司先生にご紹介するため日帰りで行ってきます。中渋谷教会からも八〜九名の方が礼拝とコンサートを共にするために行ってくださることになっており感謝です。このことに関わる費用の一切は、皆さんが捧げてくださっている震災支援献金で賄われますことも感謝です。福島教会の皆さんも、目に涙を浮かべつつ感謝の気持ちを私に伝えてくださいました。今後も「顔の見える連帯と支援」を継続していきたいと願っています。(昨日届いた「改革長老教会協議会」のニュースレターに、福島教会に赴任された似田先生の書かれた文章があったので、印刷して皆さんの週報ボックスに入れておきました。是非お読みください。)

 わたしに従いなさい

 私は聖研祈祷会の奨励の結論部で、ルカ福音書の12章に触れました。そこでイエス様は弟子たちにこうお語りになっています。

「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。・・・・何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。・・・あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

 2011年の3月11日の震災によって会堂を取り壊さざるを得ず、牧師の交代という経験をした福島教会の今年の標語は「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」です。
 私たちが求めるべきもの、求め続けるべきもの、それは「神の国」です。この世のものではありません。この世のものだけでは私たちの命は生かされないのです。この世のものは死者による葬りで終わる肉体に関わるだけです。命を生かすものではありません。イエス様の言う「命」、それは永遠の命です。神様の愛によって生かされ、神様を愛して生きる命です。神の国に生きる命です。イエス様は、その命を私たちに与えるために十字架の死に向かわれるのです。そして、私たちを招かれる。「わたしに従ってきなさい」と。
 それは黙々と厳しい修行に耐えるとか、禁欲生活に励むとか、そういうことではありません。イエス様によって既に到来している神の国に生かされる喜びを求め続け、その喜びを分かち合うために生きることなのです。イエス様に愛されているように愛し合うことなのです。その愛は、この世の愛とは次元を異にしますから、この世においてはなかなか受け入れられないことです。また、私たちがこの世に未練を持っている限りその愛を生きることは不可能です。だからこそ、私たちはイエス様の語りかけをいつも新たに聞き続けなければならないのです。主の日ごとに共に礼拝をし、新たに神の国に生きる者とされ、礼拝からこの世へと神の国をもたらす者として派遣される。そのことを繰り返しつつ、神の国を言い広めていく。「神の国にふさわしい」者とされていく。そこに私たちの喜びがあり、希望があります。イエス様は、その喜びと希望を与えるために、今日も私たちに語りかけてくださっているのです。そのことが本当に分かる時、私たちは、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と喜びをもって、また正しく言うことが出来るのです。そして、イエス様に神の国に連れて行って頂ける。神の国を言い広めることができる。なんと幸いなことかと思います。

説教目次へ
礼拝案内へ