「『お前は不幸だ』と言う悲しみ」

及川 信

       ルカによる福音書 10章13節〜16節
10:13 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。10:14 しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。10:15 また、カファルナウム、お前は、
天にまで上げられるとでも思っているのか。
陰府にまで落とされるのだ。
10:16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」

 段落の構造

 13節以下を読みました。新共同訳聖書には「悔い改めない町を叱る」という小見出しがついており12節と分断されています。その理由は確かにありますが、元来はひと続きの話でしょう。
 10章は、神の国の伝道のためにイエス様が七十二人を派遣することから始まります。そして、彼らの伝道を受け入れない町があったとしても「神の国は近づいたことを知れ」と言うように、イエス様は命じました。その上でこう言われるのです。

「言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

 この言葉の元来の続きは16節だと思います。

「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」

 福音を宣べ伝えても拒絶されることはある。しかし、その拒絶は単に伝道する者を拒絶しているのではなく、その者たちを遣わしたイエス様を拒絶することであり、それはイエス様を遣わした神様を拒絶することなのだと、イエス様はおっしゃる。その拒絶の結果は、「かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」と言わざるを得ないほどの厳しい罰を受けることです。
 ソドムとは、創世記18章19章に出てくる罪深い町のことであり、アブラハムの執り成しも空しく滅ぼされた異邦人の町です。
 そのソドムが出てきたので、ルカは、別の機会に語られたであろうイエス様の言葉をここにはめ込んだのではないかと思います。小見出しの下のカッコの中にマタイ福音書11章20節から24節と記されていますが、そこには同じことが全く別の文脈の中で出てくるのです。
 先週、七十二人の派遣の記事はルカ福音書にしかなく、ルカはその最初から異邦人世界、つまり全世界の人々に対する伝道を視野に入れて書いていると語りました。そのルカの文脈の中でこの部分を読み解くことは意味のあることだと思います。

 ユダヤ人の町 異邦人の町

 ここに出てくるコラジン、ベトサイダ、そしてカファルナウムはガリラヤ湖周辺のユダヤ人の町です。それに対して、ティルスやシドンは地中海沿岸の港町であり、異邦人の町です。旧約聖書のアモス書には、「ティルスの三つの罪、四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない」という形で登場します。しかし、そういう町でさえ神の国が到来した一つの徴である奇跡が行われれば「粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたに違いない」、それ故に「裁きの時には」コラジンやベトサイダより「軽い罰で済む」とイエス様はおっしゃるのです。そして、「陰府にまで落とされるのだ」というカファルナウムに対する言葉は、元々は異邦人のバビロンに対する預言者イザヤの言葉なのです。
 つまり、悔い改めない者は裁かれる。その点において、異邦人もユダヤ人も関係ないということでしょう。イエス様にとっては、悔い改めるか否かが決定的なのです。

 悔い改める

 ルカ福音書の中で「悔い改める」という言葉は非常に大切な言葉です。15章には、群れからはぐれてしまった一匹の羊や失われた銀貨の譬話に続いて、放蕩息子の譬話があります。それらの話の主題は「悔い改め」です。その中で、イエス様は「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」とおっしゃっています。そして、放蕩息子が家に帰ってきた時に、父親は「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って喜びました。神様は、罪人が悔い改めて帰ってくることを何よりも喜ばれるのです。その罪人に、ユダヤ人と異邦人の違いはありません。少なくとも、イエス様においてはそうなのです。

 悔い改める異邦人・悔い改めないユダヤ人

 それは11章29節以下を見ればさらに明らかです。イエス様はそこで、ヨナの説教を聞いて「悔い改めた」ニネベの人々が、「裁きの日」には今の時代のユダヤ人を罪に定めるであろうとおっしゃっています。
 ユダヤ人として誕生したイエス様が、ユダヤ人の救いのために神の国の伝道をしておられることは明らかです。しかし、イエス様はその当初から全世界の人々の救いのために、多くの弟子たちを派遣して伝道しておられるのです。しかし、自分たちの先祖にはアブラハムがいると血筋を誇り、律法を与えられている自分たちこそ神の民であり、律法を守っているが故に正しい人間であると自負するユダヤ人は、イエス様の言葉を聞きその業を見ても悔い改めない。そういう人々の代表として、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムという町の名が挙げられているのです。

 不幸だ

 イエス様は、その町の人々のことを「不幸だ」と言って嘆かれます。ギリシア語ではウーアイという言葉です。響きそのものが「なんということだ・・」と深い嘆きを表しているように思えます。
 この言葉も11章のイエス様の言葉の中に出てきます。律法を厳格に守るファリサイ派の人々に対して、イエス様はこうおっしゃいました。

「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。」

 ファリサイ派の人々とは、律法の字面を読んで杓子定規に守ることで自分は正しい人間だと思っている人々です。そして、律法を守れない罪人や異邦人は神に裁かれて滅ぼされると確信している人々なのです。しかし、イエス様によれば、彼らは律法の根幹である「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」。それでは元も子もありません。それは本末転倒です。しかし、そのことに気付いていない。それ故に悔い改めようがない。だからイエス様は「あなたたちは不幸だ」と嘆かざるを得ないのです。
 律法の根幹を生きないことは、神様を拒絶することであり、神の国を拒絶し、救いを拒絶することです。イエス様はそういう人々を見て冷笑しているのではないし、断罪しているのでもなく、嘆きつつ招いておられるのです。イエス様は、そういう人々を黙って見ていることはできないのです。
 本末転倒の過ちに陥ってしまうことは、ファリサイ派の人々だけの問題ではありません。誰もが陥る過ちです。教育のためだと思ってやっていることが子どもを死に追いやる暴力になってしまう。お金があれば幸せになると思って必死になっているうちに、不幸のどん底に落ちてしまう。そういうことを繰り返しているのが、私たち人間です。しかし、なかなかそのことに気付けないのです。だから悔い改めることもできない。その結末は、私たちが考えるほど甘いものではありません。「かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」からです。

 神の正義

 先ほども言いましたように、ソドムは罪深い町で、暴虐が満ちていました。神様はその町の実態を調べた上で、暴虐の罪が事実であるならば滅ぼす決意をされます。しかし、そのことを実行する前にこうおっしゃいました。

「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」

 神様は、罪に落ちた世界のすべての国民を新たに祝福するためにアブラハムをお選びになったのです。しかし、アブラハムがその使命を果たすためには、彼が「主の道を守り、主に従って正義を行う」ことが必要です。
 神様は、アブラハムが正義を行うかどうか試すために、これからしようとすることを彼に告げます。その上でソドムの方に向かわれるのです。しかし、彼は主の御前に「進み出て」こう言うのです。
 「神様が正しい者と悪い者を一緒に滅ぼすなんてことをするはずがない。もし、五十人の正しい者がいるならば、その人々の故に町を赦すべきではないか。それこそ世界を裁く神様の正義のはずだ。」
 神様はアブラハムの言葉を聞いて、「もしソドムの町に五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」とおっしゃいました。
 これは、私たちが考える正義とは違います。私たちが考える正義とは悪い者を滅ぼすことです。しかし、アブラハムは、「正しい者の故に悪い者を赦すことこそ神様が行うべき正義であり、その正義に基づく裁きではないか」と主張したのです。神様は彼の主張を受け入れました。喜びをもって受け入れたのだと思います。「わたしの目に狂いはなかった。このアブラハムこそ、主の道を守り、正義を行い、世界のすべての国民を祝福に入れる源になる人物だ」と。
 もちろん、ここに出て来る「赦す」は、悪を肯定し放置することではありません。悪人が悔い改めるのを待つということです。アブラハムは、その後、「四十人いたら」「三十人いたら」「二十人では」と粘り、ついに「十人では?」と言い、「その十人のためにわたしは滅ぼさない」という言葉を神様から引き出します。しかし、ソドムにはその十人がいませんでした。

 歴史は何故続いているのか?

 学生時代にここを読んで深く考えさせられたことを思い出します。私は歴史を学ぼうと思って大学に入りました。しかし、人間の歴史に関してはかなり絶望的な思いを持っていたのです。それは、自分の人生に対してもかなり絶望的であったということです。何故かと言えば、「なんやかんや言っても歴史は繰り返す」と思っていたからです。戦争はなくならない、殺人もなくならない。原爆を落とされた広島で「過ちは二度と繰り返しませぬから」と誓ったとしても、核兵器は世界中で作られ続けていますし、弱肉強食の世界は変わりません。
 アメリカでは、銃の乱射によって何人もの子どもたちが殺される事件が繰り返し起きます。その都度、銃規制をしようという動きがあります。しかし、一度も実現したことはないのです。今もその動きがあります。ひょっとしたら殺傷力の高い銃を作ったり、売ったりすることを禁じる法律が成立するかもしれません。しかし、その動きが銃の売り上げをさらに伸ばしているというのです。そして、銃の規制がない地域の方が犯罪の発生率が少ないというデーターもあるらしい。相手も銃を持っていると思えば強盗は出来ないという論理です。そして、その論理は一面では確かに当たっているし、それは核兵器を持つことが戦争を抑止することになるから持つべきだという論理と同じことでしょう。人を殺し、世界を滅ぼす武器や兵器が世界に「平和」をもたらしているのだという訳です。

 二つの平和

 しかし、イエス様が財布も袋も履物も持たせずに七十二人を遣わす際に、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和がありますように』と言いなさい」とおっしゃる時の「平和」と、武器を持つことで保たれるとされる「平和」の間には無限の距離があるのではないでしょうか?そして、人間はその距離を埋めることなど出来ないように思うのです。この世界は結局、いつになってもイエス様がもたらす「平和」を実現することはできない。そう思うと、生きることは空しく、苦しいばかりです。
 そういう空しさ、苦しみの中で、何故この世界の歴史は続いているのかと考えました。ノアの洪水のような裁きが下されないのは何故か?何故、神様は今もこの世界を保ち、この歴史を続けさせているのか?それは何のためであり、何に向かってのものなのか?その問いは当時も今も、私の関心の中心にあるものですし、その問いは自己防衛本能に支配され、自己独善、自己中心から脱することができない自分が今も生かされていることは何故であり、何のためなのかという問いでもあります。

 知っていることはごく一部

 先日、癌によって四十代の若さで亡くなってしまった女性のご葬儀に参列しました。葬儀が終わってから、その方の父上がご挨拶されました。そこで強調されていたことは、多くの方々に祈られてきたことへの感謝です。そして、その感謝はこう続きました。
 「このように祈ってくださった方の中には、私も娘もお互いに直接には知らない方たちもおられます。〇〇教会の皆さんは、私たちのことを直接にはご存じないにも拘らず、娘の病気を知って以来、ずっと祈り続けてくださったことを知らされました。そのことにも深く慰められ、感謝致します。」
 父上のご挨拶をお聞きしながら、私は様々なことを感じました。一つは、今日の御言葉にあるイエス様の悲しみを深く感じました。そして、私が知っていることなどほんの一部に過ぎないということを感じました。
 今日の箇所でイエス様が「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」と嘆き、「カファルナウム、お前は、陰府にまで落とされるのだ」と嘆かれる時、目の前にコラジンやベトサイダ、カファルナウムの人々がいるわけではありません。「お前たちは不幸だ。わたしはあなたたちが滅びることを願っていない。なんとかして神の国に入ってきて欲しいと願っている。あなたたちは『神の国が近づいた』という招きを受けているのに、喜びの知らせを聞いているのに、何故、それを拒むのか?!」とイエス様が嘆いていることを、その三つの町の人々は知らないのです。アブラハムが神様と必死に向き合っていることをソドムの人々は知りません。それと同じように、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの人々は悲しみ嘆くイエス様を知りません。しかし、知らなくても、イエス様のこの嘆き悲しみは、彼らにとって重大な意義があるのです。

 赦しの中の悔い改め 一

 この「不幸だ」という嘆きは、悔い改めを待つイエス様の心から出てきた嘆きです。そして、「悔い改め」とは、赦しの中で生じるものなのです。もちろん、悔い改めたから赦されるのです。しかし、実は、赦されているから悔い改めることが出来る。帰ることが出来るのだと思う。
 群れからはぐれた羊は、捜し出してくれた羊飼いがいたから群れに帰ることが出来たのです。銀貨だって同じです。あの放蕩息子だって、父親が悲しみの心を抱えつつ、ずっと祈りをもって待っていてくれたから帰ることが出来たのだし、父が既に彼を赦していたから家に入ることが出来たのです。息子はそのことを知りませんでした。でも、祈られていたのです。私たちが知っていることは、いつもほんの僅かなことなのです。

 イエスの祈り

 イエス様の「お前は不幸だ」という悲しみと嘆きは、オリーブ山での祈りに繋がっていきます。そこでイエス様はこう祈られました。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

 イエス様がこのように苦しみもだえ、汗を血のように滴らせつつ祈っておられるとき、弟子たちは「悲しみの果てに眠り込んでいた」のです。
 ここで神様から示された「御心」は、イエス様が十字架に磔にされて死ぬことでした。その十字架の上で、イエス様は呻くようにこう祈られました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 この祈りを聞きながら、己が罪を悔い改める者は十字架の下にはいませんでした。ユダヤ人の議員もローマの兵士たちも「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と嘲笑し、侮辱しました。隣の十字架にかけられていた犯罪者の一人も、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵りました。
 でも、たった一人、反対側の十字架に磔にされていたもう一人の犯罪者だけが、自分の罪を認め、人々による裁きを受けつつ「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、罪の赦しを願ったのです。その時、イエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。

 赦しの中の悔い改め 二

 十字架の上で罪を悔い改めても遅いのです。そのことで十字架から降ろされるわけではありません。しかし、イエス様がもたらしてくださる「神の国」、イエス様が与えてくださる「救い」、イエス様がご自分の命を捧げながら祈ってくださる「罪の赦し」は、その悔い改めが死の間際であっても遅くはないのです。赦しは悔い改める者すべてに即座に与えられるのだし、それは死を越えた命をもたらすものなのです。イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに赦された者にとっては、死んだら何もかもお終いではありません。御国における復活があるからです。
 ルカ福音書で「悔い改める」という動詞が出てくる最後の箇所は17章です。そこでイエス様はこうおっしゃっています。これはマルコにもマタイにもある言葉です。

「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

 イエス様の言葉はそのまま業であり存在です。イエス様は、ただ単に言葉で赦すのではありません。心で赦すだけでもない。悔い改めた者が、神様に赦されるために、その命を捧げてくださるのです。そういう赦しを与えてくださる唯一のお方なのです。
 この方の祈りを通して赦しが与えられていることを、私たちはかつて知りませんでした。でも、赦しは与えられていたのです。祈られていたのです。悔い改めることを待たれていたのです。そして、どういう訳か、私たちはこの地上の生ある時にイエス・キリストと出会い、その語りかけを聞き、御国への招きに応える恵みに与ることができました。だから今日も私たちはこの礼拝堂の中にいる。そして、神様を礼拝している。礼拝することが許されている。すべては、イエス様が「自分が何をしているのか知らない」私たちのために祈ってくださっていたことによることです。

 「正しい人だった」

 イエス様が十字架に磔にされている昼の十二時から三時まで、太陽は光を失い、全地が暗くなりました。そして、イエス様は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫んで、息を引き取られたのです。
 そのすべての様を十字架の真下で見ていた百人隊長は、恐らくイエス様を十字架に釘でうちつけて磔にした人ですけれど、「この出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」とあります。「正しい人」とは、「正義を行う人」ということです。
 イエス様は、「正義の実行と神への愛」をファリサイ派に求められました。その正義と愛を生きない人々は、ファリサイ派であれ誰であれ「不幸」なのです。しかし、その不幸な人々は、十字架に磔にされる悲しみを味わうことはないでしょう。
 でも、神様が求める「正義の実行と神への愛」をどこまでも貫いて行くと、「父よ、彼らをお赦しください」と祈りつつ十字架の上で死ぬ悲しみを味わうことになるのです。イエス様は、世界の歴史の中でただ一人、そしてただ一回だけ、ご自身の命を犠牲として捧げることを通して「世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」というアブラハムに与えられた使命を完全に果たしてくださったのです。イエス様こそ、「主の道を守り、主に従って正義を行う」唯一の「正しい人」なのです。聖書は、そう告げている。
 ソドムに「正しい人」が十人いればソドムは滅ぼされず、赦され、悔い改めの機会が与えられたはずです。しかし、ソドムにはその十人がいませんでした。それでも神様が罪に落ちた世界のすべての国民を祝福したいという御心は変わることなく、むしろ燃え盛っていくのです。旧約聖書はそのことを告げているのだし、新約聖書はその燃える愛が、イエス・キリストの誕生、生涯、十字架の死と復活を通して完全に現されたことを告げているのです。
 ただ一人、イエス・キリストだけが「正しい人」として十字架に死に、そうであるが故に復活させられて、天に上げられたのです。そして今は、「神の右に座っていて、わたしたちのために執り成して」くださっているのです。ただこの一人の「正しい人」の故に、神は私たちの罪を赦してくださっているのです。そして今も「神の国はあなたがたに近づいた」という伝道を継続し、悔い改めるように招き続けてくださっている。ただそのことの故に、世界は今も存続し、歴史は続いている。
 世界に生きるすべての人々がそのことを知っていようがいまいが、贖いの業を成し遂げられた主イエスは、今も私たちのために執り成しの祈りを捧げてくださっているのです。「わたしの十字架の贖いの故に、父よ、彼らの罪を赦したまえ」とイエス様は祈ってくださっている。そして、今日も御言葉の説教を通して「神の国はあなたがたに近づいた」と招いてくださっている。この招きに、「主よ、信じます。私の罪をお赦しください」と応えることが出来る者は「幸い」です。神の国は、その人のものだからです。

 幸いだ

 主イエスは言われます。

今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。

 神の国に迎え入れられ、神の国をこの世に伝えつつ生きることに苦しみや悲しみはつきものです。それは、イエス様の生涯を見れば分かることです。苦しみと悲しみぬきに伝道に生きることはできません。しかし、その伝道に生きる時、主イエスは私たちに「あなたがたは不幸だ」とはおっしゃいません。「あなたがたは幸いだ」と言って喜んでくださる。この幸いを生きる者となりましょう。それが主の喜び、そして私たちの喜びなのですから。

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