「御名が崇められますようにU」

及川 信

       ルカによる福音書 11章2節
      マタイによる福音書 6章9節
そこで、イエスは言われた。
「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。」

              だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。

 なぜ祈るのか?

 前回に引き続き、「御名が崇められますように」という祈りについて御言葉に聴いて参ります。「御名が崇められますように」とは「御名が聖とされますように」という意味であることは既に語りました。なぜ本来聖であるべき神の御名が聖とされることが祈られるのかと言えば、歴史の中で神様の聖なる御名が繰り返し汚されているからです。主の民であるべきイスラエルですら主に対する信仰を生きず、しばしば腐敗してしまうからです。だから、預言者たちは民に悔い改めを求めました。そして、「主の御名が唯一の名となり、主が全地の王となる日が来る」、つまり審判を経て神の国が完成する日が来ると告げたのです。主を信じる者たちはその日を待ち望みつつ生きるのです。「御名が崇められますように」とは、その日の到来を確信し、待ち望む祈りです。その日の到来は、主なる神様が成し遂げることですから、私たちは祈るのです。

 メシア到来を告げる書

 旧約聖書は、主なる神がいつの日か必ずメシア(キリスト)をお遣わしくださるという希望を告げる書物です。メシア(キリスト)を通してご自身の名を聖とし、ご自身の栄光を全地に現すという希望がそこにはあるのです。
 新約聖書は、待ち望まれていたメシア(キリスト)とは大工の倅、マリアの子、さらに十字架に磔にされて死んだ男、しかし、その死から三日目に復活させられたイエスであると告げます。この方を通して、神の国はこの地上に到来した。この方の十字架の死と復活を通して神の国の礎は据えられたと告げるのです。しかし、それで終わりではありません。神の国は既に到来していますが、未だ完成していないからです。それは、私たちの世界の現実を見れば明らかです。
 しかし、この世はそういう形で永遠に続くわけではありません。世の終わりは必ず来ます。地球だって今のような状態が何億年も前からあったわけではないのですから。その終わりの時に神様がご自身の国を完成する。完全な形で「御名が崇められる」日が来る。その完成のためにキリストが再臨する。私たちキリスト者はそのことを信じているのです。主イエス・キリストご自身がそのように約束してくださったからです。だから、新約聖書の最後に置かれているヨハネの黙示録は「アーメン、主イエスよ、来てください(マラナタ)」という希望と「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」という祝福の言葉で終わるのです。
 主イエスが再臨して生ける者と死ねる者とを裁く最後の審判を経て、救いを完成してくださる。その日を信じて待ち望む。そして、祈る。それが、聖霊によって誕生したキリスト教会が世々に亘って受け継いできた信仰であり祈りです。私たちも、今日新たにその信仰と祈りを受け継ぐ者たちでありたいのです。

 祈りと行為

 主の祈りの前半の三つは、すべてこの終末を待ち望む祈りとして分かち難く結びついています。今日は、この祈りを捧げる者としての行為について御言葉に聴きたいと願っています。
 私たちが共に祈る「主の祈り」では、「御名が崇められるように」ではなく「願わくは、御名を崇めさせたまえ」となっています。その言葉の中には、神の御名を聖なるものとする人間の行為が含まれていると思います。私たちは祈るだけでなく、祈りから押し出されてくる行為があるのです。

 主をのみ聖なる方とせよ

 今日も、旧約聖書の言葉から入りたいと思います。紀元前8世紀のユダ王国で活躍した預言者にイザヤという人がいます。彼は、迫り来る外敵を前にした時に、主の民イスラエルの王や民衆が主に依り頼むことなく自らの軍事力とか外国との同盟関係に頼っていることに怒りを発します。そんなものに頼っても恐れが増すばかりなのだ、と彼は言う。そして、こう続けます。

万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。
あなたたちが畏るべき方は主。
御前におののくべき方は主。
(イザヤ9・13)

 人を畏れるな。主を畏れよ。主の御心を尋ね求めよ、と言っているのです。しかし、主は祈れば即座に答えを示してくださるとは限りません。また、その答えが自分たちの望むものではない場合もあります。そういう場合、人間は自分の望みに従うことが多いのです。祈っているくせに従わない。その結果、どういうことが起こるのか。イザヤは続けてこう言います。

主は聖所にとっては、つまずきの石
イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩
(同9:14)

 主の民イスラエルが主に背く。あってはならないことですが、そういうことがしばしばあります。その時、主は聖所の「つまずきの石」「妨げの岩」となります。彼らが形だけの礼拝を捧げれば捧げるほど罪が鮮明になり、その結果として彼らは倒れるからです。主の名を知らず主を神として礼拝していなければ、罪はそこまで鮮明にはなりません。闇の中に光が輝くからこそ、闇は闇としての姿を現すのですから。
「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ」とは「主をのみ崇めよ」と言ってもよいし、「主にのみ栄光を帰せよ」、「主を賛美せよ」と言い換えてもよいでしょう。しかし、形としてはそういう礼拝を捧げながら、主が命じたわけでもないのに軍事力や同盟関係を頼みとする。そのことが主の御名を汚すことになるのです。それは、結局、人間の力、自分の才覚を頼みとすることだからです。どう言い訳をしても、それは主を信じていることではありません。だから、何をしていても恐れと不安に捕われるのです。
 主を信じて生きる、主にのみ従って生きることは本来喜ばしいことであるに違いありません。しかし、実際はそれほど簡単なことではありませんし、むしろ苦しく辛いことがたくさんあることを、私たちは経験していると思います。

 神の選び

 私たちは神に似せて造られ、命の息を吹き入れられて生きる者とされた存在です。それは、神様の御心を知り得る存在として創造され、神様の御心を生き得る存在として生かされているということです。すべての人間が、その点では同じなのです。すべての人間が神様に愛され、生かされている。違いはそのことを信じているか否かです。しかし、今は信じてキリスト者にされた私たちも、かつてはそのことを信じていたわけではありません。
 私事で恐縮ですが、私は牧師家庭に生まれましたからイエス・キリストの名前も知っていましたし、キリスト者が礼拝することも知っていましたし、祈ることも形としては知っていました。でも、それは神様を信じることとは全く別の問題です。信じているわけでもないのに形だけは礼拝をし、また祈ることを求められる環境の中で、まさにつまずいたというのが実感です。
 キリスト教と無縁の環境で育った方たちにとっては、キリスト者はやはり特殊な人々に見えるでしょうし、実際、特殊と言えば確かに特殊なのです。キリスト者が「神様の御心のままに」とか「神様に委ねて生きる」とか口にするのを聞くのは気持ちのよいものではないと思います。「あなたたちに自分の意志はないのか!」と言いたくなると思うのです。
 神の御心、つまり神の意志と私たち人間の意志の関係をどう考えるか。それは「主の祈り」を考えるにあたって大きな問題です。
 ペトロは、今はトルコという国になっている小アジア地方に誕生した諸教会に向けて手紙を書きました。かれは、その手紙の冒頭で、その地域の教会に生きる信徒たちのことを「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」(Iペトロ1:2)と呼んでいます。「選んだ」のは言うまでもなく神様です。
 私たちも同じように選ばれたのです。神様がなぜ私たち一人ひとりを選んだのか、そこにどういう基準があるのか。それは分かりません。選ばれてキリスト者になる時期も人それぞれです。若き日にその時が来る人もいれば、老年になってからの人もいる。それは私たちには分からないことです。本人も周囲の者たちも分からない。
 3月からつい先日まで全く思いがけない葬儀が続いていますが、私たちは生まれる時も死ぬ時も分からないのです。それは神様のご計画の中にあることで、私たち人間にはその全貌も真相も分かりません。そこに私たちの意志があるわけではないでしょう。また、神様が私たちを選んだのであって、私たちが神様を選んだのでもない。私たちはただの人間であり神ではないのです。分かっていることはごく僅かです。
 しかし、神様に選ばれたのは何のためであるかは次第に知らされていくのではないかと思います。私たちには聖書が与えられているからです。

 何のために選ばれたのか

 ペトロは続けてこう言っています。

「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。」(同1:2)

 私たちが選ばれたのは「聖なる者とされる」ためです。つまり、聖なる神の者とされるためなのです。罪の汚れの中にあった私たちが「聖なる者とされる」ためには、イエス・キリストによる罪の贖いの血を注ぎかけていただく必要があります。それは、イエス・キリストを信じることと表裏一体の出来事です。聖霊によって、イエス様の十字架の死が自分の罪の赦しのためであることを信じる信仰が与えられなければ、あの十字架は二千年前の一つの小さな出来事に過ぎません。しかし、聖霊によって信仰を与えられる者は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪の汚れが清められ、新しい命が与えられていることを知ります。
 その信仰は何を生み出すのでしょうか。「イエス・キリストに従う」という服従の生涯を生み出すのです。私たちはイエス・キリストを信じて従うために選ばれたのです。自分の意志に従って生きるためではありません。キリストに従って生きる。そこに私たちの本当の喜びがあるのです。

 喜びのはずなのに

 たしかに、私たちを罪と死の支配から救い出してくださったイエス・キリストを信じて従うことは、喜ばしいことのはずです。実際、喜ばしいのです。しかし、その信仰による服従は、辛く苦しいことでもあります。それはどうしてなのか?
 第一に、私たちが従うべきイエス・キリストは人々に捨てられた石であり、また岩だからです。そのように捨てられた方を「わが主イエス」と信じて従うことは、自分もまた捨てられる可能性を秘めたことだからです。だから、イエス様に服従して生きるとは、それほど楽なことではあり得ません。
 さらに言うと、イエス・キリストを捨てる人々と私たちキリスト者は同じ人間であり、同じ地平を生きているからです。私たちキリスト者は、イエス・キリストを主として礼拝しつつ、実は主につまずき、そして主を捨てることがある。そういう背信の罪、裏切りの罪を犯す辛さ、苦しみがあります。これはキリスト者だけが、キリスト者だから犯す罪であり、キリスト者が味わう苦しみです。
 イザヤは「主は聖所にとっては、つまずきの石、イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩」と語りました。聖なる方であり、聖なる方として崇められるべきお方が、主を礼拝する唯一の民であるイスラエルの聖所においてつまずきの石となり、民にとって妨げの岩になってしまっている。それは本当に皮肉なことだし、悲劇的なことです。
 しかし、それと同じことがキリスト教会の礼拝堂の中でも起こっている。また、日々の生活において起こっている。なぜ、そういうことが起こるのか。それは、主イエスが私たち人間の願望や欲望とは全く相反することを命ぜられるからでしょう。

 つまずきの石、さまたげの岩

 私たちが「主の祈り」を祈るときの大きな「つまずきの石」、あるいは「妨げの岩」「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という祈りだと思います。この祈りの言葉をスラスラ言えるとしたら、それはその言葉の意味を知ろうとしていないからです。何も考えずただ暗唱しているだけだからです。
 この祈りを具体的に生きる。自分に罪を犯した者を赦す。そして、自分が神に犯した罪、人に犯した罪の赦しを乞い求める。これが出来る時、その人は神に造られた人間、神の命の息に生かされている人間であると言ってよいと思う。人の罪を赦す。それも赦しがたき罪を赦す。自分の罪を認める。恥とすべき、赦されるはずもない罪を認める。その罪を悔い改めて、主に赦しを乞い求める。そして、人に赦しを求める。「赦してください」と言う。これほど、私たちの欲望に反することはありません。だから、私たちはそれを意志の力ではできないのです。
 「主の祈り」を祈ることは礼拝の中で必須のことです。主イエスが「こう祈りなさい」と命じておられるのですから。でも、この祈りは私たちにとって「つまずきの石」であり「妨げの岩」です。この石や岩は、とても自力で乗り越えることは出来ないものです。必ずつまずきますし、行く手を阻みます。
 それでは、私たちは愛も赦しもない世界を作り出し、その世界で生きていきたいのかと言えばそんなことはありません。それほど殺伐とした恐るべき世界はないのですから。誰だって、愛と赦しに満ちた世界を夢見ている。望んでいる。でも、現実には罪を赦せず、赦さず、自分の罪は認めず、赦しを求めていない。そういう現実を正直に認める時、私たちはいつも矛盾を抱えており、いつも自分のしていることが分からない悲しい人間だと言う他にないのではないでしょうか。

 憐れみは消えない

 主イエスの弟子の筆頭であったペトロは、逮捕される直前の主イエスに向かって、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言いました。心の底からの愛と信頼を告白したのです。しかし、その数時間後には「わたしはあの人を知らない」と三度も否んだのです。これが私たち人間です。
 パウロは、自分自身についてこう言いました。

「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマ7:15)

 これが私たち人間です。
 だからこそ、主イエスが十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、贖いの血を流しながら祈ってくださったのです。この血にはご自身の命を捧げる愛と赦しがあります。ペトロはこの血によって、またそこにある赦しを信じる信仰によってその罪を赦されたのだし、パウロもそうです。私たちもです。
 私たちは神に捨てられても仕方のない者たちですが、神様は私たちを決してお捨てになりません。それは理屈ではありません。私たちにおいて起こっている事実です。私たちが今日もこの礼拝堂において罪を悔い改めつつ主イエス・キリストを礼拝している。心からの感謝と喜びをもって礼拝している。その事実において、私たちに対する神様の憐れみが消えることがないことが証明されているのです。

 選ばれた民

 主イエスによって罪を赦されたペトロは、教会の信徒たちにこう語りかけます。この手紙は彼の説教です。ここに私たちが何のために選ばれたかが語られており、イザヤの預言が引用されているので、少し飛ばしながら読みますのでお聴きください。

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。(中略)
この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、
「家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった」
のであり、また、
「つまずきの石、
妨げの岩」
なのです。(中略)
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、 「かつては神の民ではなかったが、
今は神の民であり、
憐れみを受けなかったが、
今は憐れみを受けている」 のです。
(Iペトロ2:3〜10抜粋)

 私たちは誰だって生まれながらに主を信じていたわけではありません。誰も彼も、かつては神の民ではなかったのです。しかし、今は神様の憐れみを受けて神の民、聖なる国民、神を礼拝する祭司とされています。そのような者として選ばれたのです。人々がつまずき、「妨げだ」と言って捨てた石こそ、実は世界の救いの源、隅の親石であり、闇に輝く光であり、世の終わりにその支配を完成する王であることを、そして今も救いの御業を続けてくださっていることを「広く伝えるため」に私たちは選ばれた。先に選ばれた人々が必死になって主イエスに従って生きようとする姿を見、語る言葉を聞き、共に礼拝するようになったのです。その礼拝において、主イエスの愛と赦しにおいて神様が神の国の礎を据えてくださったことを知らされ、神は必ずその救いの御業を完成してくださることを信じて祈る者とされたのです。

 選びと使命

 そして、私たちはこの礼拝から派遣される日々の生活の中でも、その姿を通してイエス・キリストを証するのです。それが選ばれた者の果たすべき使命です。選びには必ず使命が伴う。それはこの世においても全く同じです。その使命を生きないのであれば、選びを無にし、選んでくださった方の名を汚すことになります。
 ペトロは、神の憐れみを受けた民の生き方をこう語っています。

愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。(同2:11〜12)

 「立派な行い」とは「良い業」「美しい業」「尊い業」とも訳される言葉です。それは、神様から与えて頂いている憐れみを生きるということです。いわゆる「立派なこと」ではありません。神様から与えられている愛と赦しに生きる。信仰に生きる。祈りながら生きる。主が再び訪れてくださり、救いを完成してくださることを待ち望みつつ愛と信仰に生きるということです。この世における仕事を誠実に行い、共に生きる家族や友人、同僚を主が愛してくださったように愛して生きていくことです。そして、日曜日ごとに命の糧である御言葉と聖霊を求めて礼拝を捧げる。その礼拝においていつも新たに罪の赦しに与り、新しい命を与えられ、力を与えられて一週間の歩みに出で行く。
 私たちもかつて、そういう信仰の生涯を生きている証人たちによって礼拝に招かれたのです。今は、私たちもそういう証人として生きる使命が与えられている。その私たちの歩みを通して、今は神を知らない人たちが、「訪れの日に神をあがめるようになります」とペトロは言います。このことが実現することに優る喜びは、私たちにはありません。

 良い知らせを伝える者の足は

 昨日は、上尾合同教会で秋山徹牧師の司式によって李秀雲牧師の葬儀が執り行われました。
 李先生は、神学生としてまた伝道師として中渋谷教会で6年間奉仕をしてくださいました。その後、色々ないきさつがありますが、上尾合同教会の礼拝堂を拠点として埼玉中国語礼拝教会を設立し、5月26日に創立十五周年を迎えられたのです。その日を迎えるまでに、どれほどの苦労があったかと思います。しかし、5月初旬に診察を受けた時は既に末期であった癌の故に創立記念礼拝に出席することさえ出来ず、6月13日、56歳の若さで天に召されてしまいました。
 秋山徹牧師は、李先生の伝道の姿に重ねて「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」というパウロの言葉を読まれました。「良い知らせを伝える者」とは、救い主イエス・キリストを証する者のことです。そのことに人生を捧げる。そこに人生最大の喜びを感じる。李先生はまさにその喜びに生きた方です。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたに望んでおられることです」とパウロは言いましたが、まさにそういう感じの方でした。

 決められた道を走りとおし

 昨日の葬儀では司式者以外に三人が短いメッセージを語るようにと秋山牧師からの指示がありました。そのうちの一人として指名されたので語りました。
 私は、李先生の臨終一時間前に枕元で読んだテモテへの手紙二のパウロの言葉を巡って語ったのです。それは、こういう言葉です。

わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。(IIテモテ4:6〜8)
 ここにも、世の終わりの日、主イエスの再臨による神の国の完成、救いの完成に対する燃えるような希望があります。その希望をもって、イエス・キリストを宣べ伝える。そのことに徹する。自らの身を献げ、神様が決めてくださった道を走りとおす。李先生はその道を走りとおしました。傍目には走るペースが速過ぎて、体に無理が来たと思うほどにです。
 私たちもまた、それぞれにイエス・キリストを宣べ伝え、証するために選ばれているのです。それぞれの道があります。しかし、それがどんな道であれ、その道を走りとおすことには戦いがあります。世においては捨てられることもあり、顧みられないこともあり、迫害されることもあるでしょう。困難は数限りなくあるのです。しかし、救いが完成する日を信じ、その日に向かって生きる者たちと共に主はいてくださるし、終わりの日に義の冠を授けてくださるのです。そして、それは私たちだけのことではありません。「主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けて」くださるのですから。だから、私たちは一人でも多くの人が主を信じ、「主が来られるのをひたすら待ち望む人」となり、主が再臨される日に主を崇め、義の冠が授けられることを願って祈るのです。

「父よ、御名が崇められますように。私たちを、御名を崇める者にしてください。そして、一人でも多くの者があなたの御名を崇めることができますようにしてください。私たちの罪の汚れを洗い清めて、その良い業のために私たちを用いてください。私たちはこの身をあなたに捧げます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

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