「祈りを教えてください」
11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。 『父よ、 御名が崇められますように。 御国が来ますように。 11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 11:4 わたしたちの罪を赦してください、 わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから。 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」 先月末のイースター礼拝で、私は「アッバ、父よ」と題して語りました。「アッバ」とはイエス様の時代のユダヤ人が話していたアラム語で、幼い子どもが心からの信頼をもって父親を呼ぶ時の言葉だと言われます。日本語で言えば、「お父ちゃん」という感じだろうと思います。実の息子しか呼ばない呼び方です。世界中にひとりしかいない父親、自分のことを誰よりも深く強く愛してくれる父親を「お父ちゃん」と呼び、その胸に飛び込む。その腕に抱きしめられる。そこに幼子の喜びがあります。安心があります。父親も、たったひとりしかいない、愛する息子にその様に呼ばれることが嬉しくて仕方ない。そして、「お父ちゃん」と呼びつつ駆け寄ってくる息子を抱きしめる時、父親には深い喜びがある。父と息子の間には、そういう独特な交わりがある場合があります。 アッバ 父よ 神様とその独り子であるイエス様の関係は、そういう独特のものだと思います。他の誰も入り込めない親密な愛の交わりが、そこにはあるのです。 イエス様は神様に祈る時、いきなり「アッバ」「お父ちゃん」と呼んだようです。それは当時の人々にとって衝撃的なものでした。当時のユダヤ人、それも「信仰深い人である」と自他共に認めていた祭司や律法学者は、祈る時に長い修飾語をつけて神様を呼んでいたのです。「天地をお造りになり、統べ治めたまい、我らイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出してご自身の民となしたまい、目の瞳のように愛してくださる偉大にして憐れみ深い並ぶ者なき唯一の神様」という風に祈り始めた。人々はそういう祈りが立派な祈りだと思い、また神様に聞き届けられるものだと思ったようです。 それは、ともすると今の教会の中にも見られる傾向です。長老とか牧師になると人前で祈る機会が増えますし、予め準備することが求められますから、自分の言葉ではない祈りになることがあります。よそ行きの言葉というか、体面を取り繕う言葉になってしまう場合があるのです。最悪なのは、神様に向かって祈るのではなく、人に聞かせることを意識し始めることです。 幼子にとっては、父親がどんな肩書きを持っていてもそんなことは関係ありません。「お父ちゃん」は「お父ちゃん」です。肩書きなどを並び立てて呼ぶことなどあり得ません。また、言葉を取り繕う必要もありません。神様への祈りも本来はそういうものです。しかし、幼子も次第に立派な肩書きがある父親だから誇りにするようになる。そうして、自分もそういう肩書きを得て評価されることを求め始める。それは健全な成長の過程かもしれませんが、その成長の中で、健全な親子関係を喪失していくこともしばしばあるように思います。 神の子としてのキリスト者 イエス様は目を天に向けて、あるいはうつむきつつ、いきなり「アッバ」と父を呼び、祈り始めた。その時の顔、その時の声、その時の姿に人々は驚いた。神様とのあまりの親しさに度肝を抜かれたのです。「アッバ」とは、そういう響きを持った言葉です。だからギリシア語の聖書に突然アラム語で出てくるのです。 使徒パウロは、キリスト者とは神様を「アッバ」と呼べる人間のことだと繰り返し語ります。つまり、キリスト者とは神を父に持つ「神の子」なのだと言うのです。聖霊が私たちに送られる時、そして私たちが聖霊をその心に受け入れる時、私たちは神様に向かって「アッバ」「お父ちゃん」と呼べるようになります。そのお父ちゃんの胸の中に飛び込むことが出来る。そこにしかない安心、平安、喜びを味わうことが出来る。それがキリスト者に与えられた「救い」というものだと、彼は言います。そして、それは本当のことです。 ルカとマタイの主の祈り ルカ福音書に出てくる主の祈りは、私たちが毎週の礼拝で一緒に唱える主の祈りと比較すれば簡潔です。主イエスが弟子たちに教えた主の祈りはマタイ福音書にも出てきます。マタイの方では「父よ」ではなく、「天におられるわたしたちの父よ」となっていますし、ルカにはない「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」や「悪い者から救ってください」という祈りもあります。つまり、私たちが祈る主の祈りに近いのです。私たちは今、ルカ福音書を読み続けていますけれど、この箇所に関してはマタイをも含めた「主の祈り」を学んでいきたいと思います。そして、私たちの祈りを深めていきたいと願います。神様との愛の交わりを深めたいのです。ですから、二ヶ月ほどはこの祈りを様々な角度から見つめていくことになると思います。 受洗準備 週報に記載されていますように、来週の長老会では受洗志願者の試問会があります。NTさんが、イースター礼拝の後、洗礼を受けることを私に申し出られたのです。礼拝後に「洗礼を受けるとするなら、それは今でしょ」という言葉が思わず口から出てきた、とおっしゃっています。今、試問会に備えて準備をしています。そこで承認されれば五月第二週の礼拝で洗礼式を執行します。 洗礼を受けるための準備は色々ありますが、柱は二本です。一つは、「日本基督教団信仰告白」を学ぶことです。日本基督教団に属する教会の信徒であれば、誰もが告白する信仰告白です。聖書信仰、贖罪信仰を学び、聖霊によって誕生した教会とは何であるかを学び、最後に代々の教会が告白してきた「使徒信条」を学ぶのです。 私たちキリスト者の信仰は、漠然とした神を漠然と信じることではありません。代々の教会が宣べ伝えてきたイエス・キリストを信じていることが明確でなければ、洗礼を授けることはできません。 その信仰告白の学びと共に重要な柱は「祈る」ことです。信仰生活とは神様に向かって祈りつつ生きることだからです。それは漠然とした神に向かって手を合わせることではなく、イエス・キリストを通してご自身を啓示してくださった神様を「父」と呼んで祈ることです。だから、「神様を信じます。でも祈りは出来ません」ということはあり得ません。「上手に祈れないので祈りません」も意味のない言葉です。 幼子は巧みな言葉で父親を呼び、話しかけるわけではないでしょう。拙く幼稚なものでも、心からの愛と信頼を持って「お父ちゃん」と呼びかけて必死に話しかけるのです。そして、父が語りかけてくる言葉を必死に聞く。それが愛と信頼で結ばれた親子の会話です。上手いも下手もありません。祈りもそうです。 イエス・キリストが十字架の死と復活を通して自分の罪を赦してくださった。神様はイエス・キリストを救い主として私たちに送ってくださった。そのイエス・キリストを信じる。その信仰によって神様を「お父さん」と呼ぶことが出来る。そのこと自体が嬉しいのです。そして、その神様に様々な願い事や感謝の報告が出来る。それが嬉しい。嬉しいから折りある毎に祈る。神様との交わりの時を持つ。それが信仰に生きる喜びです。 天における喜び 牧師という務めは実に恵まれた務めだと思うことがありますが、その一つの理由は、人が祈り始める瞬間を目の当たりにすることが出来ることにあります。赤ちゃんが言葉らしい言葉を発した瞬間、寝返りをうった瞬間、立ち上がった瞬間、一歩でも歩き始める瞬間を見ることが出来た親の心は喜びに満たされます。 人が祈る。それまで父を知らず、自分の命は自分のもの、自分の人生はどう生きようが自分の勝手と思っていた人間が、つまり神様との交わりから離れていた罪人が、戸惑いや恥ずかしさを感じながら、でも確かな感謝と喜びをもって初めて「天のお父様」と呼ぶ瞬間、天の父がどれほど大きな喜びを感じているかが分かります。それが伝わってきます。だから、私も喜びに満たされます。 イエス様は、この先の一五章でいくつもの譬話をなさいます。その最後は有名な放蕩息子と父親の話ですが、その最初は群れから離れて迷ってしまった一匹の羊を捜しに出かけて、ついに見つけ出して喜ぶ羊飼いの譬話です。 そこでイエス様はこうおっしゃいます。 「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 「悔い改める」とは父の許に帰ることですし、「父よ」と呼ぶことです。罪の赦しを乞い求め、また赦してくださることを信じ、感謝して「お父さん」と呼ぶことです。その悔い改めだって、イエス様に捜し出していただけたから出来ることですから、悔い改めることが出来た者にとっての大きな喜びです。イエス様に見捨てられれば終わりです。でも私たちは誰も見捨てられていません。捜し出していただいたのです。だから嬉しいのです。でも、それにも増して「大きな喜びが天にある」のです。赦される者の喜びよりも赦す方の喜びの方が大きい。 だから、「父よ」に始まる祈りをイエス様が教えるのは、弟子たちを父なる神に立ち帰らせるためです。神の子とするためです。そこに父なる神様の大きな喜びがあるのです。その喜びに向かって、イエス様は祈りを教えてくださるのです。 主にある兄弟姉妹 キリスト者とは何であるかの定義は色々あるでしょう。「キリスト者とは祈る人のことである。それも主の祈りを祈る人のことである」と言われることがあります。それは本当のことだと思います。私たちは主イエスから教えられた祈りを捧げることによって主イエスと結びつき、そして、父なる神様と結びつき、私たち同士も互いに結びつくのです。 先週の礼拝では福島教会の似田兼司牧師が説教をしてくださいました。似田牧師は「今日も明日も、その次の日も」という主イエスの言葉を題とする非常に深く、力強い説教をしてくださいました。ある方もおっしゃっていましたが、私としては、神様が今の福島教会に最も相応しい牧師を送ってくださったことをも知らされて、神様を心から賛美いたします。 午後は、二人の婦人が震災後二年間の歩みを誠実に語ってくださいました。お二人とも震災後に与えられた中渋谷教会との交わりを深く感謝してくださいました。それはもちろん、私たちへの感謝であるよりは、そういう交わりを与えてくださった神様への感謝です。私たちも同じく神様に感謝しています。 TKさんは、お話の中でこうおっしゃいました。 「私たち東北人はどうも他の人との交わりが苦手なのですが、中渋谷教会の方々とお交わりをさせていただき、主にある兄弟姉妹の交わりが本当に嬉しく心の通い合うものであるかを知りました。震災後、『絆』という言葉がよく使われますが、『主によって結ばれた絆』こそがほんとうの『絆』ではないかと思います。」 「主にある兄弟姉妹」。これは教会ではごく普通に使われる言葉です。しかし、これは「普通」のことではありません。肉の家族よりも深い交わり、絆があると言っているからです。私たちキリスト者は、父を同じくする家族の絆で結ばれているのです。それは「主」であるイエス様が与えてくださった絆です。イエス様が、私たちの罪の赦しのために十字架で死んでくださった。罪人として処刑されるという無残な死を味わってくださり、その十字架の上で私たちの罪が赦されるように父に祈ってくださった。その贖いの御業によって与えられた絆です。そして、そのイエス様を父なる神様が復活させ、天に上げ、その天から聖霊を注いでくださったことによって与えられた絆なのです。 神様から送られた聖霊によって、私たちは神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来る人間、「神の子」とされました。イエス様を長子とする神の家族の兄弟姉妹にされたのです。その交わりの中でしか通い合わない心があります。その心の通い合いを、先週、私たちは感じました。今この時も、福島教会や石巻山城町教会でも「父よ」と呼ぶ祈りが捧げられ、主イエス・キリストに対する礼拝が捧げられています。その「父」その「主」において、私たちは今も一つの家族の交わりの中に生かされている。兄弟姉妹の絆の中に生かされている。主イエスの「祈るときには、こう言いなさい。父よ」とは、この絆への招きでもあります。 父よ 子よ 以上のことを踏まえた上で、ルカ福音書の世界に入って行きたいと思います。 ルカ福音書は、福音書の中で最も多く主イエスが祈る姿を描いている福音書です。その最初は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時です。イエス様は群衆の只中で祈っておられました。その時、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」とあります。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたのです。これはとても大事なことです。 祈りは、ただ単に神様に語りかけることではありません。祈りの中に神のみ声を聞く、御心を示される。そういうことがあるからです。「父よ」と呼ぶだけでなく「子よ」と呼ばれる。神様が私たちを「愛する子よ」と呼んでくださる方だからこそ、「父よ」と呼ぶことが出来るのです。その祈りの本質、交わりとしての本質がこの最初の場面に出てきます。だから、「父よ」と祈りなさいとは、「子よ」と呼ばれていることを知りなさい、ということでもあります。 荒野の祈り 五章一六節には、「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」とあります。「人里離れた所」とは、「荒野」とも訳される言葉です。中渋谷教会の週報の表紙にはだいぶ前から「荒野の祈り」と題される絵が印刷されています。私が学生時代に通っていた京都の北白川教会は日本家屋の和室で礼拝を守っていました。説教卓の後ろが床の間で、その床の間にこの絵が飾られていましたから、私にとっては思い入れの深い絵です。その「荒野の祈り」が北白川教会の母教会とも言える中渋谷教会の週報の表紙を飾っていることを嬉しく思っています。 その絵の中で、岩の上に腰掛けるイエス様の姿には深い孤独感が漂っています。荒野ですから周囲には誰もいませんし、誰も近づける雰囲気ではありません。深い静寂が支配しています。しかし、その姿には孤独から生じるような寂しさとか絶望感が漂っているとは思えません。イエス様はたった独りなのですが、父との交わりを持っている。心の奥底にある呻きのような思いを「アッバ、アッバ」と呼びかけつつ語っておられる。そして、父から語られる言葉、その御心を聞いている。それは十字架の死と復活という恐るべき御心です。神はご自分の愛する子を犠牲にしてまで罪人を愛し、ご自身の子として迎え入れようとされる。イエス様は、その恐ろしいまでに深く強い愛を知らされて、恐れに心を振るわせつつ、神様の愛に感動している。独り子を与えるほどに罪人を愛する父なる神と、その御心に応えてご自身の命を十字架の上に捧げようとする神の子としてのイエス様。その父と子の間にある交わりは、本来誰も近づくことが出来ないものだと思います。 弟子たちのための祈り 六章では、やがて世界中にイエス・キリストを宣べ伝えることになる十二弟子の選任の時、イエス様は徹夜で祈られたとあります。今日は宮ア先生の就任式を致しました。イエス様は伝道者をお立てになる時に夜を徹して祈ってくださっている。それは、私たち伝道者にとってはあまりに重いことです。でも、いつだってイエス様の祈り、熱い愛と赦しの祈りの中に置いていただかなければ、私たち伝道者は善きことは何も出来ないのです。 さらにペトロが「キリスト告白」をする直前にも祈り、その直後、イエス様は「祈るために」山に登られました。その時は、ペトロとヨハネとヤコブの三人の弟子たちを同行させました。その時は、彼らが「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という神の声を聞いたのです。次第に、弟子たちがイエス様と神様との祈りの世界に入りつつあることが分かります。 そして、今日の箇所と深い関連があるのは一〇章二一節以下です。そこは、イエス様に派遣された七十二人の弟子たちが伝道の旅から帰ってきた場面です。その伝道の旅は「財布も袋も履物も持たない」裸一貫の旅です。明日のことを思い煩うことなく、ただイエス様の言葉だけを信じ、神様に一切を委ねて、神の国が到来していることを告げる旅なのです。どれだけ不安だったか分かりません。彼らは様々な困難や苦しみを経験したでしょう。でも、彼らはちゃんと生きて帰ってきました。イエス様の名前を使うと悪霊までもが退散する現実も経験して帰ってきたのです。そこに幼子の喜びがあります。 聖霊による祈り その時、イエス様は「聖霊によって喜びにあふれて」、父に祈られました。そして知恵ある者や賢い者ではなく、幼子のような弟子たちに神の国が到来したことを知らせてくださる神様を賛美されたのです。そして、父のことは子だけが知っており、子が知らせたいと思う者だけが父のことを知ることになる、とおっしゃいました。 「知る」という言葉が聖書に出てくる時、それは単なる知的な認識の意味ではありません。知識として知ることではなく、交わりにおいて知ることです。愛と信頼の交わりの中で知ることなのです。それは、父を「アッバ」と呼ぶ幼子が持っている愛と信頼です。今、弟子たちが、そういう幼子として父を知ることが出来るようになった。そのことを知った時、イエス様は「聖霊によって喜びにあふれて」祈られたのです。祈りは、聖霊の注ぎの中で与えられるものなのです。聖霊こそが父と子を結び、私たちと父を結ぶものだからです。 祈りを教えてください 今日の箇所は、「イエスはある所で祈っておられた」という言葉から始まります。その姿は、「荒野の祈り」に描かれているように深い孤独とそれ故に持つ深い交わりに生きる姿だったでしょう。たった独りで神様と語り合う姿です。独特の親密さを感じさせる姿です。弟子たちは、そのイエス様の姿を何度も見ながら強い憧れを感じていたと思います。弟子である限り、師のようになりたいと思うのは当然のことです。また、洗礼者ヨハネの弟子たちはヨハネから祈りを教えられていたようです。だから、彼らは「わたしたちにも祈りを教えてください」と頼みました。そして、それはイエス様の願いでもあったと思います。信仰によって幼子のようになってきた弟子たちが、神様との愛と信頼の交わりに入り、永遠の絆を持つことをイエス様も願われたと思います。だから、イエス様は「祈るときには、こう言いなさい。父よ」と教え始められた。 聖霊による祈り 今日は主の祈りの言葉には入らず、その後に語られた譬話を少しだけ見ておきます。イエス様はそこで、真夜中に友達を起こしてパンを求める常識外れの男の話をします。そして、「執拗に求め続けよ」と言われるのです。それに加えて、私たちは愚かで悪い者であっても、魚を求める子どもに蛇を与えることがないように、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とおっしゃるのです。 「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」 一〇章二一節には、イエス様が「聖霊によって喜びにあふれて」祈られたとあります。私は、祈りは聖霊によって与えられるものだ、と言いました。 イエス・キリストの父であり、私たちの父となってくださる神様は、私たちに求めているのです。「わたしをアッバ、父よ」と呼んで欲しいと求めておられるのです。そこに救いがあるからです。「神の子」となることが救いだからです。だから神様は、私たちが「父よ」と呼ぶ前から、実は「子よ」と呼んでくださっている。「子よ、帰って来い」と呼んでくださっているのです。その声は、聖霊によってしか聞くことが出来ない声です。その声が聞こえた時、私たちも思わず「父よ」と呼ぶでしょう。群れから離れ、崖からも転げ落ちてしまった羊は自分を呼ぶ羊飼いの声が聞こえたなら、思わず「メ〜」と鳴くでしょう。 聖霊は息とも風とも訳される言葉です。息をしなければ私たちは死んでしまいます。神様から送られる息を心に受け入れて、神様を「父よ」と呼びつつ生きる。そこに私たちの本当の命、神様が与えようとしている永遠の命があるのです。だから、聖霊を求めなさい、とイエス様は言われる。神様からの息を求め、神様と息を合わせて生きなさい。執拗に求め続ければ神様は必ず聖霊を与えてくださる。だから求めなさい、と。 八木重吉 最後に、八木重吉という信仰に生きた詩人の詩を三つ読みます。 てんにいます てんにいます おんちちうえをよびて おんちちうえさま おんちちうえさまと となえまつる いずるいきに よび 入りきたるいきに よびたてまつる われは みなをよびまつるばかりのものにてあり もったいなし もったいなし おんちちうえ と となうるばかりに ちからなく わざなきもの たんたんとして いちじょうのみちをみる われちちとよぶ われちちとよぶ われをよぶこえもあり そのこえのふところよりながむれば きりすとの奇蹟の やすやすとありがたさ 吸う息、吐く息の中に「父よ」と呼ぶ。その祈りの中で「子よ」と呼ぶ声を聴く。そして、父の懐に入るとき、御子の十字架と復活の奇蹟のありがたさが見に沁みて、賛美が溢れてくる。 イエス様は、その祈りの世界に私たちを招いてくださっているのです。感謝です。 |