「祈るときにはこう言いなさい」
11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。 『父よ、御名が崇められますように。 御国が来ますように。 11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 11:4 わたしたちの罪を赦してください、 わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから。 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」 6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 6:9 だから、こう祈りなさい。 『天におられるわたしたちの父よ、 御名が崇められますように。 6:10 御国が来ますように。 御心が行われますように、 天におけるように地の上にも。 6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 6:12 わたしたちの負い目を赦してください、 わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。 6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、 悪い者から救ってください。』」 ルカ福音書11章1節以下を読み始めて今日で二回目です。そこには、私たちが毎週の礼拝で祈る「主の祈り」の原型が記されています。前回は、11章前後の文脈から知らされることを語りました。その中で、キリスト者とは神様を「父よ」と呼んで祈ることが出来る者たちである。洗礼を受けるとは、イエス様がそうであったように神様を「アッバ」(お父さん)と呼んで祈る霊を与えられることであり、そのこと自体に「救い」があると語ったのです。 また、「主の祈り」に関してはルカ福音書だけでなくマタイ福音書にも記されているので、ルカと共にマタイも視野に入れつつ読んでいくと申しました。今日は主にマタイの方を読んでいきます。 マタイにおける祈り ルカでは、弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と頼むことから始まります。既に十二弟子は選ばれています。マタイでは、十二弟子の選任は10章です。祈りが教えられる箇所はそれ以前の六章で、「山上の説教」と呼ばれる長い説教の中においてです。聴衆はペトロを初めとする四人の弟子たちと大勢の群衆です。その人々に向かって、イエス様は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と語り始め、その中で当時のユダヤ教徒にとって大切な宗教的義務である「施し」「祈り」「断食」に関してお語りになるのです。その「祈り」の部分が、後にキリスト教会が大切にしてきた「主の祈り」となるのです。 イエス様はこうおっしゃいました。 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」 ここでイエス様から「偽善者」と呼ばれている人々は、当時の人々から見れば熱心な信仰者です。そのように見せているからです。しかし、祈りは人に見せる目的でするものではありません。たとえ人前で声に出して祈るとしても、それは人と共に祈るのであって、人に見せるためではありません。そもそも、彼らの祈りは祈りではありません。祈りの体裁が整っていることと、祈りとは関係がないからです。 次に出てくる「異邦人」とは、文字通りの意味ではユダヤ人以外の人々のことですが、本質的には真の神を知らない人々のことです。だから、神を知っていると思いつつ神を信じていない「偽善者」と大して変りはないのです。彼ら異邦人は「言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」のです。お百度参りではありませんが、熱心に求め続ければ神様が根負けして、自分たちの願いを聞いてくれると思っている。 私たちは前回、「求めなさい。そうすれば、与えられるであろう」というイエス様の言葉を読みました。執拗に求めることをイエス様は願っておられます。でも、それは「父」を知り、父の愛を信じ、父を愛している関係性の中でのことであり、誰に祈っているのかも分からぬ熱心さとは全く違うことです。 イエス様はおっしゃいます。 「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 だから、こう祈りなさい。 『天におられるわたしたちの父よ、 御名が崇められますように。』」 あなたの父 あなたがたの父 「あなたの父」「あなたがたの父」とイエス様はおっしゃる。これは、イエス様だけが言える言葉です。この言葉の深さ、有り難さに関して三月末のイースター礼拝から何度か語ってきました。しかし、今日も新たに御言葉に聴いていきたいと思います。 聖書において「父」とは誰であり、何であるのか。人間が「父よ」と呼びかけるとはどういうことか。それは如何にして可能なことであり、そこにおいて何が起こるのか。そういう一つ一つのことを知りたいと思って聖書の世界に入っていくと、青木ヶ原の樹海に入っていくような感覚を覚えます。しかし、御言葉と聖霊の導きの中で道は示されるはずですから、ご一緒に入っていきたいと思います。 天におられる父 私たち日本人は「神様、助けてください」とか「神様、お願いします」と口にすることはあると思います。それを「祈り」と言えるかどうかは分かりませんが、人間以外の何かに頼むしかない時に、「神様、助けてください」という言葉が出てくることはあるでしょう。でも、人間以外の何かに向かって「お父さん、助けてください」「お父さん、お願いします」と言うことはないと思います。そんなことは言えないのです。何故なら、「お父さん」とはちゃんと目を見て話しかける親密な関係にある相手でなければならないからです。親と子として人格的な応答関係の中にある者同士が、初めて「子よ」「父よ」と呼び合うことが出来るのです。その関係がないままに、「お父さん」と呼びかけることはあり得ません。 この場合の「お父さん」とは天地の造り主であり、私たち一人ひとりの造り主なる神様のことです。造り主であるが故に圧倒的な権威を持って私たちを支配し、守り、導いてくださるお方としての「父」です。「母」では、命が肉体的に連続しているが故に神と人の間にある隔絶した関係を表現できません。だから、聖書では神を「母」と呼ぶことはありません。その父と子の隔絶した関係、まさに天と地ほど離れている関係をマタイ福音書では「天におられる」という言葉で表現しているのだと思います。 旧約聖書の「コヘレトの言葉」の中にこういう言葉があります。 「焦って口を開き、心せいて 神の前に言葉を出そうとするな。 神は天にいまし、あなたは地上にいる。 言葉数を少なくせよ。」(コヘレト5:1) この言葉も、神と人間の隔絶した関係性を表わしていると思います。私たち人間は如何なる意味においても神と同じ地平に生きているわけではありませんし、死んだら等しく神になるのでもありません。 しかし、神と人間との間に隔絶しかないのであれば、私たちは神様と出会うことはないし、その神様に向かって「お父さん」と呼びかけることもできません。私たちが神様を「お父さん」と呼ぶ時、それは「わたしのお父さん」と言っているのです。自分とは関係のない父という存在を呼んでいるのではなく、「わたしを子として愛してくださるお父さん」に呼びかけているのです。そういう人格的な関係がそこにはあります。その関係はどのようにして造られるのか。 また、「わたしのお父さん」が、天地の造り主でありすべての人間の造り主である限り、「天におられるわたしたちの父」(天にまします我らの父)でもあります。少なくとも、天地の造り主なる神と出会いその愛を信じた者たちにとって、その神様は「わたしの父」であると同時に「わたしたちの父」です。イエス様がおっしゃるように「あなたの父」は「あなたがたの父」だからです。つまり、信仰において神の子とされた者たちは「兄弟姉妹」になる。イエス・キリストにおいて世界中のすべての人々の間に起こることは、そういうことです。それはどのようにして起こるのか。それが問題となります。 旧約聖書における「父」 しばらく旧約聖書を読んでいきたいと思いますが、旧約聖書の中には神様を「父」とする言葉はそれほど多くはありません。皆さんも、すぐには思い浮かばないと思います。また、私が調べた限りでは、人が神様に向かって「父よ」と素朴に呼びかけて祈る例はありません。 詩編103編13節には「父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる」とあります。その前にどんな言葉があるかと言うと、人間の罪を赦し、背きの罪を遠ざけてくださる主の「憐れみ」「恵み」「慈しみ」です。 「主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。」(詩編103:8節) この「憐れみ」「恵み」「慈しみ」によって、忍耐をもって私たちの立ち帰り、悔い改めを待ってくださる「父」としての主がここにはいます。 そういう意味で忘れてはならないのは、預言者のホセアやエレミヤだと思います。彼らは父としての神様の痛切な愛を語ります。子に幾たび裏切られても、子を見捨てることが出来ない父の愛を語るのです。 最初にホセアが語る神の言葉を読みます。(言葉上はホセア書に「父」とは出てきませんが。) 「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。 エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」(ホセア11:1) でも、その後イスラエルは主なる神様から離れて異教の神々に心を奪われていくのです。神様は、そのイスラエルを一旦は見捨てようと決意されます。 しかし、その次の瞬間こう呻かれるのです。 「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。 イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。 (中略) わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。 (中略) わたしは神であり、人間ではない。 お前たちのうちにあって聖なる者。 怒りをもって臨みはしない。」(ホセア11:8〜9) 神様は、幼子に歩くことを教え、身をかがめて食事を与える親のようにイスラエルに接してきたのです。愛をもって育ててきた。しかし、イスラエルは長じるにしたがってその父の愛を裏切っていきました。そのイスラエルに対する怒りと赦しの愛が同時に燃え上がってくるのです。 ホセアの影響を受けていると言われるエレミヤも、父としての神様の悲しみ、怒り、苦しみと、それでもほとばしり出て来る愛を語ります。 (わたしは)思った。 「わが父と、お前はわたしを呼んでいる。 わたしから離れることはあるまい」と。 だが、妻が夫を欺くように イスラエルの家よ、お前はわたしを欺いたと 主は言われる。 (中略) 彼らはその道を曲げ 主なる神を忘れたからだ。 「背信の子らよ、立ち帰れ。 わたしは背いたお前たちをいやす。」(エレミヤ3:19〜22) 読んでいるだけで胸が痛くなります。父に愛され、父を愛していたのに、その愛を自ら裏切っていく神の子としてのイスラエルの罪。人が罪に落ちていく様を、その心の有り様をも含めてすべてご存知である神様の怒りと悲しみと苦しみは想像するに余りあります。何故、そのように苦しむのかと言えば、それは主なる神様の心に憐れみが燃えるからです。その憐れみの故に、見捨てるべき我が子を見捨てることが出来ない苦しみを味わうのです。見捨てることが出来れば、それでおしまいです。しかし、父なる神は、「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす」と叫ばれる。その愛、父の愛は私たちの想像を絶するものです。そのような愛は、私たちにはありません。 その点で、私たちと父との間には隔絶があると思います。しかし、にも拘らず、その想像を絶する愛で愛されていると知る時がある、知らされる時がある。それは、聖霊の注ぎを受けて聖書を読む時、また説教を聞く時です。あるいは讃美歌を歌いながら、その言葉に刺し貫かれる時です。 ヘブライ人への手紙の中にこういう言葉があります。 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることが出来るからです。」(ヘブライ4:12) ここでは私たちの心の思いや考えについて語っているのですが、「神の言葉」は神様の心の思いや考えを見分けさせるものでもあることは言うまでもありません。そのことが出来る時にこそ、私たちの「心の思いや考えを見分けることが出来る」のだとも言えるでしょう。 洗礼式 今日はNTさんの洗礼式がありました。先週の試問会で私や長老たちはNTさんの信仰告白を聞きました。来月の会報にその要約が掲載されると思いますが、そこで告白されていたことの一つは、今日の日を迎えるまでの長い旅路です。カトリック系の小学校に通い始めた小学五年生の時からキリスト教との関わりはあったのです。若き日に、一旦は洗礼を受ける志を抱かれたこともありました。しかし、父上に反対されて断念し、その後、中渋谷教会の信徒であるNOさんと結婚して、時折礼拝に出席されることもありましたが、受洗の決意が与えられることなく五十年以上の歳月が経ちました。NTさんは、今年初めてイースター礼拝にご出席になったそうです。その日、私は「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。(中略)この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」という御言葉の説教をしました。聖霊を与えられて神様を信じ、洗礼を受ける時、私たちは神様の子として新たに生まれ、イエス様のように、神様を「お父さん、天にいますわたしのお父さん」と呼べるようになる。そこに救いがある。そういう説教をしたのです。 その礼拝後、ほんの少しの間、私の周囲に誰もいない時にNTさんが近づいて来られて、「先生、洗礼を受ける時はいつ来るのかと思っておりましたら、それは今でしょ!と思いました。今を逃したらもうないと思います」とおっしゃったのです。 私は、これまでも何度かNTさんのお宅に伺い、高齢の故に礼拝に来ることができなくなったご主人のNOさんと聖餐の食卓を共にしてきました。NTさんはいつもその場におられました。でも、神の子として、兄弟姉妹として、その食卓を共にすることはありませんでした。しかし、その時も実は神様は「わたしに立ち帰れ」とNTさんをお招きになっていたのです。小学五年生の時から数えるならば優に六十年を越える歳月にわたって、神様は諦めることなく、「わたしに立ち帰れ」と招き続けてくださったのだと思います。そして、ついにその愛の言葉に刺し貫かれて、NTさんはイエス様を主と呼び神様を父と呼ぶ信仰を与えられ、洗礼を通して今日神の家族の一員になられました。来週のペンテコステ礼拝から聖餐の食卓に共々に与ることが出来ます。 われに来よ 今月末に発行される会報は聖歌隊創立四十周年を記念して、礼拝音楽が特集となっているようです。私や宮ア先生も好きな讃美歌について書くようにと依頼されたので書きました。私は二曲選びました。 一曲目は讃美歌517番です。若き日、京都の北白川教会の礼拝で歌った時に衝撃を受けた讃美歌です。その頃の私は、まさに罪の迷いの中でどこに向かって歩んで行ったらよいか分からない状態でした。そして、出席していた聖書研究会ではエレミヤ書の3章を読んでおり、「背信の子らよ、立ち帰れ」という言葉が鋭い刃物として胸に突き刺さっていた時でした。そういう時の礼拝の中で、皆が讃美歌517番を歌い始めた時、私は言葉にならない衝撃を受けました。 1節 「われに来よ」と主は今 やさしく呼びたもう などて愛のひかりを 避けてまさよう。 (おりかえし) 「かえれや、わが家に 帰れや」と主は今呼びたもう 3節 まよう子らのかえるを 主はいま待ちたもう つみもとがもあるまま きたりひれふせ (おりかえし) 「かえれや、わが家に 帰れや」と主は今呼びたもう この讃美歌を歌いつつ、帰る道はこの世にはないことを痛切に感じました。帰る道は、イエス様にしかない。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とおっしゃっています。イエス様だけが私の罪を知り、イエス様だけが私の罪に心を痛め、そしてついに迷える羊のために命を捨ててくださったのです。「よい羊飼いは羊のために命を捨てる」のです。ただこの方だけが「父よ」と呼ぶことが出来る方なのです。 迷える罪人は、あの放蕩息子が父に向かって言う言葉以外のことを言えません。 「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」 つまり、「父よ」と呼ぶ資格もないのです。そうなのだけれど、でも、この父の許でしか神に造られた命を生きていくことは出来ません。この世の闇の中をただ肉体的に生きていることが「生きる」ということではないからです。父は、もう息子と呼ばれる資格がない者を、それでも息子と呼ぼうとしてくださっているのです。そして、「父よ」と呼ぶことを許そうとしてくださっている。息子の帰りを待ってくださっているのです。帰ってくれば、「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言って、大喜びで大宴会を開いてくださるのです。 十字架と復活の愛 しかし、その宴会の背後にイエス様の十字架の死があり、復活があるのです。 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」 という祈りがあり、 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」 という十字架の祈りがある。 そして、 「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る。』」 という復活があるのです。 この言葉は、葬られた墓の入り口で復活の主イエスがマグダラのマリアに語りかけた言葉です。そこで主イエスは、弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と言うのです。「あなたのためなら命を捨てます」と言いつつ裏切って逃げた、ペトロを初めとする弟子たちです。そのことで完全に生ける屍のようになってしまった弟子たちです。でも、主イエスはご自分を裏切って逃げていった弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼ぶ。それはイエス様と弟子たちの父が同じだという意味です。「わたしの父は、あなたがたの父だ」とおっしゃる。もう驚きすぎて腰が抜けるような言葉です。 なんでこんなことを言えるのか、私には分かりません。でも、イエス様の愛は、いやイエス様を通して表わされた父なる神様の愛は、そういうものなのです。想像を超え、想像を絶する愛なのです。その愛で愛されている。その愛に打ち砕かれる。その時、私たちは神様を「父よ」と呼ぶことが許される。いや、イエス様によって「父よ」「天におられるわたしたちの父よ」と呼びなさいと命じられるのです。 イエスの権利 ある神学者はこう言っていました。 「イエスの御名を信じる者たちに、イエスが与えるその分け前とは、『神を父として呼び求める』というイエスの権利なのである。」 そうなのです。神様を「父よ」と呼ぶことは罪なき神の独り子イエス・キリストだけが持っている権利なのです。私たちは神様が出てくれば葉っぱの陰に隠れるしかないものです。しかし、その私たちに、イエス様はご自身だけが持っている権利を与えてくださっているのです。「祈るときには、こう言いなさい」。「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ』」と命じることによって。そして、十字架の死の贖いと復活の恵みを通して。 兄弟姉妹 私たちは、御子イエス・キリストの罪の赦しを信じる信仰によって、神の子として生まれ変わり、イエス様の兄弟とならせていただきました。そして、このイエス・キリストを通して、私たちも互いに兄弟姉妹とならせていただけるのです。それは、罪を赦す愛に生きる時にのみ可能なことです。それは、イエス・キリストが私たちの肉の中に聖霊において生きてくださっている時にのみ可能なことです。その時以外に、私たちは互いに赦し合い、愛し合うことが出来ない存在です。一旦傷つけ合うことがあると、私たちは互いに赦し合うことは難しいものです。しかし、主イエス・キリストを受け入れ、主イエスを通して「アッバ、父よ」と祈り、「わたしたちの罪を赦してください」と祈る時、祈り続ける時、「隠れたことを見ておられる」「わたしの父」が、また「願う前から」わたしたちに「必要なものをご存じ」の「わたしたちの父」が、わたしたちに赦しの愛を与えてくださるのです。これこそが、私たちには最も必要なものだからです。私たちは、その愛が与えられる希望によって生きています。 見よ、兄弟が共に座っている 私の好きな讃美歌の二曲目は、「讃美歌21」の162番です。「讃美歌21」の一つの大きな財産は「詩編歌」がたくさん入っていることです。詩編の言葉にメロディーをつけて歌うのです。162番は詩編133編の1節にメロディーをつけたものです。 「見よ、兄弟が共に座っている。 なんという恵み、なんという喜び。」 これだけです。この詩を何度も繰り返し歌う喜びは、イエス・キリストを信じる信仰によってしか与えられません。 私は会報原稿にこう書きました。 詩編133編1節をそのまま歌うこの曲が好きです。「讃美歌21」には多くの詩編歌が入っており、御言葉をそのまま歌える喜びがあります。毎週の礼拝で感じることは、「背き」「迷い」「疲れ果て」、「罪も咎もあるまま」(517番3節)、主の御前に来たりひれ伏した兄弟姉妹が共に座っている、その事実だけで十分だ、もうそれだけで感謝だということです。「神様ありがとう」と思うのです。「共に座る」ことの中に、既に神の赦しの愛があり、兄弟になり得ぬ者たちが互いに赦し合うことへの招きがあります。その招きがあることが、私が生きる希望だと今更ながらに思います。 「父よ」と祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ」と祈りなさいと、イエス様は私たちを招いてくださっています。それは神様との和解、人との和解、完全な平和、天の国への招きです。その招きを受ける資格もない者たちですけれど、父の憐れみ、慈しみ、恵みのすべてがイエス・キリストにおいて完全に現れていることを信じて、今日も新たに「天にましますわれらの父よ」と祈りつつ歩みたいと願います。そこに、神の子として生きる喜びがあるのです。そして、その喜びに生きる姿を見るところに、「わたしたちの父なる神」の大いなる喜びがある。神に喜んでいただける。それに優る幸いはありません。 |