「わたしたちが見聞きしているもの」

及川 信

       ルカによる福音書 10章21節〜24節
10:21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。10:22 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」10:23 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。10:24 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

 聖霊による開眼と献身

 先週の水曜日から受難節が始まりました。そして、私たちは今、イエス様のエルサレムへの旅路を読んでいます。
 今日の箇所で、10章の冒頭から始まった出来事が終わります。そこに入る前に、パウロの祈りを共にしたいと思います。彼は、エフェソの信徒に向けての手紙の中でこう祈っているのです。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」

 私もこの祈りを捧げつつ、今日の箇所に入っていきたいと願います。
 もう一つ心に留めておきたいのは、先週の朝礼拝における左近先生の説教の冒頭に置かれた言葉です。左近先生はこう語りになりました。

「お一人お一人が献身者とされているのです。牧師になることだけが献身ではない。長老に選ばれることだけが献身ではない。まことの礼拝者は皆、神に喜ばれる献身者とされている。」

 この言葉も、今日の御言葉に相応しい言葉だと私は思っています。

 献身の伝道

 イエス様は七十二人の弟子たちを町や村に派遣されました。彼らは十二使徒のように名が記されることもない者たちです。しかし、彼らもまた「神の国は近づいた」と宣言するために派遣されるのです。礼拝は伝道への派遣に至ります。その伝道の旅は、イエス様が「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言われるように危険に満ちたものである場合もあります。
 彼らは「財布も袋も履物も」持つことを禁じられました。無一文で着替えもないのです。必要なものはすべて神様が与えてくださることを信じて神の国を宣べ伝えて生きることをイエス様から求められたのです。そして、訪ねた町の「どこかの家に入ったら『この家に平和があるように』と言う」ように命ぜられました。そのように献身して伝道する弟子たちをある人が受け入れる時、それはその弟子たちを派遣したイエス・キリストを受け入れたのだし、さらにイエス・キリストを派遣した神様を受け入れたことになるのです。そこに「平和」があり、そこに「神の国」があります。

 喜びの源泉

 七十二人の弟子たちは、全身全霊を捧げた伝道から帰って来ました。福音書には書かれてはいませんが、当然のことながら多くの失敗や挫折も経験したでしょう。狼に噛みつかれたこともあったと思います。しかし、彼らは大きな喜びに満たされて「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と報告することが出来たのです。イエス様はその報告を聞いて喜び、「サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」とおっしゃいました。しかし、弟子たちの中に芽生えている微妙な錯覚をも見抜かれたのです。
 イエス様は悪霊が服従することより「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とおっしゃいます。それは、「あなたがたの罪が赦されて神の国に招き入れられていることをこそ喜びなさい」ということでしょう。「名が天に書き記される」とは、罪の赦しによって与えられる恵みだからです。その恵みをこそ感謝し喜べと、イエス様は言われるのです。
 私たちは、イエス様を賛美しているつもりで自分自身を賛美していることがあります。悲しいことに、自分を喜ばせることに夢中になってしまうのです。でも、本当の喜びは自分で作り出せるものではなく、神様が与えてくださるものでしょう。その喜びに勝るものはこの世にはありません。しかし、そのことが分からないのです。

 イエスの喜び

 「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた」
とあります。「喜びに溢れる」と訳された言葉は、ルカ福音書では他に「マリアの賛歌」の中にしか出てきません。天使から受胎告知をされて衝撃を受けたマリアは、高齢にも拘わらずヨハネを宿していたエリサベトに会いに行き、神様の御業を見て確認した時、心から湧き出てくる賛美を抑えることが出来ませんでした。彼女は全身全霊を傾けて主を賛美します。

「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。」
(ルカ1:47〜48)

 「喜びにあふれる」がここでは「喜びたたえる」と訳されています。彼女が神を「喜びたたえる」理由は、神様が身分の低い女に目を留めたことにあります。高貴な女ではなく、下層階級の庶民をご自身の救いの御業に用いる。その御心を知ったからマリアは驚き、その後に彼女の中に喜びが生じ、その喜びが賛美を生み出したのです。神様が与えてくださった喜びは必ず賛美を生み出し、礼拝を引き起こすのです。また、礼拝の中で喜びが与えられ、賛美が生じるのでもあります。
 こんな自分が御業のために選ばれ、用いられる。そのことを知らされた時は誰だって驚き、恐れ、不安を感じます。しかし、こんな愚かな人間、こんな罪人を御業に用いることが神様の御心であることを知らされた時、その御心に自分を委ねることが出来た時、その人の内からは喜びと賛美が溢れてきます。それは止めようがないことです。
 イエス様は、弟子たちの心にある喜びに一種の危険を感じ取りました。しかし、彼らは神の国がこの地上に到来しつつあることを自分の目や耳で体験したことも確かなことです。そのことを知って、イエス様は喜びに溢れて神様を賛美しておられるのです。

 イエスの賛美

 イエス様の賛美は直訳すればこうなります。
「わたしはあなたをほめたたえます。父よ、天地の主よ」
 「ほめたたえます」
は、しばしば「感謝します」とも訳される言葉です。何故、イエス様はこんなに喜び感謝し賛美しているのか?それはある意味ではマリアと同じだと思います。神様は、神の国が到来しているという現実を知恵ある者や賢い者には隠して、小さく弱い幼子のような者に示し、そういう者たちを通して救いの御業を始められたことをイエス様は知ったのです。これは真に驚くべきことであり、当時の多くの人々にとっては大きな躓きとなったことです。しかし、イエス様は「父よ、これは御心に適うことでした」と言われるのです。身分の低いマリアを選んだ神様は、今、名が記されることもない七十二人に罪の赦しによる救いを与え、その人々を通して神の国を広めておられる。そのようなことをなさる神様を、独り子である主イエスは心から賛美しているのです。

 父・子

「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」

 聖書における」「知る」とは、対象を観察して知ることではありません。聖書においては、神様と人、人と人とが人格的な交わりをすることによって初めて「知る」のです。交わり抜きに互いに知り合うことはありません。その交わりを成り立たせるものは深い愛と信頼です。愛と信頼の交わりにおいて、父と子は互いに深く知っているのです。
 そして、その交わりの中に人間が、それも無知で弱い幼子と言うべき人間が招き入れられる。それこそが「神の国」であり、それこそが「救い」と言うべきことです。私たち罪人が、御子イエス・キリストを通して「父がどういう方であるか」を知らされる。そこに神の国があり、救いがあります。今日の問題はそこにありますけれど、その問題に入る前に、父のことを知ることが出来る者と出来ない者がいる点について触れておきたいと思います。

 隠す 示す

 イエス様は「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」と言って神様を賛美されました。「隠す」「示す」が対称的に描かれています。この点については、やはりパウロの言葉が参考になると思います。
 パウロは、哲学が盛んなギリシャの人に向けてこう言っています。

 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。(コリントI 1:20〜21)

 知恵ある者や賢い者は自分の知恵で神を知ろうとしますし、知り得ると考えがちです。しかし、それはとんでもない思い違いです。それこそ「愚かにもほどがある」と言うべきことです。人間の知恵で知ることが出来る神は人間が作り出した神であって、人間を造り出した「天地の主」なる神ではありません。

 知る 信じる

 神様は信じるものなのです。あるいは愛するものです。何もかも分かったから信じたり愛したりするわけではないし、神様は生きておられるし私たちも生きています。いずれも、固定的な存在ではありません。神様を信じ愛して生きていく。分からないこと、不可解なこと、理不尽なことがあっても、罪がないのに十字架で死ぬという理不尽を経験し、三日目に復活するという不可解なことを経験し、聖霊において今も生きてい給うイエス・キリストを通してご自身を示された神様を信じ、愛して生きていく。それが、私たちの信仰生活です。信じ愛しているからこそ、その御心を尋ね求めつつ生きていく。「主よ、何故ですか。何のためにですか。どうしてこんなことが起こるのですか。何故私なのですか・・・」と様々なことを問いつつ生きていく。そういう歩みを通して、神様が「どういう方であるか」を少しずつ知らされていく。時には稲妻に打たれるように啓示される。そういうことなのだと思います。
 いずれにしろ、神様は私たちの知恵で知ることも制御することも出来ない超越的な方だし、偉大な方だし、不思議な方です。しかし、その神様が真正面から私たちを愛し、語りかけてくるのです。
 どのように語りかけてくるかと言うと、神様を信じている者を通して語りかけてくるのです。主イエスから派遣された者たちを通して語りかけてくる。すべてはそこから始まります。信仰はその言葉を聴くことに始まるのです。

 聖霊によって

 派遣された者の言葉を聴くことによってその人に信仰が与えられたとすれば、そこには聖霊が働いています。パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリI 12:3)と言っています。聖霊の働きぬきに信仰が与えられることはありません。そして、聖霊はイエス様が「父がどういう方であるかを示そうと思う者」に注がれます。私たちは、その聖霊を注がれて信仰を与えられたのです。だから、今日もこうして父・子・聖霊なる三位一体の神を賛美しつつ礼拝しているのです。父に背いた罪人であり、最早、父の許に帰ることも出来ない惨めな者たちが、恵みによって父・子・聖霊の交わりの中に招き入れられ、御子と共に「父よ」と呼びつつ礼拝している。なんと幸いなことかと思います。その幸いを知る時、私たちもマリアのように、あるいはイエス様のように、父なる神様に感謝し喜びたたえるほかにありません。

 幸いだ

 「イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた」
とあります。25節を見ると、「ある律法の専門家が立ち上がり」「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエス様を試したとあります。つまり、七十二人が帰ってきた時もイエス様と弟子たちの周囲には「知恵ある者」「賢い者」と自他共に認めている者たちがいたのです。イエス様は、そういう人々の前で「知恵ある者や賢い者には神の御業は隠されている。それこそが御心だ」とおっしゃったのです。それは相当に危険なことです。
 しかし、そんな危険にはお構いなく、イエス様は弟子たちに向けてこう言われます。

「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。」

 なぜ「幸い」か。旧約時代の人々は、イエス様の言葉や業を見ることも聞くことも出来なかったからです。また、イエス様の業を行うようにと派遣され、イエス様の名前が持つ力を体験することも出来なかったからです。
 旧約聖書の中に登場する「預言者や王たち」は、それぞれ神に立てられて神の御業を託された人々です。それは、広い意味では「神の国」をこの地上にもたらすための業であり、その業をする中で神様の力を実感することがあったはずです。
 しかし、イエス様がもたらしている「神の国」は旧約時代には明確には知り得ないものです。それは、神の独り子であるイエス・キリストの十字架の贖いと復活を通して与えられるものであり、「永遠の命」とも言い換えられるものだからです。しかし、旧約聖書の律法の専門家には、その命の内実は見えません。隠されているのです。だから、彼らは「幸いだ」と言われることがないのです。

 目が遮られて

 イエス様はここで、「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」と言っています。それは、これから後いつの時代でもこの時の弟子たちが見ているものを見ることが出来る人は「幸いだ」ということでしょう。
 ルカ福音書では、「見る」ことが重んじられています。しかし、その「見る」には肉の次元と霊の次元があります。肉眼で見ることだけが見ることではありません。そのことを端的に表わしているのが24章の出来事だと思います。
 十字架の上で息を引き取られたイエス様は墓に葬られました。しかし、三日目の日曜日の朝、女たちが墓に行って中を見ると、そこにイエス様の遺体はなく天使たちがいました。天使は彼女らに、イエス様が復活されたことを告げました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と言ったのです。驚いた彼女らは、弟子たちに一部始終を話しました。しかし、弟子たちは女たちの言うことを「たわ言」と思い、信じなかった。その中の二人は、すべては夢だったと思い、故郷のエマオという村にとぼとぼと帰り始めました。
 しかし、イエス様はその二人を追い求め、ついに「一緒に歩き始められた」のです。

 「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」

 不幸なことです。わずか三日前に十字架に死んだイエス様が目の前に現れても、遮られた目ではそれがイエス様だとは分からないのです。つまり、イエス様は復活されたということが分からない。イエス様は弟子たちの不信仰を嘆きつつ「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言い、「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明」されました。
 信じない者たちは、目の前にイエス様がおられてもその姿を見ることは出来ません。また、イエス様が語りかけてくださっても、その言葉が「神の言葉」には聞こえない。そして、旧約聖書は来るべきメシアを指し示していることが分からないのです。それは弟子であっても律法の専門家であっても同じです。

 目が開け

 その後、イエス様は請われるままに彼らの家に入り、一緒に食事の席に着きました。そこでイエス様は最後の晩餐の時のように、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」弟子たちに渡されました。その時、「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」とあります。しかし、二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合ったというのです。私の特愛の箇所です。若き日から何度も何度も読んできましたが、何度読んでも感動します。その不思議さ、その真理に胸が震えます。
 ここに「目が開け」とあり、「聖書を説明してくださった」とあります。この「開く」「説明する」は、ギリシャ語では同じでディアノイゴーです。開いて見せることなのです。閉じられ隠されていたものを目の前に開いて見せる。よく分かるように説明して見せる。そういう意味です。
 イエス様が不信仰な弟子たちに聖書全体に亘って説明し、食卓で賛美の祈りと共にパンを裂いた時、彼らの目が開けたのです。霊的な目が開いた。そして、目の前におられるのがイエス様であることが分かった。イエス様が約束どおり復活されたことが分かった。旧約聖書とはそのイエス様を指し示し、待ち望む神の言葉であることが分かった。イエス様は、不信仰の中で失意のどん底に落ちる者たちを追いかけて一緒に歩き、ついにご自身が神の国をもたらす神の子メシアであることを示してくださる方である。そのすべてのことが分かったのです。
 その時、旧約聖書の説明を聴きながら燃え始めていた心が一気に燃え上がり、彼らは再びエルサレムに帰って行ったのです。それは、エルサレムから全世界への伝道に旅立つためなのです。そしてそれは、イエス様が復活したことを「示された」から、イエス様がメシアであることを聞いて「知る」ことが出来たから、イエス様の姿を「見る」ことが出来たからです。最早それは肉眼で見ることではありません。イエス様の姿は彼らの肉眼にはもう見えないのです。しかし、彼らには見えるのです。自分たちの罪の赦しのためにパンを裂いてくださったイエス様が見える。自分たちの罪の赦しのために十字架の上で肉が裂かれ、血を流してくださったイエス様が見える。「彼らをお赦しください」と祈ってくださった声が「聞こえる」のです。そして、自分たちと一緒に歩いてくださるイエス様が「見える」のです。だから、彼らは幸いです。

 御心

 「幸いだ」
という言葉は、言うまでもなく祝福の言葉です。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と同じです。「貧しい人々」「幼子」は同じです。自分の力では生きていけない者たちです。弱く乏しい者たちです。罪からの救いを求めている人々です。神様との愛と信頼の交わりを求めている人々です。罪の赦しという神様の憐れみを求めている人々、天に名が記されることを求めている人々です。それは、人間が本来求めるべきことを求めている人々です。その人々のことを、神様は目に留められます。そして、御子イエス・キリストを通してご自身を知らせる。罪人の救いのためには御子をさえ惜しまずに与えてくださる方であることを知らせる。そのことを通して、心燃える喜びを与えてくださるのです。
 そのことを知らされた私たちは幸いです。そういう「幸い」を生きる者として、イエス様が私たちを選んでくださったのです。「父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」とは、そういうことです。
 「思う」と訳された言葉も、ここ以外では、逮捕される直前のイエス様の祈りの中にしか出て来ない言葉です。イエス様はそこで「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。
 「御心なら」「思う」と同じ言葉です。神様の変ることのない愛、独り子を十字架につけてまでして罪人を救わんとする愛、その愛が神様の御心です。イエス様はそういう愛をもって弟子たちを選んでいるのだし、私たちを選んでくださっているのです。私たちが毎週の礼拝で見聞きしていることは、そのイエス様の愛でしょう。ご自身の命を十字架に捧げてまでして、私たちを新たに、それも永遠に生かそうとしてくださるイエス様の愛、その愛を信じることによって、イエス様の姿を自分の目で見、その言葉を自分の耳で聞くことが出来る私たちは幸いです。神の国は、私たちのものだからです。私たちの名が天に記されているからです。

 御心による選び

 来週、会報が発行されます。私は毎月、首を長くしてその発行を待っていますが、それは発行前にすべての原稿を読ませて頂いているからです。そして、早く皆さんに読んで貰いたいと願うからです。今月号には、昨年のクリスマスで「信仰五十年」を祝われた八名の方たちの証の文章が掲載されます。その八名の方たちすべてが、今も主日の礼拝を守っている方たちなのです。本当に幸いなことだと思います。
 その方たちの原稿を読ませて頂きつつ、私は神様の憐れみと慈しみを感じました。それぞれにエマオの村に帰ってしまうような歩みをされたこともある。いつも信仰に熱く燃えていたわけでもない。しかし、今日も礼拝を捧げている。それはイエス様がその一人ひとりに「父がどういう方であるかを」知らせようと「思って」くださったからです。そこに神様の変ることのない「御心」、愛の選びがあるからです。
 ある方は、「選ばれた私」と題する文章を寄せてくださいました。その最後はこういうものです。

「及川先生は説教でよくアブラハムのことをお話くださいますが、アブラハムは神に選ばれた人だと教えて下さいました。同様に私も選ばれた一人なのだと言われた時、ほんとうにびっくりしました。自分は選ばれた人間とは考えていなかったからです。今は選んで頂き、大変感謝しております。これからの人生を、選ばれた自分はどう生きるべきかもう一度考えながら、一歩一歩進んで行きたいと思います。」

 信仰生活五十年を経て、こういうことを書ける人の幸いを思います。神様は、私たちを選び、聖霊を注ぎかけ、信仰を与えてくださいました。そして、その信仰を今も守ってくださっています。この礼拝の中で、私たちは罪の贖いを成し遂げてくださった主イエスが復活し、永遠の神の国の王として今も私たちを守り、共に生きてくださっている事実をこの目で見、この耳で聞き、そして信じています。だから、「あなたがたは幸いだ」と祝福されるのです。祝福された私たちは、自分の目で見たもの、聞いたものを証するために派遣されます。祝福と派遣は一つなのです。私たちの礼拝の最後は毎週、祝福と派遣の言葉です。先週の左近先生の説教の最後の言葉も「さあ、行くがよい」でした。
 今日の礼拝において、主の姿を見、その言葉を聞けた人は、主の祝福の内に派遣されます。その証と伝道の旅に今日も心新たに出て行きたいと願います。主の献身に応えて、私たちも献身して、礼拝しつつ歩むことが出来ますように。

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