「わたしたちの罪を赦してください」

及川 信

       ルカによる福音書 11章4節
       マタイによる福音書 6章12節
11:4 わたしたちの罪を赦してください。
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。

6:12 わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。

 創立記念日

 今日は、中渋谷教会の創立記念日礼拝としてこの礼拝を捧げております。中渋谷教会は、この地に建って96年の伝道の歩みをして参りました。その間、毎週の礼拝で「主の祈り」を祈り続けてきたのです。今日は、罪の赦しに関する二回目の説教となります。創立以来、贖罪信仰に徹して歩んできた中渋谷教会の創立記念日礼拝に相応しい箇所であることを喜んでいます。

 石巻報告 1

 先週、中渋谷教会では大住雄一先生が朝、夕、連続の説教をしてくださいました。先生は、伝道旅行から帰った弟子たちがイエス様に対して「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」という言葉を強調しておられました。それは、今日の礼拝の中で先週の石巻における伝道報告があるはずだということでしょう。
 先週、私は石巻山城町教会におけるコンサートに参加し、翌日の伝道礼拝で説教をさせていただきました。いずれも、福島教会と石巻山城町教会の伝道のために捧げられた皆さんの献金によってすべての費用が賄われております。両教会の方たちは、そのことに対していつも心からの感謝をしてくださっています。私も心から感謝いたします。
 二年前に催したコンサートは95名の来場者でしたが、今回はそれを上回る121名の来場者がありました。まさに満席でした。井上先生は、演奏と同時に信仰の証をしてくださって「教会コンサート」に託されている伝道の使命を果たしてくださいました。その後、中渋谷教会の有志の皆さんが送ってくださっていた手作りのパウンドケーキや紅茶ケーキを頂きながら、歓談の時を持てましたことも幸いなことでした。
 石巻山城町教会は伝道のために「教会コンサート」を開催しているので、来場者の数よりも翌日の礼拝の出席者の数の方が大切です。幸い、三人の方がいらっしゃいました。その礼拝で私が語らせていただいた説教を印刷して二階ホールにおいておきました。六月の福島教会における説教原稿と同様に、今回も一部百円以上をカンパとして支援献金箱に入れていただきお読みくださればと願っています。
 先週は三連休でしたから石巻も仙台も宿が満室でした。それでも福島に泊ったり、仙台と石巻の中間にある町のビジネスホテルに泊ったり、ご自宅を早朝五時くらいに出発して駆けつけてくださる方もおり、中渋谷教会からの礼拝出席者は私を含めて七名となりました。信徒同士が顔の見える交わりを深めることは、本当に意義深いことです。そして、毎回何人もの方が礼拝やコンサートに駆けつけてくださることは、私にとっても大きな喜びであり支えです。
 私たちが出来ることは僅かなことです。でも、私たちは山城町教会や福島教会を忘れていないと表明することはできます。私がお訪ねする度に言われることは、「私たちのことを忘れずに覚えてくださっているだけで、私たちは本当に励まされます」ということです。私たちは主にある交わりを持つことを通して、被災地における伝道の業に参与させていただきたいと願います。
 福島や石巻まで行けない方たちもおられますから、福島教会の会堂建築のためのチャリティコンサートを中渋谷教会で開催する準備を始めようと思います。そのコンサートを通して、中渋谷教会が両教会の伝道のためにどんな連帯と支援をしているかを知っていただき、今後も協力をしていただきたいと願っています。

 石巻報告 2

 先週、山城町教会の礼拝の奏楽者は、二年前のコンサートで泣き続けていた女性です。半年前に襲ってきた津波によってご主人を亡くされたのです。その後、長く看取って来られた母上も亡くされました。でも、コンサートの翌日から自宅の目の前に建つ山城町教会の礼拝に出席し始め、ついに今年のペンテコステ礼拝にて洗礼を受けられました。そして、今は礼拝の奏楽奉仕をしてくださっているのです。震災以来二人目の受洗者です。もう一人はやはり教会の隣に住む青年です。
 主イエス・キリストは今も大きな悲しみを与えられた一人ひとりを訪ね歩き、その心の門を叩いてくださることを知らされ、深く慰められます。
 私は、今回で六回目の訪問になったかと思います。次第に交わりも深まってきました。そこでひと月ほど前に関川祐一郎先生に「もし仮設住宅にお住まいの信徒の方がおられたらお訪ねしたいのだが、頼んでもらえるか」とお願いをしておきました。幸い、八十歳のKさんという婦人が「来てもよい」と言ってくださったとの知らせを受けた上で石巻に向かいました。
 Kさんのお住まいは、牡鹿半島の先端にある美しい海岸を持つ小さな集落にありました。教会から車で一時間以上かかりました。津波によって浜の砂はみな流されてしまい、今は大きな黒い袋の土嚢が海岸線に並べられていました。kさんは、ご主人と日本各地を旅行していた時にこの土地の美しさに心惹かれて、ご主人の退職後に東京から引っ越してこられたのです。それほどに長閑な美しい所です。しかし、数年前にご主人が亡くなり、津波でご自宅の一階部分が完全に破壊されてしまいました。その地域の住宅は高台に建っているもの以外はすべて破壊され、今は草がぼうぼう生えている荒れ地となっています。
 そのすぐ近くの日当たりの悪い高台に、倉庫のようなプレハブの仮設住宅が並んでいました。玄関も台所も風呂も含めて、小さめの畳十二枚(六坪)の広さです。隣の部屋との壁は薄くて音はほとんど筒抜けです。Kさんは二年前の八月からそこにお住まいです。二年前には「じきにコンクリートの集合住宅が出来る」と行政の担当者から言われたのですが、二年経っても進展はなく、仮設住宅を出る見通しはまったく立っていないそうです。人生の晩年にそういう厳しい試練にあうこともあるのです。
 狭い部屋の壁には、讃美歌288番の歌詞や教会の仲間が書かれた祈りの言葉などが貼ってありました。288番の歌詞は「行く末遠く見るを願わじ、主よ、我が弱き足を守りて、一足、また一足、道をば示したまえ」というものです。
 東京に帰って来てから、皆さんにも読んでいただいた「東日本大震災記録」という山城町教会が発行した冊子に掲載されているKさんの文章を読み直しました。すると、その讃美歌の歌詞は震災の二週間後に泥の中から拾ったマジックで書いたもので、かろうじて寝ることが出来る自宅の二階の壁に貼ったものであることが分かりました。その歌詞を今も仮設住宅の中に貼っておられる。見通しの立たない行く末を見ることよりも、今日一日の歩みを示していただきたい。主イエスに今日の歩みを共にしていただきたい。そういう祈りがそこにはあるでしょう。
 震災後のご経験を伺ってお別れする前に、私は仮設住宅にお訪ねするという厚かましい願いを聞き入れてくださったことに感謝の意を述べました。私たち夫婦は関川先生が運転する車で行き、後ろから山城町教会の長老の婦人が運転する車にKさんともう一人教会のお仲間の婦人が同乗して来られたのですが。そのお仲間の婦人が「とんでもない。私たちは、まるでザアカイのような気分だねと車の中で話していたんですよ」とおっしゃったのです。私は何をおっしゃっているのか分からず、ちょっとビックリした顔をしました。すると、「イエス様にいきなり『今日はあなたの家に行く』って言われたザアカイみたいな気分で本当に嬉しいね、と言っていたんです」とおっしゃいました。私は何と言ったらよいか分からない驚きと喜びに満たされました。
 その部屋には、以前関川先生ご夫妻がお訪ねくださった時に撮った写真が飾られていました。伝道者とはイエス・キリストを宣べ伝える者のことです。その伝道者が信徒のお宅に伺う。それはその人にとってイエス・キリストが家に来るということなのだ。その事実の深みに触れて圧倒されたのです。
 最後に関川先生が祈ってくださり、名残を惜しみつつ帰ってまいりました。私は、Kさんを初めとする山城町教会の皆さんの「一足、また一足」の歩みを、主イエスが共にしてくださるように祈ります。そして、私たちの歩みもまた主の導きの中に置かれることを祈ります。

 私の罪

 今、「私たちの歩み」と言いました。この場合は「私たち中渋谷教会の者たち」という意味です。しかし、「私たち」とは、実に曖昧でありつつ含蓄が深い言葉だと思います。
 三週間前の礼拝で、私は主の祈りの「罪の赦し」に関して語りました。それは、私にとっては見上げるだけで登るのをためらうような高い山を登ることでしたが、なんとか登った気がしました。しかし、登った途端にもう一つの頂上がうっすらと見えてきてどうしたものかと悩みました。気を取り直してその頂上を目指すべきか、その頂上のことは見なかったことにして別の山に行くか迷ったのです。でも、うっすらであっても見えたものを見えなかったことにする訳にはいかず、それ以来色々なことがありましたけれど、絶えずその頂きを目指してきたように思います。
 前回の「罪の赦し」の説教においては個人的な罪について語りました。「私」が犯した罪の赦し、「私」に犯された罪の赦しです。その問題に向き合うことは苦しいことですが、これもまた避けて通ることは出来ないことです。

 私たちキリスト者の罪

 しかし、「主の祈り」は「わたしたちの罪を赦してください」となっています。主イエスは、この祈りを祈るようにと弟子たちに命じられました。それは一人ひとりが自分の罪の赦しを祈り、人の罪を赦すことを祈り求めることであるに違いありません。しかし、この祈りは「弟子たちが」集まって共に祈る「教会の祈り」でもあるのです。だから私たちは毎週礼拝の中で「主の祈り」を共に祈っているのです。個人としての「私」の祈りだけでなくすべてのキリスト者が「わたしたちの罪を赦してください」と祈るように、主イエスは命じておられるからです。洗礼を受けたキリスト者は罪を犯さない聖人ではなく、信仰において罪を赦されている罪人だからです。私たちキリスト者は神の名を語りながら、神に背いている。そして、教会もまた罪を犯しながら生きている。それは事実です。その事実を自覚し、赦しを求めて祈るように命ぜられているのです。その祈りを忘れたら、私たちは胡散臭い独善に陥るだけだと思います。それは、信仰を与えられる以前よりも罪深いことであるに違いありません。

 私たち全人類の罪

 前回の説教を終えた後に、私は今言ったキリスト者全体の罪を思いました。でも、それだけではありません。「わたしたちの罪を赦してください」「わたしたち」とは、全人類のことを含むのではないかと思ったのです。それが、かすかに見えたもう一つの頂上です。
 石巻から東京に帰ってからも様々なニュースに触れながら生活しています。つい先日も、地球温暖化によって将来は海面が八十センチも上昇し、今は「異常気象」と呼ばれるものが通常のものになるという報道を目にしました。その温暖化の原因は、私たち人間が作り出していることが確実なのです。それは自らの首を絞める緩慢な自殺行為に他なりません。でも、私たち人間はそれを止めることがなかなかできないのです。
 私たち人間は原子力を利用して原子爆弾を作り出し、それを実際に使用し、多くの市民を無差別に殺し、生き残った人々も生涯原爆病で苦しめました。その威力の恐ろしさに震え、製造したことや使用したことを後悔するのかと言えば、我先にと造り続けたのです。これは一体どういうことなのでしょうか。
 また、安くて清潔で安全な電気を作るという名目で原子力発電所を建設してきました。でも、かつてはチェルノブイリで大事故があり、二年前にはあれほどの事故を起こし、今も終息したとは決して言えないのに、あの事故で人生を滅茶苦茶にされて苦しんでいる人々が大勢いるのに、我が国の総理大臣は「すべてが完全にコントロール下にあって安全である」と世界に向けて宣言し、各地にある原発の再稼働を自明のこととして進めています。
 先日の報道番組で南相馬の障害者施設のことが紹介されていました。どこにも逃げ場のない障害者の方たちは、放射能の汚染に脅かされながらその地に留まり続けています。その施設の責任者は、「安全と安心は違う」と語っていました。放射能の汚染濃度が百以下なら安全だと国は言う。でも、百一は危険で九十九は安全なのか。日によって違うその数値をどう見れば安心できるのか。安全とはどういう意味なのかという問いかけです。汚染によって明日死ぬことはないということが安全なのか。十年後には癌を発症するかもしれないけれど、生まれてくる子どもに何らかの障害が出てくるかもしれないけれど、当面その影響は出て来ないから安全だと言うのか。「数値が百以下だから安全だ」と言われても、安心して暮らせるわけがないのです。
 汚染地域からはるか遠くの安全な地域に住んでいる人々は「すべてはコントロール下にある」とか「安全です」と安心して言えます。しかし、そんな無責任なことはありません。私たち人間は自分が何をしているのか、どういう結果をもたらすのかを知らないことが多いのではないでしょうか。

 無人兵器

 先週、最も心が萎えた報道はこういうものです。最近しばしば話題になっているのは、無人飛行機を初めとする無人兵器です。つい先日もアメリカで無人兵器の展示会があって、世界中の政府や軍の関係者が集ったと報道されていました。開発している会社の代表者は、自国の兵士の命を危険にさらすことのない無人兵器の需要は今後も伸び続けるだろうと嬉しそうに語っていました。
 たしかに、パキスタンではアメリカ軍の無人飛行機がテロリストを殺すという名目で飛びまくっていて、誤爆を繰り返しています。ある農家の母親は畑仕事をしている時に、頭上を飛んでいた無人飛行機から発射されたミサイルで吹き飛ばされてしまったそうです。近くにいた子どもも大怪我をしました。夫を初めとする家族は、そのあまりにも理不尽な家族の死に対して、悲しみと怒りと憎しみを抑えることが出来るはずもありません。
 解説によると、アメリカ軍の中ではテロリストとおぼしき人を見つけると殺すことになっているのだそうです。それは無差別殺人と同じことです。道路近くの畑で作業をしている人は路肩に爆弾を仕掛けている可能性があるから殺してよいことになっており、三〜四人の男たちが広場で集まっているとテロリストが集会をしている可能性があるからミサイルを発射してよいことになっているのだそうです。そういう残虐なことをしながら、テロリストを根絶するのではなく、むしろ新たに産み出しているのだと思います。武器商人は、それで儲かるのです。
 驚くべきことに、無人飛行機の操縦はアメリカ本土にある基地でしているのです。真っ暗な部屋にいくつものモニターが並んでおり無人飛行機が送ってくる白黒映像が写っていました。そのモニターに今言ったような人が見えるとミサイル発射のボタンを押す。次の瞬間、音もなくミサイルが発射され、建物も人も吹き飛ばされる映像が見えるだけです。人々の叫びも、呻きも、表情も見えず、血の色も見えず、ただ無味乾燥な爆発が見えるだけなのです。
 その基地で五年間勤務していた兵士が取材に応じていました。彼はまだ二十代の青年です。その兵士が「今も忘れることができない」と言って話したことはこういうことです。
 ある建物に三〜四人の男たちが入って行ったのです。それが本当にテロリストかどうかなんて、アメリカの基地でモニターを前にしている人間が分かるはずもありません。調べている訳ではないし、そもそも調べる気もないのですから。しかし、その兵士の後ろに立っている上官はその建物を破壊しろと命じた。つまり、建物もろとも中にいる人々を殺せということです。誰かも分からないのにです。その時、小さな子どもが建物に向って走り寄って入ろうとしたそうです。でも、上官は即座に「犬だ」と言って発射を命じた。兵士は命令に従いました。しかし、どう見たって犬ではない。明らかに人間の子どもなのです。でも、「犬だ」という上官の命令に従ってミサイルを発射した。その時、彼は「なにかとても気分が悪くなった」と言いました。その後、除隊したのです。
 基地に勤めている時は毎日無人飛行機を操り、ゲームの中でのように人殺しをしながら、勤務時間が終われば趣味に興じたり、パーティーに出たりしている。自分でも奇妙だと思える生活だったそうです。そして、「自分がどんどん無感覚になるのが分かった」と言っています。
 彼が除隊する時、上官は「お前が五年間に殺した数は千六百人だ」と嬉しそうに言ったそうです。まさに吐き気がするほど気分の悪い話です。感覚を麻痺させなければ聞いていられない話です。
 二十代の若者が命令されるままに千六百人の人間を殺す。子どもも女性も、ただの農民も殺す。そのことで国から給料をもらって生活しているのです。若者を冷酷な殺人マシーンに造り替えて平然としている。千六百人の顔も名前も知らないし、知ろうともしない。知らないから平気で殺せる。それは一体どういうことなのでしょうか。しかし、それが世界の現実、私たち人間の現実なのです。「私は無関係です」と私たちは言えません。

 天地創造物語

 青山学院の講義が始まったので、今年も創世記の1章から読み直しています。そこには神様が「良し」とされた美しく調和のとれた世界が描かれています。男と女としての人間は神にかたどられ、神に似せられて造られ、互いに愛し合い、自然と動物を管理することが命じられているのです。でも、その箇所の背後には凄まじく残虐な戦争があります。バビロン軍に包囲されたエルサレムの中では餓死する者がおり、精神を痛めた母親が自分の子どもを鍋で煮て食べたと哀歌には記されています。またバビロンの兵士たちはイスラエル人の赤ん坊を母の腕から奪い取って岩に叩きつけて殺したと詩編にはあります。美しく調和のとれた創世記1章の背後にある現実は、まさに闇と混沌が支配しているものなのです。叫びと血に満ちている。
 その後の物語は皆さんもご存じのとおりです。人間は蛇の誘惑に負け、自らの意志で禁断の木の実を食べ、さらに悔い改めを拒みました。男は女のせいにし女は蛇のせいにするのです。アダムとエバの最初の子であるカインは、弟アベルを殺してもその罪を悔い改めることがありません。

 ノアの箱舟物語

 アダムから十代の系図を経て、ノアの箱舟の物語が記されています。そこにはこうあります。

  主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」(創世記6:5〜7)

 主なる神様は、無人飛行機のはるか上から地上のすべてのことを御覧になっているのです。飛行機のカメラが写しようもない人の心の中の思い計りまで御覧になっている。この地上で何がなされているか、そこにいる人間が何を考えているのか。そのすべてを御覧になっているのです。アメリカの基地の暗い部屋の中でなされていることも、パキスタンの畑の中で起きていることも見ている。そして、ミサイルを発射する人間の心の中も、家族を殺された人々の心の中も見ておられる。そして、「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」のです。
 ご自身にかたどって造った人間が堕落して、常に悪いことばかりを思い計っている。その様をつぶさに見させられる時の神様の心の痛みを思います。愛してやまない人間を造ったことを後悔する。地上からぬぐい去ろうと決心される。その神様の心の痛み、悲しみの深さは、私たちの想像を越えるものです。でも、想像しなければならないでしょう。神に似せて造られた人間として。
 暗い部屋で一万キロ以上も離れた見ず知らずの人々を殺し続ける日々を送れば、人間の心は無感覚になります。それは、想像力がなくなるということです。人間の痛みが分からなくなるのです。まして、神様の心の痛みなど分かるはずもありません。そして、自分が何をしているのか分からなくなるのです。人を殺すとはどういうことかも分からなくなる。
 神様はそういう人間の罪を裁かれます。しかし、ノアとその家族、またすべての動物を箱舟に入れて生き延びさせようとするのです。神様の願いは滅亡ではなく救済だからです。だから、洪水の後、ノアが真っ先にしたことは犠牲を捧げつつ、神様に祈ることだったのです。その時、彼は自分の罪の赦しを求めて祈ったのではありません。全人類の罪の赦しを求めて祈ったのだと思います。神様はその祈りを聞き、人が心に思うことは幼い頃から悪くても二度と大地を呪うことはしない、と約束してくださったのです。

 アブラハム物語

 アブラハム物語の中では、アブラハムは淫蕩の町であるソドムの罪が赦されるように神様に祈りました。「もし、その町に十人の正しい者がいるならばその十人の故に町全体を赦して欲しい」と。神様は、そのアブラハムの祈りを受け入れられ、「その十人のためにわたしは滅ぼさない」(創世記19:32)とおっしゃいました。神様の御心は人間を滅ぼすことではなく、救うことだからです。しかし、ソドムにはその十人がいませんでした。世の光、地の塩たるべき人間がいなかったのです。

 彼らをお赦しください

 私たちは「祈るときには、こう言いなさい」と主イエスに命ぜられた主イエスの弟子たちです。神様を「父よ」(アッバ)と呼ぶことが許されている弟子たちです。その祈りの極みに「わたしたちの罪を赦してください」があるのです。
 そして、主イエスの地上の生涯の極みは十字架の死です。その十字架の上で主イエスはこう祈られたでしょう。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 「彼ら」とは「私たち」のことです。この時この現場にいた人間のことではありません。すべての人間のことです。主イエスはすべての人間のために十字架に磔にされ、そこですべての人間の罪が赦されるように祈ってくださっているのです。この十字架の主イエスはノアが捧げた犠牲の成就としての犠牲だし、その祈る姿はソドムにいなかった十人の「正しい人」(ルカ23:47)の姿だと思います。神様はこの完璧な犠牲を受け入れ、完全な正しさを生きた方の祈りを聞き入れ、罪人である私たちの罪を赦してくださったのです。私たちは、この主イエスの祈りと犠牲によって罪を赦されたのです。そのことを信じる信仰によって義とされ、新しい命を与えられている。そのような恵みを与えられている「私たちは」、「私たちすべての人間」の罪をその身に感じつつ「わたしたちの罪を赦しください」と祈るように召されているのではないでしょうか。

 中渋谷教会が目指しているもの

 教会創立記念日である今日発行された「会報」は、六百号を記念する会報です。意図した訳ではありませんが、タイミングが合いました。歴代の会報担当長老たちが、それぞれの思いを込めた文章を寄せてくださっています。私も巻頭言を書かせていただきました。その中で教会の創立者である森明牧師の言葉を引用しています。森牧師は自らの罪の問題に苦闘する中で「血みどろの十字架」のイエス様を信じた方です。そして、十字架の主イエス・キリストを一人でも多くの友たちに紹介することにその短い生涯を燃焼させた牧師です。贖罪信仰に徹し、伝道に徹したのです。その森牧師が中渋谷教会の使命として掲げたのは「神の国をあまねく東洋に建設する」ことです。自分の罪の赦しだけを求めたのではないのです。日本の救い東洋の救いを求めたのです。そして、そのことのために祈り、伝道する。そこに中渋谷教会の使命がある。森明牧師はそのことを繰り返し語っています。それはもちろん、森明牧師の専売特許ではなく、復活の主イエスが弟子たちに「地の果てに至るまでわたしの証人となる」と命ぜられたことに端を発しています。
 私たちは、その福音伝道の使命を継承している者たちです。それは祈りなくして出来ることではありません。血気盛んに宣べ伝えるだけが伝道ではありません。行動するだけが信仰の証ではない。人知れず祈るのです。「わたしたちの罪をお赦しください」と。
 今日の午後は建築懇談会がもたれます。礼拝堂とは、何よりも祈りの宮です。共に集まって祈るところなのです。その意味で、伝道の拠点なのです。天から全地を見下ろしておられる神様は、私たちがこの礼拝堂で捧げる祈りを聞かれます。主イエス・キリストの十字架の祈りに連なる私たちの祈りを聞いてくださるのです。だから、祈りこそ最大の行為です。私たちの行為が人類を救うのではなく、祈りに応えてくださる神様の行為が救うのですから。
 私たち中渋谷教会の者たちは、これまでもそうでしたが、これからもそのことを深く覚えて、「主の祈り」を共に祈りつつ伝道の使命を果たしていきたいと切に願います。

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