「ここに、ヨナにまさるものがある」

及川 信

       ルカによる福音書 11章29節〜32節
   
11:29 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。11:30 つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。11:31 南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。11:32 また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

 神の国は来ているのだ

 アドヴェント、クリスマス、新年と詩編やマタイ福音書を通して御言を聴いてまいりました。今日からルカ福音書の説教に戻ります。  前回は14節から28節までを読みました。今日の箇所はその続きです。少し復習をしてから入っていきたいと思います。
 イエス様はある人から「口を利けなくする悪霊」を追い出しておられました。その業を見たある人々は、「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言って非難しました。また、「イエスを試そうとして、天からのしるしを求め」る人々もいたのです。イエス様は、非難に対して見事に反論されましたが、その中でこうおっしゃいました。

「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(ルカ11:20)

 この言葉は、非常に大切な言葉ですから覚えておいてください。
 イエス様は、その後に「屋敷」とか「家」を題材にしつつ悪霊の支配と神の支配(神の国)の戦いについてお語りになりました。悪霊を追い出してもらっても神を主人として迎え入れなければ、前よりも悪くなるとおっしゃるのです。そして、最後に「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」とおっしゃいました。聞くだけでなく、その言葉を生きた時に、私たちは神の国の中を生きることが出来るからです。神様は言葉と聖霊によって私たちの中に入り、主人として生きてくださるのですから。

 人々が求める「しるし」

 そうこうしているうちに、「群衆の数がますます増えて」きました。彼らはイエス様が「天からのしるし」を見せるのではないかと期待していたのだと思います。イエス様は、そういう人々に「しるし」を欲しがる今の時代は「よこしまだ」と言って、正面から対決していかれます。
 人々が求める「しるし」とは、荒れ野でイエス様を誘惑した(試す)悪魔の言葉を見ればよく分かります。悪魔は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」とか、神殿の屋根から「飛び降りたらどうだ。神が天使を遣わして守ってくれると聖書に書いてあるではないか」と言うのです。群衆が求める「しるし」は、そういうものです。イエス様の病気治癒とか悪霊追放を、そういう「しるし」の一つとして見て、さらに大きな「しるし」を求めたのです。その求めの背後には、「自分たちをもっと驚かせてくれれば神の子であると信じてやってもいいぞ」という思いがあるでしょう。
 後に、イエス様は逮捕されて、ガリラヤの領主であるヘロデの尋問を受けることになります。ヘロデは前からイエス様のうわさを聞いており、「しるし」を見たいと望んでいました。しかし、イエス様はヘロデの尋問には一言も返事をしません。その結果、イエス様の死刑は確定的になっていきました。イエス様は、興味本位の人々の求めに応じて神の指の業をなさることはありません。それがどんなにご自分に不利に働くことになってもです。

 ヨナのしるし

 イエス様は「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」とおっしゃいます。
 「ヨナ書」は短くて楽しい物語ですから、お帰りになったら是非お読みください。大筋はこういうものです。ヨナという人が、イスラエルにとっては脅威である大帝国アッシリアの首都ニネベに行って預言せよと神様から命じられるのです。彼はそんなことをしたくはなかったので、船に乗って逃げ出します。でも、神様から逃げることなど出来ようはずもありません。彼は捕まって、結局、ニネベに行って、神様がおっしゃった通り、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と告げました。ヨナは、奢り高ぶっているニネベの人々が、ユダヤ人である自分の言葉を聞いて罪を悔い改めるとは思ってもいませんでした。「お前は一体誰だ?何者だと思っているのだ。ユダヤ人の神など怖くもなんともないわ。さっさと帰れ」と嘲笑されると思っていたのです。
 しかし、あろうことか、アッシリアの王は「人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ」と言って罪を悔い改めたのです。神様はその様を見て「宣告した災いをくだすのをやめられた」。そういう話です。ヨナはそれを知って神様に腹を立てますが、神様は「十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と無数の家畜」を惜しむのは当然ではないかとヨナを諭されます。神様は、悔い改めるならば、異邦人でも赦されるお方なのです。

 地の果てから来た女王

 イエス様はもう一つ旧約聖書の事例を挙げます。南の国(シェバ)の女王が「ソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た」という出来事です。「南の国」とは、アラビア半島の南端、今のイエメン辺りだと言われています。それはイスラエルの首都エルサレムから見れば、まさに「地の果て」です。その「地の果て」から「ソロモンの知恵」を聞くために、はるばる女王がやって来た。それは、「神の言葉」を聞くために来たということなのです。
 ソロモンは、王として立てられる時に「何でも望むものを与えるから言ってみろ」と神様から言われました。その時、ソロモンは長寿や富ではなく、「善と悪を判断することができるように」「聞き分ける心をお与えください」と願いました。イスラエルを「神の国」とするために必要な知恵を求めたのです。神様はその願いに応えて、彼に深い知恵を与えてくださいました。彼の王国は栄えに栄えました。もちろん、そこに落とし穴もあったのですけれど、彼の名声は「地の果て」まで広がりました。
 その名声を聞いてやって来た南の国の女王は、ソロモンの言葉を聞いた後、「あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように」と言って主なる神様を賛美したのです。これは「地の果て」の異邦人による賛美です。

 旧約聖書はユダヤ人の書物?

 「旧約聖書はユダヤ人の書物であり、ユダヤ人の選民思想に彩られている」としばしば言われます。それは一面の真理でしょう。しかし、イエス様が二つの例を挙げられたように、実際には異邦人の信仰とか救いに関しても書かれているのです。そうでなければ、現代の日本人である私たちが今日も神の言葉として読むなんてこともあるはずがありません。
 そもそも、創世記1章の天地創造物語は全世界を問題としているものです。世界は、神様に創造された時は祝福された「良い」ものであったのに、人間の背きの罪によって呪いに落ちていったのです。神様は世界を新たに祝福して「良い」ものとすべくアブラハムを選び、彼を祝福し、約束と使命を与えられました。神様は、アブラハムの信仰を生きる者たちを祝福し、その者たちを通して世界を祝福すると約束されたのです。その祝福とは「罪の赦し」によって与えられる救いのことです。その救いは、神様の愛を信じて悔い改める者に与えられる。その約束を信じ、主こそが神であり礼拝すべきお方であることを地の果てまで広めていく。そこにアブラハムの子孫であるイスラエルの使命があります。だから、神の民イスラエル(ユダヤ人)の書物は、世界のすべての民に向けて書かれたものなのです。

 イスラエル 異邦人

   ルカ福音書は、イエス様の誕生物語から始まります。その中にはいくつかの賛美があり、そこには繰り返し「アブラハム」とか「イスラエル」が出てきます。
 マリアは、イエス様の誕生をイスラエルに対する神様の憐れみの実現としてイエス様の誕生を受け止め、賛美を捧げています。ヨハネの父ザカリアも、イスラエルに対する神様の憐れみと、アブラハムに立てた誓いの実現として受け止め、賛美しています。
 しかし、神殿で赤ん坊のイエス様を抱いたシメオンは、イエス様を見ながらこのように賛美を捧げました。

「これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。」
(ルカ2:31〜32)

 イスラエルのためだけではなく、異邦人を含む万民のための救いとしてイエス様はお生まれになった。シメオンは、そう言って神様を賛美するのです。

 イスラエルに対する憐れみ

 アブラハムに対して与えられた約束と使命は、子孫であるイスラエルに受け継がれていくべきものです。人が罪を悔い改めて神様に赦しを乞えば、神様は赦してくださり、新しい命を与えてくださる。その神の憐れみを世界中の民に証をしていく。それがイスラエルの使命です。しかし、イエス様が誕生する時代のユダヤ人は、血筋を誇りとする悪しき選民思想と律法主義に陥っていました。ユダヤ人であっても律法を守れない者は罪人であり、神に捨てられる。律法を知らない異邦人は、はなから見捨てられた存在である。そして、癒えることのない病や障碍を身に帯びた者、悪霊に取りつかれた者たちは皆、罪に対する神様の裁きを受けているのであり、救われようもない。そう思っている。そういう思いこそが「正しい」と思っている。しかし、それはまさに神に背く罪の思いであり、呪いに落ちた姿なのです。
 神はそういうイスラエルを憐れみ、神の子を救い主として送り給うた。その子は単にイスラエルのためだけではなく、「異邦人を照らす啓示の光」、万民の救いのためにお生まれになったのだ。ルカ福音書はそう証言しているのです。

 飼い葉桶のしるし

   そこで、「しるし」という言葉にもう一度注目したいと思います。この言葉は、使われ方で随分違う意味になるのです。21章には、世の終わりの裁きの時に天地に現れる異常な現実が「徴」と言われています。すべて、イエス様の言葉です。
 イエス様の誕生物語の中にも「しるし」が印象的に出てきます。夜、野宿をしながら羊の番をしている羊飼いたちに天使は「民全体に与えられる大きな喜び」を告げました。それは「救い主」誕生の知らせですが、その「救い主」は飼い葉桶に寝かされている。それが「あなたがたへのしるしである」と天使は告げるのです。
 全世界の民の「救い主」が、王宮殿ではなく不潔にして暗い家畜小屋で生まれ、動物たちがよだれを垂らす飼い葉桶に寝かされている。その貧しく惨めな姿、そこにすべての民に与えられる「大きな喜び」、すべての民の「救い主」であることの「しるし」があると、天使は言うのです。そして「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美するのです。それは見る人が見ると分かることであり、賛美されるべきことです。しかし、「すべての民」がその「しるし」を見て賛美する訳ではありません。多くの人にとってそれは理解不能なことであり、躓きですらあるのですから。

 反対を受ける「しるし」

 誕生物語には、もう一回「しるし」が出てきます。シメオンは、神様を賛美した後、マリアにこう言ったのです。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」         (ルカ2:34〜35)

 この言葉を聞いた時のマリアの心中を思うと心が痛みます。天使ガブリエルからは、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」と聞いていたのです。シメオンだってイエス様を抱きながら「万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光」と言っていたのです。しかし、その直後に「反対を受けるしるしとして定められている」と言うのです。さらに、マリアもいつの日か「剣で心を刺し貫かれる」ことになる。何故なら、イエス様を通して「多くの人の心にある思いがあらわにされる」からです。

 心にある思いがあらわにされる

 ルカ福音書のその後の展開は、シメオンの預言の実現であると言ってもよいかもしれません。イエス様が語るごとに、また業をするごとに、人々の心の中にある思いがあらわにされていきます。罪の赦しを切実に求めている者は、神の指の業に触れて到来しつつある神の国の中に入っていきます。しかし、自分には罪がないと思っている者たちは、次第にイエス様への敵意や憎しみを増していくのです。そういう者たちの方が圧倒的に多い。イエス様が直面した現実はそういうものです。

 彼らを罪に定めるであろう

 だから、「今の時代の者たちはよこしまだ。(中略)南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう」とおっしゃるのです。何故なら、彼女は「ソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たから」です。先ほども言いましたように、この時の「ソロモンの知恵」「神の言葉」に比することが出来るものです。だからこそ、彼女はソロモンをではなく、ソロモンを王に立てた神を賛美したのです。イスラエルの民にはない信仰がこの異邦人にある。神に見捨てられているとユダヤ人が思っている異邦人、辺境を意味する「地の果て」に住む異邦人こそが、実は神を求め、悔い改め、神を信じて賛美する神の民となっている。アブラハムの子孫を通して与えられる祝福に与っている。その事実を指摘した上で、イエス様は「ここに、ソロモンにまさるものがある」とおっしゃるのです。
 続くニネベの人々に関する言葉もその趣旨は同じです。大帝国であるアッシリアの首都であるニネベの人々にとって、イスラエルなど取るに足らぬ小国です。ソロモンの栄華など遠い過去のことですし、その小国からみすぼらしい身なりの預言者とやらがやって来て、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と言ったところで、一笑に付されるだけのことのはずでした。しかし、彼らは「ヨナの説教を聞いて悔い改めた」のです。取るに足らぬ小国からやって来た一人の男、ソロモンのような身分も地位もない男の言葉、ただ一言を聞いて、アッシリアの王は悔い改め、ニネベの人々も悔い改めた。それは奇跡と言わざるを得ない出来事です。「神の言葉」が異邦人に伝えられていき、そして、異邦人が悔い改める。そのようにして神の国が広まっていく。その出来事を指して、イエス様は、「ここに、ヨナにまさるものがある」とおっしゃるのです。
「ここに」「見よ」と訳した方がよいと思います。私は、この言葉は、イエス様がソロモンとかヨナとご自分を比較してご自分の方がまさっているとおっしゃっているのだと思っていました。そういう面があることは確かだと思います。でも、「まさるもの」の「もの」が人を表す「者」ではないことは意味がありそうです。まさるものが「いる」ではなく、「ある」のです。原文では「まさるもの」が中性形です。ソロモンやヨナとイエス様を単純に比較した言葉ではない。この点については、色々な解釈がありますけれど、私は20節と28節のイエス様の言葉が鍵になると思います。

「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」


 口を利けなくする悪霊に取りつかれていた人の苦しみは察するに余りあります。言葉をしゃべることが出来ない。それは人との交わりを持てないことを意味する場合が多いし、差別の対象になります。ユダヤ人社会の中では、罪人のレッテルを貼られることでもありました。そういう二重三重の苦しみを生きており、そうであるが故に必死になって救いを求めている人をイエス様は憐れみ、「神の指」を伸ばして悪霊を追放してくださったのです。それは、罪人としてユダヤ人社会から排除された人を神の国に招き入れる救いの業でした。その業が人々の心にある思いをあらわにし、反対する者を造り出してもいったのです。イエス様の言葉を聞いて、己が罪を知り、悔い改める人は少ないのです。
 だから、世の終わりの裁きの日、天地に様々な「徴」が現れるその時、南の国の女王やニネベの人々がイスラエルを罪に定めることになる、と主イエスはおっしゃる。「ソロモンの知恵」がもたらした「神の国」にまさるものが今、「神の指」の業でもたらされている。ヨナが語った「神の言葉」にまさる言葉が、今語られている。その現実を見、またその言葉を聞き悔い改める者は幸いです。しかし、その幸いを生きる人は多くはありません。

 犯罪者の悔い改め

 その結果、イエス様は十字架に磔にされることになるのです。そこで、「右も左もわきまえぬ人間」の罪が赦されるために祈ってくださったのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。この十字架に「天からのしるし」を見ることが出来た人間が二人いました。
 一人は、死に値する罪を犯してイエス様の隣の十字架に磔にされた男です。彼は、自分が処刑されてしまうことは当然のことと受け止めています。しかし、罪人の罪の赦しのために祈りつつ死んでいかれるイエス様の姿を見、その祈りの言葉を聞いた時に悔い改めたのです。そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願った。いや、祈った。十字架から下ろしてくれと頼んだのではなく、罪を赦して欲しいと祈ったのです。そして、御国(神の国)に迎え入れて欲しいと祈ったのです。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」             (ルカ23:43)

 ここにソロモンやヨナの「しるし」にまさるものがある。死刑にされるほどの犯罪者が真っ先に御国に入る。飼い葉桶の「しるし」はここに至ります。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という天使の賛美は、この神の国の土台としての十字架の現実を先取りして賛美しているのです。

 百人隊長の悔い改め

 イエス様の十字架の下には百人隊長がいました。ローマ帝国の兵士です。総督ピラトの命令を受けてイエス様を十字架に打ちつけた側の人です。イエス様の左右の十字架に犯罪者を磔にした側の人でもあります。ユダヤ人にとっては敵です。神に見捨てられている異邦人です。でも、その百人隊長が十字架の上で捧げられたイエス様の祈りを聞き、犯罪者との対話を聞き、最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られたイエス様の姿を見た時、「本当に、この人は正しい人だった」と言いつつ、「神を賛美した」のです。
 マルコやマタイでは、百人隊長の言葉は「本当に、この人は神の子だった」という信仰告白の言葉です。ルカでは「正しい人」となっています。これは、信仰告白と言うよりも無罪の宣言という色合いが濃いと思います。罪のない人を、ユダヤ人と異邦人がよってたかって罪人として処刑してしまった。しかし、本当はこの人は無罪だったのだ。その無罪の人が十字架にかかって死ぬ。そこに逆説的な「しるし」があるのだと思う。すべての民に与えられる「大きな喜び」、すべての民のための「救い主」「しるし」がここにある。だからこそ、天使が賛美したように、飼い葉桶に寝かされるイエス様を見た羊飼いたちが賛美したように、百人隊長も「神を賛美した」のだと思います。右も左もわきまえぬまま、無罪のイエス様を十字架に磔にしてしまった自分の罪が赦されるために、この「正しい人」は裁きを受けてくださった。そこに神様の憐れみがあることを知った時に、彼は深い悔い改めに導かれたのではないか。悔い改めは信仰を生み出し、信仰は賛美を生み出すのではないでしょうか。

 あらゆる国の人々に宣べ伝えられる

 十字架のイエス様に対する悔い改め、信仰、賛美は、犯罪者と異邦人から始まった。ルカは、その衝撃的な事実を告げます。そして、十字架の死から三日目に復活されたイエス様は、弟子たちにこうおっしゃったでしょう。

「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」            (ルカ24:46〜48)

 復活後、四十日にわたって弟子たちに「神の国について話され」た後、イエス様は天に上げられることになります。その直前に弟子たちにこうおっしゃったのです。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」     (使徒1:8)

 「地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」この約束の言葉は実現しました。この日から十日経ったペンテコステの日に、弟子たちに聖霊が降り、彼らは「”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」からです。そして、ペトロは世界中からペンテコステ(五旬節)の祭りを祝うために集まったユダヤ人たちに「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と説教したのです。そして、彼らはその後、エルサレムから始まって「地の果て」まで出かけていき「あらゆる国の人々に」「イエス・キリストの名によって」与えられる「罪の赦しを得させる悔い改め」を宣べ伝え、悔い改めて信じる者たちに洗礼を授けていったのです。そのようにして神の国は私たちの所に来ているのです。そこにヨナにまさるものがある。見るべきは、その現実です。
 私は今日も、二千年前のペトロと同じ福音を語っているのだし、生かされていれば来週も語るのだし、皆さんは今日も祝福を受けて伝道と証のために派遣されるのです。そこにヨナにまさるものがあるのです。信仰においてイエス・キリストと共に生き、イエス・キリストを証し、その証を聞いた人が「天からのしるし」を見て罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて賛美をささげる時、そこに神の国が到来しているからです。私たちは、神様の憐れみによってその神の国に招き入れられ、そして招くために生かされている。どうして神を賛美しないでいられるでしょうか。

ルカによる福音書説教目次へ
礼拝案内へ