「恐るべきは、誰か」

及川 信

       ルカによる福音書 12章4節〜7節
   
「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 恐れ

 今日の箇所には、翻訳では一回省かれていますが、合計五回も「恐れる」という言葉が出てきます。「恐れてはならない」(恐れるな)が4節と7節、また「恐れるべき」「恐れなさい」が5節に三回です。5節は「私は誰を恐れるべきかを教えよう。殺した後に地獄に投げ込む権威をもっている方を恐れなさい。そうだ、言っておく。その方を恐れなさい」が直訳です。この段落の主題は「恐れ」であることは間違いありません。
 弟子たちが恐れを感じていることを、主イエスはよくご存知です。主イエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちが「幸い」に生きることを願って「あなたたちは不幸だ」とおっしゃるのです。でも、その愛は彼らには通じず、敵意と憎しみを買ってしまう。その様を見て、弟子たちは恐れたのです。それは、ルカ福音書の最初の読者たちの現実でもあります。彼らもまたユダヤ人社会やローマ帝国からの迫害や弾圧の中を生きていたのであって、いつも恐れを心に感じざるを得ないのです。私は、現代の為政者たちの言動を見聞きしながら恐れを感じています。そういう恐れを心に抱くキリスト者に向って、主イエスは語りかけるのです。

 友人

「友人であるあなたがたに言っておく。」

 ここにしか出て来ない独特の言い回しです。特別な親愛の情を込めて、イエス様は恐れを心に抱く弟子たちを「友人」と呼んでいることは間違いありません。この言葉を聞いて、私たちが思い起こすのはヨハネ福音書15章の言葉でしょう。そこで、主イエスは弟子たちに向けてこうおっしゃいました。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。……あなたがたが、わたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ。」(ヨハネ15:13〜14,16)

 イエス様は弟子たちを友として選び、彼らを愛し、その愛ゆえに彼らのために命を捨てる。ルカ福音書においても、「友人であるあなたがた」という独特な呼びかけの中に、イエス様の命を捨てる愛が含まれていることは確実だと思います。それほどの愛を込めてでなければ語ることができないことを語る。そういう緊迫感が伝わってきます。

 この世の国と神の国

 ヨハネ福音書では、先ほどの言葉に「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」という非常に恐ろしい言葉が続きます。
 ルカ福音書も同様です。読むだけでも嫌な言葉です。

「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」

 私は、聖書の言葉を聞いたり読んだりする環境で育ったので、子どもの頃から恐ろしい言葉にたくさん触れてきました。特に今お読みした主イエスの言葉は、子どもながらに怖かったし、今は今でもっと怖いです。イエス様を信じて生きることは、本当に恐ろしいことだと思います。
 今、私は主イエスを信じており、主イエスがもたらしてくださった神の国の中に生きたいと願い、神の国到来の福音を人々に宣べ伝えています。しかし、その神の国は、明らかにこの世の大多数の人々が考える良い国とは違うし、特にこの国の為政者たちが心に抱く良い国とは違います。国の為政者とその支持者にとって「良い国」とは経済的に豊かであり、軍事的にも強い国であることは明らかです。政治の役割の一つは、そういう国を造ることだと思います。
 でも、そういう国を造るために、犠牲にされることが沢山あることも事実です。しばしば言うように、強くて豊かな国造りのためには個人の思想信条の自由が侵害されることがあります。良心の自由が踏みにじられたこともある。「お上」の言うことに逆らうことは、非国民だということになりがちです。これも日本だけの特質ではありませんが、国家が作りだす神話においては、「国家」が至高の存在になり、国家のために払う国民の犠牲は尊いものとされます。
 そういう世にキリスト者の一人として生きていて、また神の国を宣べ伝える伝道者として生きていて、恐れを感じない訳にはいきません。皆さんは皆さんで、それぞれの思いをお持ちでしょう。
 いずれにしろ、今日、礼拝に集められた私たちは「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」という主イエスの言葉を聴いているのです。その言葉をどのような立場で聴くのか。それが問題でしょう。今言ったような恐れを感じている者にとっては、遠い昔の話ではありません。

 死の恐怖

 私たち人間にとって、死は最大の恐怖です。通常の精神状態である限り、人は誰でも死を恐れています。死は忌避すべきことです。現代では、アンチエイジングと言われたりしますが、それは不老長寿のことです。そのことに対する人間の欲望は古代から現代まで変わることがありません。最近話題のEPS細胞とか、STAP細胞などが「人類の夢の細胞」とか言われるのも、そのことと無関係ではありません。人間にとって最大の問題が、如何に生きるかではなく、如何にして死なないようにするかであるかのようです。
 人間に対する最初の戒めも、「これを食べたら必ず死ぬ」というものであり、蛇がその戒めを受けた人間に「決して死ぬことはない」と語りかけたことも意味深なことです。蛇は、人から死への恐怖を取り除くことによって、人と神、そして人と人との交わりを破壊し、本質的な意味で、人に死をもたらせようとしたのです。

 生の恐怖

 しかし、人間は死を恐れるだけではなく、死に憧れることもあります。動物は、自ら命を断つことはしません。自ら死を選ぶのは人間だけです。このまま生き続けることの方が死よりも恐ろしいと思うことが、人間にはある。被災地では、再び自殺者が増加しつつあるのです。家族との死別、故郷喪失、失職、離婚、それに伴う孤独。その孤独に陥った時、人は生き続けることに希望を持てず、生き続けることこそ恐ろしいことだと思ってしまうのです。孤独というものが、人間にとっては本質的な死なのです。

 石巻 福島

 先週、私は石巻山城町教会と福島教会をお訪ねし、すっかり親しい間柄になった牧師さんや信徒の方たちとお会いし、色々なお話を伺ってきました。石巻では「復興はこれからがまさに正念場です」とある方がおっしゃいました。また、「震災直後は皆被災者として横一線だったんですけれどね、今は違います」とおっしゃる方もいました。三年経って、被災者の間に様々な格差が生じてしまったのです。
 石巻は凄まじい津波に襲われた町の一つですが、海沿い川沿いに建てた自宅が流された人がいる一方で、高台の上に自宅があって何の被害も被っていない人がいます。職場が無くなった人もいれば、そうではない人もいます。元いた土地に再建する希望を持てる人もいますが、最早再建が許可されない地域もあります。入居している仮設住宅から復興住宅に移る希望を持てる方もいますが、追い出される日だけが決まっており、新たな転居先が決まっていない人もいます。年齢によって線引きがされる場合もありますし、何よりも先立つものがあるかないかの差があるのです。
 漁師の方が大勢住んでいる雄鹿半島の小さな港町には銀行などありません。だから、多くの方が現金を自宅に保管していたのです。しかし、その現金が家ごと流されてしまったそうです。本当にお気の毒です。
 福島市は内陸部ですから津波の被害はないし、地震による建物の倒壊もほとんどありません。でも、福島教会は、古いレンガ造りの会堂でしたから、一部が崩落して危険建造物となり、会堂を取り壊さざるを得ませんでした。さらに放射能汚染、そして牧師辞任に伴う無牧状態という二重三重の苦難を与えられた教会です。震災から程なく実施された会堂取り壊しについては、教会内での意見の相違や対立があり、放射能汚染もホットスポットとそうではない土地の違いがあり、小さなお子様がいる家庭と高齢者のみの家庭では放射能に対する対応の仕方が異なってきます。福島には、そういう対立、分裂の問題があるのです。また、ある方が、「福島の小学生の肥満率が全国一になってしまいました。それが本当に残念です」と言っていました。子どもたちが屋外で遊ぶことができないからです。福島は山、川、海に恵まれ、気候も温暖な美しい所です。しかし、今、そのすべてに放射能汚染の危険があり、学校給食に福島産の米や野菜を使うか使わないかで保護者の間に根深い対立が生じてしまうこともあるのです。
 石巻でも福島でも、同じ教会の中で様々な立場や境遇の方がおられますし、それだけを見れば、連帯して生きていくことは難しいのです。しかし、教会が神を礼拝しつつ歩む時、そこにはこの世にはない秩序、つまり神の国の秩序、愛の共同体が生じてくるのです。

 孤独という死

 今日の箇所は、表面的には、迫害者に対する弟子たちの恐れが問題になっています。しかし、その奥にあることは、何が本当に恐れるべきことなのか。また誰を恐れるべきなのかという問いです。人は死を恐れるだけではなく、生に対しても恐れを抱くのです。なぜ、死を恐れるのかと言えば、死が完全な孤独をもたらすからだと思います。それでは、人はなぜ自ら死を選んでしまうのか。その理由もやはり突き詰めれば孤独だと思います。最近は「孤独死」という言葉もありますが、人は孤独に落ちた時に既に死んでいるとも言えるのです。
 神様がアダムを造った後に、「人が独りでいるのは良くない」とおっしゃいました。それは「人は独りでは生きてはいけない」という意味でもあると思います。人は、食物があれば生きていけるという生物ではないのです。交わりがないと、人としては生きていけないのです。しかし、人間は自ら神のようになろうとすることで交わりを壊してしまう。私たちは、いつもそういう矛盾を内に抱えています。
 孤独の死への恐れ、孤独の生への恐れこそが、迫害者に対する恐れとか、病に対する恐れとか、災害に対する恐れの根底にあるものなのではないかと、私は思います。石巻山城町教会や福島教会をお訪ねする時に言われることは、「今も私たちを忘れないでこうして来てくださるだけで嬉しいです」ということです。「自分たちは独りではない。主が共にいてくださる。そして、主にあって結ばれた兄弟姉妹が共にいる。」そのことを知る喜びは深いのです。私たちは、二つの教会に少しばかりの支援をさせて頂いていますが、そのことを通して両教会に生きる皆さんと主にあって共に生きる恵みを与えて頂いているのです。

 恐れるべき方

 主イエスは、恐れるべきは、肉体の死の後に人を地獄に投げ込む権威をもっている方であるとおっしゃいます。この場合の「恐れ」は、同じ言葉であっても少し意味が違います。迫害者に対する恐怖の意味ではないのです。神への恐れです。神への恐れとは神に対する畏敬であり、信仰を意味します。もちろん、そこに恐怖がない訳ではありません。でも、それよりも深く、神を信じることです。その神とは、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」です。しかし、それは「殺した後で、天国に招き入れる権威を持っている方」だということです。人間は、死んだ人に対しては何も出来ません。「遺体」に対して出来ることはあっても、「死んだ人」に対しては何もできません。それができるのは、全能の力を持つ方だけです。その方がいると信じるならば、その方が自分を愛してくださっていると本当に信じるならば、体を殺すことができるものを恐れる必要はないし、死を恐れる必要はないのです。死は、私たちを神から引き離すものではないのですから。まして、生きることを恐れる必要はありません。神に愛され、神を愛して生きることは喜びに喜びを増し加えていくものなのですから。

 神の前

 その全能者、神様がどういうお方であるか。主イエスはこう言われます。

「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 アサリオンとはローマの貨幣の最小単位です。五羽で二アサリオンとは一羽では値がつかないということです。当時、雀は庶民には貴重なタンパク源でした。網にかけて捕まえ、殺して売っていたのです。その雀の一羽一羽の違いなど人間には全く分かりませんし、関心もありません。しかし、「その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と、イエス様はおっしゃる。
 この言葉は、「その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない」と訳した方が原文に忠実だと思います。「その一羽さえ、神の前で忘れられていない。」
 意味としては同じだと思いますけれど、ギリシア語の「神の前で」(エノーピオン トゥ セウゥ)という言葉の用法を調べてみると、意味が同じだからよいではないかとは言えない感じがします。

 ザカリア

 この言葉が最初に出てくるのは、天使ガブリエルが神殿の中で祭司ザカリアに語りかける場面です。

「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(ルカ1:19〜20)

 「神の前に立つ者」が語る言葉は、神の言葉です。その言葉はこの世の常識とは真っ向から対立するものだし、そもそも次元が異なるものです。だから、理解よりも信仰が必要なのです。信じなければ理解も出来ません。祭司であるザカリアには、この時その信仰がなかったのです。しかし、彼も、この時以後、本当の意味で「神の前に」立たされることになり、神の言葉に巻き込まれていくことになります。こういうことを、「恐るべきこと」と言うのです。しかし、これほど「幸いなこと」もありません。私たち信仰者は、誰であれ、神への恐れを抱きつつ、その幸いを生きる者なのだし、その幸いの中に死ぬ者なのです。

 人の前 神の前

 もう一カ所、「神の前」が出てくるのは、16章15節です。イエス様は、金に執着するファリサイ派の人々に向ってこう言うのです。

「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」

 翻訳では分かりにくいのですが、「あなたたちは人の前で自分の正しさを見せびらかす。しかし、神はあなたたちの心を知っている。人の中で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものだ」と、「人の前」「神の前」が対比されているのです。主イエスによれば、人の世で正しかったり価値あるものが、神の国では悪であり、忌み嫌われるものなのです。富に執着することは人の世では尊いものであっても、神の国では忌み嫌われるということです。富そのものに害がある訳ではありません。使い様によっては神の御業のために用いることができます。しかし、富に執着することは、神の前では忌み嫌われることなのです。
 「人の前」とか「神の前」とは、「人の見方によれば」、「神の見方によれば」ということです。

 大切にされるとは?

 「一羽の雀など人間の目には無価値なものだが、神の目には尊いものだ。まして、雀よりもはるかに価値のある者として創造された人間を、神は尊いものとして大切にしてくださらないはずがあろうか。」主イエスは、そう言っておられるでしょう。
 しかし、私たちを尊いものとして大切にしてくださるとは、どういうことなのか?どんな病気も治してくださるということか、若返りを与えてくださるということか、災害からも事故からも守ってくださるということか、無病息災、安産、受験合格を果たしてくださるということなのか。これらのものは、人の世では尊いこと、価値あることだし、もちろんキリスト者である私たちにとっても価値のあることで、神様にそれらのことを祈り願うことも許されていると思います。
 でも、それらの願いが叶わない時、「神はいない。神は無力だ。無価値だ」と考えるとすれば、そんな悲しむべきことはありません。それこそ恐るべきことです。
 何をしようがしまいが、何があろうとなかろうと、私たちは死ぬのです。金持ちも貧乏人も、身分の高い者も低い者も、その点では全く同じだし、金で天国を買える訳ではないでしょう。金で救いを買える訳ではない。神様の前に、富や地位は無価値なものであり、それに執着することは忌み嫌われることなのです。

 御国 楽園

 イエス様は、私たちを「友人であるあなたがた」と呼んでくださっているのです。それは、「わたしはあなたがたのために命を捨てるよ」という意味です。しかし、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言ったペトロを初め弟子たちは、死を恐れて、「わたしはあの人を知らない」と言って逃げるのです。「友」と言ってくださる方を裏切るのです。
 しかし、裏切られたイエス様は、裏切った者をそれでも友として愛する。自分の命を捨てるという形で愛する。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈りつつ、死んでくださる。「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と嘲られ、隣の十字架に磔にされている犯罪者にも「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵倒される。それでも、イエス様は神に頼んで、自分が救ってもらうことではなく、私たち罪人が救われることを祈り、私たち罪人の救いのために、十字架の上で息を引き取られるのです。人から忌み嫌われて、無価値なものとして殺されるのです。
 父なる神様は、イエス様の祈りを聴きつつ、いや聴いているが故に、イエス様を助けない。十字架から降ろさないのです。
 その時、もう一人の犯罪者が願います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」彼は、「十字架から降ろしてくれ」とは願いません。十字架における死を、自分が犯してきた罪に対する処罰として受け入れているのです。しかし、「人の前」でこのように裁かれても、「神の前」では赦されたい。彼は、イエス様の姿を見、その祈りを聴いた時に、人々から忌み嫌われて当然である自分が、神の前では、神の見方によれば、実はとても尊い存在なのだと思わされたのでしょう。神の愛する子が、罪なき神の子が、自分のような者のためにも祈りつつ死んでくださる。その事実を目の当たりにした時、彼は自分の存在の尊さを知らされたのです。だから、イエス様に「あなたの御国においでになるときは、わたしを思い出してください」と願ったのです。それは、「神の前でわたしを忘れないでください」ということです。
 その願いを聞いて、イエス様はなんとおっしゃったか。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)

 こういうことが言えるのはイエス様だけです。十字架の上で、罪人の罪の赦しを祈りつつ死ぬイエス様だけです。そして、イエス様を復活させて、楽園に上げることができるのは神様だけです。イエス様ご自身が恐れ、また恐れるべきはこの方だとおっしゃった神様だけが、イエス様を楽園、御国に上げることができるのです。そして、十字架で処刑された犯罪者を楽園に招き入れることがお出来になるのもこの神様だけです。この方だけが全能の神だから。この方だけが恐るべき方だからです。

 神の助け

 昨日、私は旧約聖書に関する講演会に行きました。講演会後に講演者から「福音と世界」という雑誌を頂きました。その中に、「現代において旧約聖書を『神の言葉』として読むとは」と題する文章がありました。その「現代」とは、東日本大震災以後のことです。
 その中で、筆者はドイツの牧師であり神学者でもある人の言葉を引用していました。その方は、戦時中のドイツで反ナチ闘争に加わり、結局、敗戦直前に処刑されてしまった人です。その人が、死の直前に獄中で書いた言葉です。

「神の前で、神と共に、我々は神なしに生きる。神はご自身をこの世から十字架へと追いやられるにまかせる。神はこの世においては無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、神は我々のもとにおり、また我々を助けるのである。」

 表現は過激だし、暗示的ですけれど、非常に深いそしてリアルな言葉だと思います。私たちは、神の前で、神と共に、神なしに生きる。全能の神はこの世においては無力で弱い。しかし、そのようにして私たちと共に生きてくださり、私たちを助けてくださる。神は十字架の死から自ら降りたり、人を降ろしたりすることで、ご自身の全能の力を発揮されない。罪人と共に死ぬ。罪人のために死ぬのです。そのことにおいて、私たちの罪を赦し、私たちを御国に招き入れてくださるのです。神の助けとは、神の救いとはそういうものなのです。

 小さな群れよ、恐れるな

 このような救いを与えてくださる神様を恐れる。その方だけを信じる。その時、私たちは他の何ものも恐れる必要はなくなるのです。この先で、イエス様は弟子たちにこうおっしゃっています。

「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:31〜32)

 私たちキリスト者は、この国ではこれからもずっと少数者でしょう。小さな群れであり続けると思います。戦前戦中時代のような迫害や弾圧を受けることもあるでしょう。でも、「恐れるな」と、主イエスは言われます。神を信じ、神の国をだけを求めよ、と。
 また、私たちも病に罹り、事故に遭い、災害に見舞われるかもしれません。そして、いつか必ず死にます。でも、「恐れるな」と、主イエスは言われるのです。どんなことがあったとしても、そして死ぬ時も、神の前で、私たちが忘れられることは決してないのです。忘れられるどころか、主イエスがいつでも共にいてくださるのです。そして、主イエスによって私たちの父となってくださった神は、「喜んで神の国をくださる」のです。だから、ただこの方だけを恐れ、信じ、礼拝しつつ御国を目指して歩む者でありたいと思います。

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