「必要な糧を毎日与えてください」
11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 マタイとルカ イエス様が弟子たちに教えてくださった「主の祈り」を心から祈るために御言に聴き始めて九回目となりました。今日の箇所は、ルカ福音書とマタイ福音書では言葉が微妙に違いますし、私たちが祈る「主の祈り」とも微妙に違います。私たちが祈る「主の祈り」では「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」ですが、新共同訳聖書では「必要な糧を」となっています。口語訳聖書では「日ごとの食物を」となっています。皆、少しずつ翻訳が違うのです。 ルカでは「毎日」となっており、「与えてください」は継続を表す現在形の動詞が使われています。でも、マタイでは「今日与えてください」となっており、動詞も今日与えられることだけを求める形です。それぞれに意味深いことです。 「必要な」と訳されているエピウーシオスは聖書の中でマタイとルカのこの箇所にしか出てこず、当時のギリシア語の用法も分からないようです。そこで、「今日のため」「明日のため」「生きるために必要な」と異なる翻訳がなされています。新共同訳聖書はその中の「生きるために必要な」の訳を採用しているのです。 パン 「糧」と訳されたアルトスは「パン」のことです。しかし、この「パン」一つとってみても、それをどのように解釈するかは人それぞれです。パンの元は小麦粉です。その小麦を栽培する人がおり、それを粉にしてパンにする人がおり、それを売る人もいる。そのパンを買うことで私たちの食卓にパンが置かれることになる。そういういくつもの行程を経て一つのパンが目の前にあるのです。 現代の日本の場合は、小麦粉の多くはアメリカや中国から輸入されたものだと思います。戦争が起こってアメリカや中国が小麦粉の輸出を止めれば、ほどなく私たちの食卓からパンは消えるでしょう。そういうことを考えると、外国との良好な関係あるいはギブアンドテイクの関係が保たれていなければ目の前のパンはないということになります。また、通常はパンを買うお金がなければパンを食べることはできません。お金を得るためには仕事がなければならないのです。仕事をするためには健康でなければならないし、雇用してくれる職場がなければならない。だから、この祈りは世界の平和、社会の繁栄、自分の健康などを求める祈りであると言われることもあります。 しかし、イエス様は「わたしは、天から降って来た生きたパンである」とおっしゃいました。また、悪魔から誘惑された時は「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」とお答えになりました。こういうことも考慮に入れると、「パン」とは何であるかだけでも、何回かの説教が必要となります。パンだけで生きてはいないとしてもパンなしで生きている訳ではないのですから、パンとは何かを考えることは「生きるとは何であるか」を考えることになるからです。 わたしたち さらに、ここに出てくる「わたしたち」とは誰のことなのかも問題です。「わたし」個人だけでないことは明らかです。それでは、自分の家族のことなのか。隣の家の家族も含むのか。日本人全体のことか。今日のパンにも事欠き、多くの餓死者を出している貧困国の人々も含むのか。キリスト者のことだけなのか。既に多くの食料を確保している人間たちにとって、この祈りはなんなのか。この問題もまた広大にして深淵です。その点は次週に御一緒に御言に聞いてまいりたいと思います。 無条件降伏を求める祈り 今日は、そもそもパンを求める祈りを祈るように求められている、いや命じられていることは何を意味するのかという問題から考えていきたいと思います。 前回の説教で、私は主の祈りに向き合っていくことの恐怖を語りました。「この祈りの言葉に向き合っていくと、それまでの自分でいることは出来なくなる。それが怖い」と言いました。そして、今日の箇所に至って、その思いはさらに深くなっています。なぜなら、主イエスはここで私たちを追い詰め、ついに全面降伏を求めておられるからです。部分的降伏、条件付き降伏ではなく、無条件降伏です。 これはやはり恐ろしいことです。かつての日本の軍部は、そのことに対して激しく抵抗しましたが、その結果は悲惨なものでした。数多くの人々が無残に死んでいくことになったのです。しかし、今、この国は再び戦争に備えようとしているかのようです。世界中の国々がその本質においては同じなのです。人間が作り出す歴史は、結局のところ戦前・戦中・戦後でしかないのでしょう。戦後は同時に戦前なのですから、なんともやりきれない思いになります。 剣をもたらすために来たのだ そういう人間の歴史の中に、また世界の中に、神様は独り子であるイエス・キリストを通して突入して来られました。しかし、その主イエスは恐ろしいことをおっしゃいます。 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。 (中略) わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34〜39抜粋) ここでイエス様が私たちに求めておられることは、私たちがイエス様の前に全面降伏することでしょう。白旗を振り、両手を上げて丸腰でイエス様の前に出てきて、何の条件も付けずに従うことを求めておられるのです。イエス様の愛を全身に受け入れ、全身全霊を傾けてイエス様を愛して生きることを求めておられるのです。それは、それまでの命を失うことです。時代が時代ならば、あるいは人によっては、地位や名誉はもちろん、家族との交わりすら失う場合もある。しかし、それらのものを失わなければ得ることが出来ないものもあるのです。新しい命、永遠の命とはそういうものでしょう。 私たちは誰だって無条件降伏はしたくありません。主イエスに対しても、部分的降伏、限定的降伏、条件付き降伏はします。日曜日はキリスト者として礼拝を捧げます。奉仕もします。献金もします。主の僕として生きます。でも家に帰ればそこの主人は自分である場合はいくらでもあります。教会の主はイエス様だけれど、家の主は自分。日曜日の主はイエス様だけれど、平日の主は自分。そこにイエス様が出て来て「わたしに従いなさい」とおっしゃっても、「イエス様、ここは私の領域です。ここは俗な世界です。あなたの世界は聖なる世界です。だから、こんな所に顔を出してはいけません。ご安心ください。日曜日になれば、私もちゃんと聖なる世界である教会の礼拝に参りますから。今日のところはおとなしくお引き取りください」と答えて平然としている。そういうことは幾らでもあるのではないでしょうか。多くの場合は、平日にはイエス様の声などまったく聞いていないということだと思います。その方が楽ですから、そうなる傾向が私たちにはあります。 イエス様がパンを求める祈りをするように命ぜられるとは、私たちに全面降伏、無条件降伏を求めているということです。「パンの問題も神様に依存していることを受け入れよ。神様に依り頼め。あなたたちは一日たりとも自分の力でなど生きてはいないのだ。そのことを全面的に認めよ」とおっしゃっているのです。私たちは心の問題は神様に頼みます。「平安を与えてください」と。でも、パンのことは自分でやります。神様の御手に任せはしない。自分でやらないと不安なのです。しかし、私たちがどれほど思い煩ったからとて、私たちは自分の寿命を延ばすことは出来ないし、いつ死ぬかも分からないのです。それはすべて神様の御手の中にあるのです。それなのに、自分の命は自分で守らねばならぬと思うのが、愚かな私たちの現実です。 父の愛の現れとしてのパン もし、私たちが霊肉共に神様に生かされているということを受け入れ、神様が遣わしたイエス・キリストを全面的に受け入れて、自分の十字架を担ってイエス様に従うとするならば、パンの食べ方は変わりますし、食べる目的も変わるはずです。まず一食ごとに感謝の祈りをもって食べるようになります。「自分で稼いだ金で何を食べようが勝手だろう。残すも残さないも自分の勝手だろう」という食べ方はしなくなります。何もかもが神様の贈り物なのですから感謝して頂くはずです。そして、神様に喜んでいただくことをするために食べるようになるはずです。 父なる神様は私たち人間を愛しているからパンを与えてくださいます。そのパンを愛と共に受け取り、互いに愛し合い、互いに分かち合って欲しいと願っておられるのです。食べ物も独り占めするのではなく、互いに分け合って食べて欲しいのです。食べることを通して父の愛を受け入れ、互いに愛し合うことを学んで欲しい。そう願っておられる。 ある人は、「パンは神の戒めと共に与えられる」と言っていました。堅苦しい表現かもしれませんが、神の戒めとは「愛」ですから、「パンは神の愛と共に与えられる」と言い換えてもよいでしょう。そのパンを食べるとは、「神様、私は今日もあなたの愛で養われ、生かされています。感謝します。このパンを食べてあなたの愛を分かち合うために生きていきます」と喜びをもって告白することでもある。だから、この祈りはその直前の「御心が行われますように」という祈りと密接不可分な祈りなのです。 神の国をもたらす食卓 主の祈りは最初の三つの祈りが神様のための祈りで、後半の三つが私たちのための祈りであると言われます。たしかにそうです。でも、前半と後半の祈りは表裏一体であり、また密接不可分です。神様は、私たちと隔絶した、また超越した神様でありつつイエス・キリストを通して人となられました。そのことを通して、私たち人間が味わうすべてを御自身の身に引き受けられたのです。死もその身に引き受けてくださった。そこに神様の愛があります。 イエス様は、神の国の伝道を始めて以後、食べるために働くことはなさいませんでした。枕するところのない旅を続けながら、人々の献金や献品で生きられたのです。それはすべてを神様の御手に委ねて歩まれたということです。飢えや渇きを経験し、人の温かさも冷たさも経験されました。そして、社会の中で周辺に追いやられ、見捨てられている人々を訪ね歩き共に食卓を囲まれました。また、ファリサイ派の人々とも食事をされました。その都度、パンを裂き人々に渡しながら天の父に感謝したでしょう。今日もパンで養われていることを。今日も愛されていることを。そして、人々とパンを分かち合いながら神様の愛を分かち合える幸いを感謝されたのです。イエス様はそのようにして父の御心を行い、そして神の国をこの世にもたらしていかれました。 しかし、それは人間が作り出した社会構造を壊し、反対者に対する迫害や弾圧をする国家体制を壊していくものでした。そこに主イエスがもたらす剣があります。だから、体制の中で上位に位置する人々は剣をもってイエス様を逮捕し、十字架の上で抹殺することになります。 しかし、実はそこにおいてイエス様は私たちが生きていく上で必要な糧を与えてくださったのだし、今も与えてくださっているのです。その事実に気付くか否かは、私たちの人生にとって決定的なものです。 解放と苦難 毎日パンを求めるこの祈りを読んで思い起こすのは、出エジプト記16章のマナの記事です。エジプトの王ファラオの奴隷となってしまったイスラエルの民は、その苦しみを神様に訴えました。神様はその祈りを聞き給い、モーセを遣わして彼らをエジプトから脱出させました。先祖アブラハムに約束した乳と蜜の流れるカナンの地に導き返すためであり、同時に、シナイ山で十戒を通して契約を結びイスラエルを神の民とするためです。神の戒めを生き、その御心を地上に広めていく民にする。そのために、神様は彼らをエジプトから脱出させたのです。 しかし、彼らの目の前に広がっているのはどこまでも続く荒れ野です。時折忽然と姿を現すオアシス以外には生きるために必要な水を得ることも出来ず、食料を調達する術もないのです。そういう荒れ野を彼らは延々と歩かねばならぬのです。シナイ山を目指して、またカナンの地を目指して。それは彼らにとって苛酷な試練でした。かつて彼らはファラオに課せられる労役による苦しみからの解放を願っていました。その苦しみからは解放されたのです。しかし、彼らに待ち受けていたのは飢えと渇きの苦しみです。これは労役の苦しみより根源的な苦しみだと言って良いかもしれません。人間の生存に関わる苦しみだからです。 飢え渇き 彼らはエジプト時代を懐かしみ始めます。「あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」と。そして、荒れ野でこれほど苦しむなら「エジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった」とまで言うようになりました。 私たちは今、異常な暑さの中で参っています。最近よく思い出すのは三年前に行ったイスラエルです。イスラエルの死海周辺は見渡す限りの荒れ野で、太陽の日差しを遮るものがありません。マサダと呼ばれる丘の上の城砦に行った日は特に暑い日で四十五度もありました。その暑さの中で添乗員兼ガイドの方は、熱心に説明を続けるのです。私たちのグループも本来は学びのために行ったのですからその説明を聞くべきなのですけれど、一〇分もすると皆暑さに参ってしまい誰も聞いていない。それでもガイドはそういう空気は読めない人で延々と説明をするのです。グループのある方が私の所に来て、「これ以上は我慢できない。このままだとマサダの反乱ならぬ『まさかの反乱』が起こりますよ」とおっしゃるので、私もあわててガイドに「もういいから早くバスに戻ろう」と促したことがあります。私たちはその時、食事の直後でしたし飢えや乾きとは無縁な状態でしたけれど、猛烈な日差しに当たり続けるだけで気分は苛立って来るのです。バスで移動している訳ではなく、強烈な日差しの中、飢え渇きに苦しむ彼らの怒りは分かります。 信仰の試み 彼らの怒る姿を見、不平不満の声を聞かれた時、主はモーセにこう言われました。 「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」(出エジプト16:4〜5) 民が天から降ってきたパンを集めて見ると、「多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」と記されています。 実に不思議な食べ物です。イスラエルの人々は、この食べ物を、「これは何か?」を意味するマナと名付けました。しかし、イスラエルの民の中には、一日分だけではなく自分のために二日分集める者がいましたし、七日目の安息日にもパンを集めようとする者たちがいました。つまり、明日も神様がパンを与えてくださると信じることが出来ず、安息日にも余分に集めようとしたのです。パンを食べることにおいても、あるいはパンを食べることにおいてこそ、主を信じる信仰が問われるのだし隣人への愛が問われるのです。 足ることを知る信仰 約束の地を目指して歩む主の民は、一日一日必要な分、主から糧を与えられながら生きていくのです。神様は必ず必要を満たしてくださると信じて求める。そして与えられた物が自分にとっては不足に感じても、神様から見れば十分なものであることを信じる。そして、感謝する。そういう何事にも足ることを知る信仰生活への招きがここにはあるでしょう。 その身を主に捧げて生きたパウロは、迫害されてしばしば牢獄に入れられました。そして、彼のことを心配して様々な差し入れをしてくれるフィリピの教会の信徒に向けてこう言いました。 「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:12?13) 「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(フィリピ4:19) 私たちが欲しがるものの多くは私たちが生きる上で必要なものではありません。そういうものを欲しがることによって、私たちはいつも不足感、欠乏感に苛まれているのです。しかし、「主の祈り」を真実に祈りつつ生きる時、私たちは富に処する道も貧に処する道も弁えることが出来るようになります。つまらぬ不足感や欠乏感や妬みや優越感などから解放されるのです。そういう肉欲からの解放への招きが、この祈りにはあります。 一日一日神の愛によって生かされ、守られていることを知る者は、富んでいる時はその富を人々に分かち合うようになります。私たちが礼拝毎に捧げる献金もその一つです。教団を通しての被災地への献金、全国の教会の会堂建築などへの献金、石巻山城町教会や福島教会への連帯支援献金、日本聾話学校への献金、東京神学大学への献金、日本基督教団の年金局に対する献金やバザー収益の献金なども、神様が与えてくださる賜物を神様の御心に適う形で用いて頂けるように祈りつつ捧げる献金です。必要な糧が足りないところに献金出来ることは大きな喜びです。 パウロは教会の献金に関してコリント教会の信徒に向ってこう言っています。 あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。 「多く集めた者も、余ることはなく、 わずかしか集めなかった者も、 不足することはなかった」 と書いてあるとおりです。(コリント28:14〜15) 献身としての献金 パンという食物、現在で言えばそれを買うお金、それも極めて信仰的なものなのです。その食べ方、使い方に信仰が現れるのです。すべては神様が与えてくださったものです。それは「私有物」として与えられたのではなく「共有物」として託されているのです。すべては神様のものなのです。そして、それは結局、パンとかお金で保たれているこの肉体の命も神様のものだということです。そのことを深く承認して、神様に無条件に身を捧げる。それがこの祈りを真剣に祈る者たちが行き着く先なのではないでしょうか。だから、私たちは献金を捧げる時に、「献身の徴として私たちの体と共にこの献金を捧げます」と祈るのです。 命のパン 最後に、ヨハネ福音書に記されている主イエスの言葉を読みます。主イエスは、こうおっしゃいました。 「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 人はパンだけで生きるものではありません。パンで生きる命は死にます。私たちはパンを食べつつ主イエスに献身して生きるのです。神様から与えられたすべてのものを分かち合うために生きるのです。その信仰の人生は貴いものだし、空しいものではありません。キリスト者の死は復活に向ってのものなのですから。その復活に向かう人生と死を私たちに与えるために、主イエスは命のパンとして天から降って来てくださったのです。私たちと同じ肉体をとってくださった。そして、その肉体をあの十字架の上に捧げてくださったのです。その献身の愛によって、私たちは生きるために必要な糧を与えられているのです。今日も新たに与えられているのです。そして、私たちは肉体の命を養うパンと共に「生きたパン」を与えてくださいと祈るように命じられているのです。神のものとして、神の子として生きよ、ということです。神様に求めれば与えられるのです。与えられたものは分かち合うのです。そのようにして、私たちは神の御心を行い、そのようにして、この世に神の国をもたらしていくのです。そのために祈りつつ生きる神の民、それが私たちキリスト者でありキリスト教会なのです。なぜか選ばれてそのような使命を生きる民にして頂いた恵みを主に感謝したいと思います。 |