「そうなると、その人の状態は」

及川 信

       ルカによる福音書 11章24節〜32節
   
11:24 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。11:25 そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。11:26 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
11:27 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」11:28 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
11:29 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。11:30 つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。11:31 南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。11:32 また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

 今日の箇所は前回の続きの部分で、36節まで続きます。今日は28節までを読み、29節以下は年が明けてからにしたいと思います。

 目に見える現象は同じだけれど

 前回は、主イエスが悪霊を追放する場面でした。人々が気付いていようといまいと、そこには悪霊と神様との支配をめぐる戦いがあるのです。目に見える現象としては、主イエスがなさっているような悪霊追放をする人々は他にもいました。目に見える現象は同じです。しかし、その現象を見た人々の反応は様々でした。
 ある人々は「驚嘆」し、ある人々は主イエスを試みるために「天からのしるし」を求めました。「しるし」に関しては、29節以下で主イエスが応答しておられます。そして、ある人々は、イエス様がベルゼブルの力を借りて悪霊を追放していると非難したのです。つまり、イエス様は悪霊の頭と仲間であると言っているのです。
 それに対して、イエス様は御自身の悪霊追放は「神の指」の業であり、「神の国」が到来していることのしるしであるとおっしゃいました。「神の国」とは神の支配のことです。神の支配が到来した。神様がこの地上の主であり支配者であることが明らかになっていると、主イエスはおっしゃったのです。
 今、「明らかになっている」と言いました。しかし、それは誰の目にも明らかであることを意味しません。事実、人々の評価は様々です。この時この場にいた人々の誰も、主イエスの業を通して「神の国が来ている」ことを悟ってはいないのです。そこに「神の指」の業を見た人はいない。恐らくその場にいたであろう弟子たちも、まだ本当には分かっていなかったと思います。

 戦いの勝利としての神の国(支配)

 「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とおっしゃった後、イエス様はこう付け加えられました。

「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。」

 ここは激しい戦いの場面です。悪霊の頭であるベルゼブルと神様が戦っているのです。人間を支配の中に入れるために戦っている。ベルゼブルは悪霊(ディアボロス)を遣わし、神様はイエス様を遣わして激しく戦っているのです。そして、イエス様が悪霊を追放したことは、イエス様が勝利したことを表しています。

 忘れられない言葉

今日の箇所はその続きです。

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」

 初めてこの箇所を読んだのは、教会学校に通っていた小学生の時です。自分で読んだのではなく、教会学校の礼拝の中で読まれ、そして説教されたのだと思います。その時の情景を覚えているわけではありませんが、子どもながらに合点がいったのです。そして、イエス様がおっしゃっている情景が見えるような気がしたし、「こういうことはあるよな」と思ったのです。その時から何十年も生きてきて、イエス様がおっしゃっていることの真実、あるいは深さを思います。

 悪霊は死なず  帰ってくる

 「汚れた霊」「悪霊」を区別する必要はないと思います。4章33節には「汚れた悪霊」として登場します。また、ここに出てくる「汚れた霊」を、直前に追放された「口を利けなくする悪霊」に限定する必要もありません。イエス様はここで譬話を語っておられるのですから。イエス様は、悪霊は追放されても死滅した訳ではないし、いつか帰ってくる可能性が高いとおっしゃっているのです。その悪霊を撃退できるかできないか、それが問題です。
 「出て行く」とは、自分で出て行くことです。それまで武装して守っていた家に、自分よりも強い者が襲って来て負けてしまった。だから、それまで支配していた家から退散するのです。悪霊は、暫くの間、砂漠をうろついて休む場所を探すでしょう。しかし、安んじて暮らす場所がなくて再び帰ってくるであろうと、イエス様はおっしゃる。

 砂漠

 「砂漠」(アヌドゥロス)とは水がない場所のことで、新約聖書には4回しか出てこない珍しい言葉です。
 ペトロの手紙二の2章17節以下に出てきます。少し長いのですが読んでおきたいと思います。皆さんは、今日のイエス様の言葉が、激しい戦いの直後に語られていることを心に留めながらお聞きくださるとよいと思います。ペトロが語っていることも激しい戦いだからです。

この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。ことわざに、
「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」
また、
「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」
と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。

 「この者たち」
とか「彼ら」と言われている人々は、「迷いの生活からやっと抜け出て」キリスト者になった者たちを「肉の欲やみだらな楽しみで誘惑する」人々のことです。その人々のことをペトロは、「干上がった泉」だと言います。「干上がった」「砂漠」と訳されたアヌドゥロスです。泉は命の象徴です。しかし、その泉が干上がっているのであれば、それは死の象徴となるでしょう。

 後の状態とは

 ここにはもう一つ、今日の譬話と同じ言葉が出てきたことに気づかれたと思います。一旦出て行った汚れた霊が自分よりも悪い七つの悪霊を連れて戻ってきたならば、「その人の後の状態は前よりも悪くなる」と、主イエスはおっしゃいました。
 ペトロはこう言います。

わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。

 「後の状態は前よりも悪くなる」
。これは一種の格言として人々に知られていたと言われます。人は、何らかの形でこの言葉を経験するからでしょう。一つの人生訓として広く知られていたことは理解できます。でも、イエス様やペトロはここで人生訓を語っているのかという疑問も湧きます。
 「後の状態」と訳された言葉は、エスカトスの複数形です。エスカトスとは、「世の終わり」とか「最後の審判」を意味することが多い言葉なのです。
 イエス様は、ある所でこうおっしゃっています。

「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」  (ヨハネ6:40)

 「終わり」がエスカトスです。だから、「後の状態」は最終的な状態、終末の裁きの座に立つ時の状態として解釈される場合があります。そうなると、ここでは単なる教訓が語られているのではなく、救いと滅びという究極的な事柄が語られていることになります。そのように受け取った方が正しいように思います。
 既に私たちのところに来ている「神の国」を生きるか否か。それは救いか滅びか、神の被造物である人間として生きるか死ぬか。そういう問題です。
 私たちキリスト者の信仰は、終末論的な信仰であると言われます。それはいつも終末を見つめ、その日に備える信仰だからです。

 わが家

 一旦、人から出て行った汚れた霊は、砂漠で休息所を見つけることが出来ません。彼らは人に取りつき、その中で生きることを好むというか、その中でこそ安心して生きることが出来るものだからです。だから、彼はこう言う。

「出て来たわが家に戻ろう。」

 これは衝撃的な言葉です。悪霊にとっては、かつて住んでいた人間の心の中は「わが家」、つまり自分の家なのです。どこよりも安心してくつろげる「わが家」です。自分より強い敵さえいなければ、再び帰ることができる家です。だから悪霊は必ず戻って来ます。あれだけの敗戦を経験しても、結局、本質的に戦前と変ることがなかったこの国には、再び思想統制や天皇制強化の風潮がはびこって来ています。そういう現実も、ここで語られていることと深い関係があると、私は思います。
 原文では、「見つけた」(ユーリスコー)という言葉が書かれています。「汚れた霊は戻ってきた、そして見つけた。家が掃除してあり、整えられているのを」が直訳です。悪霊は呆気にとられつつも歓喜したでしょう。「しめた。あの敵はここにはいないんだ。俺の代わりに住み着いていないんだ。空き家のままだ」と。わが家が空き家であれば、自分の仲間、それも自分よりも悪い七つの悪霊を引き連れて家の中に入り込んで、住み着くことになります。前よりも厳重に武装して「自分の屋敷を守る」のです。

 前よりも悪くなる

「そうなると、その人の状態は前よりも悪くなる。」

 このようにおっしゃる時の主イエスの心は、どういうものなのでしょう。人生の教師として、冷静に格言の意味を教えておられるのでしょうか。私は、そうではないと思います。今、神に遣わされたメシアとして、神の指の業によって悪霊の主人たるベルゼブルの手下たちと戦い、勝利したのです。悪霊が武装して占領していた一人の人を力づくで奪い返し、神の国に生きることが出来る者にしたのです。その人が、ちゃんと神の支配の中を生きることを願っておられるのです。
 しかし、せっかく主イエスが悪霊を追い出しても、その後、その人が神様を支配者として受け入れて生きていないのであれば、その人は元の木阿弥どころか前よりも悪くなり、滅びに至ってしまう。そんな空しいことはないし、そんなに悲しいこともありません。主イエスは心引き裂かれる思いで、「その人の状態は前よりも悪くなる。分からないのか?!」と叫んでおられるのだと思います。

 神の家族

 その時、イエス様の周りには多くの人々がいました。その中の一人の女が、イエス様の言葉に感動してこう叫びました。

「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」

 立派な子は親の誉れです。親は子の成長を何よりも望み、立派に成長すればそれを喜び、誇りとし、我が身の幸いを感謝するものです。この女は、そういう親の思い、特に母親の思いを代弁したのでしょう。しかし、彼女は知りませんでした。イエス様がかつて語ったことを。
 ある時、イエス様の母や兄弟たちがイエス様に会いにやって来たのです。でも、イエス様はその時も群衆に囲まれていて、家族は家の中に入ることが出来ませんでした。そこで母や兄弟たちが外で待っていることを伝えてもらった。しかし、イエス様はこうおっしゃったのです。

「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」  (ルカ8:21)

 主イエスによってこの地上に到来している神の国、あるいは神の家族は、血の繋がりによって形作られるものではないのです。血族、部族、民族的共同体ではないし、国家共同体でもありません。そういうものとは別次元のものです。地上に存在するだけのものでもない。私たちが目で見るものの中に類比がないので、私たちには分かりにくいのです。しかし、たしかに存在するものです。
 どこにどのように存在するのかと言えば、「神の言葉を聞いて行う人たち」の中に存在するのです。しかし、そのことは説明を聞いて分かることではなく、実際に神の言葉を聞き、その言葉を行うことによって分かることです。それ以外には知り様がないことです。

 なんと幸いでしょう

 今日の箇所においてもそれは同じです。主イエスは女にこうおっしゃいました。

「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

 問題は「神の言葉」なのです。でも、その前に「幸い」について見ておきたいと思います。
「幸いである」という言葉はこれまでも何回か出てきていますが、「なんと幸いでしょう」は1章45節にしか出てきません。天使ガブリエルから受胎告知を受けたマリアが、エリサベトを訪ねた場面です。
 エリサベトはマリアに向かってこう言いました。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 「神にできないことは何一つない」
と天使に言われた時、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。彼女は、神様の言葉を受け入れ、神様の言葉に自分自身の身を捧げたのです。神様の言葉が実現する器として自分自身を差し出したのです。その時から、彼女の体の中で神様の言葉は実現していくのです。彼女を通して神の言葉がその姿を現し、その力を発揮していくのです。
 エリサベトはそのようなマリアに向かって、「なんと幸いでしょう」と語りかけたのです。それは、それまでの自分に死んだ人間に対する言葉です。自分の人生の支配者は自分であると信じていた人間が死に、自分の人生の支配者は神であることを受け入れた人間が誕生したのです。エリサベトは、神の言葉を受け入れることによって新しく生まれたマリアに向かって、「なんと幸いでしょう」と言ったのです。

 マリアにおいても起こったこと

 しかし、そのマリアもまた後にイエス様に会いに来るのです。マルコ福音書によれば、それは気が変になっているという評判が立ったイエス様を「取り押さえる」ためです。神の国の伝道に邁進する長男の目を覚まさせ、我が家に連れ戻し、長男として家業を継がせるためなのです。マリアは、受胎告知の時から終始一貫、神の言葉の実現だけを願って献身していた訳ではない。彼女もまた、かつての我が家に帰ってしまったこともある。胎に宿し、乳房を含ませた我が子を、いと高き方の子として捧げるのではなく、我が子として連れ戻そうとしたことがある。後の教会が作り出したマリア像がいかなるものであったとしても、聖書においてマリアはリアルな人間です。一旦は出て行った汚れた霊が帰って来て、再び住みついたこともあるのです。

 知らなかった方がよかった

 悪霊は人から出て行っても、再び帰って来ます。そして、空き家になっていれば再び住みつくのです。仲間を引き連れてです。そうなると、その人の状態は前よりも悪くなるのは当然です。それは、ペトロの言葉を使えば「義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに」ということであり、「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われるようなことなのです。だから、私たちキリスト者はそれ以外の人々、またキリスト者になる以前の自分よりも深刻な罪を犯す可能性の中に置かれているのです。清められた後は少しの汚れであっても目立つものです。純白のシーツに黒い染み一つでもつけば、染みだらけのシーツよりも悪い状態です。それは、「幸い」とは程遠い状態です。

 聞き、守ることで生きる信仰

 しかし、主イエスは私たちが願うよりも強く、私たちが幸いを生きることを願ってくださっている。だから、「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」とおっしゃる。腹の底から搾り出すような声でおっしゃったと思う。
 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と、パウロは言いました。聞くことに始まるのです。聞くことで終わるのではありません。聞いて感心したり、感動して終わるのではない。そこから始まるのです。
 前回、私は「神の国とは、突然やって来て気が付いたらその中で生きているというものではありません。私たちの選択、決断を伴うものなのです。悪魔にひれ伏すのか、神にひれ伏すのか。その決断を伴うものです」と語りました。神の言葉も同じです。聞くだけなら誰でもできます。しかし、聞いて行うことには決断が伴います。聞いて「それを守る」ことも決断が必要です。
 「守る」(フラスソー)という言葉は、「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である」の「屋敷を守る」と同じ言葉です。また、クリスマスの晩に羊飼いが「羊の群れの番をしていた」と同じ言葉です。彼らは夜を徹して羊の番をしているのです。狼が襲ってきて羊をかみ殺さないように。羊泥棒が夜陰に乗じて盗みにやってこないように。狼が来ても泥棒がきても、彼らは鞭や杖を持って命がけで戦うのです。それが「羊の群れの番をする」ということです。また、この言葉は悪霊に取り付かれ、裸で墓場を住まいとする男に関しても使われています。村の人々は彼が暴れ出さないように鎖でつなぎ、足枷をはめて「監視していた」とあります。この「監視する」「神の言葉を聞き、それを守る」「守る」と同じ言葉なのです。

 主イエスの願い、望み、祈り

 神の言葉を聞いて守る。神の言葉がこの身に実現しますようにと祈りつつ献身する。そのことを継続する。それが私たちの信仰生活です。日曜日ごとの礼拝で罪の汚れを清めていただき、疲れを癒していただかねば、私たちはこの世の中を信仰と希望と愛をもって生きていく力を得ることは出来ません。
 この礼拝において神の言葉を聞く。神様が、悪霊の頭であるベルゼブルと戦って勝利してくださった。罪と死の力と戦い勝利してくださった。私たちは最早悪霊の支配の中にはいないし、最後には死の滅びが勝利を収めるわけでもない。私たちは、キリストの十字架の死と復活によってもたらされた神様の愛の勝利に与ることができるようになった。その勝利の福音を聞く。そして、聖霊の注ぎを受けつつ信じる。その霊と真実の礼拝が週の初めの日に与えられている。それが、私たちキリスト者の支えです。命はこの泉から与えられます。
 しかし、この礼拝を通して心の中に溜まっていた汚れた霊を追い出してもらっても、その後、空っぽにしたままでは前よりも悪い状態になります。そのことは、誰だって経験しているはずです。悪霊はいつだって機会を狙っているのですから。言葉において生きて働き給う主イエスを我が身に受け入れていなければ、彼らはあっという間に私たちの中に入り込んで住みつきます。私たちが招いているようなものです。それは、せっかく与えられた主の勝利を手離すことです。既に与えられている神の国に生きる幸いを手離すことなのです。
 主イエスは、私たちがその幸いを手放すことなく、これからも幸いの中を生き続けることを願いつつ「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。あなたがたは、その幸いを生きなさい」と語りかけてくださっているのです。そして、主イエスの最大の願い、望み、祈りは、世の終わりの日に「何と幸いなことか。わたしの言葉を守って生きてきた者たちよ。さあ、約束されていた天の御国に入るがよい」と私たちを祝福することだと、私は信じます。
 私たちは主イエスのその願い、望み、祈りの中に置かれていることを覚えて、今日からの一週間の歩みを始めたいと思います。今日与えられた神の言葉をしっかり守って。そのことを私たちが願い、望み、祈りとするならば、主イエスこそが命をかけて、私たちを守ってくださるのですから。

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