「御国が来ますように」
ルカ 11: 2 そこで、イエスは言われた。 「祈るときには、こう言いなさい。 『父よ、 御名が崇められますように。 御国が来ますように。 マタイ 6: 9 だから、こう祈りなさい。 『天におられるわたしたちの父よ、 御名が崇められますように。 6:10 御国が来ますように。 御心が行われますように、 天におけるように地の上にも。 「主の祈り」に関して御言に聴き始めて今日で六回目となります。今日は第二祈願と呼ばれる「御国が来ますように」です。週報の「次週予告」欄では来週は「御心が行われますように」に進むことになっています。でも、それは無理だと分かりましたから、来週ももう一度同じ祈りに取り組みたいと思います。 国 「御国」とは、原文では「あなたの国」あるいは「あなたの支配」「あなたの統治」です。「あなた」とは主イエスの「父」であり、私たちの「父」となってくださった神様のことです。だから、御国とは「神の国」、マタイによる福音書では「天の国」と言われるもののことです。 私たちが「国」と聞く時、多くの場合は国境線を持った国土をイメージすると思います。国はそれぞれの領土、領海、領空を支配しています。その境界線は戦争の度に変更されます。そして、それぞれの国がその境界線の中にある土地を「我が国固有の領土である」と言い、「主権に関わる事柄においては一歩も譲らない」と言い合うことになります。対立する領土問題でお互いに譲らないとなると、最後は力で決着をつけることになります。しかし、その決着も最終的な決着ではありません。両者の間にあるわだかまりはその後も続き、いつの日かまた紛争が起こったり戦争をすることになる。私たち人間はそういう歴史を繰り返して来ました。 退屈な歴史 ある神学者は「人間の歴史が循環的歴史である限り、そこで生起していることが一見どんなに興味深く見えようが、それは結局のところ根本においては退屈な領域でもあるのだ」と言います。それは本当のことだと思います。 私たち人間は戦争を繰り返し、多くの犠牲者を生み出して来ました。その犠牲者を慰霊する行事の中で「過ちは二度と繰り返しません」と決意表明をすることがあります。しかし、その「過ち」の理解は人それぞれです。 特に政治家に多いように思いますが、「過ち」とは戦争をしたことではなく戦争に負けたことであると理解している人がいます。あの戦争はあくまでも正しい戦争であって、敗戦という結果だけが過ちだった。そう考える人は、今度は負けないように今から準備しなければと考えます。そして、「今の憲法を変えなければ駄目だ。天皇を再び元首の位に戻すべきだ。国防軍を持つべきだ。天皇の世が千代に八千代に続くことを願う歌をこれからも国歌として尊重すべきだ」と主張しています。 その一方で、戦争をすること自体が過ちなのだと理解する人々がいます。結局は資源の奪い合いであり大量殺人に過ぎない戦争を美化する時に、人間は悪魔の虜になっているのだ。人を殺すことを美化したり、お国のために死ぬことは名誉なことだと子どもたちに教える「過ち」は決して繰り返しませんと決意する人々もいる。その両者は決して相容れない理解です。 しかし、そのように「過ち」を理解する人はこの国にあっては多くはありません。来週の参議院選挙でそのことが明らかになるでしょう。多くの人々の関心はとにかく景気ですから。そして、選挙の結果を見てある人々は喜び、ある人々は悲しむに違いありません。日本に限らずこの世の国々はこれからも、これまで同様に様々な過ちを繰り返すだろうと思います。そこに本質的に新しいものはありません。あるのは退屈な歴史です。 希望がなければ そういう退屈な歴史の中を生きていくためには希望が必要です。浮かんでは消えるような希望ではなく、決して無くならない希望が必要です。それは人間が作り出した希望ではあり得ません。人間が作り出す希望はすべて一時的なものだし、限定的なものだし、さらに言えばエゴイスティックな希望に過ぎないからです。人間的な希望は必ずついえます。決して無くなることがない希望、つまり神様が与えてくださる希望がなければ、人間の歴史が退屈な循環的歴史であることを承知しつつ生きていくことは出来ません。少なくとも、神様が望む生き方は出来ません。 祈るキリスト者 私たちキリスト者とはどういう人間なのかと言えば、祈る人間です。「主の祈り」を一人でも祈り、また声を合わせて共に祈る人間です。祈りはキリスト者の呼吸であると言われます。呼吸をしなければ生きていけません。 それが「祈り」である限り、そこには求めがあります。それは合格祈願とか安産祈願とか戦勝祈願というものとは全く質を異にするものです。私たちキリスト者が祈りの中で求めているのは、神様の御心の実現であって私たちの欲求の実現ではありません。私たちは神様がその御心を実現されることを信じて祈っているのです。だから、その希望は消えることがないのです。 見果てぬ夢 「御国が来ますように」は、第一祈願である「御名が崇められますように」と基本的には同じ祈りです。人間が作り出す退屈な循環的歴史が、神様によって完全に断ち切られて、神の御名だけが聖なるものとして崇められる。国境線の中で声高に主張される「我が国固有の領土」という滑稽な言葉が無意味となり、その領土に対する「主権」という愚かな言葉が吹き飛んでしまう。御子イエス・キリストだけが天地の主権者であることがすべての人間に感謝をもって承認される。皆がその主イエス・キリストの御前にひれ伏し、主イエス・キリストが愛してくださったように互いに愛し合う。そのことにおいて、自分たちがキリストの王国に属していること、神の国に属している喜びを分かち合う。 それはこの世においては見果てぬ夢、実現不可能な夢、インポッシブルドリームと言われて笑われることです。しかし、聖霊を注がれて信仰を与えられた私たちにとって、それは神様の約束に基づく夢です。飽くことなく繰り返される退屈な循環的歴史の中で一貫して見続けるべき夢だと思います。そして、いつも新たに心踊らされることなのです。神様は必ず天地を貫く神の国を完成してくださることを信じ、その約束の実現に向かって歩むことは退屈とは正反対のことです。しかし、それが実に大変なことであり困難に満ちたものであるかも明らかです。 本国は天にある パウロは、「わたしたちの本国は天にあります」と言いました。キリスト者の国籍は天にあるということです。私たちは、イエス・キリストを通して既にこの地上にもたらされつつある神の国の住民なのだということです。そういう私たちが、今、地上を生きているのです。私たちの場合は、「日本」という国で生きている。かつてキリスト教信仰をこの国で生きることはかなり厳しいことでした。キリスト教は外来宗教ですし敵性宗教とされていたからです。 しかし、「キリスト教国」と言われるアメリカの中でキリスト者として生きることはエイリアンとして生きることだと書かれている書物を読んだことがあります。エイリアンとは、その国の中に生きつつ市民権を持たないよそ者、あるいは異なる星から来た異生物ということです。 2001年にテロ攻撃を受けた直後、あの国はどこにいるのかも分からぬ敵への復讐に燃えました。「リベンジ」という言葉が溢れ、いわゆる「愛国心」で全土が覆われました。そこで何をしたかと言えば、彼らが「テロリスト」と呼ぶ人々と同じように、多くの人々を虫けらのように殺したのです。その殺戮を神が求める正義と平和のためであると疑わない多くの人々がいたし、今もいます。その国の歴代の大統領は皆キリスト者です。法律で決まっていなくてもキリスト者以外が大統領になることはないでしょう。そういう国の中で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とイエス様はおっしゃっていると口にし、そのイエス・キリストの言葉に従うキリスト者として生きることはかなり危険なことです。まさに市民権を失うエイリアンになる他にないでしょう。皮肉なことに、同じキリストを信じている者同士の間にこそ最も鋭い敵対関係が生じるものです。それは日本においても事情は同じです。 しかし、「神の国」とは神の敵となってしまった私たちを、神様が愛し、イエス・キリストを通してその罪を赦してくださったことによってもたらされた国であり、また今ももたらし続けてくださっている愛と赦しの交わりなのです。しかし、そのことを本当に正しく理解し、真剣に祈り求めているキリスト者は実は多くはないのです。 真に恐るべきは神 主イエスは「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)とおっしゃっています。真実に恐れるべき方を恐れることによって、つまらぬ恐れから自由にされるのです。しかし、その「つまらぬ恐れ」は決して小さな恐れではありません。 イエス様は生まれたその時からヘロデ大王に命を狙われ、結局、この世の支配者たちによって殺されましたが、あの十字架の下には扇動された群衆もいたのです。そして、体を殺すことが出来る者たちを恐れた弟子たちはいませんでした。逃げて隠れていたからです。 主イエスは、支配者と支配者を恐れつつ自分の利益追求に余念がない庶民が生きているこの世に、王(メシア・キリスト)として遣わされたのです。そして、その言葉と徴を通して神の国(神の支配)が到来したことをお告げになりました。 そして、イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)です。この言葉はすべての人に向けてのものです。例外はいないのです。主イエスにとっては、権力者と庶民の間に区別はないし、人格者として尊敬されている人と犯罪者として軽蔑されている人との間に区別はありません。主イエスは、この言葉をある特定の人々に語った訳ではありません。すべての人に向けて「悔い改めて福音を信じなさい」と呼びかけたのです。そのこと自体が恐るべきことではないでしょうか。 たとえば、戦前の日本で「天皇もまた悔い改めるべき罪人の一人です」と公言することは命がけでした。そう公言することで逮捕され、拷問を受けた牧師がいます。獄死した人もいます。そういう牧師やキリスト者を「あれはキリスト者の中でも変わり者です。私たちは天皇に対する国民儀礼をすることとキリストを礼拝することは両立すると思っています」と言う牧師やキリスト者もいました。その本心がどこにあるかは分かりません。そして、問題は人がどう思うかではなく、神様はどうお考えになるかです。 戦争が終わった後に、礼拝の中で国民儀礼をする教会はなくなりました。それは何を表しているのでしょうか。中渋谷教会の「八十年史」資料編に含まれている年表には、この教会も祖国の必勝を祈願する祈祷会を捧げ、礼拝の中で国民儀礼をした事実が記されています。そのことを繰り返してはならない「過ち」として理解する人と、当時として当然になすべきことだったと理解する人がいるでしょう。しかし問題は、神様がどうお考えになるかです。 新たに生まれなければ ヨハネ福音書には、ニコデモという人とイエス様の間に交わされた不思議な対話の場面があります。ニコデモはユダヤ人社会の中で位の高い議員でした。しかし、彼には他の議員にはないある種の洞察力と純粋さがあったように思います。彼はイエス様の不思議な業と言葉に心を揺さぶられたのです。全く異質なものがこの地上に突入して来たことを直感したのだと思います。 彼は夜の闇に身を隠しつつイエス様を訪ねてきました。もし、その姿を同僚に見られたら、彼は市民権を失うエイリアンになってしまうからです。 「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(ヨハネ 3:2) イエス様は彼に、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とお答えになります。ニコデモは意味が分かりません。イエス様は畳みかけます。 「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(中略)風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ 3:5〜8、一部抜粋) ニコデモはやはり分かりません。イエス様はそれでも語り続けますが、その言葉はいつの間にか「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という教会の信仰告白の言葉になっていくのです。 信じる者は永遠の命を得る 「永遠の命を得る」とは「神の国を見る」あるいは「神の国に入る」ということです。神の国に生きることなのです。その国に生きるために必要なのは「独り子を信じる」信仰です。それだけです。その信仰は聖霊によって与えられます。人が与えてくれるものではありません。私たちはある人を「信仰の恩師」と言うことがありますし、それはたしかにそうでしょうが、恩師が信仰を与えてくれる訳ではありません。恩師は信仰を生きているだけです。信仰は神様が与えてくださるのです。人ではありません。 だから、私たちがよく口にする「信仰を持っている」という言葉もおかしいのです。信仰は所有できる「物」ではないからです。いつも新たにそよぐ風である聖霊を身に受け、神の声を新たに聴き続けることによって「生きる」ものなのです。信仰は躍動するものであり、誤解を恐れず言えば、いつでも消えるしいつでも生まれるものです。生きているものなのです。だから、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という招きは、いつもすべての人々に向って発せられている愛の招きなのです。キリスト者もいつも新たに聞くべき招きです。 塵と灰に帰す人間の業 ヴァルター・リュティという牧師が「御国を来たらせてください」とは「あなたの御言を来たらせたまえ」であり、同時に御言を信じる「信仰を来たらせたまえ」という祈りなのだと説教の中で語っていました。一面から言えば、確かにそうだと思います。 彼は、第二次大戦直後のスイスで「主の祈り」の連続説教をしました。それは恐るべき荒廃の中で新たに「主の祈り」を祈り直す取り組みをしたということでしょう。互いの血を流したヨーロッパの教会が、心新たに主の祈りを祈る。そこにしか希望はないと確信したからだと思います。 その連続説教の第一回目の冒頭で、リュティは広島と長崎に原子爆弾が落とされたことを語りました。そして、その原子爆弾は、人間が作り出すものは結局、すべて「塵と灰」に帰すものであることを明らかにしたのだと断言します。人間が作り出す物には希望がないということです。人間が作り出す国家も永遠に続くものではありません。すべて一時的なものであり、人間が作ったものである限り、それを支配しているのは願望とか欲望です。そして、欲望を満たすことが出来るのはいつも一部の人ですが、それを満たしたところでそれが救いに繋がる訳ではなく、むしろ欲望が実現すればするほど、自滅していくのです。 世に派遣されるキリスト者 私たちキリスト者もこの地上を生きており、この世を生きています。この世の支配や統治の下に生きているのです。しかし、私たちの本国は天にあり、私たちはこの地上ではエイリアンです。でも、それはこの世の責任を放棄することを意味しません。この世を憎み、軽視して世捨て人のように生きるのではないのです。その逆です。善きキリスト者とは善き市民であるべきです。神は独り子を与えるほどに世を愛しておられるのです。だから私たちも世を愛します。私たちは、かつて私たちも属していたこの世に御子を与えてくださる神様の愛、あるいは罪人の罪の赦しのためにご自身をあの十字架に捧げてくださる御子の愛を証するために世に遣わされているのです。この愛こそこの世にはなかった全く新しいものであり、永遠のものなのです。 その「愛」はしばしばこの世の人々から強制される「愛国心」とは程遠いものです。そういう「愛国心」の背後には、敵は憎めという憎しみがありますし、無反省な自己肯定や自己独善があります。そういう愛で国を愛しまた自分自身を愛する時、すべては塵と灰に帰することになるのです。そこには何ら新しいものはないし、永遠に続くものもありません。それはもう呆れるほど退屈なことです。 しかし、十字架の死から復活し、天に挙げられ、今は聖霊によって救いの御業をなし、世の終わりには再び来たりて、生ける者と死ねる者とを裁き御国を完成される主イエス・キリストの業は常に新しく、そして永遠なものです。そのことを世に向って証する。それが聖霊によって絶えず信仰を新たにされている私たちキリスト者に与えられている使命だと思います。 祈りつつ果たす使命 私たちはその使命を「御国が来ますように」と祈りつつ果たして行くのです。祈るということは、御国をもたらすのは私たちではなく神様であることを承認しているということです。信仰に燃えるキリスト者が、自分たちの社会活動を通してこの世に御国をもたらすのだと息巻いている姿を見ることがあります。でも、自分たちの力でもたらすことが出来るものは神の国ではありません。また、信仰と情熱は別物です。信仰は、人間には出来なくとも神には出来ることを信じることでしょう。 人間に出来ない最大のものは敵を赦すことです。自分に罪を犯す者の罪を赦すことです。それが出来ない限りこの地上に平和はありません。神が共に生きてくださる平和、神様の祝福に満ち溢れる平和はないのです。「御国」とは、何よりも神が共に生きてくださる平和のことです。 あなたがたに平和があるように 先週の説教でも語ったことですが、イエス様は十字架の死から三日目の日曜日の夕方、イエス様への愛を情熱的に語った挙句に逃げたペトロを初めとする弟子たちの前に現れてくださいました。そして、「あなたがたに平和があるように」と祝福してくださったのです。これはイエス様が独り子なる神であるが故に与えてくださった罪の赦しです。人間が与えることが出来る罪の赦しではありません。御国の到来とはとりもなおさず神様の到来のことです。そして神様は罪を赦す愛なる方として私たちの所にやって来てくださるのです。 そのことを知って喜びに溢れる弟子たちに、イエス様は息を吹きかけてくださいました。この息は聖霊です。そして、こうおっしゃった。 「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」 聖霊を受けなければ、私たちには罪を赦すことなど不可能です。それは肉を持った人間が出来ることではありません。不可能です。しかし、聖霊によって新たに生まれた神の子、信仰に生きる神の子は、霊の導きに身を委ねる時に愛と赦しを生きることが出来る。御国を生きることが出来るのです。その御国だけが塵と灰に帰することがない永遠のものなのです。 「プレイス イン ザ ハート」 随分前の映画ですが、私の記憶から消えることがないものに「プレイス イン ザ ハート」というアメリカ映画があります。まだ黒人差別が激しかった頃のアメリカ南部が舞台です。詳細は忘れてしまいましたが、映画の冒頭で、町の保安官が酔っぱらった黒人の青年に銃で撃たれて死んでしまうのです。黒人青年は普段から様々な差別をされる悲しみを酒で紛らわし、街中で空に向かって銃を撃ったりして憂さを晴らしている。その知らせを受けて駆けつけてきた保安官と黒人青年は仲が良かったのです。でも遊び半分で青年が保安官に銃を向けた途端、誤って弾が当たってしまい、保安官は死んでしまうのです。 黒人青年は裁判にかけられて裁かれるべきです。しかし、復讐心に燃える街の白人たちは、それがまるで殺された保安官やその家族が望み、さらには神様までもが望んでいるかのように錯覚して、黒人をリンチして惨殺してしまいます。 映画は、そういう厳しい差別と憎しみがはびこる小さな町の出来事を描いていきます。不倫をしている夫や妻も出てくる。決して赦し合うことが出来ず、共に生きていけない関係になってしまった者たちが出てくるのです。 その映画の最後は、教会における礼拝の場面です。町の人々が互いに赦し合うべきだという説教を聴いた後にパンとぶどう酒が載っている皿を、「キリストの平和があなたにあるように」と言いつつ回していくのです。そこには互いに赦し合うことが出来ない関係を生きている者たちがいます。敵同士になってしまった者たちがいる。そして、映画の冒頭で黒人青年に殺されてしまった保安官とその青年もいるのです。その青年を決して赦すことが出来ないはずの保安官の妻や子どもたち。白いシーツをかぶって黒人をリンチして殺したのであろう白人たち。その生ける者と死ねる者のすべてが「キリストの平和があるように」と言いつつ、イエス・キリストの体と血の徴、命を捧げた愛と赦しの徴であるパンとぶどう酒を分かち合っているのです。 そういう交わりはこの世の誰も作り出すことはできません。ただ父なる神と御子なるイエス・キリストが来てくださった時、そして聖霊の風が吹く時、ただその時にのみ実現する交わり、究極にして永遠の平和です。その永遠の平和を求めて私たちは「御国が来ますように」と祈るのです。そして、礼拝において聖餐式を感謝し祝うことを通して、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエス様の声をこの世に響かせるのです。そして、いつの日か天地を貫く御国が完成する日をはるかに望み見て生きるのです。そこに私たちが生きていることの重大な意味があり価値があります。それはこの世からは全く評価されない意味であり価値ですが、神様は喜んでくださるのです。だから私たちもまた溢れる喜びをもって生きることが出来るのです。 |