「誘惑に遭わせないでください」

及川 信

       ルカによる福音書 11章4節
     マタイによる福音書 6章13節
11:4 わたしたちの罪を赦してください。
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。

6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。

 頌栄

 今日で「主の祈り」に関する説教を終えることといたします。ルカにもマタイにも「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり、アーメン」という言葉がないことに首をかしげる方もおられると思います。
 最も古いと思われる写本にはないので、多くの翻訳聖書にはその言葉がありません。しかし、初代教会の礼拝で「国と力と栄とは……」を含む「主の祈り」が祈られていたことは確実だと思います。
 「国と力と栄とは……」は、願いとしての祈りではなく神様を賛美する頌栄です。宗教改革者のカルヴァンは、礼拝の式次第を「祈りの形式」と呼んだそうです。彼によれば、礼拝全体が祈りなのです。確かにそうだとも言えるでしょう。その祈りとしての礼拝の最初の方に「讃詠」があり、終わりに「頌栄」があります。『讃美歌』(五十四年版)の「讃詠」と「頌栄」に意味の違いはありません。両方とも三位一体の神様、永遠の神様の栄光を賛美する歌です。
 「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」とは、天地万物を創造し支配し給う神様の栄光を賛美する頌栄です。主の祈りは、父の「御名が崇められる(賛美される)」ことを願う祈りで始まり、神に栄光を帰す賛美で終わります。キリスト教会はこの祈りを祈り続けてきました。それは御国が到来する世の終わりまで続くことですし、続けていかねばならないことです。

 誰に祈っているのか

 日本人の場合は、「神」と言っても曖昧ですから心の中で強く念じることも祈ることのようですが、私たちキリスト者においては全く違います。私たちは、イエス・キリストの父なる神様に祈ります。
 私たちが父なる神様に祈る一つの理由は、私たちが弱い存在だからです。だから強い方に助けを求めて祈るのです。祈る相手が無力であるとすれば、祈ることは空しいことです。お守りを頂きたいと神様に願っても神様に守る力がないのであれば、祈ること自体が惨めです。
 私たちが祈る神様は、使徒信条の言葉を使えば「天地の造り主、全能の父なる神」です。この方よりも強い神様はいないのです。トランプで言えばスペードのエースです。いきなり出てきてすべてのカードを脅かすジョーカーよりも強い。私たちは幸いにして、この地上を生きている時に神の子であるイエス・キリストと出会い、その方を通して「父」(アッバ)と呼ぶべき方との出会いを与えられました。これは「恵み」としか言いようがありません。この「恵み」によって、私たちはイエス・キリストの父を「わたしの父」と信じて祈るのです。そのように祈ることが許され、また求められているのです。私たちは、父は子である私たちの祈りを聞いてくださると信じ、御心に適う祈りであれば必ず応えてくださると信じて祈ります。私たちの願いの実現を求めて祈ると言うよりも、父の願いを私たちの願いにすることが出来るように祈る。御心に適う祈りを求めるという点で、現生利益を求める宗教とキリスト教は根本的に異なると思います。

 誘惑 悪い者

 そこで今日の箇所に入っていきます。ルカは「誘惑に遭わせないでください」だけですけれど、マタイは「悪い者から救ってください」が続いています。私たちが唱和する「主の祈り」では「誘惑」「試み」であり「悪い者」「悪」となっています。いずれの言葉もどちらにも訳せる言葉だからです。でも、「悪い者」と訳されると「悪人」と思ってしまう場合があるし、「悪」だと病気だとか事故だとかを連想してしまうかもしれません。しかし、「悪い者」は悪い人のことではないし、「悪」も病気とか事故のことではないと思います。ここではもっと根源的なこと、深刻なことが祈られているのです。いわゆる無病息災の祈願ではありません。

 悪魔

 ルカがこの言葉をどのように使っているかを見ると、ここに出てくる「悪い者」(ポネーロス)は、人間に誘惑をもたらす存在、人間を悪に引き込む存在と解釈した方が良いと思います。
 ルカ福音書で「誘惑」が最初に出てくるのはイエス様の「荒野の誘惑」と呼ばれる4章です。

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」

 この出来事が起こったのは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた直後のことです。イエス様が洗礼を受けて祈っておられる時、聖霊がイエス様の上に降り、天からこういう声が聞こえました。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」

 この言葉を聞いた直後、イエス様は荒れ野で悪魔からの誘惑を受けられるのです。洗礼を受けた者にとっての誘惑とそうでない者にとっての誘惑は本質が違います。創造者を「父よ」と呼ぶ人間とそうではない人間とは、その本質が違いますから受ける誘惑の本質が違うのは当然です。洗礼を受けた人は、それ以前の自分とも違う人間なのです。神様にとって違いますし、悪魔にとっても違うのです。
 「悪魔」などと言うと、理性を失った人間の言葉かと思われてしまいますが、それは神様と私たちを引き離そうとする力、人間に誘惑を与える存在だと言って良いと思います。神様が目には見えないように悪魔も目に見えません。神様の言葉が耳に聞こえるものではないのと同じように、悪魔の言葉も耳に聞こえるものではありません。両者共に私たちの心に語りかけてくるのです。詩編36編にも「神に逆らう者に罪が語りかけるのが、私の心の奥に聞こえる」とあります。

 悪魔の誘惑

 その悪魔が神様の「愛する子」であるイエス様を誘惑する。イエス様と神様との間にある愛と信頼の関係を破壊しようとするのです。悪魔は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と言い、全世界の国々を見せた上で「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と言い、エルサレム神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」と言うのです。この三つの提案が魅力的な提案であることは間違いありません。しかし、それはすべて「国と力と栄とを」イエス様のものにしたら良いではないかという誘惑なのです。それは悪魔を拝むことに他なりません。
 神様の御心に反して自分の繁栄とか権力や栄誉を求める時、当初は上手くいくことが多いのです。悪魔には知恵がありますから、そのように仕向けることが出来るからです。ギャンブルや薬物などで身を持ち崩してしまった人も、最初は儲けたことがあるのだし、精神的に救われたりしたことがあるのです。その成功体験とか快感がその後の泥沼への呼び水になるものです。
 しかし、平凡な生活の中にも神様と私たちを引き離す力は幾らでも働いています。聖書に出てくる「悪」とか「誘惑」は、この世で言うところのものではないからです。神を信じないでも幸せを感じて生きていることはいくらでもありますが、そのこと自体が、聖書的に言えば悪魔の誘惑に完全に負けてしまっていることなのですから。

 最上の幸福

 宗教改革者のカルヴァンは、ジュネーブ教会の子どもたちの信仰教育のために『ジュネーブ教会信仰問答』を作成しました。その最初の問いはこういうものです。

問一 人生の主な目的は何ですか。
答え 神を知ることであります。

 その後の問答はこういう流れです。

「神は我々の生の源であるから、神を崇めることこそ神に造られた人間の最上の幸福である。神を信じ神に従って生きないとすれば、我々人間はその本来の人間を生きていないことになり、それこそ最大の不幸である。我々は神を賛美するために造られた。一切の栄光を神に帰して賛美する時、人は最上の幸福を得る。」

 カルヴァンは、悪事に手を染めたり、道徳的に堕落すること自体を不幸だとは言いません。ごく普通の生活、真面目な生活をしている人も、神を信じ神に従っていないならば、神を崇め賛美しつつ生きていないならば不幸だ、と言うのです。ちょっときつい言葉ですけれど、「野獣よりも不幸だ」と彼は言います。こういうことは、この世においてなかなか分かってもらえません。私たちもかつては全く分かりませんでした。

 金持ちの青年

 ルカ福音書18章にこういう出来事が記されています。律法を忠実に守り富にも地位にも恵まれた青年が、イエス様に「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたのです。彼は律法の教えを忠実に守っており、そのことで神様に祝福され、富にも恵まれていると自他共に思っていたのです。でも、まだ「最上の幸福」を得ているとは思えなかったのでしょう。イエス様は、その青年に、持ち物をすべて売り払ってイエス様に従うようにお命じになりました。彼は非常な悲しみの中を立ち去りました。その青年の後姿を見て、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とイエス様はおっしゃったのです。弟子たちは、イエス様が何をおっしゃっているのか、全く分かりませんでした。
 青年は世の人々の尊敬を受けている好青年なのです。しかし、神の国に入る、永遠の命を受け継ぐために必要なことは、世の基準で良いことをすることではありません。「神を知ること」なのです。神の愛を信じ、全身全霊を傾けて神を愛し、賛美することなのです。そこに神に造られた人間の最上の幸福がある。金持ちだから神の国に入れないとか、立派な行いをしていても駄目なのだとか、そういうことではありません。金持ちであれ貧しいものであれ、立派な人であれ、ふしだらな人であれ、神を知っているか否か。神を愛し、神に従って生きるか。ただそのことが問われているのです。その点においては「二兎を追う者は一兎をも得ず」という諺は正しいと思います。

 幼子

 ルカ福音書では、この話の直前にイエス様が子どもを祝福する場面があります。イエス様に触れて頂くために人々が幼子や乳飲み子を連れてくることに、弟子たちは腹を立てて叱りました。でも、イエス様は乳飲み子たちを呼びよせてこうおっしゃいました。

「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

 今日は、中渋谷教会の青年たちの文集である「青年会誌」と高齢の方たちの文集である「桜丘の風」が同時に発行されました。中渋谷教会の青年たちは幸いなことに誰も富める青年ではありませんが、それぞれが御言と真剣に向き合いつつ自分の人生を見つめる文章を書いています。『桜丘の風』は、来るべき日に心備えをしている方たちがそれぞれの思いを書いておられます。その中に、教会学校に通っているお孫さんが幼稚園児の頃に書いた文章を紹介してくださっているものがありました。
 それは、「ありがとう」のお手紙を書くなら誰に何を書きたいかと尋ねた時に、その幼子が書いた文章です。その子は、大きな字で
「かみさま
 にんげんを
 つくってくれて
 ありがとう」
と書いた。
 ここには「頌栄」があります。この幼子は神様を賛美しているのです。愛に満ちた家族の中に生かされていることを感謝し賛美している。人間にとって「最上の幸福」は、このように神様を賛美することだと思います。私たちは神様を賛美するために創造されたのですから。

 誘惑に遭う大人

 しかし、私たちは誰でも幼子のままでいることが出来る訳ではありません。大人になっていく。誘惑に遭い、悪に染まっていきます。この世で言う所の「悪」ではなくとも、神様への感謝を忘れ、賛美を忘れ、己が幸福だけを求めて己が力に頼んで生きるようになるのです。つまり、「最上の幸福」が何であるかを知らぬままに生きていくことになるのです。家庭でも学校でも人間にとっての「最上の幸福」は「神を知ること」にあると教えないのですから、それは当然のことでしょう。だから、私たちが今その幸福を生きることが出来るのは「恵み」だと言ったのです。  しかし、そういう「恵み」を与えられている者にこそ、悪魔は襲撃を仕掛けてきます。それ以外の人々には既に勝利し、支配しているのですから攻撃する必要などありません。神の御心に従って生きようとする者にこそ攻撃を仕掛けてくるのです。イエス様が身をもって経験されたのはそのことだし、それはこの時の経験に留まりません。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」とルカは書いています。

 たとえ悪に落ちても

 イエス様は、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」「悪い者から救ってください」と祈るように命じられます。でも、「遭わせないでください」という訳だと、誘惑に遭うこと自体を免れさせてくださいと祈っているように聞こえます。しかし、「遭わせないで」は原語では二つの言葉の合成語です。「持ち運ぶ」とか「連れて行く」という動詞に「〜の中へ」という言葉がくっついているのです。誰だって誘惑に遭うことはあるのです。世の中は誘惑に満ちあふれているのです。その一つ一つを避けて生きていけるはずはありません。イエス様にとってもそれは自明のことです。
 誘惑に遭うことはある。毎日ある。でも、「その中に取り込まれないように祈りなさい。連れ込まれないように祈りなさい。祈らないままに悪に落ちてしまった時は、諦めないで悪から救ってくださいと祈りなさい」とイエス様は言われるのです。誰だって悪に落ちてしまうことはあるのですから。「たとえ落ちてしまっても、そこで父に向って祈れば父はその祈りを聞いてくださる。そのことを信じて祈りなさい」とおっしゃっているのだと思います。

 自分で戦うな

 ある牧師の説教集を読んでいたら、こういうことが語られていました。

「我々は誘惑と戦うべきではない。戦えばますます深みにはまってしまう。我々の戦いは人間に対するものではない。パウロが言う如く、もろもろの支配と権威と闇の夜の支配者に対する戦いである。その戦いに私たち人間は勝つことは出来ない。だから、祈るしかないのだ。」
 そうなのだと思います。私たちは誘惑と戦うことを通して、その誘惑の中に知らず知らずのうちに連れ込まれてしまうものです。
 先週の朝礼拝の説教は、私が尊敬する井ノ川牧師が語ってくださいました。力強い説教で、最初から最後までアクセル全開でしたけれど、途中でクスクスと笑ってしまう事例も入れてくれました。
 井ノ川先生は日曜日の夜、「八重の桜」だけでなく、録画しておいた「半沢直樹」というテレビドラマを見るのだそうです。このドラマは大ヒットしたのですが、「倍返し」の復讐をすることで人気を博したようです。あの温厚な先生が、そういうドラマを録画までして見ることに驚きました。また、夜寝ている時にしばしば激しい歯ぎしりをしていると聞いて、これもビックリしました。先生のように起きている時に倍返しをしない人は、夜中に自分でも知らぬ間に歯ぎしりをしているのでしょう。そして、倍返しの復讐をするドラマを見ながら溜飲を下げる。そういうことがあるのだと、先生はおっしゃいました。
 私は起きている時によせばいいのに倍返しをしてしまいますから、夜中に見る夢の中ではひたすら「ごめんなさい。すみません、ここはひとつ大目に見てやってください」とひたすら詫びている夢を見るのだと思います。

 『凶悪』

 私は、テレビでドラマを見ることは滅多にありませんけれど、休日には必ずと言って良いほど映画を見ます。先日観た映画は、『凶悪』というものです。その日に見る映画としてその映画を選んだ一つの理由は、今日の御言と関係がありそうだということです。
 その映画の主題は、復讐です。金のためならば平気で人を殺す、むしろ楽しみながら人を殺す。そういう人間がこの世にはいます。その映画では、殺人の実行犯であるヤクザは既に死刑囚になっています。しかし、その死刑囚は自分を操っていた土地ブローカーの男が世間でのうのうと生きていることが許せません。そこである雑誌記者に闇に葬られていた犯罪を告白して雑誌の記事にさせるのです。彼が願った通りその記事は話題になり、警察が動いてブローカーは逮捕されました。でも裁判の判決は死刑ではなく無期懲役なのです。記者はそれでは気が収まらず、何とか証拠を見つけ出してブローカーを死刑に追い込むことに必死になります。次第に目が血走って来るのです。その記者と拘置所の面会室で会ったブローカーは、「今、俺を最も殺したいと願っているのは、あのヤクザでも被害者たちでもない。お前さんだ」とおちょくったように言うのです。
 それは「お前も人を殺すことに熱を上げる人間なんだ」ということです。金のためとか正義のためとかいう大義名分は違っても、人を殺すことのために生きている。その点においては拘置所に捕えられている俺たちとお前は全く同じなんだということです。
 悪を憎み、悪と戦うという思いで悪と関わり続けると、次第に自分が悪に染まっていく。気が付いた時には同じ穴のムジナになっている。そういうことは確かにあります。悪に対して復讐することは、自らの墓穴を掘ることになるのです。

 敵を見誤るな

 どうしてそうなってしまうのかと言うと、敵を見誤るからです。「悪人」を敵だと思うからです。悪人が敵ならば、勝てることもあるでしょう。あるいは勝ったと思えることもある。でも、もし悪人を殺して正義が勝ったと思うとするならば、その時にこそ悪魔が勝利の雄叫びを上げているのです。「俺が勝った」と。「悪人に復讐し、悪人を殺すことを正義だと思わせることに成功した。だから俺の勝ちだ。」悪魔はそういう歓呼の声を上げている。この世はそういう悪魔の雄叫びと歓呼に満ち満ちています。この世は誘惑に満ちた荒れ野であり、誘惑に負けた者たちの修羅場なのです。

 求めなさい

 しかし、その荒れ野や修羅場を主イエスはご存知です。誰よりもご存知です。そして、主イエスは悪魔には勝利をさせませんでした。ルカ福音書の荒れ野の誘惑の直前直後を見ると、「イエスは聖霊に満ちて」「荒れ野の中を霊″によって引き回され」「イエスは霊″の力に満ちて」と書かれています。それは父なる神の力に満ちてと言い換えてもよいでしょう。
 イエス様は、その父の力に完全に頼られたのです。悪魔はその父と子の関係を引き離し、引き裂こうとあの手この手で誘惑してきます。しかし、イエス様は悪魔を見ない。悪魔と戦いません。対話しないのです。ただひたすら天の父を見上げ、天の父が与えてくださる言葉を待ち、それを告げるだけです。聖霊によって与えられる神様の言葉、それだけが悪魔に対抗できるものだからです。イエス様が聖霊を与えられたのは、ヨハネから洗礼を受けた直後に祈っておられるときでした。そして、イエス様はご自身と同じように「父よ」と呼びかけて祈りなさいと命じてくださっているのです。
 来週の礼拝では、主の祈りに続く箇所を読みます。そこで主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる」とおっしゃり、最後は「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とおっしゃっています。
 襲って来た誘惑の中に完全に入り込まないようにしてくださるのも、落ちてしまった悪から救い出してくださるのも、神様の力である聖霊なのです。私たちは自力では何も出来ません。私たちは自分で自分を救うことは出来ないのです。それは真剣に誘惑と戦った経験のある人間、つまり、悪魔との戦いに無残に敗北した経験のある人間にとっては実感として分かることではないでしょうか。
 だから、主イエスはここで「アッバ、父よ。助けてください。聖霊を送ってください」と祈るように命じてくださっているのです。私たちが誘惑の中に入り込んで行かないように、悪と戦いつつ悪の中に取り込まれ、ついに完全に悪魔に敗北してしまわないようにです。

 人間に入りこむ悪魔

 悪魔そのものは目に見えません。悪魔は人間の中に入り込んできて、人間に悪魔的な業をさせます。パウロは、そういう悪魔の性質を良く知っていた人だと思います。彼は、コリントの信徒への手紙IIの中で、人を赦すことは「サタンにつけ込まれないためだ」(2:11)と言います。サタンはいつも、「あいつを憎め。復讐しろ。殺してしまえ」と囁きかけてくるからです。
 そして、昔も今もキリストの使徒を装って教会に入りこんでくる偽使徒がいます。神に仕えるためではなく、生活の資を得るために、また人を支配する欲望を満足させるために伝道者になる人間がいるのです。パウロは、そういう事実を指摘しつつこう言います。

「驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」(IIコリント11:14〜15)

 サタンに仕えることでこの世の富や権力を手にすることは出来ます。サタンは賢いのですから。荒れ野でイエス様を誘惑した悪魔もその手口で誘惑しました。イエス様はそれが悪魔だと分かります。しかし、私たち人間はそれが悪魔だとは分からないことが多いのです。「光の天使」だと思うことがある。だから、義に仕えているつもりで悪魔に仕えていることがあるのです。まさに自分のしていることが分からない。

 復讐を願わない

 イエス様を十字架に磔にした首謀者たちは、神の民イスラエルの議員たちです。大祭司、祭司長、律法学者、民の長老たちです。自分たちは神に仕え、その義に仕えていると確信しているのです。だから、彼らはイエス様を「神を冒涜した罪人」として処刑することに些かの迷いもありません。彼らは十字架の上で祈るイエス様に向って叫びます。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

 ここに悪魔の勝利の雄叫びがあるでしょう。彼らは義に仕えているつもりで、サタンに仕えているのです。その人々の声を聞きつつ、イエス様はひたすらに父を見上げながらこう祈られました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」

 イエス様は、悪魔に仕えてご自分を殺す者たちに対する復讐を願いません。彼らの救いを願う。私たち罪人の救いを祈り求めてくださる。
 その後、それこそ自分が何をしているか分からぬままに犯罪を繰り返し、ついに十字架に磔にされている犯罪者が、イエス様に罪の赦しを願います。自分の罪を認め、死刑という裁きを受け入れた上で、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。その男に向ってイエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。

 神様の愛の勝利

 そして、真昼間なのに太陽が光を失う中で、大声で叫ばれました。

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」

 イエス様ご自身が「父よ、父よ」と祈っておられるのです。聖霊を注ぎながら「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と語りかけてくださった父の愛を信じ、その愛の中にご自身をお委ねになっている。それが主イエスの祈りです。その祈りにおいて、主イエスは誘惑に打ち勝ち、悪魔に打ち勝っておられるのです。ここに神様の愛の勝利があるのです。
 主イエスは「祈るときには、こう言いなさい」と命じることで、主イエスの祈りの戦いの中に私たちを招いてくださっているのです。誘惑に直面しても、その中に入り込まないで済むように、たとえ誘惑に負けて悪の中に落ち込んでしまった者にも救いを与えるためにです。神様は、そういう者の悔い改めの祈りを聞いてくださり、楽園に招き入れてくださるのです。それが神様の義の裁きです。そこに神様の勝利があるのです。

 主イエスの執成しの祈り

 十字架の死と復活を経て、今は主イエスは神の右に座しておられます。勝利者として神の右に座しておられる。そこで何をしてくださっているのか。パウロはこう言います。

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
(中略)
これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマ8:34〜39抜粋)

 私たちのためにイエス・キリストを荒れ野であるこの世に送ってくださったのが、私たちの父である神です。天地の造り主にして全能の父なる神様です。その神様が御子イエス・キリストの十字架の死と復活を通して私たちの罪を赦してくださったのです。そして、永遠の命を受け継ぐ者、楽園に生きる者にしてくださったのです。
 御子は今、神の右の座にあって、日々誘惑に直面している私たちのために執成しの祈りをささげてくださっている。そして、信仰を与えて輝かしい勝利を与えようとしてくださっている。何という恵みでしょうか。最早何ものも主キリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことは出来ないのです。
 私たちはその事実を毎週、賛美に始まり賛美で終わる祈りとしての礼拝において確信することが出来るのです。だから、その確信をもって今日も祈ります。

「父よ、誘惑の中に入って行かないように私たちを導いてください。あなたに祈ることをしない罪の故に落ちてしまう悪の中からも、私たちを救い出してください。国も力も栄も永久にあなたのものです。あなたは全能の父です。御子は私たちの救い主です。どんな者でも悔い改めるならその罪を赦し、楽園に招いてくださる方です。父よ、私たちはあなたを賛美します。私たちはあなたの子、あなたの御名を崇めるために造られたのです。私たちをそのようなものとして造ってくださってありがとうございます。恵みによって、あなたを賛美する最上の幸福を与えてくださったことを感謝します。どうか、この信仰を日々新たにしつつ生きることが出来ますように、これからも聖霊を注いでください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン」

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