「あなたがたも不幸だ II」

及川 信

       ルカによる福音書 11章45節〜54節
   
11:45 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。11:46 イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。11:47 あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。11:48 こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。11:49 だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』11:50 こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。11:51 それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。11:52 あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」11:53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、 11:54 何か言葉じりをとらえようとねらっていた。

 目の前で語られる怖さ

 先週、私は高井戸教会の礼拝説教と講演の奉仕でしたけれど、中渋谷教会の朝礼拝は左近豊先生が説教を語ってくださいました。私は翌日にHPから録音を聴くことが出来ました。アメリカのある旧約学者が講義する姿の紹介を通して、目の前で語りかけてくる神様の姿が目に浮かぶような迫力がありました。そして、毎朝がグッドモーニングではない。バッドモーニングと言わざるを得ない現実をしっかりと見据えつつ、絶望を越えた神の希望を語る預言者の言葉が身に迫ってくる思いがしました。
 今日の箇所は、主イエスが激しい怒りや嘆きをもって語っている場面です。恐らく目を見開いて、手振りも加えながら、大声で「あなたたちも不幸だ」と叫んでおられる。律法学者たちに叫ぶイエス様の姿を見るだけでもかなり怖いのですが、もし、それが自分に対しての叫びであったとしたら、まっすぐに目を見つめられての叫びであったとしたら、どんな思いになるのでしょうか。今日の箇所では、「今の時代の者たちが責任を問われる」と二度も出てきます。叱責され、嘆かれているのは遠い昔の律法学者たちだけではありません。

 人間の歴史認識

 今はソチで冬季オリンピックが開催されており、私も一喜一憂していますけれど、それとは別に、ソチの先住民族に関する記事が目に止まりました。ソビエト時代にソチは侵略され、先住民の虐殺が行われたというのです。そのことで、多くの人々が周辺諸国に逃亡した。その歴史的事実を認めて欲しいと、今も残っている先住民族がロシア政府に求めているのだけれど、ロシア政府は無視を決め込んでいる。認めれば賠償請求される恐れがあるからです。
 こういう話は世界中の至る所に存在します。国家が形成され領土を拡大し国境線を確定する過程には侵略と略奪、時には虐殺、追放、弾圧が付随するものです。そして、国の中には差別される少数民族や人種が存在します。日本にも近隣諸国にも存在します。世界各地に民族差別、人種差別、また宗教差別は存在します。しかし、そのことを政府はなかなか認めません。それは、国民の多くも認めないからです。そうである限り、世界各地に存在する「歴史認識」問題はこれから先も変わることなく存在し、いつの日か再び戦争を引き起こす火種の一つになるでしょう。過去の出来事を直視し、何があったか、何をしたか、何をされたか、そのことを双方が同じ土俵の上で見つめて議論し、納得がいく評価を見つけ出し、それに伴う行動をしない限り、過去はいつまで経っても過去にならず、絶えず新たに亡霊として現れてきます。そして、今の時代の人間もその亡霊に振り回され、いたずらに敵意や不信感を深める。そんな不幸なことはありません。しかし、人間の歴史は、今もその不幸から脱出できてはいないと思います。

 聖書の歴史認識

 前回は46節で終わりましたので、今日は47節以降です。

「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。」

 ここでイエス様は「預言者」と言っておられますが、その先で「天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる」とおっしゃる。その預言者の最初が、アダムとエバの息子のアベルで、最後は祭司の子であるゼカルヤです。アベルは牧畜民の代表ですし、ゼカルヤは祭司です。だから、ここでの「預言者」は広い意味で神に立てられた信仰者のことであり、そのことの故に殺された人々のことだと思います。それは、私たちも、信仰の証を立てる時にはいやがおうにも預言者にされるということでもあります。
 神に立てられ、神に遣わされた人々は、天地創造のその時からずっと殺され続けている。人類はアダムとエバの長男カインが弟アベルを殺すことから、エデンの園の外における歴史を始めたのです。神の像に似せて創造された人間を殺すことは、生殺与奪の権を持つ神の位に自ら立つことですから、最大の罪と言って良いでしょう。その罪を犯すことから、人間の歴史は始まった。聖書の「歴史認識」は凄まじく深刻なものです。

 悔い改めを求める神

 カインに殺されて土に埋められたアベルの血の叫びを神様はお聞きになり、カインにその責任を問われました。しかし、彼はその責任を認めませんでした。弟を殺しておいて、死の罰は重すぎると言うのです。その結果、彼はその地から追放されました。でも、神様の加護の中で生き続けるのです。そして、恐らく町を簒奪し、その中で権力者となり、彼の子孫は「わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」と豪語する人間になったのです。
 人が自分の犯した罪を認めず、悔い改めない時、その罪は生き続け、世代を越えて引き継がれ、そして実は増大していくのです。傷つけてしまった段階で心から謝罪し、和解しておけばよかったことを、それをしないでいると傷害は殺害に至り、さらに大量殺戮、大虐殺にまでなっていく。それが人間の人生であり、人間の歴史です。
 聖書は天地創造物語から始まります。そして、たった6ページで人類の歴史の行き着く先、つまり罪とその結果の死、殺人、大量虐殺まで書き切ってしまうのです。あっと言う間に人間とその歴史の本質を抉りだし、焙り出してしまう。本当に圧倒されます。
 神様が何故、カインを生かしたか。それは、彼に悔い改めて欲しかったからだと思います。本当の意味で罪を自覚しない者を叱りつけ罰を与えても、その人の心の中には不平不満が残り、下手をすれば無用な憎しみや恨みを生み出す場合があります。また、何も分かっていない者を殺すことに意味があるのでしょうか。
 自分が何をしたのかをちゃんと見つめる。自分の側の見方だけではなく、相手の側の見方にも立ち、さらに神様の側からの見方に立って見る。そこにしか悔い改めは生じません。その悔い改めを待つ。カインに対して、神様はそのような態度で臨まれたのだと思います。そこには、叱りつけて罰を与えることとは違う危険性があります。それは、悔い改めの拒絶による罪の潜伏と増大です。悔い改めることを期待しても、その期待は空しく裏切られることが実際には多いのです。私たち人間にとって、自分の罪を認め、悔い改めることほど嫌なものはないからです。

 錯覚

 神に立てられた預言者とは、王を初めとする支配者に迫害され、また結局は民衆からも嫌悪された人々です。預言者が人々の罪を指摘するからです。そして、人々に悔い改めを求めるから。
 イスラエルの民は、自分たちは主に選ばれた聖なる民であるという自覚をもっています。しかし、次第に信仰が形骸化したり、他の神々や世の富や権力に心惹かれたりする。それなのに、自己独善、自己正当化、自己満足に陥っていく。そういうイスラエルに悔い改めを求めるために神が遣わしたのが預言者なのです。だから彼らは嫌われ、迫害され、時には殺されるのです。
 イエス様は、イスラエルの罪の歴史を背負い、責任を身に帯びておられるのです。しかし、イスラエルを代表すべきファリサイ派や律法学者たちは、先祖が預言者を殺して神の言葉を封殺して来たことを、墓を建てることで肯定しているのです。先祖の預言者殺しの業を、墓を建てることで完成させている。イエス様は、そうおっしゃっています。
 もちろん、彼らは預言者の死を悼む思いで墓を立てているのでしょう。でも、彼らの自覚を越えて、彼らの思いと先祖の思いは同じなのです。彼らも悔い改めを拒み、自己独善、自己正当化、自己満足の罪の中にどっぷりとつかり、それを指摘する者に敵意を抱き、弾圧をしているのですから。
 この国のリーダーたちが、無謀な戦争を遂行して、多くの戦死者を生み出し、市民も巻き添えにした責任者も「英霊」として崇める神社に「不戦の誓い」をしに行くという矛盾に気づかず、「どの国のリーダーもしていることだ」と居直る感覚に、それはどこか似ています。戦没者の死を悼む心をもって戦没者の墓地に行って「不戦の誓い」をすることは、西欧の多くの国のリーダーがやっていることでしょう。しかし、そのどの国のリーダーも戦死者や戦争遂行責任者を「英霊」とか「神」として崇めることはあり得ません。若者たちが戦争で死んでしまったことに対して哀悼の意を捧げているのであって、神として拝んだり、感謝したり、賛美したりしているのではないのです。勝手に作り上げた英霊に感謝し、顕彰することは戦死も戦争遂行も美化することでしょう。その思想が、武器輸出三原則を撤廃することにつながるのでしょう。国際紛争を戦争によって解決することはしないと誓った憲法を捨てていくわけです。
 今の路線が進んでいけば、「すべての日本国民はあの神社にお参りすべきだ」という気風が育ち、学校でもその路線の愛国教育が強化され、法的にも神社参拝が義務化され、徴兵制が復活する可能性もあると思います。「そんな馬鹿な」と思われるかもしれませんが、僅か七十年前にはキリスト教会の礼拝も宮城遙拝をもって始められたのですし、中渋谷教会もその例外ではないのです。それは、すべての国民にキリスト礼拝が強制されることと同じくおぞましいことだと、私は思います。その思想や信仰が何であれ、個人の信教の自由が侵されることは神の御心に反すると、私は信じています。だから抵抗します。
 しかし、国家権力や宗教的権力に対して、神に与えられた言葉をもって抵抗する人間は迫害され、殺されて来ました。それがイスラエルの歴史であり天地創造以来の人間の歴史だと、イエス様はおっしゃる。そして、それは不幸なことにキリスト教会の歴史においても起こって来たことです。キリスト教会やそこに生きる人々が自己を絶対化して、他の信仰をもった人々や異端とされた人々を弾圧して来たことは歴史的事実ですから。迫害の被害者は、あっけなく加害者にもなるのです。

 愛から出た言葉が死をもたらす

 罪を認めず、悔い改めを迫る者には敵意を抱く。その点において、律法学者たちが先祖と同じ罪に落ちていることを、イエス様は鋭く指摘します。そして、今日、この箇所を読む私たちに対しても鋭く指摘しておられる。それは確かなことではないでしょうか。イエス様は、私たちに悔い改めて欲しいからです。私たちを愛しているから、不幸のままでいて欲しくないのです。
 でも、53節にはなんと書いてあるのでしょうか。

イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。

 ここで生じた敵意の行き着く先が、イエス様を十字架に磔にして殺すことなのです。イエス様の愛から出た言葉が、イエス様に死をもたらします。イエス様もまた、昔の預言者と同じように殺されることになる。そうなることを十分予測しながら、「あなたたちは不幸だ」とおっしゃっている。それは一体どういうことなのか。

 神の知恵

「だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』」

 ここに出てくる「神の知恵」とは何であるか。色々な推測がなされていますけれど、そのことを紹介する暇はありませんので、私の推測だけを言います。
 私は、「神の知恵」とは基本的にイエス様ご自身のことだと思います。そして、二重括弧の中では、初代教会の現実が語られているのだと思います。初代教会にも預言者が立てられ、使徒と共に神の国到来の福音を宣べ伝えていました。その多くは、ユダヤ人社会の中では取るに足らぬ者たちです。しかし、そういう者たちの口を通してイエス・キリストによってもたらされている神の国が告げ知らされていくのです。
 ルカ福音書10章は、「神の国はあなたがたに近づいた」と宣べ伝える旅から弟子たちが帰って来た場面です。彼らは「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と言いました。イエス様は、聖霊によって喜びに溢れつつこう祈られました。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」(ルカ10:21)

 「知恵ある者や賢い者」とは、律法学者に代表されるような人々です。そういう者たちは、自分では神を知っていると思っている。しかし、イエス様から見れば実は全く知らないのです。イエス様はこう言われます。

「父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」 (同10:22)

 神様がどういうお方であるか、それはイエス様によって教えられるほかになく、誰に教えるかはイエス様に任されていることです。イエス様は幼子のような無知な者、弱い者にご自身を示し、神様を示してくださったのです。彼らはファリサイ派や律法学者たちから見れば、皆汚れた罪人です。しかし、だからこそ神様による罪の赦しを求めている。神様との交わりを求めている。だから、彼らはイエス様に招かれた時、それまでの人生を捨て、仕事を捨て、故郷を捨て、イエス様と寝食を共にしながら伝道の旅を続けているのです。それは、日毎の糧は神様が与えてくださることを信じて生きることです。イエス様自身がそうなのです。彼らはイエス様と共に、人々から歓迎されたり拒絶されたりしながら、神の国が来ていることを告げ、罪を悔い改めて、イエス様を信じて生きるように招き続ける。その伝道を通して、イエス・キリストを受け入れ、神の国の中に生きる者が生まれてくる。罪の赦しに与り、新しい命に生かされる者が生まれてくる。その様を、「預言者」また「使徒」として派遣された弟子たちは体験しているのです。そのことを、イエス様は神の「御心に適う」とおっしゃいます。その神の御心を知っているのは、「神の知恵」そのものであるイエス様だけなのです。

 私たちは何と言われるのか

 そのイエス様が弟子たちにだけに言われた言葉は、こういうものです。

「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(同10:23〜24)

 左近先生の説教でも、先見者の味わう苦しみが語られていたと思います。先に見る者、神様の御業を見させられる者はたしかに幸いなのです。しかし、そこで見たこと聞いたことを語ることが苦しみをもたらすことがある。だから、イエス様は「わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する」とおっしゃる。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」と言われた者たちは、迫害と殉教の死を覚悟しなければならない人々なのであり、にもかかわらず「幸いだ」と言われる人たちなのです。
 私たちの思いがどうであれ、主イエスはそういうことをおっしゃるお方です。その主イエスの言葉をちゃんと聴かねばならないし、そのお姿をちゃんと見なければなりません。
 イエス様は、地位も名誉もあるファリサイ派や律法学者たちを「不幸だ」とおっしゃる。私は、何と言われる人間なのか。皆さんはそれぞれ何と言われる人間なのか。二千年前に書かれた文書を通して、今の時代に生きる私たちが問われるのです。

 天地創造の時から

「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。」

 アベルは創世記4章に出てくる人物で、ゼカルヤは歴代誌下24章に出てくる人物です。
 偶像に仕えるイスラエルの民を悔い改めさせるために、神様は次々と預言者を送りました。でも、人々は耳を貸しませんでした。その時、神の霊に捕えられたゼカルヤが人々の前でこう言うのです。

「なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。」          (歴代誌下24:20)

 人々は怒り、彼を神殿の庭で石打ちの刑にしてしまうのです。その死に際して彼は、こう言うのです。

「主がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように。」              (同24:22)

 キリスト教会の正典である旧約聖書では、歴代誌は列王記の後ろに置かれていますが、ユダヤ教の正典においては最後なのです。イエス様が地上に生きておられた時代、あるいはルカが福音書を書いた時代にユダヤ教の正典がそのような形で確定していたかどうか、私は知りません。でも、イエス様はここで、アベルとゼカルヤの名を挙げることを通して、イスラエルの歴史だけではなく人類の歴史を総括して語っておられると思います。人類は、アダムとエバの息子の時から義人を殺してきた。そこで流された血に対して、「私は何の関係もない」と言うことが出来る人間はいない。イエス様は、そうおっしゃる。
 それは何故かと言えば、今でもその歴史が繰り返されているからです。人間が罪人であることが変わっていないからです。悔い改めていないからです。相変わらず自己正当化しているからです。その代表格あるいは象徴的存在が律法学者たちですが、私たちは彼らを遠くから眺めて嘲笑できる者たちであるはずもありません。

 知識

「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」

 私は、今日の箇所を読みつつ、イエス様の心の中には洗礼者ヨハネがいるのではないかと思いました。イエス様より半年前に生まれ、イエス様のための道備えをしたヨハネです。彼は強烈な言葉で人々に悔い改めを迫り、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ました。人々は尊敬と畏敬の念を抱きましたが、恐れも抱いたはずです。
 ヨハネは神以外には誰も恐れない人ですから、領主ヘロデの略奪婚を真っ向から非難しました。彼もまた預言者なのです。その結果、彼はヘロデに捕えられ、結局、ヘロデによって首を刎ねられることになります。イエス様は、ヨハネから洗礼を受けることを通して宣教の歩みを始めたのです。その時既に、ヨハネの行き着く先が悲惨なものであることをご存知だったでしょうし、ヨハネが備えた道を歩くことがご自分にとって何を意味するかもご存知だったに違いありません。
 そのヨハネが誕生した時、父親のザカリアは聖霊に満たされてこう預言しました。

「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」
(ルカ1:76〜77)

 翻訳では分からないのですけれど、ここには「知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ」「知識」(グノーシス)という言葉が使われています。ルカ福音書では、この二か所だけに出てくる言葉です。ザカリアはこう言っているのです。

主の民に罪の赦しによる救いの知識を与えるために。

 「救い」
とは、神の国に生かされることです。それは、罪を赦された時に初めて可能なことなのです。そのことを知る知識、それこそが救いに至る知識であって、すべての律法を知り、その具体的適用の仕方を知っていたとしても、そんなものは何の意味もないのです。しかし、律法学者は自分たちの知識に誇りをもっていました。そして、自分たちと同じように律法を知り、同じように行うことを人々に求めたのです。それはまさに、救いの中に「自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げる」ことでしょう。だから、不幸なのです。
 イエス様は、彼らが、そして彼らによって救いに入ることを妨げられている人々が、不幸のままでいることに耐え難い悲しみを抱いておられるのです。しかし、その愛は届きません。イエス様は、激しい敵意を抱かれるのみなのです。私たちには、その愛が届いたでしょうか。

 責任は誰が取ったのか

「言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。」

 その責任を自覚せず、「自分は正しいことをしている。自分を批判する者の方がおかしい。誤解している。」私たちはしばしばそう確信しています。その時、私たちは幸せです。私たちは誰でも幸せになりたいから、そう確信したいのです。でも、その確信こそ自らに対する誤解です。そこに不幸の源がある。罪を知らず、認めず、悔い改めない。それこそが、幸せな気分でいるための秘訣でしょう。でも、それが不幸であることの証拠です。良い目を持たないと、良い耳を持たないと、幸いになるための「知識」を持つことはできません。
 私たちは幸いにして、今日もこうして礼拝に招かれています。そして、今日の主イエスの言葉を聞いているのです。昔の言葉を読んで学んでいるのではありません。今日、語りかけられている言葉を聞き、そこで語られていることを見ているのです。

「今の時代の者たちはその責任を問われる。」

 この言葉の中に見えるもの、聞こえるものは何でしょうか。
 十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈る、主イエスの姿とその言葉ではないでしょうか。今の時代の者たちが問われるべき責任を一身に背負って、罪の赦しのために、罪人の救いのために十字架の上で息を引き取ってくださったイエス様の姿を見ることが出来る目は幸いです。その祈りが、自分のための祈りであると聞くことが出来る耳は幸いです。
 イエス様は、私たちに幸いを生きて欲しいのです。迫害を受けても、殺されても、それでも「幸いだ」と言える命を生きて欲しいのです。この世にありながらも、既にこの世に到来しつつある「神の国」を生きて欲しいのです。そのための「知識」をもって欲しいのです。そのイエス様の愛が、今日、私たちを打ち砕き、悔い改めることが出来ますように。そして、心からの賛美を捧げることが出来ますように。

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