「まして天の父は」

及川 信

       ルカによる福音書 11章5節〜13節
   
11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 父よ

 先週「主の祈り」に関する説教は終わると言いました。「祈り」の言葉としては4節で終わっています。しかし、「わたしたちにも祈りを教えてください」という弟子たちの願いに対する主イエスの応答は、今日の箇所まで続いています。11章の1節から13節までは一つの纏まった単元なのです。  その単元の枠となる言葉は、2節と13節に出てくる「父」です。イエス様は「父よ」と呼びかけることで祈り始めます。「父よ」とは、当時のユダヤ人の言葉で言うと「アッバ」です。幼子が「お父ちゃん」と呼ぶ時の言葉だと言われます。そこには独特の親密さ、他の人が割り込むことが出来ない親密さがあります。神様の独り子だからこそ、神様をこのように呼ぶことが出来るのです。しかし、イエス様はご自分と同じ言葉で神様を呼ぶことを弟子たちに許しておられる、いや命じておられる。神様を「お父ちゃん」(アッバ)と呼びなさいとおっしゃる。そこに神様の「恵み」があることは言うまでもありません。私たちは、半年もかけて御一緒に主の祈りの一つ一つの言葉を味わってきました。そして今、「父よ」(アッバ)と呼びかけて祈ることが出来る恵みが、どれ程深く大きなものであるかを噛みしめる思いがします。

 確信に基づく祈り

 先週の説教の最後に、私はパウロの言葉を読みました。彼はこう言っているのです。

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38〜39)

 この確信こそが祈りの前提です。この確信がなければ、私たちは真実に祈ることは出来ません。

 通常の解釈

 そのことを踏まえた上で、今日の箇所に入っていきたいと思います。もう一度前半を読ませていただきます。

また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。

 これは譬話です。イエス様は弟子を登場人物にすることで、彼らに考えさせようとしています。
 弟子たちの中の誰かの友達が、旅の途中に真夜中に家に訪ねてくることを想像させるのです。庶民の家は一部屋かせいぜい二部屋です。食べ物を探すには明かりをつけなければならず、音も立ちます。戸を開ければ冷たい外気も入って来て、結果として家族を起こしてしまうのです。だから、真夜中に訪ねてくるなんて迷惑なことです。でも、この話の中では、弟子は真夜中の来訪者を歓迎するためになんとかしたいと思い、近くに住む友達の家に行って「パンを三つ貸してください」と頼むことになる。しかし、真夜中にそんなことを頼んで「面倒をかけないでください」と言われるにちがいない。でも、「しつように頼めば」起きてきて必要なものを何でも与えてくれるだろう。
 この譬話は、神様に対して執拗に頼むこと。求め続けることの大切さを教えるものとして解釈されてきました。願うのであれば本気になって願え。本気であるなら、一度や二度断られたからと言って引き下がることはないだろう。人は友情に基づいてだけ好意を与えるのではなく、本気であるかどうかを見ているものだ。天の父だって同じことだ。「求めなさい。そうすれば与えられる」も、必死になって求め続けていれば、神様はきっと応えてくださるという意味で解釈されてきたのです。私も、そういう線で理解してきました。

 やもめと裁判官の譬話

 この先の18章に「『やもめと裁判官』のたとえ」と言われる譬話があります。何度も裁判官を訪ねては、自分に有利な判決を出す裁判を開いてくれと願い続けるやもめが登場します。裁判官は、当初、やもめの訴えを聞く気はありませんでした。しかし、何度も自分の所に来られるのは面倒だからという理由で、彼女のために裁判をするのです。
 そういう譬話をした後で、イエス様は「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」とおっしゃる。この譬話が今日の譬話と似ていることは明らかです。だから、同じことを言っているように思えるのです。
 でも、18章の方はこういう言葉で始まっています。

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」

 祈りにおいて求められている一つのことは、確かにそういうことだと思います。今日祈って、明日何かが起こらなければ祈らなくなるとすれば、それはそもそも祈りではないでしょう。何年も何年も祈り続ける。それこそが祈りだとも言えます。
 そもそも「主の祈り」は、この二千年間、キリスト者によって祈り続けられてきたものです。二千年間も祈られ続ける一つの理由は、祈り求めていることが実現していないことにあります。天上・地上・地下のあらゆるものが膝を屈めて「イエス・キリストは主である」と告白して、父である神を賛美する神の国がまだ完成していないのです。だから、私たちは祈り続ける。「御名が崇められますように」「御国が来ますように」と祈り続けるのです。その祈りを止めることは、キリスト者として生きることを止めることなのです。
 しかし、私たちが祈り続ける理由は、祈り求める事柄がまだ実現していないことにあるだけではありません。私たちが祈り続けるのは、神様の愛を確信するからです。そして、神様を愛しているからです。その確信に基づく愛がなければ、私たちは「お父ちゃん」と呼びかけることなどしないでしょう。
 父親が自分を愛していないと思った子どもは、親しみをこめて「お父ちゃん」と呼びかけて何かを願ったり、今日の報告をしたりはしません。交わりを求めないのです。心を閉ざし、口を閉ざし、目を合わせることもしません。しかし、愛を確信できて、自分も父親を愛していれば「お父ちゃん」と呼びかけて様々な話をするでしょう。その交わり自体が嬉しいのです。祈りは、父なる神様との交わりです。私たちは聖書を読みながら祈るのです。神様の語りかけを聴きつつ語りかけるからです。礼拝もそういう祈りの時です。その交わりの中に生きる時、私たちは最上の幸福を味わうのです。

 しつように頼む?

 そのことを踏まえた上で、11章の初めから13節までの単元を新たな思いで読み直してみたいと思います。枠になる言葉は「父」です。その「父」とは「天の父」です。天地の造り主にして全能の父であり、御子イエス・キリストの父なる神です。御子の十字架の死と復活を通して、何ものも引き離すことが出来ない愛で私たちを愛してくださっている父です。その父を呼んで祈りなさい。父に願いなさい。求めなさい。主イエスは、そうおっしゃっています。
 それは分かるのですが、今日の箇所はよく読むと実は分かりにくいところです。冒頭の主イエスの言葉、「あなたがたのうちの誰かに友達がいて、真夜中にその人の所に行き、次のように言ったとしよう」も、少し分かりにくいと思います。先ほど言いましたように、真夜中に友達の所に行ってパンを貸してくれと頼むのは弟子のうちの誰かです。弟子がなぜそういうことをするかと言うと、旅行中の友達が真夜中に訪ねてきたからです。「友達」という言葉が二度出てきますけれど、それは別人です。
 解釈が難しいのは8節です。新共同訳聖書では「しかし、言っておく」となっていますけれど、原文には「しかし」はありません。なぜ翻訳者が「しかし」を入れたかと言うと、その後の文章を「しつように頼めば」と解釈するからです。つまり、友達は友情だけでは起きてくれなくても「しつように頼めば」起きてくれるはずだと解釈しているのです。これが伝統的にして一般的な解釈であることは先ほども言いました。そして、私たちもその解釈に基づく翻訳で聖書を読んでいるのですから、同じ解釈をするのはある意味当然です。
 でも、原文では「頼めば」という動詞はないし、「しつように」という訳も疑問なしとしません。ギリシア語ではアナイデイアという言葉です。新約聖書のここにしか出てきません。だから難しい。アナイデイアはアイドースという言葉に否定辞のアンがくっついた言葉です。アイドースもテモテの手紙Tの 2章 9節にしか出てきませんが、そこでは「慎み」と訳されています。それに否定辞がついたのですから、意味は「恥知らず」となります。真夜中に人を起こしてパンを貸してくれと言うこと自体が恥知らずなことだという解釈に基づいて「しつように頼む」と訳されることになったのでしょう。多くの翻訳聖書がそういう訳になっています。

 恥

 しかし、何が「恥知らず」なことか、何が不名誉なことかは文化によって異なります。時代によっても変わります。「日本の文化は恥の文化だ」と言われることがあります。多くの日本人が恥とすることを外国人は理解できない。そういうことがあります。極端な例で言えば、戦争中は「生きて虜囚の辱めを受けず」という教育が徹底されており、負けが分かっている戦場で、「天皇陛下万歳」と言って突撃するとか、手榴弾を腹に抱えて自爆するとか、集団自決するとか、玉砕することが名誉なこととされていました。恐ろしいことです。
 そのような死に方を名誉なこととするのは、異なる文化圏の人々から見れば理解できないことです。負けが見えれば白旗を上げて捕虜になって生き延びることは恥ではなく、名誉ある敗北だという考え方もあります。
 少し前の新聞で読んだことで詳細は忘れてしまいましたが、インドのある地方の村で、父親が娘を殺した記事が出ていました。それは「名誉の殺人」と呼ばれることのようです。その人の娘は、してはならない恋愛をして妊娠したのです。その場合は、家長が娘を殺すことで家の名誉を守ることになっているのです。ですから、逮捕された父親は、「娘を殺したことを些かも後悔していない。これ以外に家の名誉を守ることは出来なかったし、娘だってこうなることは覚悟の上だ」という趣旨のことを言っていました。
 数年前に、レバノンの現実を描写する壮絶な映画を見ました。その映画は、キリスト教徒との恋愛によって妊娠した女性が兄から殺されそうになる場面から始まっていました。兄は、「よくも一族の名誉を汚すことをしてくれたな」と言って銃の引き金を引こうとする。その寸前に女性の母親が出てきてかろうじて殺されないで済んだのですが、生まれた子は即座に奪われ、女性は村から永久追放されます。連絡もしてはならないのです。死んだも同然です。そのようにしなければ、その家の名誉を守ることが出来ないのです。異教徒との自由な恋愛は「恥知らず」にして「不名誉」なことであり、そういう行為には厳しい罰が与えられるのです。そのようにしなければ共同体の秩序を保つことができないのです。
 かつての日本において、旅人をもてなすことはかなり重要な美徳であったと思います。旅人に頼られることは名誉なことであり、その旅人を盛大にもてなすことで、その人の名が上がるのです。中東の部族社会では、今でもその風習は強いのではないかと思います。もし、訪ねてきた旅人に食事も出さず追い返すようなことをすれば、それは不名誉なことであり恥知らずな者として名が広がってしまい、その部族の中ではまともな人間として扱われなくなるのです。

 どっちが恥知らずなのか?

 そういう文化的背景を考えながら読むと、真夜中に友人にパンを求めることが「恥知らず」なのではなく、むしろ友人の求めを断る方が「恥知らず」であり不名誉ということになります。そもそも、旅行中の友達が真夜中に訪ねてきた時、一言の文句も言わずに何とかもてなそうとした人がいることからこの話は始まっています。また、原文には「しかし」も「頼む」という言葉もなく、5節以降の長い文章は否定の答えを期待する疑問文なのです。要約して言うと、「あなたがたの友人の中には、『面倒をかけないでくれ』と言ってあなたの求めを断るような恥知らずなことをする人がいるだろうか。いや、いるはずがない」となります。決して多くはないのですが、そう解釈する人もいます。私は、この解釈の方が文脈の中では正しいように思います。
 この譬話で強調されていることは、友達に対する絶大な信頼です。真夜中だろうが何だろうが、私が求めれば友達は必ず応えてくれるに違いないという確信です。

 その人=天の父

 この箇所を色々と考えながら繰り返し読んでいると、8節が前半の譬話と後半の勧めを繋ぐ文章だと分かります。8節は両者が混ざり合っているというか、人の話と神様の話が混ざっている感じがします。
 先ほどの解釈に基づいて8節を訳すとこうなります。

「わたしはあなたがたに言う。その人は友達だからということではなく、その人自身の名誉のために起きてきて、彼の必要とするすべてのものを与えるだろう。」

 ここに出てくるパンを頼まれる友達としての「その人」は、13節の結論に出てくる「天の父」のことだと思います。こんな人は実際にはいないからです。譬話の中では「友よ、パンを三つ貸してください」となっています。「貸してください」とは、返せる時には返しますということです。そして、借りる物も「三つのパン」とはっきりしています。極めて現実的な話です。
 しかし、7節に既に「起きて何かをあげるわけにはいきません」とありますが、「あげる」「与える」(ディドーミ)です。7節から13節までの間に六回も出てくる言葉は「与える」であって「貸す」ではないのです。

「その人は友達だからということではなく、その人自身の名誉のために起きてきて、彼の必要とするすべてのものを与えるだろう。」

 「パンを三つ」
どころではない。「必要なものすべて」「貸す」のではなく「与える」。こういうことをする人は現実にはいません。これは天の父である神様の行為です。イエス様は極めて人間的な譬話をしつつ、ここから神様の話を始めておられると思います。だから、「わたしは言っておく。求めなさい。・・・探しなさい。・・・門をたたきなさい」と続けられるのです。つまり、「あなたがたが求める相手は、人ではなく神なのだ。それも、あなたがたの父となってくださった神なのだ」ということです。
 その後に続くイエス様の言葉は誇張表現です。子どもが魚を欲しがる(求める)のに蛇を与え、卵を欲しがるのにさそりを与える父親はいません。「あなたがたが悪い者でありながら」とは、「神の御心を知らない罪人でありながら」という意味だと思いますけれど、そういう者でさえ「自分の子供には良い物を与えることを知っている」。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とおっしゃるのです。「神様とは、そういう方なのだ。その神様を信頼し、『アッバ、父よ』と祈りなさい。だれでも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。そこに神様の名誉、栄光が現れるのだ。」イエス様は、そうおっしゃっていると思います。

 何を求めるのか?

 「求める」「探す」「門をたたく」
は、対象が神様である時はすべて祈りを意味しますし、内容的には一つのことだと言って良いでしょう。しかし、何を求め、探し、門をたたくのかについてイエス様はお語りになっていません。それは、主の祈りが前提になっているからです。主イエスが教えてくださった祈りを祈ることが「求め」「探し」「門をたたく」ことだと思います。そして、主の祈りもまた実は一つのことを祈っているのだと思うのです。
 その一つのこととは、神様を「父よ」(アッバ)と呼ぶことです。自分だけでなく、すべての人々が神様を「父よ」と呼ぶことが出来ますようにという祈りです。そこに御名を崇めることがあり、御国があり、生きるために必要な糧があり、罪の赦しがあり、誘惑からの守りがあるのです。神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことは、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と確信することと同じです。「すべての人がその確信を与えられ、神を愛し、互いに愛し合うことが出来ますように。」それが、私たちに与えられた祈りです。
 パウロは、神の愛に対する確信を語る前にこう言っています。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:14〜17)

 キリストと共に何を相続するのかと言えば御国です。キリストの復活に与る神の国です。そこにおいては、誰もが神の御顔を拝して「父よ」と呼んで賛美出来るのです。そこに私たちの究極の救いがあります。また、最上の幸福がある。私たちはそこに向って生きている。それが私たちの希望です。様々な試練、誘惑に遭い、挫折と失敗を繰り返し、しばしば絶望的な気分に落ち込みつつも、それを上回る希望が私たちには与えられているのです。それは、神の霊、聖霊が与えられているからです。聖霊が注がれる時、私たちの心は新たな息吹に生かされて、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離せる」ものはないことを確信し、「アッバ、父よ」と呼びかけ、賛美することが出来るのです。
 だから、私たちが求めるべきものは聖霊なのです。聖霊こそが、私たちに神の国到来の希望を与えてくれるものだからです。それ故に、イエス様はこの先で、「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とおっしゃっているのです。今既に来りつつある神の国を生きることと聖霊を受け入れて生きることは、基本的に同じことです。

 神の国を求めなさい

 今日の箇所だけを読むと、神様の愛を信じて祈り求めれば、神様はどんなものでも与えてくださるとおっしゃっているように思えます。しかし、イエス様はそんなことをおっしゃっているのではありません。信仰をもって祈るとは、聖霊の導きの中で神様のために祈ることです。神様の御心の実現を求めて祈るのです。そして、私たちが「父よ」と呼んで祈る神様は「小さな群れ」である私たちを愛し、常に最上のものを与えようとしてくださっているお方なのです。私たちのために生きてくださっている父なのです。そして、この神様は「その独り子をお与えになったほどに世を愛」してくださる神様です。その神様に対して全身全霊を捧げて「アッバ、父よ」と祈ることが出来る時、そこに御国があるのです。「その御国を求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と主イエスは言われる。必ず与えられるから、と。「聖霊の注ぎを受けつつ祈る時、私があなたがたのために私の命を与えたことが分かる」と。

 門をたたく

 その祈りの中で私たちが知ることがあります。それは、神様の方が私たちを求め、探し、その心の門をたたいてくださっているということです。
 ヨハネの黙示録にこういう言葉があります。

「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。耳ある者は、霊″が諸教会に告げることを聞くがよい。」(ヨハネ黙示録3:19〜22)

 この霊の言葉を聴きとるために、そして「アーメン、主イエスよ、信じます」と応答するために必要なのは聖霊です。だから、私たちが最も必要としているのは神が送ってくださる聖霊なのです。その聖霊こそ、私たちを神の子とする信仰を与えてくださるものであり、真の父である天の父の愛を知らせてくれるものだからです。
 そして、その聖霊を求める者であれば誰でも、神様は聖霊を与えてくださるのです。たとえこの世においては取り返しがつかない過ちを犯してしまった者でも、人には赦されない者でも、罪の赦しと新しい命を与えてくれる聖霊を求めるならば、天の父はご自身の名誉にかけて聖霊を与えつつ「我が子よ。よく帰って来た。待っていた」と言って抱きしめてくださるのです。
 主イエスは、罪に落ちた私たちが父の許に帰る道となるべく肉においてこの世に到来し、十字架の裁きを受け、そして復活して天に上げられたのです。十字架の上にご自身の命を捧げることによって、私たちに新しい命を与えてくださったのです。私たちは、聖霊を与えられることによって、そこに現れている神様の愛を信じることが出来、今日も万感の感謝をもって「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るのです。こんな「恵み」は他にはありません。この「恵み」を今日新たに感謝し、午後のバザーにおいては一人でも多くの方たちと分かち合うことが出来ますように祈ります。

ルカによる福音書説教目次へ
礼拝案内へ