「目が澄んでいれば」

及川 信

       ルカによる福音書 11章33節〜36節
   
11:33 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。11:34 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。11:35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。11:36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

 神の国は来ている

 今日の箇所で、14節から始まった長い単元が終わります。イエス様は悪霊追放の業に対する非難やさらなる「しるし」を求める要求を、言葉をもって撥ね除けてこられました。その中心的言葉は20節だと思います。

「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」

 ある英訳聖書では、「神の国はまさに気付かぬうちにあなたを捕えたのだ(キャッチした)」と訳していました。
 イエス様の業に何を見るか。また、イエス様の言葉に何を見るか。そこにすべてが掛かっていると思います。業は肉眼で見えるものです。しかし、見えるものの中に何があるかを見極めるのは肉眼ではありません。

 目 耳

 イエス様は、「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」とおっしゃっています。「神の言葉」はたしかに聞くものです。けれど、私たちの多くは聖書を目で読むことを通して神の言葉を聞きます。初代教会の時代にはまだ聖書は出来上がっていませんし、信徒が自分の聖書を持つなどあり得ないことですから、人々は礼拝で語られる説教を通して神の言葉を聞く以外に手段はありませんでした。今は、点字にしろ活字にしろ聖書の文字を読むことで、神の言葉を聞くということが起こる場合があります。音声としては聞いていなくても、目で読む言葉が心の中では神の言葉を聞いたと言うべきものになる。そのように聞きとることが出来る目や耳を持つことが出来るか否か。それが問題だと思います。

 神の言葉は同時に業

 今日の箇所を読みつつ、最近読んだある新約聖書の学者の言葉を思い出しました。

「神の言葉は同時に純粋な行為であり、わざである。・・・しかし人間の言語行為とは違って、それは純粋に創造の言葉としての行為なのである。最も直截に言えば、・・『神は言われた。「光あれ。」こうして光があった』ということなのである。神の言葉は基本的に無からの創造としてのわざである。それは創世記にあるように、新しい人間を創ると同時にその生きる空間、場所、天地を創る、すなわち信仰する者に生きる場所を創るのである。」(伊吹 雄『新約聖書の根本問題』81頁)

 神様の場合、言葉は業であり、それは神を信じる新しい人間を創造する業であるというのは、本当のことだと思います。そういう言葉としてイエス様の言葉を聞く、見る、そして守る、生きる。その時、私たちは気付かぬうちに神の国に捕えられているのではないか。気が付いた時は、神の言葉が造り出した神の国の中を生き、神が創った光を輝かす者にされているのではないか。そんなことを思わされました。

 家 体

「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」

 ここには二つの例があります。一つは家であり、もう一つは体です。でも、この両者は重なるものだと思います。
 ともし火の光が灯っていない家の中は真っ暗です。光を照らすためにともし火を灯すのであって、それを誰からも見えないように隠してしまえば意味はありません。この言葉だけでも、色々なイメージが湧いてきます。
 24節以下で、イエス様は譬話を語っておられます。汚れた霊が人の体から追放されても、その後に空き家となっているならば、さらに悪い七つの霊を連れて入り込んで来て、「その人の後の状態は前よりも悪くなる」とおっしゃいました。ここでは、人が住む「家」と人の「体」は同じものです。体は行為をするものですから、その体を住まいとする者が何であるかでその人の行いは決まります。悪霊なのか、神なのかで決まる。悪霊であれば悪行をする以外にはないし、神様であれば神様の喜ぶ業をすることになります。誰がその人間の主人であるか。それこそが問題なのです。
 「自分の主人は自分だ」というのは幻想にすぎません。その「自分」は必ず何かに属し、そして従っているのです。自分の欲望とか願望とか。聖書ではそういう人間を「罪の奴隷」と言うのであり、罪の奴隷たちは「自分は自由だ」と錯覚しているのです。それが罪の手口なのですから。私たちは、神の奴隷(僕)になった時にだけ、罪の束縛から解放され自由になるのです。

 燭台の上に置く

 話をルカに戻します。「入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とあります。複数形ですから「人々」と訳すべきだと思います。その人々が燭台の上に置かれた「光」を「見る」とは、「この家の主人は光である」、あるいは「ともし火の光を家中に輝かす人である」と知ることでしょう。さらに言うと、追放された悪霊が住み慣れた「わが家」(24節)へ戻って来た時に、燭台の上にともし火の光が輝いているのを「見る」ならば、彼は七つの悪霊を引き連れて来ることは出来ません。闇は光には勝てないからです。

 目の光

 続く「目」の例話は、分かるようで分からない言葉だと思います。「あなたの体のともし火は目である」という言葉が私たちにはいま一つピンとこないからです。と言うのは、現代に生きる私たちは、外からの光が目に入って来た時にものがみえると知っているからです。光は外から入って来る。今日の箇所は全体として光は人の外から入って来て、その人の内で輝くことを言っていると思います。しかし、その外から入って来る光を内に入れるためには、その光を見る目がなければなりません。
 昔の人は目には光があり、その光のお陰で見えると思っていました。考えてみれば、私たちも「あの人の眼光は鋭いものがある」と言ったりします。それは物事を深く鋭く見つめる人だという意味があるでしょう。だから、私たちも目の光を知っているのです。子供向けのテレビ番組などに出てくるキャラクターの中には、目からレーザー光線みたいなものが出てきて敵を攻撃するものもいます。「眼力(めぢから)」とか「死んだ目」という言葉もあります。目が光を失うとなにも見えないのです。「あなたの体のともし火は目である」とは、そういうことでしょう。

 澄んでいる 濁っている

 イエス様は「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」とおっしゃいます。この目はもちろん、肉眼(の目)のことではありません。物事の本質を見る目です。悪霊追放の業の中に「神の指」の業を見ることが出来るか、「神の国」到来の現実を見ることが出来るか、闇の世に到来した命の光を見ることが出来るか。そういうことが問われているのです。
 それは「濁っている」と訳された言葉を見れば分かります。原語(ポネーロス)は「今の時代の者たちはよこしまだ」の「よこしま」と同じだし、七つの悪霊に入り込まれた人の状態、「前よりも悪くなる」の「悪い」と同じ言葉なのです。肉体的状態ではなく精神的な状態のことです。だから、「目が澄んでいれば」の「澄む」(アプルース)も、「単純な」とか「純真な」を意味し、「二心がない」とか「惜しみなく人に与える心」という意味で使われる言葉です。澄んだ目とは、一心に光を見つめる目なのです。その目を通して、ともし火の光はその人の中に入って来て、その人の体全体を内側から照らし、その人の生きる姿、生活を通して光は人々に見られるようになっていく。そういうことだろうと思います。

 見えないものを見る

「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」

 「あなたの中にある光が消えていないか」
「あなたの中にある光が闇ではないか」が直訳です。「闇」という言葉が大事だと思います。また「調べなさい」(スコペオー)は「注視しなさい」です。パウロは、コリント教会の信徒に向けた手紙の中でこう言っています。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(Uコリント4:18)

 この「目を注ぐ」が「調べなさい」と同じ言葉です。ここでも「見えないものに目を注ぐ」と、一見すればおかしな言葉が出てきます。表面的には、見えないものは見えないのだから目を注ぎようがないじゃないか、となります。でも、聖書は至る所でこういう言い方をしているのです。こういう言い方でなければ伝えられない現実があるからです。そして、それは一心に光を見つめる目がなければ見えてきません。光が見えてくるとは、その人の中で光が輝き始めることなのだし、その人が新しく創造されていくことなのです。それは古い自分が死んでいくことでもあります。そういう経験を抜きに、神様の言葉に関して理屈をこねても意味はありません。本質的なことは何も見えていない事柄を論じているだけですから、空しいのです。

 光か闇か

「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

 今日の箇所は端的に言って「光」と「闇」の関係について語られているのです。「光」と「闇」の対決と言って良いかもしれません。だから、そのことが際立つように訳すべきだと思います。「全身が明るい」は「全身が光に満ちる」とも訳せます。結論の「全身は輝いている」は「全身が光に満ちるだろう」です。ここだけ未来形なのです。
 それに対して「暗い」は「闇の中にいる」「闇を持っている」と訳した方がよいと思います。「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」は、「あなたの中の光が闇でないように注視せよ」です。問題は「光か闇か」なのです。メッセージの迫力とか切れ味を考えれば、「明るいか暗いか」よりも「光か闇か」の方がよいと思います。

 稲妻と神の国

 そうなると、36節は「あなたの全身が光に満ちて、少しも闇がないとすれば、ともし火の輝きがあなたに光を与えるように、全身は光に満ちるだろう」となります。問題は、「ともし火の輝き」と訳された「輝き」です。「輝き」と訳された言葉(アストラペー)は、ルカ福音書には三回出てくるのですが、他の二回は興味深いことに「稲妻」と訳されています。その二回とも、今日の箇所と深い関わりがあると思います。
 最初に出てくるのは、イエス様が七十二人の弟子たちを伝道に遣わす10章です。彼らは迎え入れられた町で、病人を癒し、「神の国はあなたがたに近づいた」と宣言することを命ぜられ、その通りに実行しました。そして、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と喜びに満たされて帰って来たのです。その時、イエス様は「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」とおっしゃいました。これは、神の国が到来していることの一つの徴でしょう。それは、イエス様だけが見た現実です。
 また、この先の17章で、イエス様に敵対するファリサイ派の人々が「神の国はいつ来るのか」と尋ねた時、「神の国は見える形では来ない。……実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」とおっしゃった後、弟子たちにはこう言われました。

「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」(ルカ17:24〜25)

 いずれの箇所も「神の国」が来ていることを告げる言葉です。今日の箇所も、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」というイエス様の言葉の説明と言ってもよいところです。その三カ所に「稲妻」という非常に強い言葉が使われているのです。一瞬にして天地を切り裂き、天の端から端までを貫くような雷光が雷鳴と共に輝く。その一瞬の光を見る時、その人の全身は光に刺し貫かれます。稲妻の光とはそういうものでしょう。

 ともし火

 しかし、ともし火の光は燭台の上に置く限り、家の中で、あるいはその人の中で輝き続けるものです。稲妻の一瞬の雷光と継続的なともし火の光が、ここでは合わさって言われています。そのことをどう考えたらよいか。それが問題となります。
 イエス様は、エルサレムで逮捕される直前に、神の国が完成する世の終わりの日は、「不意に罠のように」襲って来るから、「いつも目を覚まして祈りなさい」と人々に語っておられます。世の終わりの突然の到来に備えるための信仰者の生活は目を覚まして祈ること、継続的に祈ることです。

 神の言葉を聞く

 神の国の到来とは終末の到来を意味します。洗礼を受けるとは、その国の中に入るということです。洗礼を受けるためには信仰が必要です。この信仰はいわゆる信心とは全く異なるものです。信仰は聞くこと、それも「神の言葉」を聞くことによって与えられるものだからです。ある時、いきなり「神の言葉」が稲妻の光のように目から入って来る。あるいは雷鳴が轟くように心に響き渡る。そういうことがあります。聖書に記されている言葉が自分に語りかけられている言葉として目に飛び込んできたり、説教の一節が響き渡ったりすることがある。その時、私たちは神から信仰を与えられるのです。それは努力や精進や学びの結果ではありません。不意に襲いかかられるようなことです。そして、それまでの自分が崩壊する。それは個人的には一つの終末、終わりを迎えることです。それは恐ろしいことです。しかし、この終わりを経なければ、新しい出発もないのです。それは別の意味で恐ろしいことです。
 一人の人間にそれまでの人生の終わりと新しい出発が与えられる。「神の指」が働く時、イエス様が私たちの中に突然入り込んで来て「ともし火」となってくださる時、そういうことが起こります。その「ともし火」「光」を、いつも家全体を照らす燭台の上に置いておけば、いつも目を覚まして祈りの生活をしていれば、私たちの家である全身はいつも光に満ちているのです。世の終わりに備えるとは、あるいは死に備えるとは、そういうことだと思います。

 照らす

 「ともし火がその輝きであなたを照らすときのように」とあります。光と闇についてはヨハネ福音書が最も印象深く語っているので、その冒頭部分を少し読みます。

初めに言があった。……言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった(勝たなかった)。……その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(ヨハネ1:1〜9中略)

 この「まことの光」とは、3章の言葉で言えば、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と言われる神の愛です。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」の愛です。ヨハネに出てくる「永遠の命」とは、ルカでは「神の国」のことです。その神の国に生きるためには信仰が必要です。「まことの光」を受け入れる信仰が必要なのです。しかし、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。・・・悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」のです。これは誰しもが経験していることです。光は、私たちの罪を照らすのです。明るみに出すのです。それは耐え難いことです。だから、私たちは光よりも闇を好み、自分で光の方には行きません。

 恵み

 しかし、これは「恵み」としか言い様がないのですけれど、私たちはこの地上の生ある時にともし火の輝きに照らされたのです。いや、稲妻に打たれた。そういう者として選ばれた。私たちの側にそういう資格がある訳ではなく、神様がそのような恵みを与えてくださったのです。そして、信仰を与えられ、イエス様を光として迎え入れることができました。
 そうであるなら、私たちはいつも澄んだ目を持っていなければなりません。体のともし火は目だからです。目が澄んでいなければ、一筋にイエス様を見つめていなければ、そして耳を澄ませていなければ、私たちの中の光は一瞬にして闇に変わってしまいます。いつも、光が闇に変わっていないかどうか注視していなければなりませんし、目に見えるものそのものではなく、目に見える現実の中に働く目には見えない永遠の御業、神の指の業に目を注いでいなければなりません。しかし、そのためにはイエス様が常に私たちの目を開いてくださらねばなりませんから、私たちは恵みを求めて祈るのです。

 目が開かれる

 ルカ福音書は、「目」という言葉を非常に印象的に使う福音書だと今回思わされました。イエス様がいよいよ都であるエルサレムに入る時、イエス様は都のために泣きながらこう言われました。

「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」(ルカ19:42)

 これは「今、お前の目からは隠されている」が直訳です。
 その後、イエス様は人々の暴力によって十字架に磔にされていきます。そのようにして、私たちと神様との間に平和の道、和解の道を切り開いてくださったのです。しかし、そんなことは当時誰も見えなかったことです。彼らに見えたのは、裸にされて十字架に釘打たれた惨めな罪人の姿です。しかし、その「罪人」が、罪人の罪が赦されることを祈りつつ死んでくださった「正しい人」なのです。この十字架の主イエスにおいて、罪の赦しを内容とする神の国の土台が据えられていたのです。これからその国は広まっていくのです。光を放っていく。
 しかし、人々にはすべてがこれで終わったとしか見えませんでした。イエス様にずっとつき従って来た弟子たちですらそうなのです。
 彼らはイエス様が葬られた時に、すべてが終わったと思いました。しかし、十字架の死から三日目の日曜日の朝、墓まで行った女たちが、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と天使から言われ、その言葉を弟子たちに告げました。しかし、彼らはその言葉を「たわ言」だと思ったとあります。これまでに何度も、イエス様自身からメシアの受難と復活の栄光が預言されていたのに、です。神の言葉は、いつでもだれにでも神の言葉として響く訳ではありません。だからこそ、神の言葉なのです。
 弟子たちのうちの二人は、失意のうちに生まれ故郷のエマオという村に帰っていきました。しかし、その時、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」のですが、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とあります。三日前まで一緒に生きていたイエス様の姿が激変していたわけではありません。復活のイエス様と出会うためには、目が澄んでいなければならないのです。
 かねてからご自身の受難と復活を預言してきたのに、その言葉を信じることができない弟子たちのことを、イエス様は嘆かれました。そして、メシアは苦しみを受けて栄光に入ることが聖書には書かれていることを懇々と説明してくださったのです。しかし、その時も彼らはまだ分かりませんでした。
 エマオに着く頃は夕刻になっていたので、二人は自分たちの家にイエス様を招き、イエス様は招きに応えて彼らの家に入られました。そして、食事の時に、まるでその家の主人であるかのように、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しに」なりました。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」。その途端に、イエス様の姿は「見えなくなった」のです。しかし、二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、即座にエルサレムに帰っていったのです。

 イエス様の言葉が業である

 私にとっては、これほどゾクゾクする箇所はありません。イエス様が賛美の祈りを捧げてパンを裂いて渡す姿を見た時に、彼らの「目が開かれた」のです。目にともし火が入ったのです。そして全身が光で満ちた。あるいは、彼らは稲妻の雷光に刺し貫かれた。その時、目の前にイエス様がおられることが分かった。それは同時に、イエス様が語ってくださった聖書の言葉が分かったということです。イエス様の説教が、神の言葉として響いたのです。その時、イエス様が肉眼で見えている必要はなくなります。イエス様は墓の中におられる方ではなく、「生きておられる」ことが分かったからです。
 「目が開く」「聖書を説明する」は、原文では同じディアノイゴーという言葉です。これは辞書によると「閉じた瞼を引き離して、再び、開く」という三つの言葉の合成語だそうです。目と耳は、神様の言葉と業が一つであるように一つなのです。両方とも澄んでいなければならない。一心にイエス様を見つめ、その言葉を聞くことにおいて純真でなければなりません。
 しかし、それは最初にイエス様がしてくださることです。私たちが自分の目や耳を自分で開くことはできません。イエス様が忍耐強く私たちの心の戸を叩き続け、また語り続けてくださることを通して、イエス様が苦難を経て栄光に入るメシア、救い主であることを知らせてくださるのです。そして、イエス様を通して、神の国は私たちのところに来ていることを信じさせてくださるのです。

 神の家の礼拝

 私たちの毎週の礼拝は、そのことのためにあります。私たちはここで神の言葉を聞き、またその御業を見るのです。今日は聖餐の食卓を囲むことはありませんが、聖餐式がある時もない時も、聖餐卓は説教卓の前に置かれており、洗礼式がある時もない時も洗礼盤がここに置かれていることは意味があるのです。すべては、神の家である教会の主人はイエス様であることを証しているからです。
 そして、この家に集う私たちはいつも燭台の上に置かれたともし火の光で照らされます。聖書の説き明かしである説教を通して、自分の罪が明るみに出されます。そして、その罪を赦す神様の愛が稲妻のように私たちを照らすのです。その光を見るのは、イエス様を受け入れた信仰の目です。人を通して語られる言葉を神様の言葉として聞くことが出来るのは、イエス様を信じる信仰者の耳です。今ここにイエス様が生きておられることを知るのは信仰者です。その澄んだ目と澄んだ耳とを今日も新たに与えて頂き、全身が光に満ちるようにしていただき、その光をこの闇の世に輝かすために、私たちは毎週の礼拝が与えられています。今日与えられたともし火の光を全身に受け入れ、今日からの一週間の歩みを始めたいと願います。

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