「罪の赦し」

及川 信

       ルカによる福音書 11章4節
      マタイによる福音書 6章12節
11:4 わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。

6:12 わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。

 どっちが先か?

 主の祈りの御言を御一緒に読んで参りまして11回目となりました。一つ一つの祈りが私には重くのしかかり、鋭く突き刺さって来るものです。なかでも、今日の「罪の赦し」に関する祈りはその最たるものです。皆さまにとっても同様なのではないでしょうか。
 私たちが毎週礼拝の中で唱和する「主の祈り」はこういう言葉です。

 「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え。」

 この祈りは、すらすらと祈れるものではありません。誰でも口ごもることがあると思います。でも、この祈りの言葉についてはいくつかの翻訳があります。
 たとえばこういうものです。

 「我々の負債を赦し給え、我々もまた、我々に負債のある者を赦しましたように。」

 原文では、私たちの罪の赦しを求める祈りの方が先に記されているのです。しかし、この翻訳では、誰かから犯された罪を赦すことが、神様によって赦されることの条件とか前提になります。私たちが唱和している祈りも、そういうニュアンスがにじんでいると言って良いと思います。
 しかし、聖公会やカトリック教会が共に唱和する祈りとして採用しているものはこういう言葉です。

「わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人を赦します。」

 随分印象が異なると思います。この訳だと、私たちの罪が赦されることが、私たちが人の罪を赦すことの前提になっています。英語では前半と後半を繋ぐ言葉としてForが使われます。しかしそれは「〜〜のために」と目的を表すこともあれば「〜〜によって」という原因を表すこともある言葉です。「人を赦すことが出来るように赦してください」とも「人を赦しましたから赦してください」ともとれるのです。だから分かりにくい。でも、簡単に二者択一できない所にこそ真理があると言うべきかもしれません。

 負い目  罪

 また、ルカでは「罪を赦してください」の後に「負い目のある人を皆赦しますから」と続いています。マタイは両方とも「負い目のある人」となっています。心理的な負い目を感じますけれど、元々は経済的な意味で借金がある人のことです。この世の対人関係において、返済すべきものを返済しないのであれば裁かれることになります。神様との関係においては私たちの命を創造し、愛をもって生かしてくださっている神様に対して日々感謝もせず、命は自分のものであるかのように振舞っていることは、借りているものを自分のものであるかのように錯覚して浪費していることです。
 それは、神様の愛と信頼を裏切る行為です。その行為が神様の心をどれほど痛めつけているかを、私たちは普段全く意識していません。人の足を踏みつけている人間は痛くも痒くもありませんし、踏みつけていることすら分かっていないことがしばしばあるのと同じです。そのようにして人は神様に対する「負い目」、借金を日々増やしている。ルカは、そういう愚かにしてふてぶてしい行為を「罪」と言い換えているのだと思います。
 神様と人間の間にある負い目、罪は人間同士の間にもあります。私たちは誰でも人の愛と信頼を裏切り、人の心を深く傷つけ、人から傷つけられることがあります。その裏切りが最も深く愛し合うべき関係の中で起こる時、傷はもの凄く深いものとなります。親子、夫婦、兄弟、恋人、親友などは深い愛と信頼関係の中で生きているはずのものです。そこで裏切りがあった時、裏切られた方の傷は癒えることのない傷として残ります。相手の心からの謝罪がない場合は尚更のことです。特に親は子を深く傷つけていても少しも気づかないことがしばしばあります。多少気づいても自分の子に謝罪することはない。自分では愛していると思っているから。そういうこともある。そうなりますと、傷はどんどん深まっていきます。
 一旦深く付いた傷は、時が経っても薄いかさぶたが覆っているだけですから、何かの拍子に血が噴き出して来ます。そういう時には、復讐心を行動に移すことを抑えるだけで精一杯になる。しかし、そのことでより深く傷ついていきます。また、復讐したとしても、それは悪に対して悪で返すことですから、自分をさらに傷つけていく結果になります。復讐することで傷が癒える訳ではないのです。そして、その傷は他の誰かから慰められたとしても癒えるものではありません。傷つけた当人との間で和解、つまり、赦し合いが生じない限り決して癒えるものではないと思います。

 赦せない悲しみ  赦されない悲しみ

 人に傷つけられてその人を赦せない苦しみや悲しみと、人を傷つけてその人から赦されない苦しみや悲しみが、私たちの人生に大きな影響を与えていることは間違いありません。そして、その傷が癒されない関係が続くことは、いつか返さなければならない借金が増え続けることを意味します。だから時が経てば経つほど荷が重くなり、心を塞いでいくことになります。どんなに貧しくとも借金がなければ何とかなります。でも、表面的には豊かな生活を装っていても借金が年々増えている場合は心が休まることはないでしょう。そして、そういう重荷に苦しむ心がさらなる間違いを犯すことにもなる場合があります。だから借金は早く返さなければなりません。負い目をなくさなければならない。罪は赦されなければならないし、赦さなければならないのです。

 天の父の子とされた者として

 そこで初めの問題に立ち返りたいと思います。赦されることが先にあり赦すことがそれに続くのか、それとも赦すことが赦されることの条件なのかです。
 マタイ福音書では、主の祈りを教えた直後に主イエスはこうおっしゃっています。

 「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6:14〜15)

 この言葉は明らかに、私たちが赦すことが赦されることの前提であると言っているのです。しかし、ここで「あなたがた」と呼ばれているのは誰かを考えるべきだと思います。すべての人間のことでしょうか。私は違うと思います。
 マタイ福音書において、主の祈りは5章3節から始まる「山上の説教」と呼ばれる長い説教の中の一部として出てきます。その説教の聴衆は弟子たちなのです。その周りには群衆もいますが、いずれにしろイエス様の招きに応えて集まってきた者たちです。なかでも、弟子たちはそれまでの生活を捨ててイエス様に従ってきた者たちなのです。だから、彼らは神様のことを「天におられるわたしたちの父よ」と呼ぶことが許されているのです。私たちキリスト者も同じです。そのことの故に、主イエスから「あなたがたは地の塩である」「世の光である」(マタイ5:13、14)と言われる者たちであり、さらに「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」(同5:44)と言われているのです。つまり、既に信仰によって罪を赦されている者たちなのです。ここに出てくる「あなたがた」とは、そういう人々のことです。

 聖霊を求める祈り

 ルカ福音書においてもその事情は同じです。この祈りは、主イエスが弟子の求めに応じて教えた祈りです。その祈りの前にあったのは善きサマリア人の譬話です。そこでは普段は敵対している者であっても、愛することを通して隣人となるべきことが勧められていました。
 そして、主の祈りの後に続く話は執拗に求めれば与えられるという譬話で、その結末はこういう言葉です。

「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:13)

 聖霊こそ祈り求めるべきものであるということです。聖霊なくして、祈り続けることも祈りに促された赦しに生きることも不可能だからです。

 ごとく?

   先に進むために、もう一つ確認しておかねばならないことがあります。私たちは毎週、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈っています。でも、この「ごとく」は誤解を招く言葉だと思います。これだと、神様の赦しは私たちの赦しのごときもの、つまり同じようなものであるという印象を与えます。しかし、そんなことがあるはずもありません。赦しの深さとか大きさの意味で「ごとく」を理解することは間違いだと思います。その点では私たちの赦しと神様の赦しは比較にも何もならないのですから。ただ「赦す」という姿勢、あるいは方向性において同じである。そのことを「ごとく」という言葉は言わんとしていると解釈したいと思います。その上で次の段階に進みます。

 赦された者であるが故に

 ある人がこう言っていました。

 「私たちは赦された者として、そして、赦していない者として祈ります。」

 「確かにそうだな」と思います。信仰を告白してキリスト者になった私たちが直面する問題はまさにこのことだからです。キリスト者とはイエス・キリストの弟子のことです。それはイエス・キリストの愛、十字架の愛によって罪を赦されたことを信じている者のことです。その神の愛と赦しを信じるところに深い喜びがある。それは知っています。しかし、その喜びを与えられた途端に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という主イエスの言葉を聞いて、胸が抉られるような痛みを感じるのです。私たちにおいては、赦された喜びが赦す喜びに直結しないのです。これは本当に惨めなことです。赦されたのに赦さないということは、キリスト者になったことによって生じる罪だし、キリスト者になったからこそ自覚する罪です。赦されているから、赦されていることを知っているから、赦されていることを感謝しているから、神様が赦すがごとくに赦せないことが悲しいし、苦しいのです。

 苦しいからこそ祈る

 でも、だから祈るのだと思います。「日毎の糧を毎日与えてください」と祈るように祈る。日毎の糧であるパンが生きる上でどうしても必要なものであるように、赦されること、そして赦すことも私たちが幸福に生きる上でどうしても必要なのです。だから、今日一日を生きるためのパンを父に求めるように、今日も赦されること赦すことを祈り求めるのです。天の父の子として。父は、そのことを求めて欲しいと願っておられる。喜んで与えようとしてくださっている。いや、実は既に与えられているのです。
 もし、パンも赦しも父から求めることなく自分の力でなんとでもすると思っているのであれば、私たちは天の父の子としては生きず、この世の子として生きることになります。かつて脱出した世界に帰っていくのです。豚が体を洗った後に泥の中を転げ回るようにです。そして、そういう経験を私たちは幾度となくしてきましたし、残念ながらこれからもするでしょう。
 主イエスは、私たちがそういう愚かな人間であることをよくご存知です。だから、「祈りなさい。求めなさい」とお命じくださるのです。それは私たちに重荷を負わせる言葉のようでありつつ、私たちを泥沼から解放する言葉なのです。

 父に自分を明け渡す 

 主の祈りを祈る。その時、私たちは神様に赦しを乞わねばならぬ罪人であることを知ります。その罪は人間なら誰もが抱えている罪であると同時に、キリスト者であるが故に抱え持つことになった罪でもあるでしょう。しかし、それがどういうものであれ、主の祈りを真実に祈るとは、罪人の自分を神様の前にさらけ出すことを意味するのです。「父なる神様、私の罪をお赦しください」と祈るとは、人前では見せることのできない惨めな姿を見せることが出来るということです。素直になれることです。正しく自分を見つめることが出来ることでもある。本当の自分を取り戻す時であると言ってもよいでしょう。
 それは、父の愛を信じている自分を発見することでもあります。父を愛している子である自分を発見することです。父を愛し信頼しているから祈るのです。愛し信頼しているから、惨めな自分をさらけ出すことが出来るのです。葉っぱで隠すことなく裸で立つことが出来るとしたら、それは相手に自分を明け渡すことです。イエス様は「わたしの十字架の死と復活を通してあなたがたの父となってくださった神の愛を信じて、裸の自分を明け渡しなさい。そうすればあなたは罪が赦されていることを知り、あなたの中に喜びが溢れて来て、あなたもまた赦しに生きることが出来るようになる。」そうおっしゃっているように思います。

 風 聖霊 息 

 ある人は、自分に過ちを犯した相手を赦す時、それまで自分を支配していた悪しきものの束縛を断ち切ることが出来、「新しい風を呼吸することができる」と言っていました。その言葉を読んだ時、私の心の中にも風が吹いたような気がしました。爽やかな風が心の中に入り込んで来て、心の中に淀んでいたものがス〜〜と消えていくような感じがしたのです。
 イエス様は「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)とおっしゃいました。風も霊も息もギリシャ語では同じプニュウマという言葉です。神様の霊、聖霊は思いのままに吹く。いつどこからやって来るか分からない。神様は自由なのです。私たちが呼べばいつでもすぐに出てきてくださるわけではないし、私たちがここには出て来ないでくれと思っても出て来られる。しかし、その聖霊を心に受け入れる時、その聖霊によって新しい命が私たちの中に生まれます。神の息で呼吸をする命が誕生するのです。それは、信じる私たちの中にイエス様が生きてくださるということです。
 パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の中でこう言っています。

 「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)

 「キリストがわたしの内に生きておられる」とは霊的な現実です。キリストが我が内に生きるとはキリストと同じ呼吸をすることだし、聖霊の風によって淀んだ空気が一掃されることでしょう。そのキリストが私の内で赦しの愛を生きておられる。私を赦してくださっている。私の中に赦しの愛を与えてくださる。そういう瞬間がある。しかし、それは瞬間であって、永続することではありません。今日のパンは今日生きるために与えられるのであって明日のために取っておくことが出来るものではありません。明日は明日、また今日の糧をくださいと祈り求めるべきものです。
 それと同じように、私たちの罪の赦しを求める祈りも、私たちが人の罪を赦す愛を求める祈りも毎日のものでなければならないのです。そうでなければ、私たちは霊的な飢餓に陥る他にありません。心の中が怒りや恨みや復讐心や諦めで満たされていくしかないのです。せいぜい出来ることは、すべてを忘れるために気晴らしをすることです。仕事に熱中したり、趣味に興じたり、酒を飲んだりしながら、心の中にあることを忘れようとする。そういうことも必要でしょう。しかし、そういうことを何年やっても根本的な解決にはなりません。
 主イエスは、主の祈りを教えることを通して風を送り、息を吹きかけ、そして私たちの中に入って来て生きてくださろうとしているのです。そして、私たちを新しく生かそうとしてくださっているのです。その主イエスを信じる。信仰をもって迎え入れる。毎日新たに肉の糧を求めるように、主イエス・キリストを通して与えられる赦しの愛を求める。執拗に求める。そういう者に神様は必ず聖霊を与えてくださるのです。そして、その聖霊の力が私たちに赦しの愛を生きるようにしてくださるのです。

 贈り物としての愛と赦し 

 愛と赦しに生きるとは私たちの業ではないし、私たちの性質でもないし、私たちの力でもないのです。いつも新たに与えられる贈り物です。父から与えられる愛の贈り物です。この贈り物を求め、感謝をもって頂くことで、私たちは「天におられる父の子」として生きることが出来る。
 しかし、「天におられる父の子」として生きることは、この世の中では苦難の道を歩むことになります。どうしてもそうなるのです。

 この世の現実 

 昨日の新聞やテレビで、シリアの反政府軍の兵士が政府軍の兵士を公開処刑する模様が報道されていました。これまで弾圧されてきた反政府軍の兵士たちが、上半身を裸にしてうつ伏せにさせた政府軍兵士たちに向って憎しみの言葉を投げかけた上に銃を乱射して殺害したのです。世界各地の紛争地域や戦場で同じことが起こっています。  独裁政権によって家族が不当に捕えられ拷問された、処刑された、暗殺された、強姦された、家財産を没収されたりした人々がいます。そのような人々の恨みが根深いものであるのは当然です。しかし、その恨みや憎しみに支配される時、人は神の子としての姿を失っていきます。そして、恐るべき存在となる。
 もし、その処刑の現場にいる反政府軍の兵士の誰かが、「こんな処刑は止めよう。今は捕虜として扱い、いつか来るべき時にきちんと法律に基づいて裁こうではないか。彼らも私たちと同じ神を信じている兄弟ではないか」と言ったとしても、それは何の意味もないし、そんなことを言えば自分の命が危うくなるでしょう。
 かつての日本軍は、中国で「新兵教育」とか「度胸試し」だとか言って柱に縛り付けた捕虜や民間人を銃剣で刺し殺したという証言がいくつもあり写真もあります。そういう時に新兵の誰かが、「わたしにはこの人を殺す理由はありません」と言おうものなら、どれだけ酷い目に遭わされるか分かりません。それこそ精神に異常をきたした人間と見られるでしょう。人殺しが肯定され、殺せば殺すほど褒められるという異常な世界の中では、人として真っ当な感覚こそが異常な感覚なのです。まして「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」なんてことを言う人間は正気を失っていると思われます。その人間に真剣に従おうとする人間もまた同様でしょう。
 愛と赦しに生きることは、敵意と憎しみが肯定される世界の中では異常なことであり、時に命がけのことです。自分に罪を犯した者を赦すことが出来るようにという祈りは、まさに常軌を逸した祈りなのです。

 『ゆるしへの道』 

 若い方はご存じないでしょうが、今から二十年前の1994年の4月から三カ月にわたってアフリカのルワンダで大虐殺がありました。多数派のフツ族が少数派のツチ族の人々を「ゴキブリ」と呼んで、「一斉に駆除」しようとした大虐殺です。わずか三ヶ月ほどの間に五十万人から百万人の人々が殺されたと言われます。歴史的背景などは一切省きますが、フツ族の人々の中にはツチ族に対する虐殺に反対した人々もいました。しかし、その人々は憎しみに満たされたフツ族の人々によって裏切り者と見做され、道端で次々と大なたで体を切り刻まれていったそうです。
 そういう大虐殺の中で、フツ族の牧師宅のトイレに匿われて九死に一生を得たツチ族の女性が書いた本があります。『ゆるしへの道・ルワンダ虐殺から射してくる、ひとすじの光』(イマキュレー・イリバギザ著 女子パウロ会 2013年)です。お手元に引用のコピーを用意しておきました。
 イマキュレーさんは、牧師宅の狭いトイレの中に八人で隠れ三カ月間、声を一切発することなく隠れ続けました。五十キロ以上あった体重は、三ヶ月後には三十キロにまで減っていたそうです。その間に外では愛する両親を初めとする家族は惨殺されており、母や兄を惨殺したのはそれまで親しく付き合っていたフツ族の友人だったそうです。彼女は、トイレの中に隠れた瞬間の時からのことをこう書いています。

「トイレに身を潜めた瞬間から、父が別れる際にくれた赤と白のロザリオにすがっていました。このロザリオがわたしを神へと結びつける命綱になりました。しばしばロザリオの祈りを唱え、レイプと殺戮から免れるよう懇願しました。でも、わたしの祈りは力に欠けていました。というのも殺人者たちを憎んでいたからです。祈れば祈るほど、気づかざるを得ませんでした。神から本当に祝福を得たければ、神の愛を受け入れられるように、心を整えておかなければなりません。大変な怒りと憎しみを抱えている心に、神が来臨される余地があるでしょうか。
 周りの人々を皆殺しにしていく殺人者たちをゆるせるようになることを願って、主の祈りを何百回も唱えました。でも、うまくいきませんでした。『わたしたちも人をゆるします』の箇所にくるたびに、口が渇きました。これらの言葉を真に受け入れられず、唱えられませんでした。ゆるせない苦しみは、家族から離れている心痛よりも大きく、また身を潜めていることによる身体的苦痛より堪えがたいものでした。
 何週間にもわたってひたすら祈り続けていたある夜、神は来臨され、わたしの心に触れられました。わたしたちは皆、神の子どもであり、ゆるしに値するのだということをわたしに悟らせてくださいました。ルワンダを引き裂いた殺人者たちのように、残酷で邪悪なことを行った人々もゆるしに値するのです。悪さをした子どもたちのように、彼らは罰せられなければなりません。でも同時にゆるされなければならないのです。
 その後、十字架にかけられたイエスを幻視しました。イエスは最後の息で、迫害する者をゆるされました。初めてわたしは、イエスのゆるしの力で満たされるために、心を完全に開くことができました。神の愛がわたしの内でほとばしり、そして言語を絶する邪悪なやり方で罪を犯し、いまも犯し続けている人々をゆるしました。わたしの心をかたくなにしていた怒りや憎しみは消え、深い平安で満たされました。もはや死ぬかどうかは重要ではありませんでした。もちろん死にたくはありませんでしたが、その準備はできました。主はわたしの心を清め、わたしの魂を救われたので、もはや死を恐れることはありませんでした。これまでずっと神を信じ、神に、イエスに、処女マリアに祈りをささげてきましたが、ゆるすことを学んだこの瞬間ほど神の威力を強く感じたことはありませんでした。いまでは、神の力を間近に感じますし、生涯ともにいてくださることを確信しています。」

 彼女はその後、ルワンダの国連事務所に職を得ることが出来ました。しかし、「真に新たな生を生きるためには、まだ後一つするべきことが残っている」と感じたのです。そして、自分の母と大好きな兄を大鉈で殺したかつての友人であるフェリシアン(仮名)を刑務所に訪ねます。彼は精神を痛めており彼女の前で土下座しつつ、「恥ずかしさと後悔のあまりゆるしを請うことすらできずに」いたようです。彼女には「ゆるされたい、と彼が心底望んでいるのは伝わってきた」そうです。
 その時のことをイマキュレーさんは、こう書いています。

「フェリシアンのいる刑務所でわたしは、彼とわたしがそれぞれ殺人者、生存者として、同じ途上にあることを知りました。この国が、ホロコーストによる辛苦、流血、苦痛を乗り越え、立ち上がれたとして、二人がまえに進むためには、神のゆるしがもつ癒しの力をどちらも必要としていました。
 わたしはフェリシアンを心からゆるしました。わたしの気持が彼に届いたと信じています。わたしの魂は解放され、神の愛で満ちていましたが、虐殺を生き延びたわたしの人生は始まったばかりでした。この国と同じく、不確かな未来に向かって歩いていくなか、暗い日々と多くの懐疑と向き合うことになりましたが、信仰と共に歩んでいけばこの旅が祝福されることは分かっていました。」

 この後、彼女は同じツチ族の人々から命を狙われる危険が生じて国外に脱出します。自分の母や兄を殺したフツ族のフェリシアンを赦したことが知られて、それをツチ族に対する裏切りと見做されたからです。敵を愛し赦すことは、かつての味方を敵に回し、命を狙われることでもあるのです。それが罪の世の現実です。
 この世はそういう憎しみと敵意、復讐の連鎖の呪縛を自らの力で断ち切ることは出来ないのです。私たちの国と近隣諸国の関係を見れば分かります。迫害と弾圧、虐殺の事実を認めず、謝罪せずに互いに赦し合うことなど出来るはずもありません。原子爆弾を使用したことを肯定しておきながら、細菌兵器を使うことは人類に対する罪だから赦してはならないと言う人々も同様でしょう。

 主よ

 私たち人間は誰も彼も愚かな罪を繰り返しています。罪に支配されているのです。そして、神様の赦しを求めず、人を赦すことを過ちかのように思い込んでいる。そういう世の中に、神様はご自身の独り子を送ってくださいました。あの飼い葉桶の中に。この方は生まれた時から命を狙われました。そしてついにあの十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈りつつ死んでくださったのです。自分を鞭打ち、十字架に釘で打ちつけ、その舌で嘲る人々の罪が赦されるように祈ってくださったのです。そして、神様はそのイエス・キリストを死の中から復活させられました。誰も打ち勝つことができない罪と死の力に愛と赦しの力で勝利されたのです。
 私たちキリスト者は、その神様の勝利の徴です。罪の力よりも強い力があることを証するのは私たちなのです。聖霊の導きによって罪の赦しを信じている私たちこそ、神の愛と赦しの証人なのです。その恵みと使命の大きさを思うと言葉もありません。ただ祈るしかないのです。
 「主よ、どうか罪を赦してください。罪を赦せぬ罪を赦してください。罪を赦せる者となれますように風を送ってください、新しい息を注いでください。主よ、お願いします。」こう祈るしかないのです。

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