「天におられるわたしたちの父よ」

及川 信

       ルカによる福音書 11章1節〜4節
       マタイによる福音書 6章5節〜9節
11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11:4 わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。6:9 だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。』」

 天から見る

 私が学生だった頃、『宇宙からの帰還』という本が話題になりました。アメリカの宇宙飛行士たちの宇宙体験が、その後の人生にどういう影響を与えたかに関するものでした。宇宙飛行士の中には帰還後に牧師になった人もいます。宇宙体験は幾人かの人々にとってはその後の人生を変える大きな経験でしたが、他の人々には素晴らしい体験以上のものではありませんでした。私がその本の中でよく覚えているのは、ある飛行士の言葉です。彼は、「宇宙から見ると地球には国境線が引かれているわけではない。神は国境線を引いてはいない。それは人が引いたものなのだ」と言っていました。
 これは当たり前と言えば当たり前のことです。でも、天から地球を見ることができたごく少数の人々だけが持つ深い感慨が込められた言葉だと思います。私は、その言葉を読んだ時に、地球という星、人間の世界、しばしば国境線が変わる国、そして人について考えさせられました。

 「ひとり」と「民」

 先週、会報の巻頭言を書くために詩編102編を読みました。今月号の会報は「賛美」が主題であり、102編19節には私が大好きな言葉があるからです。

「後の世代のために
  このことは書き記されねばならない。
『主を賛美するために民は創造された。』」

 この102編は、

「主よ、わたしの祈りを聞いてください。
この叫びがあなたに届きますように」

という祈りの言葉から始まります。そして、8節にこういう言葉があるのです。

「屋根の上にひとりいる鳥のように
わたしは目覚めている。」

 とても印象に残る言葉です。その鳥の姿が目に見えるようです。「目覚めている」とは「見張っている」「注意深く見つめている」とも訳される言葉です。屋根の上でひとり見つめている。地上のあり様を見つめている。あるいは天を見つめている。自分自身を見つめている。作者は、自分のことをそういう孤独な鳥と同化します。しかし、その人がついに「主を賛美するために民は創造された」、これだけは「後の世代のために書き記されねばならない」と言うのです。
 「ひとり」「民」は違います。彼は「主を賛美するためにわたしは創造された」ではなく、「民は創造された」と言う。「民」とは、共に生きる結束の強い集団のことです。これは「屋根の上にひとりいる鳥」のような時を過ごした者、「主よ、わたしの祈りを聞いてください」とひとり孤独に祈った者が、注意深く天を見つめ、地を見つめ、自分自身を見つめた時に出てくる言葉だと思います。いつも地上で人々と群れているだけではこういう言葉は出てこないでしょう。

 神の子

 今日で「主の祈り」に関する三回目の説教となります。これまでの二回の説教で、神様が私たちの父であるとはどういうことかに始まる様々な問いを聖書にぶつけてきました。今日は、神を「父よ」と呼ぶ「神の子」とは何なのか?また、「天におられるわたしたちの父よ」と祈る場合の「わたしたち」とは誰のことなのかに関して御言葉に聴いていきたいと願っています。
 「神の子」という言葉は多様な意味を持っています。ローマ帝国の皇帝は「神の子」とも呼ばれました。中国の皇帝は「天子」と言われますが、天は神を表わしますから皇帝は「神の子」です。前回ご一緒に見ましたように、旧約聖書において神はイスラエルを「子よ」と呼びましたから、イスラエルも「神の子」です。また、「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」と詩編2編にあります。これは王の即位式で告げられた言葉だと言われます。ですから、イスラエルの王も「神の子」なのです。でもそれは神格化される皇帝とは違い、神に従う人間としての「神の子」です。

 新約聖書における神の子

 先週は旧約聖書をたくさん読みました。今日は新約聖書を読みます。新約聖書で「神の子」と言えば、何と言ってもイエス様のことです。マルコ福音書の書き出しは「神の子イエス・キリストの福音の初め」です。ヨハネ福音書では、イエス様は「独り子なる神」です。それは今まで言った皇帝とか王とは根本的に異なる存在です。十字架に磔にされる神の子であり、復活させられ、ついには天に上げられる神の子ですから。
 そのヨハネ福音書の1章には、こういう言葉があります。

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、(中略)神によって生まれたのである。」(1:12〜13抜粋)

 独り子なる神イエス・キリストを信じる者は、その信仰の故に「神の子となる資格が与えられる」。神の子として誕生する。それは、いつでもごく少数の人々において起こることです。世は闇であり、その闇の中で目覚めており、闇に輝く光を見つめ、光を信じて命を得る人はいつも少数です。
 信仰によって「神の子」とされる時、イエス様の父がその人々の父となり、イエス様の神がその人々の神となり、イエス様と同じように神様を「父よ」と呼ぶことが出来るようになる。それは神様に対する罪が赦されたからです。そこに私たちの救いがあります。

  信じる

 ヨハネ福音書の3章には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)とあります。私たち罪人の罪を赦すために、神様がどれほど深く強い愛で愛してくださっているか。そのことを知り、信じる時、人には永遠の命が与えられる。神様との永遠の愛の交わりの中に生かされるのです。霊魂が永遠に生きるということではありません。ここに出てくる「信じる」とは、何かの教えを信じることではありません。独り子を通して与えられた神様の愛を信じることです。この信仰によって、私たちは神の子とされるのです。
 その信仰は聖霊によって与えられるものです。本を読んで学んだり、修行を積んだりして身につけるものではなく、神様が注いでくださる聖霊によって与えられるのです。聖霊の導きの中で聖書を読み、説教を聴く時に、イエス・キリストの十字架の愛が身に沁みる。イエス・キリストが復活し今も生きておられ語りかけてくることを感じる。そういうことがある。その時、私たちは応答せざるを得ないのです。
 誤解を恐れずに言えば、神様は言葉であり、私たちに語りかけて来られる方なのです。ですから、信仰は何よりも神様の言葉に聴くことだし、その言葉への応答です。信仰は神の言葉を聴くことに始まる。聖霊を受けつつ聴くことに始まり、言葉としての神に聴き続け、応答し、従うことが私たちの信仰生活、神の子としての人生です。

  うめきながら待ち望む

 神様を「父よ」と呼ぶことに関して外してはならない御言葉はローマの信徒への手紙8章です。そこでパウロは「あなたがたは、(中略)神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と言いました。
 しかし、彼はその先でこう言っています。

 「被造物だけでなく、霊≠フ初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」

 私たちは聖霊によって信仰を与えられ、罪を赦していただき、「父よ」と祈ることが出来る「神の子」とされました。でも、それは神の子の最終的な形態ではありません。彼は「神の子とされた」と言いつつ「神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と言うのです。「神の子とされた」からこそ、神の国が完成する時の復活に向かう希望が与えられているのだと言うのです。その復活こそが、「神の子とされる」ことなのです。その復活に至るまで、私たちはなおも「心の中でうめきながら」生きる以外にありません。私たちは弱く、罪は強く、日々私たちを捕らえんとしてくるからです。だから、彼はその先で、「聖霊が弱い私たちを助け、言葉に表わせないうめきを神様に執り成してくださる」と言うのです。
 私たちの信仰生活とは肉の弱さを抱えながら生きるものです。だから、苦しいし、うめかざるを得ないものです。しかし、そういう私たちの「心の中のうめき」を聖霊が父なる神に届けてくださる。その聖霊に導かれ助けられながら生きる者は、いつの日か「御子の姿に似たものにされ」「御子が多くの兄弟の中で長子となられる」とパウロは言います。この約束を信じる、父なる神は必ずこの約束を実現してくださると信じて待ち望む。それが「主の祈り」の中核にあることだし、その信仰と希望に生きるところに私たちの救いがあるのです。

    「あなたがたの父」の完全な愛

 パウロは、私たちが「御子の姿に似たものにされる」「御子が多くの兄弟の中で長子となられる」と言いました。それこそが、私たちが神様を「わたしたちの父よ」と呼ぶことが出来る根拠であり、私たちキリスト者同士が互いに「兄弟」と呼び合うことの根拠です。
 そのことを踏まえた上で、マタイ福音書のイエス様の言葉に耳を傾けたいと思います。イエス様は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ』」とおっしゃったのです。
 ここで主イエスは「あなたがたの父」とおっしゃいます。私たちの側にしてみれば、「わたしたちの父」です。この「父」はどういう父なのか。それが問題になります。
 イエス様は祈りを教える直前の5章の最後でこう言われました。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:43〜48)

 痛烈な言葉です。「あなたがたの天の父の子となるため」に私たちがすべきことが、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことなのです。「わたしたちの父」がそういうお方だからです。そして、その父の子であるイエス様がそういうお方だからです。愛されなくても愛するお方なのです。悪意や敵意を持たれても愛するお方なのです。わたしたちの父がそういう方であるからこそ、神を信じることも愛することもなく、ただひたすらに自分のために生きてきた私たち、しかしそれが少しも自分のためになっているわけではなかった愚かな私たち、神を邪魔者だと思い心の中で抹殺していた神の敵としての私たちが、今、神様を愛して「わたしたちの父よ」と呼ぶことが出来るのです。何もかも神様が、私たちを愛してくださったからです。悪人であり、正しくもない私たちを愛してくださったからです。
 その愛は、独り子であるイエス様において、特にその十字架の祈りにおいて現れています。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)

 このように独り子であるイエス様が父に祈り、その祈りを父が聞き入れてくださったのです。ご自分の子を釘で十字架に打ちつけた上に、侮辱の限りを尽くす者たちをも、そのイエス様の祈りの故に、またイエス様の献身の故に赦してくださったのです。これは、イエス様の父だけが持っている愛です。イエス様の父だけが持っている完全な愛です。

  完全な愛への招きと求め

 その完全な愛を御子イエス・キリストが生きてくださったし、今も生きてくださっている。そして、その完全な愛を生きるようにと、私たちを招いてくださっている。それは茫然とするようなことです。恐ろしいことです。逃げ出したいようなことです。
 しかし、私たちがその存在の根底で、心の奥底で、魂において慕い喘ぐように求めているもの、心の中でうめきながら求めているもの、それはこの愛でしょう。「隠れたことを見ておられる」わたしたちの父、「願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」のわたしたちの父は、その愛を私たちに与えようとしておられる。そういう意味でも、私たちを「御子と似たもの」にしようとしてくださっている。それが、「天におられるわたしたちの父よ」と祈ることへの招きの中に込められていることだと思います。

 「わたしたち」

 もし、そうであるとすれば、イエス様がおっしゃる「わたしたち」とは誰のことなのでしょうか。これはまずイエス様を信じることによって神の子とされた「わたしたち」、つまりキリスト者のことです。それは明らかです。でも、その「わたしたち」とは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」完全な愛を与えてくださる父を信じ、父を愛し、父の言葉に従う「わたしたち」であるはずです。つまり、キリスト者だけを愛する父ではなく、イエス・キリストを敵視し、キリスト者を迫害する者をも愛する父を信じ、愛し、従う「わたしたち」なのです。その父の完全な愛の体現者である御子イエス・キリストは、ご自身を憎み、殺す者たちを愛し、その者たちの罪の赦しを乞い願い、赦しのためにご自身を犠牲として捧げてくださいました。「天におられるわたしたちの父よ」と祈る「わたしたち」とは、この御子イエス・キリストを信じる「わたしたち」です。そして、御子は復活しご自身を裏切って逃げた弟子たちに現れて「平和があるように」「あなたがたには平和がある」と言いつつ聖霊を吹きかけてくださったことを信じる「わたしたち」であり、その裏切った弟子たちは自分のことだと認めているはずの「わたしたち」です。
 だから、「わたしたちの父」とはすべての人間を愛し、その罪を赦し、御国に招き入れようとしてくださっている「天におられるわたしたちの父」なのです。だから、私たちは「御国が来ますように」と祈るのだし、「われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈るのです。うめきながら祈るのです。それが「わたしたち」です。今は、神を信じないで、キリストに敵対している者たちをも含めた「天におられるわたしたちの父」「わたしたち」は祈るのです。その祈りを聖霊が聞き、父に執り成してくださり、父はその祈りを聞き入れ、わたしたちを次第に御子に似た者に造り替えてくださる。それがわたしたちの希望です。生きていく希望なのです。

  OEさん

 先週の礼拝にいらしていたOEさんが、その二日後の火曜日に突然召されました。心臓を患って四月には二週間ほど入院されたのですが、火曜日は調子がよくて久しぶりにフィットネスクラブに行き、その後Y市の囲碁クラブに行こうとされたのです。しかし、その路上でくも膜下出血が起きてしまい、帰らぬ人となってしまいました。昨日の葬儀に多くの教会員の方が参列してくださいましたことを感謝致します。
 葬儀の時にお読みしたOEさんの文章をご紹介したいと思います。最初に、埼玉中国語礼拝教会で語られた証の一部をお読みします。

 「私たち人間は、旧約の昔から性懲りもなく繰り返し創造主を裏切るという、何とも悲しく憐れむべき歴史を生きる存在なのでしょう。私も、それでいて自殺も出来ない。(医者なのに)癒しの業が出来ず、知らずして人を殺してしまったかもしれないのです。取り返しのつかない罪をどれだけ犯してきたか分かりません。立ち上がれないほどの辱めを人に与えてしまったこともありました。自分が嫌になって自殺をすれば、一時的には気持ちがおさまるかもしれませんが、しかし、なんと、人の罪を身に受けて十字架につかれたイエスは、隣の十字架にかけられた強盗に、『あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』とおっしゃっているのです。」

 「パウロは、三度、棘を抜いて欲しいと祈りました。三度とは完全数で、『何度も何度も祈った』ということです。その祈りの果てに『生くるも死ぬるも主のものなり』と感じ取ることができたのでしょう。地獄の底までも神様が一緒にいて下さるというのです。これが喜びでなくなんでありましょうか。
 神は、人の弱き時に語りかけ給うのです。全く理不尽なことに、私どものために十字架にかかり、復活して下さった主は『死なないで、生きなさい』と生きる力をくださっているのです。それが復活の主の恵みです。それで充分です。もう、なにか立派なことをして、自分をつくって見せることはないのです。信仰だって主からいただいたものです。汚いままで、復活の主に清くされた者として、信仰に立たせていただこうではありませんか。」

 信仰五十年を記念する文章の中では、こうお書きになっています。

 「実は罪を日ごと繰り返し歩み来た僕を、今、そのまま永遠の生命に迎えてくれる(既にあなたと和解させていただいている)自分に気付かせて下さいと祈るものです。キリストのあわれみのめぐみこそ真の友達なのです。」

 E子夫人によると、OEさんは自分の部屋でひとり讃美歌のCDを聴き、また讃美歌を歌っていることがあったそうです。OEさんの愛唱讃美歌は「しずけき祈りの時はいとたのし」と繰り返し歌う310番です。「屋根の上にひとりいる鳥」のように、目を覚まして神に祈る。自分の罪を思い知らされつつ理不尽な十字架に掛かって死んでくださった主イエスを見つめる。そして、「死なないで、生きなさい」という復活の主イエスの声を聴く。それはひとりの孤独な時間で聴く声です。その孤独の中で、「キリストのあわれみとめぐみこそ真の友達」であることを知らされるのです。実は、この時ほど深く神様と交わる時はないのです。
 その交わりから押し出されるようにして、OEさんは礼拝の中で深い喜びと賛美に満たされて人々に語りかけました。同じ信仰に生きる「民」に語りかけたのです。

 「汚いままで、復活の主に清くされた者として、信仰に立たせていただこうではありませんか。」

 ひとり、人々と離れた所で天を見つめ、地を見つめ、自分を見つめ、喜びと賛美に行き着く。それはひとりの喜びと賛美ではありません。「わたしたち」「父」に捧げる喜びであり賛美なのです。神を信じる民と共に捧げる喜びと賛美であり、一人でも多くの人々がイエス・キリストによる罪の赦しに与って、「わたしたちの父よ」と呼ぶことが出来るように願う祈りです。

  聖霊を与えてくださる父

 私たちは今日、ペンテコステ礼拝、聖霊降臨日の礼拝を捧げています。聖霊のみが私たちに信仰を与え、愛を与えてくださるものです。聖霊のみが私たちの肉を越えて、しかし、その肉をも用いて信仰と希望と愛に生かしてくださるものなのです。そして、聖霊のみが世界を国境のない神の国に造り替えてくださるものです。
 イエス様は「主の祈り」を教えてくださった後、執拗に求め続けることを私たちに求められました。その結論は、こういう言葉でした。

 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。(ルカ11:10〜13)

 私たちの地上の歩みは続きます。いつまで続くのかは誰も分かりません。明日までなのか十年後二十年後なのかは分からない。でも、今日すべきことがそれで変るわけではないでしょう。聖霊を求め、御子に似た者にしてくださるように祈ることです。敵をも愛し、赦し、兄弟となることが出来るように祈ることです。御国が来ますようにと祈ることです。そして、父を愛し、信頼し、一切を委ねて献身していくことです。主イエスの御跡に従って歩むことです。その祈りと服従を「わたしたちの父」は喜び、私たちを通して御国をこの世にもたらしてくださるのです。
 聖霊の注ぎの中で、信仰をもって与る聖餐の食卓はまさに御国の面影を映すものなのです。この食卓に与りながら、私たちは神様の愛を賛美し、御子を信じ、終末の御国の完成に対する希望を新たにするのです。そして、「神の国は近づいた」という福音をこの世に告知するのです。

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