「御心が行われますように」

及川 信

       ルカによる福音書 11章2節節
  マタイによる福音書 6章9節~10節
11:2そこで、イエスは言われた。
「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。

6:9 だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。

  獅子がほえる

 聖書を読むということは、やはり恐ろしい体験だと思います。それは、当然のことです。罪人が神の声を聴くことだからです。
 アモスという人はただの羊飼いでした。そのアモスに主の言葉が臨み、彼はいきなり預言者にされてしまいました。そのアモスがこう言っています。牧師になるしかないと思いつつ、それだけは嫌だと悩んでいた若き日に読んで、戦慄を覚えた言葉です。  彼はこう言うのです。

「獅子がほえる
誰が恐れずにいられよう。
主なる神が語られる
誰が預言せずにいられようか。」
(アモス3:8)

 これは彼の実体験です。私も私なりに分かります。
 この時代に動物園があるわけではありません。檻の向こうでライオンが吼えるわけではありません。いつでも飛びかかってこられる至近距離で吼えられる。その声を聴きその顔を見る時、人は生きた心地がしないでしょう。それでもなお生きているとすれば、人はそこに何を感じるのでしょうか?
 アモスにとって主なる神が語りかけてくるとはそういうことなのです。その主の語りかけを聴くならば、最早それまでの自分ではいられなくなる。聴いた言葉を語ることに献身するしかなくなるのです。

  神を見たのになお生きている

 先週は、聖書の中で私が好きな場面を二つ読みました。今日は旧約聖書の中から一つ選びます。それは、イスラエルの父祖ヤコブが夜を徹して神様と格闘する場面です。  彼は神様の祝福を求めて格闘するのです。その翌日には、かつて彼が騙して長子の特権を奪った兄エサウと会わねばならないからです。エサウは四百人もの手下を引き連れているのです。ヤコブの出方次第では、ヤコブの全財産はもちろん命すら奪いかねない雰囲気を漂わせている。ヤコブにとってはライオンが唸り声をあげつつ次第に近づいて来るような感じです。隙を見せれば噛み殺されてしまいます。彼は怯えました。そのヤコブに対して、神様は人の姿で現れて一晩中格闘してくださったのです。その途中で、神様は彼の腿の関節を外します。それでもヤコブは主を掴んだ手を放しません。痛みに耐えつつ、祝福を求め続けます。ついに主の方が根負けをして彼を祝福する。そういう場面です。
 神様からの祝福を受けた後、彼は「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言い、その場所を「神の顔」(ペヌエル)と名付けました。聖書の記述はこう続きます。

「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。」

 何とも言えない魅力に満ちた不思議な場面です。主の顔を見てもなお生きていることに、ヤコブは神様の祝福を感じた。それは間違いありません。その祝福の内容は、主が彼のこれまでの罪を赦してくださり、新しく生きることを許してくださったということでしょう。彼はその祝福を受けることによって、自分を噛み殺すかも知れないエサウの前に出ていくことが出来ました。本当に恐るべきは人ではなく神だからです。

  二つの恐ろしさ

 神の顔を見る。その声を聴く。その時、人は「それまでと同じ人間」ではいられなくなります。それはやはり恐ろしいことです。それまでの自分が崩壊することだからです。信仰に生きるとは、その崩壊を経てのことです。これは確かに恐ろしいことです。
 しかし、私たちが「それまでと同じ人間」であり続けることは幸せなことなのでしょうか。楽なことではあるでしょう。しかし、よく考えてみると、実は恐ろしいことだと思います。造り主なる神を知らず、自分がどこから来てどこへ行くのかを知らず、何のために生きているのかを知らず、この世の価値観の中で欲望に振り回され、自己保身と自己防衛を繰り返し、憎み争い復讐を繰り返し、最後は訳も分からぬまま死んでいく。積み重なった悪と罪を恥じながら、あるいは恥ずべきことなのにそれを悔いることもなく死んでいく。
 その空しさや恐ろしさを回避するために、人は「死後には美しい世界がある」とか「霊魂は不滅だ」とかいろいろ勝手な想像をします。でも、確信を得ている訳ではありません。自分の作り話を自分で信じるだけのことだと思います。不安と恐れを根底に抱えたまま、それを自らにも隠しながら生きている。そういう人間であり続けることも恐ろしいと言うか、あまりに空しいことだと私は思います。
 私たちには神に出会うことの恐ろしさと、神に出会うこともないままに生きていくことの恐ろしさ、あるいは空しさがあります。
 私たちは出会いを求めることは出来ます。でも、出会いを自分でコントロールできるわけではありません。求めていてもなかなかその時が来ないこともあるし、求めていなくてもライオンが突然飛び出て来るように神様が語りかけてくることがある。それは、私たちがコントロール出来ることではありません。

  主の祈りを祈るということ

 「主の祈り」に取り組み始める時から、私はやはり一種の恐怖を感じていました。「とてつもない世界に足を踏み入れることになる。この祈りの言葉に向き合っていくと、それまでの自分でいることは出来なくなる」と。この祈りを真実に祈ることは簡単なことではありません。と言うか、人間が持っている力で祈ることは出来ないと言うべきだと思います。

  祈り  業

 私たちは「私は祈ることしか出来ない」と口にすることがあります。それは自分の小ささや無力さを嘆く時の表現である場合が多いように思います。しかし、それとは逆に「祈りこそ最上の業である」という言葉もあります。
 自分は何の業も出来ない。あのことこのことを気にはしているのだけれど何も出来ない。そういう嘆きをもって「祈ることしか出来ない」と言うのですが、それは他面から言えば、「祈ることは出来る」ということです。全能の神の御心が実現することを求めて祈るのであれば、「祈りこそ最上の業である」ということになるでしょう。

  究極的な行為者

 問題は、誰が究極的な行為者かということだと思います。そもそもこの世界を造り、私たち人間を造られたのは誰なのでしょうか。それが人間ではないことは、「神など信じない」と言う人たちにとっても明らかでしょう。私たち人間が世界を造った訳でも人間を造った訳でもない。それは誰にとっても明らかです。
 聖書を書き記した人々は、天地を造った神がいると信じました。そして、自分たちは神に似せて造られた被造物であると信じた。それは、神様が彼らに出会い、彼らに語りかけ、教えてくださったからです。混沌とした闇の世界に向けて「光あれ」と語りかけ、光を創造されたのは神様です。そして、闇の中に輝く命の光として独り子なるイエス・キリストを送ってくださったのも神様です。創造も救いも神様の業であって、私たちの業ではありません。神様が万物を造り、神様が救ってくださるのです。
 第二イザヤと呼ばれる預言者は、神の裁きを受けてバビロンの地で望みを失ってしまったイスラエルの民に向って語りかけました。

わたしに聞け、ヤコブの家よ
イスラエルの家の残りの者よ、共に。
わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。
(イザヤ46:3~4抜粋)

 これもまた、「主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」という預言者の言葉です。目に見える形で語っているのは預言者です。でも、実は主が語っている。究極的な行為者は主なる神なのです。預言者は主の口になって語る。それは主なる神を体現することであり主の証人として生きることです。自分に向ってくる主を信じその言葉に従って生きる時、人は主に立てられた預言者、主の証人になるのです。その証人として生きる。そのことがいかに大変なことであるかは想像に余りあります。しかし、そのことがいかに幸いなことであるかも言うまでもありません。

  神の業 人の業

 世界を造りイスラエルを造った神が、イスラエルを見捨てない。罪深きイスラエルを裁き、悔い改めに導き、その罪を赦し、そして祝福する。救いへと導く。そのことによって、闇の世界に命の光を輝かせ、ついに「救い出す」。そのすべてをなさるのは神様です。しかし、その神の御業を人々に告げ知らせるのは、そのために選ばれた人間です。

  祈りという行為

 私たちは、主イエス・キリストを通して私たちの「父」に祈るのです。その父は、独り子をも惜しまずに与えてくださる愛で私たちを愛し続けてくださっている神です。また、時にライオンが目の前で吼えるような臨場感をもって語りかけてくる神様です。その父なる神様に祈り続ける時、それは祈りだけでは終わらない、終われないのです。
 私たちキリスト者にとって祈りとは、神様に願いごとを一方的に言うことではありません。もちろん、祈りは願うことであり求めることです。主の祈りも願い求める祈りです。でも、そこで願っていることは何でしょうか?私たちの心の願いが実現することでしょうか?違います。神様の御心、そのご意志が実現することです。それが「主の祈り」です。
 聖書もそういう祈りをもって読むものなのであり、そういう祈りをもって読む時に、ライオンが吼えるが如き神の声が聞こえることがある。だから恐ろしいことなのです。そして、御言によって示される御心は、私たちの心の願いとは違うことが多いのです。

  二つの本心

 実は、私たちは神様の御心の実現など願っていません。正直に見つめれば、そう言わざるを得ません。神様を「アッバ、父よ」と呼べることがどんなに幸いなことかは知っています。しかし、御子イエス・キリストと共に「アッバ、父よ」と呼ぶことは、キリストと共に苦しむことをも意味します。世界が救われるためには産みの苦しみが必要だからです。神様は御子イエス・キリストを通して罪を赦し、罪とその結果である死を滅ぼし、御子の栄光に似た者とするという約束を与えてくださっています。私たちは「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子として復活の栄光を相続することが約束されているのです。だからこそ、すべての人々がこの救いの約束を信じることが出来るように呻きつつ祈るのだし、そのことのために働くのです。人間が皆、「それまでの人間」であることを止め、神様の愛を受け入れ、神様を愛し、その愛で互いに愛し合うことを祈り求めつつ、私たち自身がその愛に生きる。それが神様の御心、望み、ご意志であることは、誰だって分かっています。
 しかし、私たちは、私たちに罪を犯した者を赦すことをしません。また、自分の罪を認め、神の御前に悔い改め、赦しを乞うことをしたがりません。私たちの心はそのことを願っていないのです。
 でも、私たちが自覚していない心の奥底には、愛と赦しを求める思いがあります。そして赦せない心、愛せない心、悔い改めない頑なな心から解放されることを呻くように求めている。神様は、そういう私たちを解放するために御子イエス・キリストを送ってくださいました。しかし、心の表層は頑強に神様の御心を行うことを拒絶します。あの人のことは赦しません、と意地を張る。そのようにして、御子を拒絶する。排除し、ついには抹殺するのです。自分の救いのために来てくれた解放者を抹殺して、自分自身を罪と死の殻の中に閉じ込める。そこに私たち人間の悲惨があります。

  しかし、わたしの願いではなく

 「父よ、御心が行われますように」
という祈りを聞いて私たちが思い起こすのは、主イエスが逮捕される直前の夜に祈られたゲツセマネの祈りでしょう。恐ろしい祈りです。ルカ福音書では、オリーブ山での祈りとなっていますが場所はほとんど同じです。
 イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われました。しかし、弟子たちはほどなく眠りこけます。イエス様だけは、その夜の内にユダが剣やこん棒を持った人々を連れてやって来ることをご存知でした。ある意味では、この時のイエス様はエサウを待つヤコブのようでもあります。
 夜の闇の中でイエス様は祈られます。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

 「この杯」
とは、罪人の身代りになって十字架に磔にされて死ぬことです。そのことが父の御心であることをイエス様はご存知でした。ご存知でしたけれど、もしその御心を変えてくださるのであれば変えて頂きたいと願われたのだと思います。  誰だって死ぬことは恐ろしいことです。イエス様にとっても死は恐ろしいことです。でも、イエス様の死は「誰だっていつかは死ぬ」という意味での「死」ではありません。罪に対する裁きとしての死であり、処刑による死です。鞭打たれ、辱めを受け、裸にされ、多くの人々の目の前で十字架に釘打たれて見世物にされるのです。これ以上ない恥辱にまみれた死です。そういう死に方をしたくないと、イエス様は思われた。考えただけで痛ましいことです。
 しかし、そういう表面に見える恥辱、恐怖よりもさらに深い悲しみがその「死」にはあります。罪人に対する究極的な裁きは神に見捨てられることです。叱られている間はまだよいのです。見捨てられるとは、叱られもしないことです。神様との関係性が完全に断たれるのです。天地をお造りになった神、人の命を創造された神、それゆえに、人が罪を犯してもその罪人を担い、背負い、ついには罪を赦して救い出してくださる神様との愛の交わりが断たれる。見捨てられる。世界でただ独り心を尽くし精神を尽くし思いを尽くし力を尽くして神を愛してこられたイエス様、世界でただ独り自分を愛するように隣人を愛してこられたイエス様、世界でただ独り神様の御心を完全に生きてこられたイエス様が、今、神様に見捨てられようとしている。人々は、罪のないイエス様を罪人として、それも神を冒瀆した罪人として処刑する。これほど滑稽なことはないし、これほどグロテスクなこともないでしょう。しかし、この世はそういうもので満ち溢れていることも事実です。そして、神様に完全に見捨てられるという死を味わったのも、イエス様ただお独りなのです。

  御心のままに行ってください

 イエス様はこの時もご自分に対する神様の愛を疑うことは出来ません。神様の愛を疑う者はこのようには祈りません。神様を愛するからこそ、神様の御心が行われることを祈り求めるのです。
 ルカはその時の情景をこう記します。

 「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」

 弟子たちは誘惑に陥り、また悲しみの果てに眠り込んでいました。しかし、イエス様だけは、天使の励ましの中で何時間も呻きながら祈り続けられたのです。「御心のままに行ってください」という祈りはそういう祈りです。天だけでなく、この地でも神様の御心が行われることを祈るとはこういうことです。自分の命をその御心に捧げることなのです。だから、主の祈りを祈ることは恐ろしいことなのです。
 ある牧師は、説教の中でこう語っていました。

「この祈りはある意味で、この祈りを祈る者には誰にでも、その命を犠牲としてささげることを要求します。私たちがキリストに自分を明け渡すこと、私たちがキリストに降伏することを求めます。」

   たしかにそうだと思います。この牧師はさらに続けてこう言います。

「主が威厳をもって介入して来られることは、私たちの肉にとって恐ろしいことです。奈落の底に落ちる道を走らせられるかもしれない。しかし、それは救いへと至る道なのです。」

 これもまた、その通りだと思います。でも、私たちは多くの場合、奈落の底に落ちることなく「わたしの願い」に止まります。そのことの故に、救いへと至る道を歩むことが出来ないのです。奈落の底に落ちることは恐ろしいことです。でも、「わたしの願い」に留まり続けることは空しいことです。

  献身の呻きと喜び

   イエス様は天使に力づけられながら、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りを祈りきっていかれました。父なる神の御前にひざまずいて祈りきられた。そして、立ち上がったのです。それは奈落の底に落ちた後に復活することを表しているでしょう。
 その祈りの中でイエス様が知らされたこと、それは神様がどこまでも深く強く人間を愛しているということだと思います。ご自分を無視し背き敵対までする人間を、それでも愛することを止めない神がおられる。その愛を貫き通す神様がおられる。
 神への愛と人への愛を生きた独り子を神を冒瀆する罪人として裁くユダヤ人の指導者たち、自分の地位や身分を守るために自らの拠り所であるはずのローマの法を無視してイエス様を十字架に引き渡すローマ人ピラト、自分たちの利益にとって役に立たないと見るや掌を返したように「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ぶ群衆、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言いつつ、その数時間後には「わたしはあの人を知らない」と言ったペトロを初めとする弟子たち。そのすべての人々を愛し、「それまでの人間」であることを終わらせ、新しく生かすために罪を赦そうとする神様の愛。その愛にイエス様は刺し貫かれたと思います。そして、その愛の御心にご自身の命を捧げられたのです。そこに呻きがあり、嘆きがあり、そして賛美があり、そして喜びがあると思います。そこに死があり、復活があるのです。

    迷子

 私たち人間は誰でも神様との交わりを失い、実は道に迷った迷子です。普段は気付いていないだけ、あるいは認めていないだけです。自分の命を自分で造った訳でもなく、世界を造った訳でもない被造物なのに、まるで自分が世界の中心にいるかのような錯覚に陥り、自分の命は自分の物であるかのような錯覚に陥り、自分が歩む道はいつも正しいと思い込みつつ生きる姿は、天から見れば迷子そのものです。しかし、自分が道に迷っていることに気付くまではその滑稽さも見えてきません。私たちはライオンが目の前で吼えてくれないと目が覚めないことがあります。
 イエス様は、そういう意味では神様から遣わされたライオンです。迷子になっている一人ひとりを捜し求めてくださり、語りかけてこられるお方だからです。そして、十字架への道を指し示してくださる。それはまさに奈落の底に至る道です。でも、その道しか御心に適う道はありません。この道しか救いに至る道はありません。私たちは十字架の主イエスを見上げ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という祈り、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という祈りを目の前のライオンが吼えている声として聴くことを通して、それまでの自分に死ぬのです。このライオンは、私たちを噛み殺そうとして吼えているのではなく、私たちのために死につつ、私たちの罪が赦されるように天に向かって吼えているのです。その声を聴く。その時、私たちはそれまでの自分に死にます。そして、復活の主イエスから「平和があるように」という祝福の言葉を聴くことを通して新たにされていくのです。
 それはすべて「いと高き方の力」である聖霊に包まれた時に起こることです。その聖霊に包まれる時、私たちはあのマリアのように、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と祈る人間に造り替えられます。このマリアの祈りは「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と同じです。このように祈ることは、御心に対する献身を意味します。そこに私たちの死があり復活がある。そこに私たちの服従があり自由があるのです。

  主イエスを受け入れることへの招き

 マタイによる福音書においては、イエス様が弟子たちに祈りを教える直前にこうお語りになっています。

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。(中略)だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:44~48抜粋)

 この言葉を正面から聴く時に、私たちは「はい、分かりました。そのように生きます」とは言えません。だから、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈らざるを得ないのです。完全な愛は神様が与えてくださる以外にないのですから。そして、その愛はそれまでの自分が死に、イエス様をその身に受け入れて新たにされる時にのみ生きることが出来るものです。イエス様は今日も、「この愛に生きるために私を受け入れなさい」と招いてくださっています。深い呻きと喜びをもって。この招きに今日新たに応えることが出来ますように祈ります。

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