「御国が来ますようにU」

及川 信

       ルカによる福音書 11章2節
      マタイによる福音書 6章9節〜10節
11:2そこで、イエスは言われた。
「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。

6:9 だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。

 譬話で語られる神の国

 福音書の中にはいくつもの譬話があります。イエス様は「たとえを用いないでは何も語られなかった」(マタイ13:34)とも記されています。「何も語られない」とは、マタイの言葉で言えば「天の国」、マルコやルカでは「神の国」、ヨハネで言うと「永遠の命」に関してです。主の祈りの言葉で言えば「御国」です。「御国」は譬えでしか語ることはできないのです。体系化できる現実ではないし、説明できる理論でもないからです。
 神の国は種蒔く人とか毒麦、芥子種やパン種に譬えられます。畑に隠されている宝を全財産を売り払って買うことに譬えられたり、網で魚をとることに譬えられたりもします。もちろん、群れから離れた一匹の羊を捜し求める羊飼いの譬話もあるし、放蕩息子と父の譬話もあります。婚宴の譬えもあります。様々なタイプの譬話があるのです。しかし、様々なタイプの「神の国」があるわけではありません。いずれの譬話も神の国(御国)の本質に触れつつも語りきっている訳ではないのです。そもそも御国とは言葉で語りきれるものではないのです。既に到来したものでありつつ将来到来するものなのですから。イエス様は「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)とおっしゃっています。そう言われても、「ああ、そうか。分かった」と思える訳ではないでしょう。
 ここに出てくる「あなたがた」とは誰なのか。今日は、その問題から入っていきます。

 「あなたがた」

 「なぜ譬話で語るのか」と弟子に問われた時、イエス様はこうお答えになりました。

「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない。(中略)だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。(中略)しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(マタイ13:11〜17抜粋)

 ここに出てくる「あなたがた」とは弟子たちのことであり、さらに言えばキリスト者のことです。しかし、ここで「あなたがた」と呼ばれる弟子たちは、実はイエス様の十字架の死と復活の後に聖霊を受けることを通して、イエス様が誰であるかを知らされた人々だと思います。だから、「幸いだ」と言われるのです。旧約時代の「預言者や正しい人たち」が見聞きすることを願いながら叶わなかったものを見聞きしているからです。
 福音書は聖霊が降って以後に書かれたものです。聖霊によってイエス様が誰であるかを知らされた人々が書いているのです。その人たちはイエス様に会ったことがある訳ではありません。イエス様の話をじかに聞いたことはないのです。十字架の時も復活の時もその場にいた訳ではありません。しかし、それらのことを経験したイエス様の直弟子やその他の目撃者たちの証言を聞きあるいは読み、キリスト教会の礼拝体験を積み重ねながら、イエス様の直弟子たちが見たこと、聞いたことを体験したのです。
 私たちにおいてもそのことが起こる時、イエス様が語りかける「あなたがた」が私たちのことになるのです。その時、私たちは聖書の言葉を通して今も生きておられるイエス様の語りかけを聞くのだし、神の言葉を聞くのです。その時、私たちの国籍、本国は天に移されます。私たちは、御国の住人になるのです。
 それは、この世の外に立つことです。外に立ちつつ、この世の中を生きるのです。だからこそ、既にイエス・キリストを通してこの世の中に来た御国が、この世の外から再びやって来て新しい天地として完成する日を待ち望むことが出来るのです。そこに私たちの呻きがあり、私たちの希望があり、そして深い喜びがある。

 全く違った仕方の出会い

 ある神学者がこう言っていました。
「神の国とは神ご自身のことであり、神ご自身とはご自身の到来における神の国のことである。それは人間との出会いのための到来である。」
「(復活の)イエスは今や彼ら(弟子たち)に別人としてではなく、確かに同一人物として、だが全く違った仕方で出会ったのだ。」
 意味深な言葉です。多分、こういうことだと思います。
 「神の国とは神の到来のことであり、それは復活のイエスが主として弟子たちと出会うところに生じた出来事である。復活の主イエスとは、それまでのイエスと同一人物でありながら、全く違った仕方で弟子たちに出会ったのだ。この方と出会うことを通して、彼らは十字架の死に至るまでのイエスの言葉と業、そして十字架の死が何であるかが初めて分かったのである。」
 これは本当のことだと思います。だとするならば、全く違った仕方で出会ってくださる方と出会うか否かにすべてが掛かっているということになります。

 復活の主イエスとの出会い(ヨハネ)

 私が自覚的に聖書を読み始め、また教会の礼拝に出席し始めたのは二十歳の頃です。大きな挫折感や絶望感に襲われたので、子どもの頃から身近ではあった聖書を読んだのです。そして、聖書の言葉を通してイエス・キリストと出会ったのでキリスト者になりました。「なりました」と言うより、「させられました」と言った方が実感に近いのです。それはやはり古き命に死に新しく生まれ変わるという衝撃を伴うことですから、自分から向かうことではありません。
 その頃から今に至るまで読む度にゾクゾクするような感動を覚えるのは復活のイエス様が全く違った仕方で弟子たちと出会う場面です。
 ヨハネ福音書におけるその場面は尽きることのない不思議な魅力に満ちています。
 主イエスを裏切って逃げた弟子たちが、戸も窓も閉め切った真っ暗な部屋に閉じこもったのです。そこに復活のイエス様が現れ、「あなたがたに平和があるように」と祝福されました。それは日曜日の夕方のことです。そのイエス様は手に十字架の釘跡があるイエス様です。その釘跡を彼らに見せたのです。ということは、復活のイエス様は十字架に磔にされたイエス様と同一人物です。さらに何らかの意味で「見える」「体」をお持ちなのです。でも、その「体」は弟子たちが隠れている部屋の戸や窓を開けて貰わずともその部屋に入り、真ん中に立つことが出来る「体」です。つまり、十字架に磔にされた痕跡を留めつつも同じ「肉体」ではない。復活の体を持ったイエス様です。そのイエス様を「見て」彼らは喜んだ。この事実を合理的に説明することは誰も出来ません。ただ、ヨハネ福音書はこのようにして神の国の到来を語っているのです。分かる人には分かるのです。
 その時イエス様は罪を赦し新たな命を与える聖霊を弟子たちに吹きかけてくださいました。そして、罪の赦しと新しい命が与えられる福音の伝道をするために、彼らを派遣してくださったのです。
 この時の弟子たちの驚きと喜びについて私は何度も語ってきたし、今後も語り続けるでしょう。それは、彼らの体験は若き日の私の体験だし、今も日曜日毎に新たに与えられる体験だからです。私は私として復活の主イエスに出会うことを通して、私の罪のために主イエスが十字架に掛かってくださったことが分かり、聖霊を吹きかけられて新たにされ、今もその命に生かされているからです。ここにおられる多くの方が本質的に同じ体験をしておられるはずです。具体的には人によってまったく違う体験をしているのですが、出会った方は同じであり、与えられている命も同じはずです。

 復活の主イエスとの出会い(ルカ)

 もう一カ所、ルカ福音書の最後、エマオ途上の弟子たちとイエス様の出会いの場面、ここも読む度にゾクゾクします。
 イエス様が葬られてから三日目の日曜日の早朝、墓に行った女たちは、イエス様が預言通り復活されたことを天使から聞かされました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と。その言葉を彼女らは弟子たちに告げます。しかし、彼らは彼女らの言葉を「たわ言」だと思いました。
 その中の二人は、何もかもが儚い夢だったのだと思って故郷であるエマオという村に帰っていきます。その二人の弟子たちをイエス様が追いかけ、語りかけます。でも、彼らにはそれがイエス様だとは分かりませんでした。「目が遮られて」いたからです。目が遮られていると目の前にイエス様が生きておられても分からないし、「イエスは生きておられる」という言葉を聞いても「たわ言」にしか聞こえないのです。これはよく分かります。
 イエス様は、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」とおっしゃって、旧約聖書全体にわたってメシアについて書かれていることを説明されました。この時の弟子たちほど幸せな人々はいないと、私は思います。でも、彼らは目の前で語っているのがイエス様だとは分からないのです。四日前まで一緒にいた方なのに分からない。イエス様がそれまでとは「全く違った仕方で出会って」おり、彼らの目が遮られているからです。
 夕刻になり、イエス様は弟子の家に招かれるままに入り、一緒に食事の席に着かれます。その時、「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しに」なった。「すると、二人の目が開け」、彼らの目の前にいる方が「イエスだと分かった」のです。その途端、イエス様の「姿は見えなく」なりました。ここはもう最高に面白いところです。目が開けて分かった。すると姿は見えなくなった。これはよく分かります。これはリアルなことなのです。
 二人は「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、即座にエルサレムに帰っていきます。そして、ペンテコステの日に聖霊を注がれた後、彼らは大胆に説教する人間に造り変えられました。彼らは「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒2:32、36)と説教したのです。
 神の国はこのようにして人々にやって来るものだと思います。それは、墓のような部屋に閉じこもっていた者をその部屋から外に出し、神の国到来という喜ばしい福音を宣べ伝える者に造り替え、絶望して地上の故郷に帰っていく者を希望をもって天上の故郷を目指して生きる者に造り替えていく御業です。

 復活の主イエスの招きと臨在

 この二つの福音書に記されている出来事はいずれも同じ日曜日の夕方から晩にかけて起こった出来事です。字義通りに受け取れば、復活のイエス様はエルサレムの隠れ家に現れているその時に、エマオの家でも現れていたのです。復活とはそういうものでしょう。復活の主イエスはかつてのイエス様と同一人物でありつつ、全く違った仕方ですべての人と出会われる主イエスです。そして、新たに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と招いてくださるのです。
 そのイエス様が今、日本中のすべての教会の礼拝堂の真ん中に立って語っておられるのだし、聖餐式がある礼拝ではパンを裂いておられる。日本に限らず、世界中の教会で目に見えないイエス様が同時に生きて働き給うのだし、信徒の家の中でもその御業をなしておられる。今も電話を通してこの礼拝に与っている兄弟姉妹がいるし、時を同じくして自宅で主を礼拝している兄弟姉妹がいます。その人々と主イエスは共におられ、今日も語りかけておられる。その現実の中に復活のイエス様の到来があり、神の国の到来があるのではないでしょうか。
 そのイエス様は信じる者には見え、その声も聞こえますが、そうでない者にはすべての意味が隠されている譬話に過ぎません。信じるか否かの分かれ道は、聖霊を受けるか否かにあります。

 聖霊によって神の子とされる

 私は「主の祈り」に関する第一回目の説教の中で「アッバ、父よ」という言葉に関して語りました。パウロがローマの信徒への手紙8章でこう語っているからです。

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。(中略)この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」

 私たちが親しく神様を「父よ」と呼ぶことが出来るのは、イエス・キリストの十字架の死によって、神様が私たちの罪を赦してくださったからです。罪とは神に敵対することです。自分の国(支配)を作って、神と敵対することなのです。命の創造主である神を無き者にして生きることです。それは、実は自分自身の命の源を抹殺する自殺行為なのです。しかし、そうとは思わず人間は自らの首を絞めることを延々と繰り返します。
 神様は、そういう愚かな私たちに対する憐れみを持ち続けてくださるのです。決してお見捨てになることがない。裁きながら赦し、立ち帰って新たに生きることを願ってくださいます。
 その愛の働きかけの究極が、独り子なるイエス・キリストを世に送ることに現れているのです。神様は私たちの罪を愛する独り子に負わせ十字架で裁いてくださいました。そのことによって私たちを赦してくださったのです。ただ愛の心で赦してくださったのではなく、御子を裁くことを通して赦してくださったのです。復活の主イエス・キリストが手の釘跡を見せながら弟子たちに「平和があるように」と語りかけてくださるとは、そのことを知らせてくださったということです。そして、イエス様は聖霊を通していつも新たに愛を注ぎかけてくださる。その愛の故に、私たちもイエス様と同じく「アッバ、父よ」と呼びかけることが出来る。そこに既に与えられた救いがある。既に与えられた御国があるのです。

 キリストと共に苦しむなら

 しかし、パウロは続けてこう言います。

もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 相続人とは、遺産相続を約束されてはいてもまだ相続している訳ではない人のことでしょう。相続は将来のことなのです。その将来の相続のために、私たちキリスト者はキリストと共に苦しむことが必要だとパウロは言うのです。さらに「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と言います。
 現在は苦しみの時なのです。先週も語りましたように、人間の歴史が循環するからです。神に敵対し、自分たちの支配を確立しようとし、世界の覇権を我が手に収めようとする企ては終わることがありません。その結果、戦争が繰り返され、無数の人々が虫けらのように殺され、また自然は破壊され、動物もまた無残に殺されています。一昨日のニュースで見たことですが、二本の象牙欲しさにあの大きな体のアフリカ像は密漁者に殺され続けています。食べるためではなく、目先の利益のために殺す。人も動物もです。背景には人間が作り出した貧富の格差があります。しかし、より根源的に言えば、すべては自分のものだと錯覚する人間の罪があるのです。
 そういう罪に満ちた世界の中を私たちは生きている。そういう罪の世界の中にイエス・キリストを通して神の国が到来した、突入して来たことを知らされて生きている。そして、この世界で行われている多くのことが御心に背くものであることを知らされながら生きている。私たち自身もしばしばその御心に背きつつ生きている。その私たち人間の現実を見て、「悔い改めよ」と今も叫び続けているイエス・キリストが苦しんでいないはずはありません。そして、キリストがわが内に生きてくださっている私たちもまた苦しまざるを得ないのは当然です。しかし、それは希望があるからです。

 体が贖われること

 パウロは、こう続けます。

被造物だけでなく霊≠フ初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

 「体が贖われること」
とは、御国が来る時に私たちが御子の復活、その栄光の姿に与ることです。体が甦ることです。私たちはその日が来るという希望を与えられているのです。そのこと自体が、この望みなき世にあって既に救いに入れられている証拠です。だからこそ私たちは呻きつつ生きるのです。忍耐しつつ生きるのです。まだ御国は完成していないのですから。

 終末の遅延

 原始キリスト教会にとっての最大の問題は、終末が来ないという現実でした。パウロは世の終わりは自分が生きている間に来ると思っていました。だから、信徒たちに「その日に備えて信仰を守って生きよ。迫害に耐えよ。主はすぐに来る」と説教をしたのです。信徒たちは、その日が近いことを信じて忍耐して待ち望んだのです。
 しかし、なかなか世の終わりは来ませんでした。パウロの時代から二千年経った今もまだ来ていません。そういう現実の中で「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」(Uペトロ3:4)と言う人々が出てきたのです。しかし、パウロの手紙よりもかなり後の時代に書かれたと推定されるペトロの手紙二の中にこういう言葉があります。

愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。(中略)しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

 変わることなき使命

 世の終わりがいつ来るかに関しては、復活のイエス様が弟子たちにこうおっしゃっています。

「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:7〜8)

 御国がいつ来るか、それは私たちには知り得ぬことです。私たちは自分がいつ死ぬかも分かりません。それらのことは神様が定めることであって、私たちが早めることも遅らせることも出来ません。しかし、「義の宿る新しい天と地」が来るまで、私たちがなすべきことははっきりしています。「一人も滅びないで皆が悔い改めるように」「地の果てに至るまで」イエス・キリストの証人として生きることです。生きることにおいても死ぬことにおいてもイエス・キリストを証することです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と招かれている主イエス、今も手の釘の跡を見せつつ「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださる主イエス、私たちのために「パンを裂いて」渡してくださる主イエスを証することでしょう。私たちが証されたように証する。招かれたように招く。愛されたように愛する。
 この国が今後どの方向に舵を取ろうとも、世界がどのようになっていこうとも、その現実を見てどれほど苦しみ絶望しそうになったとしても、主イエスは今も生きておられ、一人も滅びないで救われるために働いておられるのですから、私たちも働くのです。聖霊を与えられる時、私たちの信仰の目は主の姿を見、その耳は主の声を聞くでしょう。だから、私たちは幸いなのです。
 その目と耳を与えられた者たちの働きの中核は祈りです。祈りなくして動くことは、私たちの為すべきことではありません。
 弟子たちも、イエス様に言われたようにエルサレムの家で祈っていたのです。その時に「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」「彼らが座っていた家中に響き、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上にとどまった」のです。その時、彼らは力を得て地の果てまでの証人とされていきました。全世界の教会は祈りと聖霊によって誕生し、今も生きているのです。人間の知恵と力に頼る教会は必ず消えうせます。
だから、イエス様は今日も私たちにこうおっしゃるのです。

「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。』」

 山本元子先生

 先週の火曜日の午前、2001年度まで25年間、中渋谷教会に仕えてくださった山本元子先生が天に召されました。私たちはこれから136番(二編)を歌いますが、元子先生の愛唱歌の一つは161番(二編)です。いずれも御国の到来を待ち望む歌です。161番(二編)の5節はこういう詞です。

「まもなく主イエスはきたり われらをむかえたまわん
 いかなる喜びの日ぞ いかなるさかえの日ぞ」
「わがたま いざたたえよ 聖なるみ神を
 わがたま いざたたえよ 聖なるみ神を」

 元子先生もまた、二千年間信仰を継承してきたキリスト者と同様に、神の御名が崇められること、聖なるものとされること、御国が完成する栄光の日をはるかに望み見て、苦しみ多きこの世を忍耐をもって歩み通されたのです。主が共に歩んでくださったからです。私たちにおいてもそれは同じです。「御国が来ますように」と祈る者と共に主イエスは歩んでくださり、いつの日か必ず御国における復活の栄光に与らせてくださるのです。そのことを信じる私たちがどうして主を賛美しないでいられるでしょうか。

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