「あなたたちは不幸だ」

及川 信

       ルカによる福音書 11章37節〜44節
   
11:37 イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。11:38 ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。11:39 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。11:40 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。11:41 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。11:42 それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。11:43 あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。11:44 あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」

 入っていく

 今日から新しい単元に入っていきます。でも、ルカは「イエスはこのように話しておられたとき」と、前の単元と直接繋がるように書いています。その意図に乗って読んでみると、色々と思うことが出てきます。
 先週読んだ箇所は、家の中で輝くともし火の話から始まりました。その家は人の体のことでもありました。光はその人を外から照らすものであり、その人の中に入れば内で輝き、光を放つものだったのです。24節以下の汚れた霊の譬話においても、家は人のことであり、汚れた霊が七つの霊を連れて空き家となっている人の中に入り込む情景が描かれていました。先週の箇所では、家の中に入ってくる人が光を見ることが出来るように、ともし火を燭台の上に置く話をされていました。
 ここに流れている一つのことは、外から中に入ってくる霊とか人とか光があるということでしょう。そういう流れに沿って、イエス様がファリサイ派の人の家の中に入っていく出来事があることは偶然ではないと思います。

 食事

 ルカ福音書には、食事の場面と譬話がたくさん出てきます。それは、最後の晩餐とエマオにおける復活の主イエスとの食事に行きつき、その二つの食事は私たちの聖餐式に流れ込んできます。私たちは聖餐式において十字架のイエスの死を記念しつつ、復活の主イエスが主人である食卓を囲んでいるのです。その食卓は、神の国を象徴するものです。イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪赦され、新しい命を与えられた者たちが主に感謝し賛美しつつ祝う救いの食卓だからです。勝利の主イエスを崇めつつ、神の栄光を称えるのですから。そこに天に繋がる神の国がある。

 礼拝としての食事

 当時のユダヤ人にとって、食事をすることはある種の宗教的行為でした。祈りと賛美をもって始められる食事は、単に空腹を満たすためのものではなく、霊肉共に生かしてくださる神様の恵みを分かち合う礼拝なのです。私たちキリスト者にとっても、それは基本的に同じだと思います。私たちも感謝の祈りを抜きに食事をすることはできません。
 マタイ福音書には、ある時ファリサイ派の人々らがイエス様のところに来て、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」と言ったとあります。手を洗うことは、神の民として守るべき掟なのです。衛生的な問題ではなく、宗教的な問題です。
 でも、今日の箇所には「手を洗わなかった」ではなく「身を清められなかった」とあります。これは意図的でしょう。「身を清める」と訳された言葉は、バプティゾーです。洗礼を意味するバプテスマの動詞形で、ルカ福音書には十回出てきます。ここ以外はすべて「洗礼を授ける」とか「受ける」と訳されますが、この場面で「洗礼を受ける」ではあまりにおかしいので「身を清める」と訳されているのです。
 問題は「洗う」を表すニプトーではなく、洗礼を受けることを表すバプティゾーが使われていることです。「清める」とはどういう意味なのか。人間が水を使って自らを清めることが出来るのか。そういうことが、今日の箇所の問題です。

 対立の始まり

 イエス様はうっかり″ではなく、敢えて″水で手を洗わずに家の中に入っていかれたのだと思います。その姿を見た時のファリサイ派の人の驚きを予想してのことです。「不審に思った」(サウマゾー)と訳された言葉は、悪霊が追放される様を見た時に人々が「驚嘆した」という所でも使われる言葉です。彼は、イエス様の姿を見た時に腰を抜かすほど驚いたのです。この時の彼は、非常な力を持った人間としてイエス様に興味を持っていたのだと思います。だからこそ、食事に招いたのです。ファリサイ派や律法学者たちとイエス様の対立は、この後に次第に目に見えるものとなっていきますけれども、この時まではまだそれほどのものではなかったのでしょう。

 外側と内側

 主イエスは、彼の驚く様を確認した上で、かねてからファリサイ派の人々に言わねばならないと思ってきたことを口にされます。それは深い愛から出て来た言葉ですけれど、言われた人にはそのようには受け止められないであろう言葉です。愛の言葉とはしばしばそういうものです。

「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。」

 問題は、ここでも外と内であり、それは体と心のことです。「杯や皿の外側」を語りつつ「自分の内側」の話が出てくるのですから。ここでは、家ではなく食器が人間に例えられています。「外側を造られた神は、内側もお造りになった」とは、神様は人間の体だけを造ったのではなく、心も造ったということでしょう。
 「昔の人の言い伝え」とは、自分たちユダヤ人が神の選びの民であることを目に見える形で教える掟のことです。その掟を守って手を洗う。そのことで異邦人と神の民であるユダヤ人を区別する。また、ユダヤ人の中でも清い者たちと汚れた者たちを区別するのです。
 イエス様は清い者と汚れた者がいることを否定されたわけではないと思います。それは事実ですから。しかし、手を洗うことが自分を内側から清めることにはならないと考えておられるでしょう。掟を守ることによって、自分は清い人間だと思ってしまう。そこにあるまやかしを否定されているのだと思います。そして、そのまやかしに気付いて欲しいのだと思うのです。

 打ち砕かれ悔いる心

 今年の新年礼拝において、私たちは詩編51編の前半を読みました。来週は後半を読みます。そこにはこうあります。

わたしの咎をことごとく洗い
罪から清めてください。
(中略)
ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください
わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください
雪よりも白くなるように。
(中略)
神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
(中略)
もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。

 罪の汚れを清めて頂き、罪を赦して頂くために「焼き尽くす献げ物」を捧げることは、掟に記されていることです。そこには意味があります。しかし、それを型どおりに行えば罪が赦されるのかと言えば、そんなことはありません。もしそんなことであれば、罪の赦しは人間がコントロールできることになります。罪の重さを自分で計って、この程度の罪にはこれくらいの犠牲でよいが、その程度を越えればより大きな犠牲でなければならない。そういうことを人間が決めて、その通り実行し、罪が赦されたと思い込む。そういう宗教的まやかしは、いつの時代のどんな宗教にも入り込んでくるものです。
 詩編51編の作者は、罪の赦しによって与えられる清めとは、神様の自由な意志、恵みによって与えられるものだと知っています。神様は、宗教的まやかしを最も嫌悪されるのです。神様にとって大切なのは、「打ち砕かれた悔いる心」です。罪は行為となって目に見えるとしても、その行為を生み出す心が問題なのです。心が洗い清められない限り、体を幾ら洗って、犠牲をたくさん捧げてもなんの意味もないのです。人間は、自分の力で心の中の汚れを清めることはできないのです。神様に清めて頂くしかないのです。だから、私たちは清めてください、赦してくださいと祈るのでしょう!?
 旧約聖書において、既にそのことが明らかなこととして告白されているのです。しかし、当時のユダヤ人、その中でも自分たちこそ清い者であると自負するファリサイ派の人々や律法学者は愚かなまやかしの中に陥っている。その事実を彼らに気付かせようとして、イエス様は彼らの家に手を洗わずに入ったのだと思います。

 愚かな者

 ここで、ルカは敢えて「イエス」ではなく「主」と呼んでいますが、その「主」はファリサイ派の人々を「愚かな者たち」と呼び、その内側は「強欲」「悪意」で満ちているとおっしゃいます。
 先に「愚かな者」について考えたいと思いますが、「愚かな者」はこの先の12章13節以下の話に出てきます。
 兄弟と遺産相続争いをしている人が、イエス様に調停を頼んで来るのです。イエス様は、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。……人の命は財産によってどうすることもできないからである」とおっしゃった上で譬話をお語りになりました。それは、ある金持ちが大豊作によって得た収穫物を大きな貯蔵庫に溜めて、当分の間は「飲めや歌えや」の生活をしようと思うという話です。
 最後に、イエス様はこう言われます。

「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」 (ルカ12:20〜21)

 ここに、「愚かな者」が出てきます。ここでそれは貪欲に生きる者のことです。

 施し

 その続きに出てくるのは、食物や着物のことで思い煩うな、それらのものが必要であることは神様がご存知だという説教です。その説教の最後に、今日の箇所に出てくる「施し」が出てきます。

「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。(中略)あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」 (ルカ12:31〜34)

 「どんな貪欲にも注意を払いなさい」の「貪欲」とは、何もかもを自分のものにしたいという思いのことです。それは、なにもかもを自分のコントロールの下に置きたいということであり、自分自身を神の位置に置くことなのです。しかし、私たち人間は明日生きているかどうかも分からない存在です。自分の命、その寿命をコントロールすることは出来ません。命は神のものなのですから。そして、その命は神の国の中で生きる時に本来の輝きを放つのです。
 しかし、私たちは誰でも貪欲に陥ります。それも放っておくと限りない貪欲に陥るのです。すべてを奪い尽くそうとする。「強欲」(アルパゲー)と訳された言葉は珍しい言葉ですけれど、辞書によると「暴力によって奪う」ことです。私たちは実は奪うことで失っていることがあります。すべての物を人から奪い取り、自分の命すら神から奪い取っている。それが出来ると思っている。そんなことは出来るはずもないことなのに、そのことに気づかない愚かさ。自分がそういう強欲や貪欲に捕らわれていることすら気付かない。それが、私たちの愚かさです。ファリサイ派の人々は、清さを神様から奪い取ろうとする愚かさに気づかないのです。

 ちゃんと聞かなければならない

 主イエスは「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とおっしゃった後に、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と言われます。今日の箇所でも、「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とおっしゃっています。これはどういうことなのか。
 この世においては「貪欲」という言葉は否定的な意味で使われたとしても、貪欲そのものは肯定されます。物質的な豊かさを手に入れる人は賢い人だし、いわゆる勝ち組であり、誰もが勝利を目指して生きるのです。しかし、主イエスは絶えずこの世の論理や常識とは異なること、あるいは正反対のことを言われる。だから、私たちはまともに聞くことができない。こういう所は飛ばして読みたくなります。でも、主イエスは本当の豊かさと本当の勝利を私たちに与えたくてお語りになっているのですから、ちゃんと聞かなければなりません。それこそが、本当に賢いことなのだと思います。

 器の中にある物  献げ物

  主イエスは、「杯や皿の外側」と言った直後に「自分の内側」を語るのですから、「器」とは「人」のことでしょう。だとするなら、「器の中にある物」とは、人の心のことなのではないかとも思います。
 もちろん、主イエスは物質的な富をもって施すことを求めておられるのです。それは、「十分の一の献げ物もおろそかにしてはならない」からも明らかです。この後に出てくる「永遠の命を受け継ぐ」ことを求める議員に対しても、全財産を売り払って貧しい人々に分けることをお求めになっています。それが出来ないと知ると、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃったのです。
 「十分の一の献げ物」は、私たちキリスト者の献金に繋がるものです。人々は、神殿に収入の十分の一を捧げて、祭司の生活と働きを支えるだけではなく、貧しい人々への施しをするのです。中渋谷教会でも、毎年三百万円ほどを他教会や学校、施設などに献金しています。それは、教会の働きにおいて必須のことですから、余ったら捧げるのではなく最初から予算化しているのです。
 しかし、礼拝における献金に際して、私たちは「献身の徴として捧げる」と祈るようにしています。中渋谷教会の週報では「献金」を「奉献」とわざわざ記しています。これは自分自身を神様に捧げることを表す言葉です。献金は会費でも礼拝への参加費でもないし、御利益を求めるための道具でもないからです。神様に捧げるお金に私たちの心と体を込めるのです。身も心も神様に捧げるのです。その祈りのない献金は形だけのものになります。神様が喜ばれるものではありません。
 そういうことを考え合わせれば、「器の中にある物」とは金だけではなく、また心だけでもない。心を伴うお金であり、心を伴う行動でしょう。その心とは、どういう心であるべきなのか。それが問題になります。

 不幸だ

それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。

 「不幸だ」
と訳された言葉は、ウーアイという感嘆詞です。口語訳聖書では、「災いだ」と訳されていました。いずれにしろ厳しい言葉です。当時の献げ物は現金だけではなく農産物なども含まれますけれど、ファリサイ派の人々は十分の一を捧げる掟に従って、すべてのものの十分の一を量って捧げていたようです。そのことにおいて神様への忠実さを人々に見せ、また自分でも満足する。忠実さの中に、そういう偽善や欺瞞が入り込んでいるのです。

 正義と愛

 決定的なことは、彼らが「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」ことです。原文には「実行」とは書かれていません。また、「神への愛」も「神の愛」が直訳ですが、翻訳によって「神への愛」と訳されたり「神の愛」と訳されたりします。「おろそかにする」は「通り過ぎる」ということです。
 「正義」「愛」は、神様ご自身が持っている性質であり、神様は正義と愛をもってすべてのことをなさるのです。そして、そのことをご自身に似せて造った私たち人間にもお求めになる。私たちは、その求めに応答して生きることによって人として生きるのです。
 だとするなら、その正義と愛を生きない時には人として生きていないことになります。ファリサイ派やその場にいた律法学者(次回の箇所は彼らとの問答です)らは、自分たちの掟の守り方こそ、神様の正義と愛に対する忠実な応答だと確信しているのです。だから、自分たちは神様が求める清い人間だと確信している。そして、自分はそういう人間として生きているから幸福だと思っている。でも、だからこそ主イエスから見ると愚か者であり、「あなたたちは不幸だ」となってしまうのです。

 強欲と悪意

 問題の核心に入る前に、44節までを読んでおこうと思います。

「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」

 上席に着くことや挨拶されることを好む傾向は、ファリサイ派の人よりもむしろ律法学者たちのものです。ルカ福音書では20章でイエス様から厳しく批判されています。しかし、こういう傾向は誰しもが持っているものでもあります。
 問題は、すべての人が神の目よりも人の目を気にしていることなのです。それも、口を開けば神様のことを口にし、「神様に喜ばれることをしなければいけない、絶えず自分を清めていなければいけない」と人にお説教をしている人間が、実は絶えず人の目を気にし、人の評価を気にして生きている。こういうことも実によくあることです。心の中にあることは「強欲と悪意」なのです。それが虚栄と偽善を生み出している。しかし、そのことに自分が気付いていないし、多くの人も気付かない。彼らの行為を見て、またお説教を聞いて立派だと思ってしまっている場合もしばしばあるのです。

 墓

 日本でも、墓に行った後は清めの塩をかけて貰わないと家に入れないことがあります。今から27年前、30歳になる頃に、私は信州の松本の教会に赴任しました。今は葬式のほとんどが葬祭センターを会場とするようになりました。しかし、私が赴任した頃のお葬式は、ご自宅や公民館が会場でした。行ってみると、ご遺体の頭には三角形の鉢巻きが巻いてあり、魔除けの刀が掛け布団の上に置いてありました。ご遺体には足袋を履かせ、杖を持たせ、小銭も持たせて棺に入れるという具合でした。三途の川を無事に渡ることが出来るようにという願いがそこに込められています。つまり、お寺の坊さんがする葬式と全く変わらない準備が既に近所の人たちによってなされているのです。そういう中で、キリスト教式の葬儀をやり、火葬し、その足で自宅のすぐ近くにある墓地に行って骨壷を埋めました。その時は、新しい墓が出来るまでの仮の埋葬だったのです。そして、再び自宅に入る時に、家の方が玄関口で待っていて清めの塩を会葬者の肩のあたりに振りかけるのです。その清めを受けないと、死の穢れを家の中に入れてしまうからです。
 私は、鉢巻きも刀も杖も小銭も仕方ないかと思って黙っていたのですが、自分に塩をかけられる時は、「いや、わたしは結構です」と言って、そのまま家の中に入っていきました。自分が清めを必要としない人間だと思っていたわけではなく、「キリストに結ばれて死んだこの人はキリストの復活に与るのだ」と説教した人間として、塩をかけられることには抵抗しなければいけないと思ったからです。もちろん、そんなことをその場で説明した訳ではありません。「わたしは結構です」と言っただけです。牧師というのは最初から変人だと思われていますから、こういう場合は皆さんよりもはるかに断りやすいのです。「ああ、あんたはキリストさんだからね」みたいな感じで許されます。

 幸福だと思っている不幸

 当時のユダヤ人にとっても、死は穢れであり死体に触ることは穢れが身に移ることでしたから、墓にも近づいてはならないのです。当時は墓標を白く塗ったようなのですが、それは墓を飾るためというよりも、知らずに死体が埋められた所を歩いてしまった人が穢れないようにするためでした。
 ファリサイ派の人々の表面的な行い。敬虔な態度、忠実な律法順守。そういうものが信仰者の模範として褒め称えられ、尊敬の対象になる場合があります。だけれど、彼らの心の中にあるのは強欲であり「悪意」であり、神様に対して正義を行っている訳でも、神様を愛している訳でもないのです。ただただ自分を愛している。自分はそんなこととは思っていない。でも、その内実は、イエス様にはよく見える。見え過ぎるくらいに見えるのです。イエス様の目には光があるから。肉眼では見えないものも見えるのです。しかし、目が濁っている多くの人は見えない。虚栄や偽善が隠されている信仰的態度や姿をほめそやしてしまう。そして、それに倣おうとしてしまう。それは気付かぬうちに墓の上を歩くことであり、清くなりたいと願いながら汚れていくことです。その原因をファリサイ派が作っているから「不幸だ」とイエス様はおっしゃる。
 こういう現実は、いつの時代の教会にも見られることだと思います。私たちも絶えず注意し、用心しないといけません。自分は幸福だと思いつつ、不幸になっていることがあるのです。
 ファリサイ派や律法学者は自らを清め、また他の人々も清めてやるつもりで、自らを汚しており、他人まで汚している。だから不幸なのです。災いなのです。その不幸な姿を見て、イエス様は深く嘆いておられるのです。冷たく見捨てているのではありません。むしろ、愛をもって招いておられる。本当の清さ、本当の豊かさを生きるようにと。正義と愛を生きるようにと。

 イエス様の言葉と業

「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」

 私がイエス様という人を心から信頼する理由の一つは、イエス様は人に語ったことをそのまま実行されることにあります。イエス様にとっては、言葉だけ、言っただけということはなく、言ったことと行いが分裂することもない。こんなことは、私たち人間にはないことです。
 イエス様こそ器の中にある物を人に施した方なのです。神の正義と神の愛を生きられた方なのです。汚れた罪人、それ故に最早神様の前に立つこともできない罪人、神に造られた人として生きることが出来ない罪人を、神の国に招き入れるために、あの恐るべき十字架にご自身を捧げつくしてくださったのです。その悲惨な死を通して、神様の正義と愛をはっきりと啓示し、信じる者にはその正義と愛を与えてくださるのです。イエス様はご自身が持っているすべてを、その命までも、私たち罪人の罪が清められ、赦されて新たに生きるために、あの十字架の上に捧げてくださったのです。そこにイエス様の「施し」があると言って良いと私は思います。イエス様はすべてを神様に捧げました。すべてを失いました。でも、だからこそ神様から復活の命を与えられ、私たち罪人に新しい清い心を与えることがお出来になる救い主になられたのです。
 この方を信じる。この方を我が身に迎え入れる。そのこと以外に私たちが清められることはないし、そのこと以外に私たちが豊かになることも、幸いになることもありません。この方を信じる。この方を我が身に受け入れることで、私たちは神の国を生きる者とされ、永遠の命を受け継ぐ者とされるのです。そのために、イエス様は今日、私たちの中に入って来てくださるのです。心を開いて受け入れ、内側から汚れを清めていただきましょう。そして、これからの一週間、私たちの心の中にあるもの、つまりイエス・キリストを人に施すため、分かち合うために生きましょう。そのことに献身しましょう。その時、私たちにとってすべてのものが清くなるのです。

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