「必要な糧を今日与えてください」

及川 信

      ルカによる福音書  11章3節節
        マタイによる福音書  6章11節
11:3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

6:11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

  終戦(?)

 先週も日毎の糧を求める祈りに関して御言に聴きました。その時に、「わたしたちに必要な糧を与えてください」「わたしたち」が何を意味するのかに関しては次週に回すと言いました。
 それから一週間が経ちました。週の半ばの8月15日は、六十八回目の終戦記念日でした。今年は様々な意味でこれまでとは違う記念日だったと思います。総理大臣の口からアジア諸国への侵略に対する謝罪や反省もなく、不戦の誓いも語られないのですから。それは、いつか戦争をするぞという隠れた意志の表明なのかもしれません。
 終戦記念日は日本にとっては敗戦記念日です。しかし、近隣諸国にとっては日本に対する戦勝記念日であり、日本の植民地支配から解放されたことを祝う解放記念日(光復記念日)です。そして、戦争が終わっても当事者同士の間で和解が成立した訳ではありません。それぞれの国の国民感情の中には、被害者意識と加害者意識が複雑に絡まっています。そして、いわゆる「歴史認識」は対立し、近年お互いの相違はむしろ広がっていますから、和解に至る道はますます険しいものになっていると言わざるを得ません。
 戦勝国として日本を占領した国との関係も微妙なままです。今も島全体が米軍基地であるかのような沖縄の人々にとって、この六十八年間は「戦後の平和な時代」とは言えないでしょう。

  国内の空腹

 来週、会報の八月号が発行されます。毎年、八月号の会報には「わたしの八月十五日」というテーマの原稿を寄せて頂いています。今年も二人の方が書いてくださいました。その原稿を読んで、空襲の恐ろしさと同時に空腹のひもじさを感じさせられました。また、人災の最悪なものである戦争においては、人間だけが死ぬのではなく飼い犬や猫、また家畜も死ぬことを改めて知らされました。
 人災の要素を含む福島第一原発事故の被災地域には、飼い主の帰りを待ちつつ飢え死にした犬が何頭もいます。彼らは鎖に繋がれたまま死にました。牛たちは牛舎の中でやせ細り、そして死に、その死体からは無数の蛆がわいていました。被災地の動物たちを記録した映画でその姿を見たのですが、本当に胸が痛みます。パウロが言う如く、動物たちは神の子の出現を待ち望みつつ呻いていることを感じます。

  戦地の空腹

 どういう立場で戦争を体験するかで、戦争に対する人の思いは異なります。戦闘の第一線で壮絶な体験をさせられた人の多くは、その体験を語りたがらないものです。特に捕虜や住民の殺害や婦女暴行の事実などは語りたがらない。それは当然のことです。
 しかし、自責の念に耐えきれず、数十年を経てから戦場の体験を語り出そうとする人がいます。死ぬ前に語っておきたいと思われるのです。でも、ご家族の方がそれを止めるケースがよくあることを先日の新聞記事で知りました。
 元兵士から戦場体験を聞いていると、娘さんが隣の部屋から出て来て「もう止めてちょうだい。何話すか分からないじゃないのよ」と言うのでインタビューが出来なくなる。そういうことがよくあるそうです。それも無理のない話だと思います。誰だって、自分の親とか祖父が民間人を殺したとか強姦したなんて話は聞きたくはありません。その人たちだって好きでやったことではないのですから。
 しかし、15日の朝刊には「罪語り 誓う不戦」と大きな見出しの下に、ルソン島での体験を語った元兵士の記事が出ていました。その方は昨年九十二歳で亡くなりましたが、七年前に女性のルポライターに向ってご自身の体験を隠さずに語ったのです。耳を塞ぎたくなるような内容ですが、その記事の一部を読みます。

「ルソン島のある村で、ゲリラ潜伏を調べていた時。教会から出て来た老女が怪しいと、上官が銃剣で突くよう命じた。
『しょうがない。グスッと胸を突いたら血がバーっと出てね。空をつかんでその人は倒れました』。
 別の村では、残っていた子連れの女性を襲った。
『強盗、強姦、殺人、放火。軍命であっても、私は実行犯。罪の意識はある。かといって、(戦友の)慰霊には何回も行ったが、謝罪の術を知りません』。
 こんな恐ろしい告白もあった。
 敗走を続け、飢えに苦しんだ山中で、日本人の逃亡兵を仲間の兵が殺した。その晩、仲間の飯ごうから、久しぶりに肉の臭いがした。『奪い合うように食べました』。次の日には自ら死体の所へ行き、足の肉をはぎ取った。」(朝日新聞 2013年8月15日)

  英霊?

 こういう心の傷を抱えながら生涯を生きざるを得なかった人がいる。逆らいようもない命令によって現地の人々にしてしまった蛮行、凶行を心底から悔いつつも謝罪の術を知らず、罪を犯した苦しみを抱えつつ死んでいった人がいるのです。一人や二人ではありません。
 戦場で仲間を殺し、その肉を食べた人もその後に力尽きて死んだかもしれません。人間の姿を取り戻したいと願って逃亡したかもしれない兵士は、戦場では最悪の罪人であり、裁判にかけないで殺してもよい存在なのでしょう。しかし、逃亡兵を殺した兵士も正義感から殺した訳ではないでしょう。そのことを口実に肉を食べたかったのだと思います。凄まじい空腹と死ぬか生きるかの極限状況で毎日生きざるを得ない時、人はそういう存在になるのだろうと思います。しかし、その殺された人も殺した人も、天皇の軍隊(皇軍)の兵士であり、戦場で死んだのだからある神社では「英霊」として祀り顕彰しています。その神社には、負けると分かっていても狂信的に戦争を遂行し、多くの人々を悲惨な死に追いやったことに責任があるはずのお偉方たちも英霊として祀られています。そして、毎日大勢の人々が参拝しています。そして、政治家たちの多くもお参りしたがっています。その意図は明白だと思います。戦争を美化し、新たな戦争に備えようとしているのだと、私は思います。
 国の為政者たちは、強制的に戦場に連れて行かれ、そこで人を殺し、人から殺されなければならなかった人々に対して「申し訳ないことをしました」と謝罪し続けるべきなのではないか、と私は思います。また、現代に生きる国民の一人ひとりは不戦の誓いをしなければならないと思います。しかし、今の日本ではそういう考えはあまりに自虐的なものとして笑われることであり、次第に非国民として攻撃される考え方になりつつあるように感じます。昨日の新聞によると広島の原爆の悲惨さを描いた『はだしのゲン』という漫画は松江市の小中学校では自由に読むことが出来なくなりました。「ありもしない日本軍の蛮行が描かれており、子どもたちに間違った歴史認識を植え付ける」というのが、その理由だそうです。
 自らの蛮行の数々を恥を忍び、人生をかけて告白している人がいる一方で、戦場に行ったことがある訳でもない人々が、いわゆる「愛国心」から読んではならない禁書を作っていく。これは戦前にもあったことではないでしょうか。
 過去の過ちを認めず、そこから何も学ばない民は前よりさらに悪くなります。聖書には、「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」(IIペトロ2:22)とあります。私たちは人間のはずです。犬や豚であってはならないと思います。

  時代の中で聖書を読む

 時代は刻一刻と変化しています。和解と共存という良い方向に変化していくのなら嬉しいことです。しかし、最近は対外的にも対内的にも敵対関係が深まっています。国内では国家主義的色彩が強まっており、個人の尊厳とか自由を重んじることは悪であるかのような風潮が強まっています。そして、在日韓国、朝鮮人に対する剥き出しの憎しみを口にする集団とその集団に暴力的に対抗する集団が、新宿や大久保でぶつかり合ったりしています。非常に物騒で不穏な空気が漂っているのです。公教育の現場では、教員たちが自由にものを言えない状況が深刻化しています。歴史教科書は戦争を美化するものを採用しろと要求する圧力団体があり、その圧力に屈する校長が多いとも聞いたことがあります。
 そういう時代の中で、私たちは聖書を読んでいます。聖書を読むとは、この世の悲惨な現実から聖なる世界、平安な世界に逃げ込むことではありません。そもそもそんな世界は聖書の中にはありません。私たちは聖書を読むことを通して、悲惨な現実の中で神様は一体何をなさっているのか、そして、私たちはそれぞれに何をなすべきなのかを知ることなのだと思います。私たちキリスト者は誰でもキリストの体なる教会に属しています。目は目として、手は手として、それぞれの役割、異なる働きがあるはずです。そして、キリストの体には固有の使命がある。自分に与えられた役割、働き、使命は何なのか。そのことを知る。それは非常に大切なことです。そのことが出来なければ、私たちは自分が何をしているか分からぬままに、愚かな宣伝に踊らされて蛮行と凶行を繰り返す他にないからです。そして、神様は今も生きて働いておられることを知らなければ、私たちの心は萎えていくしかなく、世の光、地の塩としての使命を生きる希望などはどこからも与えられません。私たちは自家発電で生きているのではなく、神様から与えられるエネルギーで生きているのです。

  空腹による狂気

 聖書の中でも、哀歌に記されている記事は悲惨を極めます。バビロン軍の兵糧攻めにあったエルサレムの住民は飢えと渇きで苦しみます。その苦しみは極限にまで至りました。

「剣に貫かれて死んだ者は
飢えに貫かれた者より幸いだ。
(中略)
憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした。
わたしの民の娘が打ち砕かれた日
それを自分の食料としたのだ。」
(哀歌4:9〜10)

 こういう現実を目の当たりにして、彼は主にこう訴えます。

「主よ、目を留めてよく見てください。
これほど懲らしめられた者がありましょうか。
女がその胎の実を
育てた子を食い物にしているのです。」
(哀歌2:20)

 戦争は、旱魃による飢饉にも増して人々に飢えをもたらすものです。一昨日のニュース番組では、満州国の開拓に夢を膨らませた人々の悲惨な体験が報道されていました。満蒙開拓団は徴兵のような強制力を伴なったものではありませんでしたが、貧しい人々に国家が偽りの夢や希望を与えて移住させたものです。国家が騙したも同然なのです。当然のことながら、夢は悪夢となりました。開拓民を守るべき関東軍はソ連軍が侵攻して来た時には既におらず、人々は8月15日の終戦も知らず、ソ連軍や土地を奪われた中国人の襲撃を恐れて満州の大地を逃げ惑っているだけだったそうです。そして、ソ連軍の兵士が近くにいるかもしれない川に着いた時、幼い子どもたちが「お腹が減った」と言って泣いたそうです。与える食べ物はないし、泣き声がソ連兵に聞かれたら襲われてしまう。その時、一人の母親が、自分の小さな子どもを川に流したそうです。手を合わせつつ流した。それを見た他の母親たちも泣きながら手を合わせて次々と我が子を川に流したというのです。命からがら故郷の長野県に帰って来た女性はその情景を生涯忘れることはなく、今も深い悲しみを抱えて生きておられます。そして、「だから私は戦争が憎いです」とおっしゃいました。
 こういう子どもたちこそ忘れてはいけないのだし、国が慰霊をするならこういう子どもたちの慰霊をすべきだし、謝罪し続けるべきだと私は思います。「本当に申し訳ないことをしました。二度と戦争はしません」と。
 戦争はいかなる意味でも美化出来ないことを、川に流されていく幼子たちの姿が痛切に教えてくれるのではないでしょうか。そして、私たちは「死人に口なし」と言いますが、神様はカインに殺されて土の中に埋められたアベルの血の声を聞き、カインに「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と問い、「知りません」ととぼけるカインに向って「〈お前は〉何ということをしたのか」と詰問するお方なのです。私たちはその神様の前で生きているのです。この国の中で、せめて私たちキリスト者はその現実を覚えておかねばならないと思います。

  神様のせいにしてはならない

 世界には様々な理由による飢餓があります。その飢餓が、今まで言って来たような悲惨な出来事を産み出すのです。
 かつてある新聞記者が、飢えによって路上で倒れ死にゆく人々の介護を続けるマザーテレサにこう尋ねました。
 「もし神がいるのなら、なぜこのような悲惨を放置しておくのでしょうか。」
 その時、彼女はこう答えました。

 「神様は世界中の人々が食べるのに十分な食物を与えてくださっています。でも、その食物が平等に分配されていないのです。それが飢餓問題の本質です。飢餓の問題を神様のせいにしてはなりません。」

 これは本当のことだと思います。世界の四分の三の食料を四分の一の人々が独占しているという統計を見たことがあります。その四分の一の経済大国は軍事大国でもあります。軍事力と食物の量は比例するのでしょう。
 イエス様が「主の祈り」を教えてくださった時代も貧富の差は激しいものでした。

  パンと言葉

 『箴言』の中にこういう言葉があります。

二つのことをあなたに願います。
(中略)
むなしいもの、偽りの言葉を
わたしから遠ざけてください。
貧しくもせず、金持ちにもせず
わたしのために定められたパンで
わたしを養ってください。
飽き足りれば、裏切り
主など何者か、と言うおそれがあります。
貧しければ、盗みを働き
わたしの神の御名を汚しかねません。
(箴言30:7〜9抜粋)

 先週、私は「パンは神の戒めと共に与えられる」という言葉を紹介しました。そして、「神の戒めは愛である」と言いました。今日は「神の戒めは神の言葉である」と言いたいと思います。
 聖書においては、パンと神の言葉は密接不可分の関係にあります。申命記には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」とあります。サタンから「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑された時、イエス様は、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉で返答なさったのです。

  偽りの言葉

 箴言の著者が言う「偽りの言葉」とは、富や権力こそが人生を幸せにするものだという類の言葉でしょう。私たちは毎日そういう言葉を聞きながら生きています。その誘惑の言葉に聞き従って富を求め始め、下手に成功すると「飽き足り」「主など何者か、と言うおそれがある」。それは確かなことです。富に心を奪われて信仰に生きる命を失ってしまうことがあるからです。だから、そういう「偽りの言葉」に取り囲まれて生きるのではなく、真実の言葉を聞きつつ生きていきたい。彼はそう願っているのです。神様が語る真実な言葉こそ自分を生かすものだからです。

  定められたパン

 次に彼は「わたしのために定められたパンでわたしを養ってください」と言います。「定められたパン」とは「なくてならぬ食物」と訳されることもありますが、「引き裂かれたパン」が直訳です。一枚のパンではなく、手でちぎられたパン切れのことです。だから、ここにはパン切れを分け合う者たちがいるのだと思うのです。「わたし」だけではなく「わたしたち」がいる。そのことが暗黙の内に了解されていると思います。
 貧しくとも、神様から与えられるパンを裂いて分け合う仲間たちがいれば、「盗みを働き、わたしの神の御名を汚す」ことはしないで済む。そういうことが言われているのではないか、と思います。問題は腹が一杯になるパンが与えられるかどうかではなく、裂かれたパン切れを共に食べる仲間がいるかどうかなのです。その仲間、家族、兄弟姉妹がいないのであれば、一枚のパンを一人で食べてもそれは空しい。寂しい、悲しい。暗に言われていることは、そういうことだと思います。

  人が独りでいるのは良くない

 私たちは、明日の分も明後日の分も蓄えておかなければ不安を感じます。だから日毎に集めることになっているマナを余分に集めようとしたり、安息日にも集めようとするのです。明日も明後日も「わたし」は飢えたくないと思うから「わたし」の食べる分は自分の手で確保しようとします。その時、私たちは父の愛を信じておらず、仲間はいないと思っているのです。明日の分も明後日の分も自分が食べるために集めるとはそういうことです。
 先日、大阪の真ん中で若い母親と小さな子どもがアパートの一室で誰にも知られずに飢え死にしていました。その母親は、親戚や友人との交わりを失い、ひっそりと隠れて生きざるを得ない何らかの事情があったのでしょう。母親は、「食べさせてあげられなくてごめんね」というメモを残していたそうです。
 神様から頂くパンを共に分け合う仲間を失う。皆が「わたし」のための食料を確保しようとする。それも明日の分までも。それは結局こういうことに行き着きます。神様の愛の戒めを無視して、その口から出る一つ一つの言葉と共にパンを頂かないと、人は弱肉強食の世界の中で、結局孤独になっていくのです。しかし、神様は「人が独りでいるのは良くない」とおっしゃったのではないでしょうか。そして、共に生きる人間を造ってくださったのではないでしょうか。

  自分のものではなく

 カッパドキアのバシレイオスと呼ばれる人がいます。四世紀の人ですが、バシレイオスはこういう説教を残しているそうです。

「あなたの家で食べられることのないパン、それは飢えている人たちのものです。あなたのベッドの下で白カビが生えている靴、それは履物を持たない人たちのものです。物入れの中にしまいこまれた衣服、それは裸でいる人たちのものです。金庫の中で錆びついている金銭、それは貧しい人たちのものです。」

 パンは自らの力で獲得するものではなく、神様から与えられるものです。そのことの意味を先週考えました。
 今日は、「わたしたち」の意味です。パンは「わたし」に与えられたものだけれど、「わたしにだけ」与えられたものではありません。それは仲間と分けて食べるためにパン切れにして食べるものなのです。私たち一人ひとりが求めるべきパンは一枚のパンではなく、「定められたパン」、裂かれたパン切れです。パンを求めるとは、共に食べる仲間、家族、友、兄弟姉妹を求めるということなのです。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」には、そういう願いが込められている。
 イエス様は、「あなたがたは独りではなく、仲間と共に生きなさい。神様が与えてくださるパンを分け合って食べなさい。そこにあなたがたの命があるのだ」とおっしゃっていると思います。

  父の愛 敵を愛し仲間にする愛

 その「仲間」とは、私たちが「敵」と思っている人々のことを含みます。神様は、私たちが神様の敵であった時に私たちを愛し、私たちの上に太陽を昇らせ雨を降らせ食物を与えてくださっていたのです。そして、ご自身の独り子をあの十字架に磔にして裁き、私たちの罪を赦してくださったのです。
 この神様の圧倒的な愛、信じ難き愛を受け入れるのであれば、私たちの前には憎むべき敵はいません。愛すべき敵しかいないのです。そして、私たちの愛がイエス・キリストの愛であるならば、いつかその愛すべき敵は共に食卓を囲む友となるでしょう。そこに神の御業が現れるのです。そこに私たちの希望があります。
 主イエスは「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るようにお命じくださる前に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と命じられていることを、私たちは忘れてはならないと思います。

  御言 聖餐

 主イエスが私たちに残してくださった最大の恵みは、礼拝で与えられる御言と聖餐です。御言は命のパンです。毎日食べなければ信仰の命は弱まります。
 主にある仲間と囲む聖餐は命の食卓です。日々の食事と聖餐の糧は同一のものではありません。教会の愛餐会と聖餐も同一のものではありません。聖餐は契約共同体の食事です。主イエス・キリストに対する信仰を告白する仲間と共に、主イエス・キリストが裂いて渡してくださるパン切れを頂き、その都度、信仰と希望と愛を新たにされ、約束の御国を目指して生きる神の民としての力を与えられるのです。
 そして、そのことが日毎の糧を頂くことにも繋がるのです。「礼拝は礼拝、生活は生活」と分離してはなりません。私たちは往々にしてそういうことをしていますが、それは聖書が伝える信仰生活、礼拝生活ではありません。

  食前の祈り 聖餐の祈り

 ヴァルター・リュティというスイスの牧師の説教を読んでいたら、スイスの田舎の農民たちが食前に祈る言葉が紹介されていました。それは、こういうものです。

「主よ、私たちはこの聖なる食べ物と飲み物のために、この聖なる賜物と恵みと憐れみのために、あなたに賛美と感謝を捧げます。主よ、あなたはまことの神として生き、支配しておられます。永遠にあなたが褒め称えられますように、アーメン」

 リュティによると、これは古い時代の聖餐式の式文に記されている祈りだそうです。農民たちはそんなことは知りません。敬虔な信仰を生きる人々は、教会の礼拝で聖餐の恵みに与りつつ日々の生活をします。そういう信仰生活の中で、日毎の食事の中にも「聖なる賜物と恵み」を発見するようになったのでしょう。そして、神様の御名を賛美し、神様の支配を確認したのです。戦争に次ぐ戦争の舞台であり、多くの人の血が流れたヨーロッパの中にも神の国が到来し、その御心が行われていることを確認し、賛美したのです。そのようにして「まことの神として生き、支配しておられる」神を証しつつ生きたのです。神様から与えられるパンを食べつつ生きるとは、こういうことです。
 私たちは「わたしたちに必要な糧を今日も与えてください」と毎日祈ります。「わたし」ではなく「わたしたち」。一回祈るだけでなく日々新たに。その祈りは、世界中の人々にパンが行き渡るようにという祈りであり、世界中の人々に主イエスの裂かれるパンが行き渡るように祈る祈りです。その祈りが私たちの生活を変え、そして世界を変えていくのです。そのようにして、御国はもたらされていくのです。

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