「必要なことはただ一つ」
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 随分と間が空きましたが、今日からルカ福音書の連続講解説教を再開します。ただ、いきなりルカの世界に入ることは無理なので、少し復習をすることから入っていきたいと思います。 神の国に生きる ルカ福音書は9章51節を一つの区切りとしています。そこにはこうあります。 「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」 これ以後、イエス様の歩みはエルサレムに向かってのものになります。それをルカは「天に上げられる」と表現します。つまり、イエス様は十字架の死と三日目の復活、昇天に向かう決意を固めてエルサレムへの旅を始めるのです。その直後に、続けて四回出てくる言葉は「神の国」です。主イエスはご自身で神の国の到来を宣べ伝えるだけでなく、七十二人の弟子たちを町や村に遣わして「神の国はあなたがたに近づいた」と宣べ伝えさせます。 「神の国が近づいた」。ルカ福音書は、そのすべてを通してこの福音を書いていると言ってよいと思います。主イエス・キリストと共に私たちの所まで近づいた、あるいは目の前にまで到来した「神の国に生きる」とはどういうことなのか。それがこの福音書が語っていることです。 二つにして一つの戒め 前回ご一緒に読んだ箇所では、ある律法の専門家が「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエス様に問いました。「永遠の命を受け継ぐ」とは「神の国に生きる」「神の国に入る」ことを意味していると思います。イエス様は彼に「律法には何と書いてあるか」と逆に問われました。律法とは神の言葉です。専門家は、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と正しく答えます。残された問題は、それを実行するか否かだけです。そこで語られたのが有名な「善きサマリア人の譬話」です。それは「隣人を自分のように愛しなさい」に関わった譬話でした。 今日の箇所では、残された一つ、「心を尽くして神を愛する」とはどういうことかに重点が置かれていると思います。もちろん、神様を愛することと隣人を愛することは二つにして一つの戒めであり、「神の国」とはその二つが両立している愛の交わりです。 ルカの意図 お感じになっているかと思いますが、ルカ福音書はしばしば両極端と言ってもよい二つのものを並べて提示してきます。祭司の老夫婦であるザカリアとエリサベツの後には田舎の若夫婦ヨセフとマリアが登場します。前者は異常な高齢出産であり、後者はあり得ない処女降誕です。男の後には女、身分の高い者の後には低い者、異邦人の後にはユダヤ人。ルカは、出来事や物語をそのように配列します。そのことを通して、主イエスが地上にもたらしている「神の国」、神の支配、神の愛とはどういうものであるかを示し、「神の国に生きる」とはどういうことであるかを示そうとしているのだと思います。 善きサマリア人 前回の登場人物は、神の民であるユダヤ人の代表者たちです。律法の専門家はもちろん、譬話に出てくる祭司やレビ人はユダヤ人の代表であり神の国の中心に位置すべき人々です。それに対して、サマリア人とは神に見捨てられた異邦人です。ユダヤ人とは民族的にも宗教的にも地域的にも近い存在であるだけに、近親憎悪的な感情をもって互いに嫌い、軽蔑していた間柄です。しかし、イエス様はそのサマリア人を「隣人を自分のように愛した」人、敵であるユダヤ人を親身になって愛した人、つまり「神の国に生きる」人として描きました。これは神の言葉としての律法を知っていながら少しも実行しない神の民であるべきユダヤ人、それも律法の専門家に対する強烈な批判であり、それを上回る強い招きです。 今日登場するのはユダヤ人の二人の女性です。当時の女性に求められていたことは、やはり家事育児です。女性は社会の中心にはいません。神殿においても、女性が入れる場所は限られていました。今で言えば、この礼拝堂に入れるのは成人男子だけで、女や子どもはロビーまでということです。ですから、律法学者の弟子になるなんてことは全く考えられないことでした。しかし、イエス様の周りには十二弟子を初めとする男の弟子たちと共に女性たちがいました。彼女らの出自は様々ですけれど、8章には「自分の持ち物を出し合って一行に奉仕していた」(8:3)とあります。イエス様は「神の言葉」を語り、その御業をする偉大な教師、あるいは預言者として見られていました。そのイエス様の弟子たちの中に、悪霊に取り付かれていた女や家を飛び出してきたのであろう上流階級の女たちがいるのです。彼女らも、イエス様が語る言葉を直接聞き、その業を見ているのです。これは当時の社会にあっては考えられない光景だったと思います。今日の箇所を読むに当たって、そういう社会的背景を頭に入れて置くことは重要だと思います。 イエスを迎え入れるマルタ 「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」 この言葉を理解するためには、10章の冒頭を思い起こさねばなりません。そこに記されていることは、七十二人の弟子たちの派遣です。彼らは何も持たずに町や村に入って行き、迎え入れてくれる家があるのならその家に入って「この家に平和があるように」と告げなさいとイエス様から命令されました。「平和があるように」と「神の国はあなたがたに近づいた」は内容的には同じだと思います。 ここでイエス様と弟子たちの一行がある家に「迎え入れられた」とは、神の国到来を宣べ伝える伝道旅行における出来事です。前提とされていることは、マルタの信仰です。彼女は神の国を受け入れる信仰によってイエス様たちを迎え入れたのです。マルタとは「女主人」という意味です。よく気が回り、家事を切り盛りする女だったのでしょう。 聞き入るマリア そのマルタにマリアという妹がいました。 マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 今日の箇所は新約聖書でここにしか出てこない言葉が三つもあるという珍しい箇所ですけれど、「座る」と訳された言葉(パラカセゾマイ)は、厳密に言うと「かたわらに座る」という言葉です。通常の「座る」(カセゾマイ)に「かたわらに」を意味する言葉(パラ)がついている合成語です。「足もとに」とあるのですからそれだけで意味は通じるのに、わざわざ「かたわらに」を付加するルカの意図は、マリアとイエス様の近さだろうと思います。その家の中には大勢の人がいるのです。十二弟子がいたでしょうし、共に旅をしている女たちもいたかもしれません。そういう人々が大勢いる中で、マリアはまるで弟子の筆頭であるかのようにイエス様の足もとの最も近い所に座って、「その話に聞き入っていた」。そういう一種異様な姿をルカは描きたかったのだと思います。 この「聞き入っていた」はよい訳だと思います。没頭する、全身全霊を傾けて、一言も聞き漏らすまいとして聞いている。そういう雰囲気をよく捉えていると思うのです。ただ、ここの直訳は「彼の言葉に聞き入っていた」です。「その話」より「彼の言葉」と訳すべきだと思います。ルカ福音書では、「神の言葉」を聞くためにイエス様の周囲に人々が集まってきたことが強調されています。「話」ではなく「言葉」、ギリシア語では定冠詞がついた「言葉」、それも「彼の言葉」、つまり「主」の言葉です。その言葉によって人が生きもし死にもする。そういう生死に関わる言葉です。その言葉をマリアは主の足もと、かたわらに座って一心に聴いている。ルカは、その一人の女の姿だけを描きます。多くの人々がいたであろうに、それらの人には目もくれずマリアの姿だけを描く。 マルタの苛立ち しかし、そのマリアを見て姉のマルタが腹を立てました。ひょっとしたら、彼女も最初はマリアと同じように主イエスの言葉を聞いていたのかもしれません。しかし、次第にもてなしのことが気になり始めたようです。 「もてなし」とは他の箇所ではしばしば「奉仕」と訳される言葉(ディアコニア)で、教会にとっては極めて大切な言葉です。教会は奉仕によって成り立つ共同体です。信徒の奉仕がなければ一回の礼拝ですら守ることはできません。しかし、そのことで「せわしなさ」が入り込んでくると、教会もまた一気に俗化し、不平不満が満ちてくることを、私たち自身がよく知っています。 ここで「せわしく」と訳されている言葉も新約聖書でここだけに出てきます。やはり「脇へ」と「逸らす」の二つの言葉の合成語で、ここでは受身形ですから「脇へ逸らされる」という意味になります。そんなことから、最初はマリアと一緒に座っていたかもしれないと私は想像していますが、この「せわしなさ」が彼女を本来あるべき姿から脇に逸らせてしまったのではないかと思います。 マルタはイエス様のそばに近寄って、こう言いました。 「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 彼女も言葉としては「主よ」と言っています。しかし、それは言葉だけのことで、「この家の主人は私だ」という思いがあることは明白です。彼女はマリアにも腹が立っているのですが、そのマリアを目の前にし、自分がせわしく働いているのを見つつ、なにもおっしゃらないイエス様にこそ腹を立てているのです。そして、主イエスに命令している。まさに主客が転倒しているのです。最初は、神の国をもたらしてくださるイエス様を家の中に「主」として招き入れたのに、マルタは次第に脇道に逸れて、その家をそれまで同様「自分の家」にしてしまう。自分が主人になってしまう。そういうことが起こっているのです。これは教会でもしばしば起こる現象ですし、牧師が最も気をつけなければならないことです。 私は先ほど「このせわしなさが彼女を本来あるべき姿から脇へ逸らせてしまった」と言いました。しかし、その場合、「本来あるべき姿」とは何かが問題です。今日の箇所のようなシチュエーションにおいて、当時の社会が求める女性のあるべき姿ははっきりしています。それは客人をもてなすことです。部屋を掃除し、食卓を整え、また給仕を続けて、客人を喜ばせる。そして、そのもてなしに対する感謝を受ける。それが女のあるべき姿です。 そういう意味で言うならば、マルタは途中で本来のあるべき姿、この家の女主人としての姿に目覚め、慌てて立ち上がりせわしく働き始めたのです。そして、自分と同じ女であり自分の妹でもあるマリアが自分と同じ行動をとることを当然と思ったのです。マリアがとるべき行動は、イエス様の足もとに張り付いて一心に言葉を聞くことではなく、自分と共に一生懸命にもてなしのために働くことであると思ったに違いありません。そして、イエス様だって同じように考えるはずだとマルタは思ったのです。 思い悩む しかし、イエス様はそうは思われませんでした。ルカはここでも、イエス様のことを「主」と呼びますが、その「主」はこうおっしゃいました。 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 聖書の中で、神様やイエス様が名前を二度呼びかける場面は、いずれも非常に重要なことを語る場面です。マルタは今、多くのことに思い悩んでいる、とイエス様は言われます。そして、心を乱している、と。この「心を乱す」も新約聖書の中でここにしか出てこない言葉ですけれど、「思い悩む」はルカ福音書の中で何度か出て来ます。 最初に挙げるのは種蒔きの譬話をイエス様が解説する所です。この箇所は、先ほど「その話」とは、「彼の言葉」「神の言葉」の意味であると言ったことと深く関連する箇所です。「御言葉」と訳されているところはみな「言葉」(ロゴス)に定冠詞がついているものです。少し省略して読みますが、イエス様は種蒔きの譬話をこのように解説されます。 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。(中略)茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」 「御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たち」、マルタは今、その一人になってしまっている。イエス様は、そうおっしゃっているのではないでしょうか。そして、ただマルタを観察して客観的に評価しているのではなく、彼女を本来のあるべき姿に立ち帰らせるためにそうおっしゃっているのだと思います。 思い悩むな 人生の思い煩い、富、快楽、それらは「パン」に象徴されるかもしれません。「人はパンだけで生きるものではない」(4:4)とイエス様は言われます。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)のです。肉体がある限りパンは必要です。しかし、主イエスは言われます。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。」(12:22)「何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(12:29〜32)と。 いつも言いますように、聖書で言う「命」は肉体の命のことではありません。少なくともそれに限定されません。肉体の命はパンで生きるものですが、人の命はパンだけで生きるものではありません。神と人との愛の交わりの中で生きるものです。マルタは今、その命を失い始め、さらにマリアからその命を取り上げようとしている。それは、マルタとマリアが本来生きるべき姿を失うことです。人間の社会から求められる女性本来の姿を取り戻すことが、神の国に生きる命を失うことになるのです。神に造られ生かされる伸びやかな姿、喜びと賛美に生きる姿を失うことになってしまう。イエス様は、そのことに心を痛めておられるのです。 良い方を選んだ マリアは「良い方を選んだ」と言われます。「良い方」とは、良い取り分、良い分け前ということで、旧約聖書では受け継ぐべき土地とか財産の意味でしばしば使われます。しかし、新約聖書では、パウロがコロサイの信徒への手紙の中でこう言っています。 神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(1:11〜14) 「聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった」の「相続分」が「良い方」の「方」、受け継ぐべきものと同じ言葉です。その相続分を受け取るために、私たちの父なる神様は愛する御子を闇の世に送ってくださったのです。その御子イエス・キリストが、ご自身の十字架の死と復活を通して「天に上げられる」ことによって、私たちに罪の赦しを与え、闇の力から救い出して「御子の支配下に移してくださった」のです。つまり、神の国に迎え入れてくださったのです。そのことを信じる。信じて生きる。それは「根気強く耐え忍びつつ」生きることでもあります。そこには救われた深い喜びがありますが、忍耐が必要です。信仰に生きるとは、体はこの世に生きながら、その内実において神の国に生きるからです。そこに様々な摩擦や軋轢があるのは当然です。闇と光は融合するわけではないからです。光は闇の中に輝き、闇は光を理解しないからです。 しかし、一心に主の言葉を聞く、その言葉を心と体に受け入れる。すると、その言葉自身が芽を出し、木に成長し、実を結ぶようになる。そこまで深く、そして長く、耳を澄ませて聞く。聞き入る。主のかたわらに座り、足元に座り、聞き入る。周りから、女のくせにとか、若造のくせにとか、日本人のくせにとか、立派な社会人のくせにとか、何をどう言われようが、主のかたわら、その足もとから離れずに、主の言葉を聞く。それ以外に、私たちが主を迎え入れる姿勢はありません。主イエスを本当に内に迎え入れるなら、主イエスご自身が生きて働いてくださるのです。 忍耐して実を結ぶ 主イエスは、こうおっしゃったでしょう。 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。 御言葉を聞いても、「途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない」とはあまりに勿体ないことです。今、マルタがそうなりかけている。世が求める者になろうとすることで彼女には覆いが掛かってしまい、主の姿が見えず、その言葉が聞こえなくなっているのです。主は、今、「マルタ、マルタ」と呼びかけ、その覆いを取り去ってくださっているのです。もちろん、私たちに対してもです。 その覆いが取り去られる時、私たちにも見えてくるし、聞こえてくる。主が私たちに対して何をなしてくださったか、今、何をなしてくださっているかが。主イエスの十字架の愛、復活の力が見えてくる。そして、聖霊を通して今ここに神の国が到来していることが分かる。そして、その神の国の中で伸びやかな命を、喜びと賛美に溢れる命を生き始めることが出来るのです。 私たちは、神の国到来を告げる御言葉を一心に聴くことによって、初めて神を愛し、隣人を愛することが出来るようになるのです。その愛に生きるための外的な資格などなにもありません。サマリア人だろうが、女だろうが、子どもだろうが大人だろうが、牧師であろうが信徒であろうが、誰だって御言葉に聞き入ることによって「神の国に生きる」のだし、その国の到来を宣べ伝えて生き始めるのです。 私たちは、今日、その御言葉を聞きました。だから、今日新たにこの世に派遣されます。「神の国はあなたがたに近づいた」という福音を証するためにです。それは、私が今しているように説教をしつつ生きることではありません。毎週、礼拝最後の「派遣の言葉」で告げられているように、主なる神を愛し、隣人に仕え、隣人を愛し、主なる神に仕えて生きることです。その愛と奉仕に生きる生活の中で、御言葉自身が実を結んでくださるのです。主イエスご自身が働いてくださるのです。だから、そこに神様の栄光が現れる。それほど素晴らしいことはこの世にはありません。私たちをその栄光の器にしてくださる主を心から賛美したいと思います。 |