「注意しなさい」

及川 信

       ルカによる福音書 12章1節〜3節
   
12:1 とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。12:2 覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。12:3 だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」

 ファリサイ派の不幸

 これまで三回に亘って、イエス様の厳しい言葉を聞いてきました。それは、ファリサイ派や律法学者たちに対する「あなたたちは不幸だ」という言葉です。ファリサイ派は当時のユダヤ教の一派で、旧約聖書の律法を日常生活に適用し、真面目に順守しようとした信徒のグループです。彼らは、他の人々にも自分たち同様の律法順守を求めました。そして、守れない者は汚れた者、罪人として裁いたのです。もちろん、その場合の「裁き」とは、法廷で判決が下されて牢屋に入れられるとか、罰を与えられることではありません。神様の審判において罪人とされることです。つまり、救われない。ファリサイ派は義人の死後の復活を信じていましたが、罪人はその復活に与ることがない。そういうことだと思います。彼らから罪人のレッテルを貼られた者には、救われる希望はないのです。神を信じる者たちがいつしか神になり代わって審判者になってしまうという、恐るべき事例がここにもあります。熱心な人間は、しばしば審判者になります。
 ファリサイ派が求める律法順守は多岐にわたり、また厳格なものです。ファリサイ派の人々も完璧には行えないのです。

「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」(ルカ11:39)

 イエス様にとって律法を守るとは(11章42節にありますように)、「正義の実行と神への愛」に生きることです。そのことを疎かにしつつ、形ばかりの律法順守に励んでも意味がないばかりか、むしろそれは不幸なことです。

 律法学者の敵意

 イエス様は、律法学者に対しても真っ向から「あなたたちも不幸だ」とおっしゃいました。彼らの偽善や欺瞞をも真っ向から批判したのです。そんなことをする人は、洗礼者ヨハネ以外にはいませんでした。ヨハネは既に領主ヘロデに捕えられています。
 律法学者たちは、イエス様に対して「激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた」とあります。当時のユダヤ人社会の中で権威ある人々から「激しい敵意」を抱かれることは、非常に危険なことです。イエス様は、その危険を承知の上で彼らに悔い改めを求めたのです。彼らが不幸のままでいて欲しくないからです。しかし、愛に基づくイエス様の願いは彼らには届きません。私たち人間は、なかなか悔い改めないものです。悔い改めなければ救われることはないのに、です。
 ファリサイ派や律法学者たちは、人々を罪人と定めて救いから遠ざけつつ、自分も悔い改めないことで自らを滅びに定めてしまう。その滑稽さに気付かない。そういうことは、私たちにおいてもしばしばあることです。

 群衆の思い

 とにかく、イエス様と律法学者の間に生じた騒ぎを聞きつけて、「数えきれないほどの群衆が集まって」来ました。人々は「この男は何者なのだ?!」と思ったのです。権威ある者たちを批判し、社会の枠組みを根底から覆すようなことを言うのですから、人々が驚くのは当たり前です。誰だって、権力者を真っ向から批判することは恐ろしいことです。でも、イエス様には人への恐れの気配が全くない。そういう人物に対して人々が関心をもち、互いの足を踏み合うほどに集まってきたのです。

 弟子の思い

 その大群衆を見た時、弟子たちの思いはどんなものだったのでしょうか?そもそも、律法学者たちに対して真っ向から「あなたたちも不幸だ」とイエス様がおっしゃっている時に、既に弟子たちは気が気ではなかったのではないかと思います。敵に回してはならない人たちを敵に回しているのですから。ハラハラし通しだったに違いありません。実際、その後の展開は彼らが危惧したとおりになりました。
 その挙句、騒ぎが広がり大勢の群衆が集まってしまった。弟子たちは、我が師の偉大さに鼻高々になったと言うよりはむしろ、我が師の暴走に恐れをなしたのではないかと思います。「ほら、やっぱりこんなことになってしまったじゃないか!」そういう怒りにも似た恐れが、今後どんなことになっていくのかが分からないという恐れが、彼らにはあったと思います。

 福音書の成り立ち

 ルカ福音書12章では、イエス様は「まず弟子たちに話し始められた」となっています。福音書を書いた人たちは、人々の間に伝わっているイエス様の言葉や業の伝承を収集し、それぞれが持っている独自の伝承資料を併せて福音書を書いたのだと思います。その編集意図は、かつて肉体をもって生きておられたイエス様の言動を正確に伝えることではなく、(そもそもそれは不可能なことです)今を生きている自分たちに、イエス様が何を語りかけているのかを明らかにすることにあると思います。ルカ福音書12章の言葉は、元来は色々な所で語られていたイエス様のいくつもの言葉を、ルカが集めてこの場所に置いたのだと思います。  そこには、ユダヤ教社会の中で誕生したばかりのキリスト教会に生きる信徒を励ます意図があると思います。ほぼ同じ言葉がマタイ福音書にもたくさん出てきますけれど、マタイとルカでは文脈が違うのです。文脈が違えば、その言葉の意味するところも違って来るのは当然のことです。
 今日の箇所は、ファリサイ派の「偽善」に関する言葉から始まりますけれど、弟子たちが暗闇で語ったことも明るみで聞かれるようになるという話にあっと言う間に変わっています。それぞれバラバラの言葉として伝わっていたものが三つ重ねられると、そしてルカ福音書のこの位置に置かれると、どういう意味になるのか。それが今日の問題です。

 パン種 偽善

 「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と、イエス様はおっしゃいます。「偽善者」は「役者」という意味を持つ言葉です。当時の役者はお面を被っていたようです。あるいは厚化粧をして役になり切る。歌舞伎などもそうです。中国の京劇では、一瞬にしてお面が変わったりもします。役者はそのお面と演技によって他人になりきり、その演技が素晴らしければ人々からの賞賛とおひねりをもらえるのです。
 それと同じように、ファリサイ派も真面目な信仰者の姿を人に見せる。そして、賞賛を得ようとする。彼らの自覚としては、自分たちは神の律法を忠実に守っているだけであり、そのことは神様に求められていることだと思っているのです。人々からの賞賛を求めて演技している自覚などないでしょう。でも、実際は人前で仮面を被って信仰者を演じている。自覚がないのは、自分に対しても仮面を被っているからです。自分で自分の演技を見て、ほれぼれしているからです。
 そういうことは、彼らの専売特許ではありません。人が、自分の演技にほれぼれすることはあります。最近何かと世間を騒がせている「全聾の作曲家」などを見ても、それは分かります。自分の演技に陶酔しながらも、心のどこかで「いつかばれるのじゃないかと恐怖を覚えていた」と言っていることも、よく分かる気がします。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」のですから。

 隠された逆転

 そういう「偽善」が、キリスト教会の中にも入り込み、はびこってくる。それは事実ですから否定しようがありません。「敬虔なクリスチャン」という言葉が使われることがあります。その言葉を聞くたびに、私たちは心のどこかで「そうならなくちゃ」と思い、また同時に「それは無理だ」とも思う。そして、「あの方は、敬虔なクリスチャンで」と言う人の心の中に、一種の皮肉とか冷笑を感じることもあります。「敬虔なクリスチャン」という言葉も「偽善者」の代名詞のように使われることがあるのです。それも無理ないことです。
 私たちキリスト者は、確かに清く正しく美しく生きなければならない存在です。そのことが神様から求められている。その事実を曖昧にしたり、逃げたりすることは出来ないと思います。  しかし、そこで言われる「清さ」「正しさ」「美しさ」とは何でしょうか?イエス様とファリサイ派や律法学者たちでは、すべてのことに関する理解が全く違うのです。イエス様の考える「清さ」「正しさ」「美しさ」は、現代の日本人、クリスチャンではない日本人、またクリスチャンである日本人の多くが考えるものとも違うような気がします。
 イエス様のことを考える時に、私たちは十字架の死を抜きに考えることはできません。あの十字架、犯罪者として、また神を冒涜する罪人として磔にされ、血を流しながら死んでいくあの十字架に「清さ」「正しさ」「美しさ」を見る人は、当時も今もいないのではないでしょうか。あの十字架は汚れた者、罪人が掛かるものであり、どう考えても目を覆いたくなるほどに醜いものです。しかし、聖書は、あそこに「清さ」「正しさ」「美しさ」があると告げているのではないか。見える者には見える。そういう逆転が隠されているように思います。

 隠されている恐れ

 「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。覆われているもので知られずに済むものはない」というイエス様の言葉は、「ファリサイ派の偽善は必ずあらわにされる時が来る。あなたがたキリスト者の中に潜む偽善も同じだから、『注意しなさい』」とおっしゃっている。それは確実なことだと思います。私たちは、注意しなければなりません。
 でも、ルカ福音書の文脈の中に置かれた時には、それだけの意味ではなくなるのではないか、他にもいくつかの意味が覆い隠されているのではないかと思います。
 来週ご一緒に読むことになる4節は、こういう言葉です。

「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」

 読むだけで恐ろしい言葉です。この時の弟子たちが心に抱いている恐れを、イエス様が深く洞察されているが故の言葉でしょう。ルカはルカで、ユダヤ人社会やローマ帝国の中で生きるキリスト者として、いつ何時迫害されるか分からない恐怖をその心に抱いていたでしょうし、彼が属する教会の信徒たちも同じ恐怖を抱いているのです。
 ルカ福音書の文脈では、イエス様はこの時、エルサレムに向かう旅の途上です。そのエルサレムで、イエス様は「天地創造の時から流されたすべての預言者の血」を流すことになる。イエス様は、そのことをご存知だったに違いありません。
 もちろん、弟子たちにはご自身の受難と復活の預言をされた上で、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と命ぜられているのです。イエス様は、甘いことを言って誘っているのではありません。弟子たちは、その言葉を聞いた上で従っている。既に、伝道の喜びに満たされたこともある。そして、主イエスの名の力に触れて神様を賛美したこともある。しかし、その時の彼らには覆われていて見えていなかったものがあるのです。それは「恐れ」です。その「恐れ」が、今少しずつ彼らの中に芽生え始めていると思います。それは、エルサレムで目に見える形であらわにされることになります。
 イエス様がエルサレムで逮捕された直後、ペトロは大祭司の家の庭で「この人も(あのイエスという男と)一緒にいました」と言われます。その時、彼は「わたしはあの人を知らない」と答えるのです。ペトロは死の恐れに捕らわれて、弟子のお面を捨てます。その役を捨てるのです。だから「注意しなさい」と言われる。言うまでもなく、それは今を生きるキリスト者である私たちに対する言葉です。

 未来に明らかになる

 再来週読むことになるはずの8節には、こうあります。

「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」

 「わたしはイエス・キリストの弟子です。あの方と一緒に生きている者です。」そのことを、いつでもどこでも誰の前でも、どんな状況の中でも言えるのか言えないのか。それが問題なのです。私たちは、迫害が迫ってきた時には弟子としての仮面を捨てるのか、それともそのお面を生涯放さず、自分の顔として生き続けるのか。時と場合によって演じ分けるのか。それは、今、私たちには覆われており、隠されていることでしょう。時が来れば、明らかになるのです。イエス様が「その人を自分の仲間であると言い表す」とは未来のことです。問題は今だけではない。今から後、ずっとのことです。そこで何があらわになってくるのか、です。私たちの偽善なのか、私たちの信仰なのか。

 多くの人の心にある思いがあらわにされる

  2節の言葉には、もう一つ隠された意味があるように思います。「覆われている」と訳された言葉は、「完全に覆われている」を表す言葉で、新約聖書ではここにしか使われない珍しい言葉です。その次の「現されないものはない」「現される」(アポカルプトー)は、 3節の「言い広められる」(ケールスソー)と共に、非常に大事な言葉です。最初に出てくるのは 2章35節です。
 生まれて八日目のイエス様を主に捧げるために、マリアとヨセフは神殿に登りました。その時、シメオンという人がイエス様を見て、こう神様を賛美しました。

「これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。」
(ルカ2:32)

 その直後に、シメオンはマリアに向って恐るべきことを告げます。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」    (同2:34〜35)

 不吉な預言です。「多くの人の心にある思いがあらわにされる」から、マリアも剣で心を刺し貫かれることになる。イエス様が語れば語るほど、立ち上がる人と倒れる人が出て来て、イエス様は反対を受け、十字架に磔にされて殺される。そういうことです。

 御子を通して現される神

 次に出てくるのは、10章21節と22節です。弟子たちが伝道の旅から喜びをもって帰って来た場面です。その時、イエス様は「聖霊によって喜びに」溢れました。そして、神様がご自身のことを「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになった」ことは御心に適うことだと言い、さらに「父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」とおっしゃったのです。
 「示す」「現す」と同じ言葉です。神様は、ご自身を「知恵ある者や賢い者には隠され」、弟子たちのような無学な者、律法学者たちにしてみれば律法を守れない罪人に現される。そして、神様がどういうお方であるかを知る者は、子であるイエス様が現そうと思う者のほかには、誰もいない。客観的な学びを通して神を知るなんてことはあり得ないのです。主イエスの選び、主イエスとの出会い、主イエスによる啓示があって、初めて人は神を示される。否定しようもない形で神様の臨在を知らされ、その言葉を聴くことになる。その時、それまで覆われ、隠されていた神様が現されるのです。そこに神様の愛の御業を見て、イエス様は神様を賛美されたのです。

 人の子が現れる

 もう一カ所は、17章30節です。「神の国はいつ来るのか」というファリサイ派からの質問に対して、イエス様が答えた場面です。イエス様は、ノアの洪水やソドムの滅亡の出来事を挙げながら、「人の子が現れる日にも、同じことが起こる」とおっしゃいました。
 誰の目にも明らかな形で世の終わりが来る。それはそうでしょう。地球という星だって、嘗ては火の玉だったり氷の塊だったりしたのですし、巨大隕石の衝突によって舞い上がった粉塵が地球全体を覆って、恐竜が絶滅したと言われています。今後も地震はあるし、火山の噴火もあるでしょう。今の状態が永遠に続くはずがありません。いつか生命が存在する星ではなくなるかもしれません。
 それよりも早く、人間の仕業による地球の温暖化が進んでいけば、人類は滅んでゴキブリを初めとする虫だけが生き残ると言われたりもします。何かの拍子に核戦争が起きないとも限りません。原発にミサイル攻撃がされれば、その被害はあっという間に国境線を越えて広がります。今でもこの地球上にはチェルノブイリや福島第一原発の周辺など、人が住むことが出来ない場所を、人が作り出しているのです。この世はいつか終わる。それは、私たちがいつか死ぬのと同じく確かなことだと思います。
 イエス様は、いつか来る世の終わりに「人の子が現れる」とおっしゃる。それは、人の子が誰であるかが、すべての人々に明らかにされるということです。今は覆いが掛かり、隠されていることですが、その時こそ、イエス様が万民のための救い主であることがすべての人に知られることになる。私たちは、その約束を信じているキリスト者なのです。

 暗闇 明るみ

 「だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」
 これも表面的な意味だけを見れば、隠れた所で言ったことも結局は知られることになるという一つの格言だと言って良いでしょう。「ここだけの話だけれど」と口止めした話の方が、実は広がっていくことがあります。そういう人間社会における現実を言い当てた言葉として読むことが出来ます。しかし、今まで見てきたことを考慮しつつ、イエス様の言葉を読む時、その意味は全く違ったものになるのではないでしょうか。
 ここでは「あなたがたが言ったこと」と言われます。つまり、弟子たちが言ったことです。それも「暗闇で」、また「奥の間で耳にささやいたこと」です。彼ら弟子たちが、何を暗闇や奥の間で語るのでしょうか?
 初代教会は、ユダヤ教と少しずつ分離していきました。それは、ローマ帝国の中で迫害を受ける対象になっていくことを意味したのです。ユダヤ教は、ローマの公認宗教だったからです。公認宗教から分離し、異端とされ、さらに皇帝崇拝を拒絶すれば迫害の対象になるのは当然のことでしょう。そういう時代、帝国の都であるローマの教会は地下の墓(カタコンベ)が礼拝堂であったと言われます。白骨が並べられた墓の中で、信者たちは十字架の死を経て復活された主イエスを礼拝していたのです。現在はトルコのカパドキアも迫害を逃れたキリスト教徒が洞窟や地下に礼拝堂を作って、そこで礼拝がなされていたのです。人知れず説教がなされ、賛美が捧げられ、聖餐の食卓が守られていた。それは信者だけの秘密の礼拝でした。日本の長崎の離島でも、隠れキリシタンが三百年生き続けていたという歴史があります。キリシタン禁教令が解かれた時に、そのことが明らかになったのです。
 「暗闇で言う」とか、「奥の間で耳にささやく」とは、そういうことなのではないかと思います。どれ程迫害されても、イエス様が万民のための救い主であることを語り続ける。密かにであっても語り続けるなら、いつの日か、それは誰の目からも見える「屋根の上で言い広められる」ことになる。このイエス様の約束が、迫害に耐えつつ、世の終わりの救いの完成を待ち望むキリスト者にとっての支えなのです。

 言い広められる

 「言い広められる」は、ケールスソーという言葉の未来形の受身です。先ほども言いましたように、非常に大切な言葉です。この言葉は、洗礼者ヨハネが「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」という所で初めて出てきます。以後、もっぱら罪の赦しの福音を「宣教する」という意味で使われ、最後は復活された主イエスが、弟子たちに語りかける言葉の中に出てくるのです。それはこの福音書の結論と言って良い言葉です。

「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:46〜49)

 12章11節12節で、迫害の中で弟子たちが信仰の証をしなければならない時、「何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは聖霊がそのときに教えてくださる」と、イエス様はおっしゃっています。「聖霊」とは「高い所からの力」です。その力で覆われる時、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる(ケールスソー)」のです。
 その宣教は、死への恐れから弟子であることを捨ててしまったペトロたちがすることです。彼ら抜きに、罪の赦しを得させる悔い改めが全世界に宣べ伝えられることはないのです。しかし、彼らは自分の力で、そのことが出来るはずもありません。まさに天からの力、聖霊に覆われた時、彼らは力を受けて、福音の証人として立てられるのです。  主イエスの復活から五十日が経ったペンテコステの祭りの時、エルサレムに留まって祈っていた彼らに聖霊が降りました。そして、かつて「あの人のことは知らない」と言ったペトロは、それこそ足の踏み場もないほどの大群衆に向かって、大胆に説教をしました。

「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
(使徒行伝2:32、36、38)

 いつ読んでも心熱くされる説教です。聖霊が注がれた時、ペトロを初めとする弟子たちに覆い隠されていたこと、イエス様がメシアであり主であることがはっきりと現されたのです。言葉で聞いていたことを全身全霊で知ることが出来たのです。そして、その時、彼らを覆っていた恐れは取り除かれ、彼らは明るみで、屋根の上で、神様がイエス様を十字架の死から復活させ、メシア、主となさったことを言い広めることが出来たのです。
 そして、神様はこの礼拝堂に集まっている私たちに聖霊を与え、聖書にかけられている覆いを取り除いてくださり、主イエスの今日の語りかけを聞かせてくださいました。だから、私たちは恐れることなく、主の証人として今日からの一週間に歩み出すことが出来るのです。主に感謝します。

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