「天に名が記される喜び」

及川 信

       ルカによる福音書 10章17節〜20節
10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

 喜んで帰ってきた

 「七十二人は喜んで帰って来た」
と、あります。彼らは10章の冒頭で、イエス様に任命されて、「神の国は近づいた」と宣べ伝えるために町や村に派遣された人々です。その際に、イエス様から「財布も袋も履物も持って行くな」と言われました。そこには、悪霊を追い出す権威を授けられたとは書かれていませんが、9章に出てくる十二人の派遣の際には「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」とあります。七十二人も同様の権能(権威も原語では同じエクスーシアです)を授けられたことは、「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた」というイエス様の言葉からも明らかでしょう。
 彼らは、その権威をもって神の国を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追放することが出来た喜びに満たされて帰って来ました。その時の高揚した顔が目に浮かびます。
 私はこういう形の伝道をしたことはありません。しかし、キリスト教会誕生以来二千年の歴史の中では、何人もの人々がこのような伝道をしてきたのです。何も持たずに世界各地に派遣され、不思議な力に守られて伝道を継続し、その国の土になったキリスト者は数え切れないほどいます。

 ヴォーリーズ

 会報の12月号に吉島さんがお書きくださいましたように、私たちが少しずつ交わりを深めている福島教会の会堂を設計したのはウイリアム・メレル・ヴォーリーズという人です。その会堂は、ヴォーリーズが日本で造った初めての西洋建築で文化財にも指定されていました。しかし、震災による損傷が烈しく取り壊さざるを得ませんでした。再建に向けて、私たちも出来る限りの支援をしたいと願っています。
 ヴォーリーズは、若き日に海外伝道に献身するという召命を受け、1905年(明治38年)アメリカから来日し、滋賀県の近江に英語教師として着任したのです。彼がまだ25歳の時のことです。彼は学校では英語を教えましたが、自宅では聖書を教えました。そこに彼を慕う生徒たちが一人また一人と集まるようになったのです。今だって、村落社会は良くも悪くも昔からの因習を守ることで共同体の結束を守っています。まして明治時代です。文明開化などは東京の一部で騒いでいるだけのことで、地方にはあまり関係はありません。しかし、その文明開化の故に青い目の外国人が遠い遠いアメリカという国からやってきたのです。その教師が英語を教えてくれるまではよいのです。しかし、イエス・キリストという名前の神を教えるとなると話は別です。そんなわけの分からん神を信じる者が出てきたら村は分裂してしまいます。ヴォーリーズは教師を解任されます。しかし、彼はその後も日本に留まり西洋建築の設計や結核療養所の建設など幅広い事業を展開しつつ、信徒として日本各地で福音宣教の業を継続しました。一柳満喜子という日本人女性と結婚し、日本国籍を取り、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる・米国から来て留まる)と改名し、日本人として死に、お墓は滋賀県の近江八幡にあるそうです。

 無名の信徒伝道者

 そういう偉大な業績を残した宣教師や信徒伝道者の周囲には、歴史にその名が記されるわけではない人々の祈りと献身の支えがあるものです。彼の教え子や近隣住民の中に、決死の覚悟でキリスト信仰の道に入り、生涯、ヴォーリーズと共に生き、伝道に献身する人々が出てきました。そういう人々もまた、財布も袋も持たず見知らぬ地の伝道に旅立った人々であると言うべきだろうと思います。
 昔も今も、神の国の福音を信じ、イエス・キリストを証して生きるとは、この世の国から神の国に向かって旅立ち、そこに籍を移して生きることです。だから、この世においては必然的に旅人、あるいは寄留者となる他にないのです。その歩みはこの世においては不安定なものであり、危険に満ちたものである場合もあります。しかし、この世を生きている命は必ず死を迎えますし、この世自体もいつかは滅びます。そうであるなら、永遠に滅びることのない神の国に今既に本籍が移されていることほど平安なことはありません。
 その様な信仰生活、証の生活、伝道の生活への旅立ちを、主イエスの任命を受けてなす時、その人の心にあるであろう高揚感、それまで感じたことのない大きな恐れと大きな期待が混在する高揚感は、私なりに分かります。洗礼を受ける時にそのことは味わいましたし、伝道者になる時も味わいました。また、礼拝に備えて説教の準備に取りかかる時も、行き先を知らぬ旅に出るような大きな不安と大きな期待を毎回感じます。
 礼拝の最後に神様の祝福を受けて一週間の歩みに派遣されるとき、皆さんもある種の高揚感を心に抱くのではないでしょうか。
 私たちは毎週、「平和の内にこの世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい」との言葉をもって一週間の旅路に派遣されます。それは、何度聞いても恐れと期待を感じさせる言葉だと思います。明日からの一週間は経験したことがない日々であり、何が起こり、誰とどの様な出会いや交わりが与えられるか分かりません。でも、私たちは「平和」を持ち運び、イエス・キリストの愛を生きるために派遣されるのです。毎週、私たちはイエス様から大変な使命を与えられて送り出されるのです。

 礼拝堂の中の喜び

 その一週間の歩みを終えて、私たちは今日もこの礼拝に集まっています。神様が招いてくださっているからです。本当に有り難いことです。この会堂に住んでいる私もそうですが、遠く近くからこの礼拝堂にやって来る皆さんは尚更のこと、座りなれた椅子に座った瞬間、肩の荷を降ろすような安堵感を抱くのではないでしょうか。そして、今日もこうして兄弟姉妹と共に礼拝できることへの感謝の思いを抱くでしょう。その上で、これから与えられる御言葉に集中していこうと心備えをされるのではないかと思います。
 礼拝で聞く最初の言葉は「招きの言葉」です。その招きに応えて私たちは賛美します。そして、神様の憐れみを祈り求めるのです。一週の間の歩みの中で罪を犯してしまったからです。その罪を赦していただかなければ御前に立つことはできないからです。司式者は、皆さんを代表して悔い改めの祈りを捧げます。神様は、その悔い改めの祈りを聞き入れてくださいます。神様が求めておられるのは悔いし砕けた心だからです。真実の悔い改めを神様に向かって捧げることが出来る人は幸いです。
 しかし、憐れみを求めるだけでなく、私たちは感謝の報告もしたいものです。
 「神様、この一週間の中で、私はあなたの愛に満たされ、ある人を愛することが出来ました。愛し合う喜びの時をもてました。あなたのことを言葉で伝えることが出来ました。その言葉を聞いてもらえました。ぎこちない関係であった交わりがほんの少しですが、和んでいくことが出来ました。あなたが聖霊を送ってくださり、イエス様を遣わし、イエス様が私と共にいてくださったからです。ありがとうございました」。
 そういう感謝の報告が出来る人は幸いです。その人は、中渋谷教会に来るために登らねばならぬあの坂道の途中で既に喜びに満たされた笑顔になっているはずです。愛するイエス様によい報告ができるということは真に喜ばしいことです。

 礼拝堂の外の喜び

 七十二人は行く先々でいつも歓迎されたわけではなく、拒絶されたこともあったはずです。辛く、悲しい経験もしたはずです。でも、一度の成功があれば九度の失敗は吹き飛ぶものです。
 皆さんも、これまでに親しい人に聖書の話をしたり、イエス様の名前を使ってお話をしたことがあるだろうと思います。しかし、話を聞いてくれた人が次の週から教会に来るわけではないし、伝道礼拝にお誘いしても来てもらえないことの方が多いでしょう。私は伝道が専門ですから、これまでに数え切れない人たちに聖書の話をしてきましたし、イエス・キリストの名前を伝えてきました。大学で講義をするようになってその数は飛躍的に増えました。今年度だけで四百人の学生に熱心に聖書を語りました。でも、そのことで礼拝に来た人はほんの数人です。しかし、それは大きな喜びです。その中の一人でも教会に連なって信仰が与えられるまでになったとしたら、それがこれまでイエス・キリストの名を伝えた何千人の中の一人であっても、大きな喜びをもってイエス様に報告をするに違いありません。伝道の喜びとはそういうものだと思います。

 イエスの名によって

 彼らは言いました。

「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」

   これは弟子たちの喜びの表現だけでなく、イエス様の名前の偉大さを賛美する言葉でもあるでしょう。その名前が持つ力に彼ら自身が圧倒され、ひれ伏す思いがあるはずです。
 彼らの伝道の旅がどれくらいの期間のものだったのか、一週間だったのか一ヶ月だったのかは分かりません。それがどの位の期間のものであったとしても、財布も持たずに出かけた彼らが飢え死にすることもなく元気に帰ってきたのです。それは、彼らを迎え入れ、泊まる部屋や食事を提供してくれる人々がいたからです。
 その支えを受けて弟子たちは「神の国は近づいた」と宣べ伝え、イエス様の名によって病人を癒し、悪霊に苦しむ人々を解放することが出来ました。でも、思い出してみると、悪霊に苦しむ男の子を助けて欲しいと父親から懇願された時、既に聖霊を追い出す権能を与えられていたはずの弟子たちはどうすることも出来ないことがありました。そういう彼らが、今イエス様の派遣に応えて伝道をした時、イエス様の名によって悪霊を屈服させることが出来た。たとえそれが一人に対してのものであっても、その喜びはとてつもなく大きかったでしょう。

 サタンが天から落ちた

 イエス様も、喜びの笑顔で彼らの報告をお聞きになったはずです。その喜びの中でこうおっしゃいました。

「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」

 「サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」
は、そういう具体的情景を幻として見たと受け止めることも出来ます。しかし、弟子たちが伝道している間、彼らの働きを通して神の国、神様の支配がこの地上に拡大しつつあることを確信していたということかもしれません。
 「蛇やさそり」は、サタン同様に神様に敵対する力の象徴だと思います。それに噛まれたり刺されたりすれば、その人は死に至る。そういう存在です。しかし、この時、イエス様は弟子たちにそれらの敵に打ち勝つ権威を授けたとおっしゃるのです。
 そのことに関して、一箇所だけヨハネの黙示録の言葉を読みます。

「さて、天で戦いが起こった。・・・この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。」(12章7節〜9節)

 これは、世の終わりに起こるべき神様の完全な勝利を預言する言葉です。キリスト教会に対する迫害が非常に厳しい時代に黙示録は書かれました。当時のキリスト者たちは、この預言が実現して御国が完成すること、その永遠の御国に入れられることを唯一の望みとして厳しい信仰の戦いを戦い抜いたのです。
 イエス様の名前だけを身に帯びて神の国の到来を告げ、悪霊を屈服させる経験をして帰ってきた弟子たちが、喜びと感謝をもって伝道の成果を報告している。イエス様はその現実を見て、ここに既に神の勝利が始まっていると告げているのです。だから、この先の23節で「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」とおっしゃるのです。昔の預言者も王も、今、弟子たちが見聞きしたことを見ることも聞くことも出来なかったのだ、と。

 害を加えるものはない

 もちろん、この時も今も、神の国は完成していません。この世の歴史は今なおサタンが支配しているかのような様相を呈しています。しかし、だからこそ主イエスは今日も私たちを「神の国」の伝道のために派遣されるのだし、私たちは今日も「御国を来たらせたまえ」と祈り、「御心が天に行われるとおり地でも行われますように」と祈り求めるのです。そして、その祈りを聞き給う神様は、今日も新たに私たちに御心を示し、その御心を行うようにと命じられるのです。
 私たちがイエス様の御名だけを頼みとし、御心に従って生きるのなら、私たちは「蛇やさそりを踏みつけ」つつ歩むことが出来ます。私たちに「害を加えるものは何ひとつない」のです。
 しかし、言うまでもないことですが、イエス・キリストに対する信仰に生きる者であっても病気にはなるし、事故や災害に見舞われることもあります。そして、いつかは死にます。イエス様はそういうことを「害」とおっしゃっているわけではないでしょう。
 キリスト者がキリスト者なるが故に様々な苦難を免れるわけではないし、キリスト者なるが故に苦難や危険にあうことだってあります。しかし、私たちの信仰とは、どんな苦難もキリスト・イエスによって示された神の愛から引き離すことが出来るようなものではないことを確信する信仰です。その信仰に堅く立つ限り、害となるようなものはありません。しかし、私たちが信仰だと思っているものの中に、不純なものが混じることもよくあることです。

 喜んではならない

 イエス様の次の言葉はその点に触れているように思います。

「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

 「喜んで帰ってきた」
弟子たちを、イエス様が喜びをもってお迎えになったことは確かです。しかし、イエス様が一種の危惧をお感じになったことも確かです。イエス様は弟子たちの喜びの中に自負とか自信の要素が入り込んでいることを感じ取られたと思います。
 彼らは「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服」したと言っています。そこにはイエス様の名前がもっている力に対する畏怖とか賛美があることは確かです。でも、それだけではない。彼らの喜びの一部は、悪霊が「わたしたちに屈服した」ことでもあるのです。
 だからイエス様は「悪霊があなたがたに屈服するからといって、喜んではならない」とおっしゃっている。悪霊が屈服しているのは、イエス様であって彼らではありません。しかし、目に見える現象としては、彼らの言葉によって悪霊は人から出て行ったのです。それまで悪霊によって苦しめられていた人は、彼らの前にひれ伏して感謝したでしょう。その業が神様の業であるか人間の業であるかを見分けることは、時に非常に難しいことです。しかし、その点を見誤ると、とんでもない過ちに陥ってしまうものです。

 勘違いしてはならない

 皆さんも困窮に陥っている人を助けてあげた時に、「あなたが神様に見えた」と冗談とも本気ともつかない言葉で感謝されることがあると思います。神様は確かに人を通してご自身の御業を行われることがあります。しかし、御心を行う人はあくまでも人であり、神様ではありません。助けてくれた人に感謝することはよいことですが、崇めるべきは神様の御名であり、聖霊を与えてくださるイエス・キリストだけです。その点は感謝する方もされる方も心しておかねばならぬことです。
 聖霊は自由に働きます。人間の思いのままに働くのではありません。この時、七十二人の弟子たちが悪霊を追放する権威を与えられ、その権威によって神の国が地上に広められている時に、イエス様はサタンが天から落ちたことを見ていたとおっしゃいました。でも、サタンが完全に滅ぼされたわけではありません。弟子たちは、この後いつも聖霊に満ちてイエス様の業を遂行したわけでもありません。彼らは、そういう「能力」を身につけたわけではないからです。

 活動するサタン

 ここで「天から落ちた」と言われるサタンは、この後も二回出てきます。イエス様と弟子たちとの最後の晩餐の直前に、「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」とあります。
 イエス様は、最後の晩餐の中でご自分の十字架の死を暗示されます。その食事は、物凄く緊迫した空気の中でもたれた食事、あるいは礼拝であったはずです。しかし、その直後に「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか、という議論も起こった」のです。なんだか茫然としてしまいます。でも、それが私たち人間の一つの現実であることはよく分かります。
 その後のイエス様とペトロとの対話はこういうものです。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」

「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

 ペトロは主イエスの預言通り、この後、イエス様のことを「知らない」と三度言うことになります。サタンにふるいにかけられたからです。彼は、生き延びることを通して死にました。彼の自負や自信はものの見事に打ち砕かれたのです。
 「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った時、彼の心は高揚していたでしょう。その顔は自信と喜びに満ちていたでしょう。このような愛と信仰を告白できることを喜び、自分はその愛と信仰を貫徹出来るという自信が漲っていたはずです。しかし、それが実は、サタンにふるいにかけられていることでもあるのです。「だれがいちばん偉いか」を競っていることに既にそのことが現れています。

 二つの事実

 彼はサタンにふるいにかけられました。それは事実です。しかし、その彼のために祈ってくださるイエス様がいる。それも事実です。イエス様は、この後、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ってくださいました。ご自身を罪人の赦しのための供え物として捧げつつ祈ってくださったのです。これは、十字架の下でイエス様を嘲っている者たちのために限定された祈りではありません。すべての人間、己の力に頼み、そのことを喜びとするすべての人間のための祈りです。
 ただこの祈りの故に、「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」という現実が生じるのです。ただこのイエス様の祈りの故に、私たちの「名が天に書き記される」という救いが与えられるのです。私たちが喜ぶべきことはこのことです。自分の能力が向上したことではありません。自分の力は、えてして救いを遠ざけるもの なのです。

 天の報い・未来の報い

 先週の説教の最後に、弟子たちに対するイエス様の言葉を引用しました。

「今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。」

 私たちの信仰の生涯、それは証の生涯であり伝道の生涯です。華々しい成果が挙がることもあるでしょう。それはまさに喜ぶべきことです。しかし、それは神様が挙げてくださった成果なのですから、神様に捧げるべきものです。収穫の主は神様であり、私たちは収穫のために用いていただけた光栄を感謝し、喜ぶのです。
 伝道しても全く成果が挙がらず、成果が挙がるどころか抵抗や迫害を受け続けることもあります。その時、私たちは悲しみにくれて泣くでしょう。しかし、イエス様は「喜び躍りなさい」とおっしゃる。「天には大きな報いがある」からです。そして、その報いを受けるのは未来です。
 今日の箇所について、ある学者は動詞の時制に注目すべきだと指摘していました。たしかに、そうだと思います。イエス様が天から落ちるサタンを見ていたとは、過去から今まで継続している未完了形で書かれています。そして、弟子たちに権威を授けたのは完了形で、派遣する時に授けたのです。だから派遣された人間が、その使命を忠実に果たす時、権威は形となって現れます。そして、「害を加えるものは何一つない」は未来形です。完全な救いは、御国が完成する時に与えられるのです。
 イエス様はいつも出来事の奥深くに隠されているリアリティを御覧になっているし、また未来を見ておられるのです。ユダは何も分かっていませんが、イエス様はサタンに入られてしまったユダの未来を見て「不幸だ」と嘆かれました。そして、ペトロも何も分かっていませんが、イエス様はサタンにふるいにかけられてしまったペトロの未来を見て「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と励まされるのです。
 そして、私たちに向かっては「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とおっしゃる。「書き記されている」は完了形です。既に書き記されているのです。
 「だから、喜びなさい。私があなたがたのために祈った。その祈りをあなたがたは聞き、自分の罪の赦しのための祈りであると信じた。だから喜びなさい。もうあなたがたの救いは約束されている。何も心配しないで信仰と証と伝道の歩みを続けなさい。天における報いは大きい。この世における報いではなく、天における報いを求めて歩みなさい。今の報いではなく、終末に与えられる報いを信じて歩みなさい」。
 主イエスはそう語りかけつつ、今日も私たちを派遣されます。この一週間、その派遣に応えて、主イエスの名をその身に帯びて歩むことが出来ますように。

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