「小さな群れよ、恐れるな」

及川 信

       ルカによる福音書 12章22節〜34節
   
12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。12:25 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。12:26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。12:27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。12:28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。12:29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。12:30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。12:31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。12:33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。12:34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

 「自分の豊かさ」を求める王と国民

 今日の箇所には、ダビデの息子であるソロモンが出てきます。イスラエルの歴史の中で最大の国土と財力を誇った王です。列王記上には、こうあります。

「ソロモンは(異邦人を)奴隷として労役に服させ、今日に至っている。」(9:21)
「ソロモンの杯はすべて金」「ソロモンの時代には銀は値打ちのないものと見なされていた。」(10:21)
「ソロモンは戦車と騎兵を集め・・・エルサレムの王のもとに配置した。」(10:26)
「エジプトから輸入された戦車は・・・王の商人によってヘト人やアラム人のすべての王に輸出された。」(10:29)
「ソロモン王はファラオの娘の他にも・・多くの外国の女を愛した。」(11:1)
「彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。……彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。」(11:3〜4)

 外国人を奴隷として使ってインフラを整備し、軍備を増強し、武器の売り買いで商売し、贅沢を極めていく。神の民イスラエルが、唯一の主である神への信仰を捨てて、どこにでもある大国を目指す。それがソロモンのとった政策ですし、古代から今に至るまで多くの国の為政者たちがとってきた政策でしょう。それは多くの国民が、「自分の豊かさ」を求めているからです。
 三年前の震災の復興はままならず、原発事故による放射能汚染で何もかも奪われて心が折れ始めている人々がいる。それが、私たちの国の一つの現実です。その現実こそ見るべき現実、真剣に継続的に取り組むべき現実だと、私は思います。しかし、原子力によって作り出される電力は今後も重要だということで原発再稼働が決まり、新たな設置も容認する動きが出て来ています。武器輸出禁止の原則もなし崩しになり、戦争することができる国造りが進められています。オリンピックを通して東京を世界に売り出すために、資材も人材も何もかも集め、必要な労働力は外国から調達していくようです。そのようにして、今も仕事もなく狭い仮設住宅に暮らし続けることで心身が限界に追い込まれている人々は、為政者にも国民にも忘れられ、切り捨てられていくのではないでしょうか。少なくとも、私たちキリスト者は忘れずにいたいと思います。私たちは「自分の豊かさ」だけを求める民ではないはずです。

 本国は天にある

 パウロは、フィリピの教会に生きる信徒たちにこう語りかけました。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(フィリピの信徒への手紙3:18〜21)

 この言葉は、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という主イエスの言葉に対する正しい応答だと思います。
 「腹を神とする」とは、自分自身を神とすることです。そういう者は、ソロモンと同じように「自分のために富を積み」ます。「この世のことしか考えていない」からです。しかし、その「行き着くところは滅び」以外のなにものでもありません。
 それに対して、洗礼を受けたキリスト者の「本国は天に」あるのです。私たちは、世の終わりには、天からイエス・キリストが救い主として来られ、復活の体を与えてくださることを信じて待ち望んでいるのです。その時、神の国が完成することを信じているのです。
 世の人が聞けば、これは荒唐無稽な話であり、そんなことを信じること自体が愚かの極みでしょう。私たちだって、かつてはそう思っていたのですから、よく分かります。しかし、今日も、聖霊の導きの中で信仰を与えられた小石さんが洗礼を受けて、本国が天に移されました。信仰によって、賢さと愚かさの基準は逆転します。

 自分と天

 「思い悩むな」と何度も出てくる今日の箇所は、その直前の「愚かな金持ちの譬話」と密接な関係をもっていることは、使われている言葉からも明らかです。
 その譬話は群衆の一人に向けて語られましたが、今日の言葉は、弟子たちに向けての言葉です。この世においては、「自分のために富を積む」ことが賢いことです。でも、主イエスから見れば、それは愚かなことなのです。だから弟子たちには「持ち物を売り払って施し」「尽きることのない富を天に積みなさい」と言われるのです。

 恐れるな

 主イエスは、「小さな群れよ、恐れるな」とおっしゃいます。イエス様は、当時の社会の権力者たちを厳しく批判しました。愛から出てくる批判ですけれど、彼らは激しい敵意をもってイエス様に詰め寄ってきましたし、群衆も集まってきたのです。その様を見て、弟子たちが恐れを感じたことは当然です。
 だからイエス様は、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか心配してはならない」とおっしゃってきたのです。「心配する」は、原語では「思い悩む」と同じ言葉です。
 この世が「この世」として存在する限り、イエス様は「この世」に生きる人々に向って「不幸だ」「愚か者だ」と語り続けるでしょう。幸いになって欲しいから、賢くなって欲しいから、その願いが変わらないから語り続けるでしょう。そして、激しい敵意にさらされ続けるでしょう。だから、そのイエス様に従う者は決して体制側には立ち得ないし、少数者であり続けるでしょう。それは小さな存在だということです。それ故に弱い存在でもある。貧弱な存在なのです。それは惨めなことであり、そういう群れに属していることは不幸なことであり、愚かなことであるとも言えるでしょう。だから、恐れるしかない面があります。しかし、イエス様はその貧しさも弱さも恥じることもないし、恐れることもないとおっしゃるのです。それは何故か、が今日の問題です。

 小さい

 今日の箇所には、「小さい」という言葉が三度出てきます。それがキーワードなのです。「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」とイエス様はおっしゃいます。不老長寿は人類の最大の夢です。最近何かと話題になっているSTAP細胞について発表された時も、「夢の若返り技術に適用できるかもしれない」と言われました。私たちは、必死になって寿命を延ばそうとしてきたのです。現代は「延命治療」もあります。しかし、そのようにして生かされることを「夢」としている人はいません。生き甲斐をもった人生であれば、少しでも長く生きたいと願うのは健全な意欲です。しかし、人類は寿命を自分で決めることは出来ません。
 「ごく小さな事」と訳された言葉、それは「小さな群れよ」の「小さい」の最上級です。寿命を延ばすという人類最大の夢が、神様にとっては最も小さな業だとおっしゃっているのです。そういう極端な対比は烏と人間の比較にも表れているし、野の花とソロモンの比較にも表れています。烏に関して言えば、烏は五羽なら値段がつく雀よりも価値が低いのです。誰も肉として食べないから売り物にはならない無価値なものなのです。主イエスは、そういう烏と人間を比較しておられるのです。
 また、烏だろうが雀だろうが、鳥は収穫物を倉に納めるわけではありません。でも、そういう鳥も神の養いの中に置かれているではないか。野の花は、しおれれば価値がなくなり焼かれてしまいます。そんな花でさえ、金の杯で酒を飲むソロモンよりも美しく装われている。神様の目にはそう見える。まして、私たち人間が養われないはずがあろうか、と主イエスは言われます。鮮烈な言葉です。

 小さな信仰

 イエス様の言葉は、どれをとってもこの世の価値観とはまったく相容れません。そういう言葉を、弟子たちに語ることで弟子たちの価値観を壊し、神の国に生きるように招いておられる。しかし、その招きに応えることは、私たちにとって至難の業です。
 そのことを誰よりもご存じなのが、イエス様です。だから、イエス様は私たちに向ってこうおっしゃる。「信仰の薄い者たちよ。」「思い悩むな。」
 「信仰の薄い者たち」
とは、実は「小さい」(オリゴス)と「信仰」(ピスティス)が合わさった合成語で、「小さな信仰の」という意味です。新約聖書では、イエス様の言葉としてのみ出てくる言葉です。

 貧弱  虫けら

 私は、「小さい」という言葉が何処に出てくるかをちょっとだけ調べてみました。すると、モーセの言葉のなかにありました。彼はイスラエルの民にこう語りかけるのです。

あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。(申命記7:6〜7)

 「他のどの民よりも貧弱であった」「貧弱」が、「小さい」という言葉です。神様は数の多い民、つまり強くて大きな民を愛する訳ではない。最も小さな民を愛し、エジプトのファラオの奴隷であったイスラエルを救い出してくださったではないか。モーセは、そう言っているのです。エジプトのファラオは、ソロモンの何倍も権力を持っていた王です。その王の奴隷であったイスラエルの民を、神はご自身の「宝の民」として選び、愛してくださった。そのことを忘れるな、とモーセは言う。そのことを忘れた時、イスラエルにとっての行き着く先は、パウロの言葉にあるように「滅び」だからです。事実、ソロモンの死後、イスラエル王国は南北に分裂し、その後の王や民も「自分の豊かさ」のみを求めることを通して滅亡へと向かっていきました。
 ユダ王国滅亡後、バビロンに捕囚された民に向かって語った預言者の言葉も読んでおきます。そこにはこうあります。

「主は言われる。
恐れるな、虫けらのようなヤコブよ
イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。」
(イザヤ書41:14)

 この「虫けらのような」が、「小さい」とか「貧弱」と訳された言葉です。主なる神は、小さく惨めな者をご自身の民として選び、救い、助ける。だから、「恐れるな」と言われるのです。

 何を求めるのか。

 もちろん、信仰が小さく、貧弱であって良いはずはありません。イエス様は、弟子たちの信仰の小ささを嘆いておられるのです。群れが小さい分だけ信仰は大きく強くなければなりません。
 イエス様は、弟子たちにどうしても知って貰いたいことがあるのです。それは、「神は烏を養ってくださる」ということです。「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」です。そして、「わたしたちの父」となってくださった神様は、地上を生きる私たちに食物や衣服が必要であることをご存じだということです。そのことを分かって欲しい。信じて欲しい。そして、本当に求めるべきものを求めて欲しい。そうおっしゃっているのです。
 少し前の説教で、「あなたは、あなたが食べるもので決まる」(you are what you eat)という英語の言い回しに触れ、「食べる」を「読む」に言い換えれば、「あなたがどういう人間であるかは、あなたが何を読んできたかで決まる」とも言えるのだと語りました。今日の箇所にそれを当てはめれば、「あなたがどういう人間であるかは、あなたが何を求めているかで決まる」ということになります。
 イエス様は、「ただ、神の国を求めなさい」とおっしゃいます。そうすれば、その日生きるのに必要な物は与えられる。私たちがソロモンのようになることを、イエス様は望んでおられません。

 献金

 イエス様は、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。……尽きることのない富を天に積みなさい。・・・あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」とおっしゃいます。
 今日は、会員の皆さんのボックスに「献金・その種類と捧げ方」という牧師と長老会連名の文書が入っていたと思います。礼拝献金と月約献金を初めとする教会に捧げられる献金と、神学校、年金局、日本聾話学校に捧げられる献金などに関して書かれています。今年も年度初めに心新たに読んでいただきたいと願っています。
 今日の週報には、東京神学大学、教団年金局、日本聾話学校、日本基督教団震災募金の四つの献金の報告が掲載されています。これはすべて有志献金です。教会への献金以外に、そこに記されている人数の方たちが捧げているのです。ここに掲載されている以外に、石巻山城町教会と福島教会に対する顔の見える連帯と支援のための献金があり、これは二階ホールに置かれたボックスに自由に捧げられた匿名献金です。
 教会の通常会計の中からは、各地の教会や学校、施設、教団を通して被災地への献金に通常会計の収入の約十分の一の額を捧げることができました。このことは、今後も中渋谷教会のよき伝統として継承していきたいと願っています。

 施し

 イエス様が使っている「施す」という言葉は、慈愛、憐れみ、恵みという言葉が元になった言葉です。慈善、チャリティーのことです。私たちは、個人的にも様々なものに献金とかカンパもしますが、教会を通して慈善をすることが出来ることを幸いに思います。
 私たちがある所に献金をするとは、私たちが神様から頂いた富をある所に施すことです。それは私たちの心をそこに向ける、あるいは置くということでしょう。神学校、年金局、日本聾話学校、被災地の人々、また石巻と福島の教会の具体的な必要の少しでも足しになるように願って私たちは献金をしますし、27日には福島教会の会堂建築募金コンサートを開催します。朝礼拝の説教は福島教会牧師の似田先生ですから、チラシを用いて多くの方をお誘いくださるようにお願いします。そのことも、神の国を求めて生きる私たちの業であり、御心に適うことだと、私は思います。そして、神様が喜んでくださることだと思うのです。

 恐れ

 そのことを踏まえた上で、改めて「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という主イエスの言葉が、今日を生きる私たちに何を語りかけているのかを聴き取っていきたいと思います。
 私は今、西南支区長という役目を負わされて、好むと好まざるとに関わらず支区内外の教会の現実の一端を知らされることがあります。嬉しいこともありますが、いくつもの教会で礼拝出席者が減っていることを知らされます。原因は様々ですけれど、多くの教会で礼拝出席者は少しずつ減少を続け、教会員数も減り、そして高齢化が進んでいます。極端な例で言えば、四〜五十年前は二百名近くの礼拝者であった教会が、今は三十名台になっています。三百名だったのに半減している教会もあります。かつては満席だった大きな礼拝堂が、今はすきすきになっているのです。
 会堂建築の多くは会堂が古くなったから建て替えるのであって、狭くなったから建て替えるわけではありません。私たちと同じように、地域再開発によって建て替えることもあります。五十年ほど前は、多くの教会が礼拝堂が狭くなったから建て替えたのですが、今はその礼拝堂が広すぎるのです。
 二百人、三百人集っていたとしても今現在渋谷の街に集まっている人の数万、数十万の人に比べたら小さな群れに過ぎません。今、渋谷の街は人々でごった返しているのでしょう。しかし、教会がごった返すことはありません。
 中渋谷教会は、幸いなことに、老若男女がバランスよく受洗や転入して来られて、結果として中年層や青年層が増え始めています。でも、昨年亡くなった七十代の方たちは礼拝に出席していた方々でしたし、昨年度だけでも高齢の故に礼拝に来られなくなった方たちが何人もおり、二度の大雪の影響もあって礼拝出席者は一昨年度よりも五名も減りました。そして、二百名弱の会員の内、七十歳以上が百人を越えるのですから、統計的に見ればまことに厳しい状況であることに変わりありません。多くの教会はもっと厳しい状況ですから、今後伝道がめざましく進展しない限り、二十年後にはいくつもの教会が危機的状況になっていることは明らかなのです。
 そういう現状を知らされながら、私は潜在的にいつも恐れを感じています。私たちは、今よりも少し大きな礼拝堂を備えた会堂を建てる計画を建てていますが、それはその時までに今よりも礼拝者が増えていることを前提としたことですし、以後も増えていくことを想定してのことですから。しかし、それは如何にして可能なのか。

 牧者に導かれる群れ

 でも、イエス様は「恐れるな」とおっしゃる。旧約聖書を見ても、神様は貧弱な民、虫けらのような民を愛し、助けてくださるとあります。
 問題は、私たちが何を見、何を聴くかだと思います。ここに出てくる「群れ」は自然の群れではありません。飼い主がいる群れ、導き手がいる群れなのです。飼い主がいない群れは、外敵が来れば雲散霧消してしまいます。あるいは、飼い主が雇い人で、外敵が来れば群れを捨てて逃げる人であれば、やはり群れは消滅します。そんな感じの教会も実際にあります。
 イエス様が「小さな群れよ、恐れるな」とおっしゃる時、「私が飼い主だ」とおっしゃっているのです。その言葉を聴き取り、その事実を見なければなりません。主イエスが、私たちの飼い主であり神の国の王なのです。その王は、ソロモンのような王ではありません。官邸とか皇居とか宮殿とかに住む王ではない。権力をもって君臨しながら、最後は死んで終わりの王ではないのです。
 イエス様は「ユダヤ人の王」として十字架で処刑されて死んだが故に、死の支配で覆われている墓を栄光の復活の場とし、天に挙げられ、神の右の座に座られた方です。そして、そこから父と共に聖霊を送ってくださる王なのです。  詩編23編にあるように、この牧者に導かれる群れは「何も欠けることがない」のです。この牧者は「青草の原に休ませ」「憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて」くださる牧者だからです。「死の陰の谷を行くときも」「共にいてくださる」のです。外敵が襲ってきた時は、その「鞭と杖」を使って命懸けで戦ってくださるのです。この飼い主を信じ、この方の姿を見つめ、この方の声に従って歩く時、「恵みと慈しみ」がいつも追いかけてきます。だから、私たちは「災いを恐れない」し、何も恐れることはないのです。

 喜ぶ 御心に適う

 「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。この「喜ぶ」は、他の箇所では「御心に適う」と訳される言葉です。ルカ福音書には二度しか出てきません。その内の一回は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時です。罪人が罪を悔い改めて受けるべき洗礼を、罪のない神の子が受けるとは、イエス様が罪人の罪を己が身に背負って、いつの日か神様の裁きを受けることを決意したということです。そのことを通して、罪人の罪を赦し、本国を天に移す。そのようにして、罪を悔い改めた者に神の国を与える。それが神様の愛です。小さな者を愛して救い出す愛なのです。神様は、喜んで愛してくださるのです。
 だから、神様は洗礼を受けて祈っておられるイエス様に、聖霊を降しつつこうおっしゃったのです。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」(ルカ3:22)

 「心に適う」「喜ぶ」と同じ言葉です。ご自身の命という何ものにも換え難い貴いものを、罪人を助け、救い出すために捧げる決意をされたイエス様を、神様は愛し、「喜ぶ」とおっしゃる。
 「喜んで神の国をくださる」とは、神様にとって最大の存在、愛する独り子を私たちの救いのために与えること、施すことなのです。憐れみをもって恵んでくださることなのです。それも、喜びをもって。その神様とイエス様を信じる。そこに、私たちの救いがあり、私たちの喜びがあり、神様の御心に適うことがあり、神様の喜びがあるのです。
 今日、洗礼式を通して、一人の神の子が誕生したことを神様は喜んでおられます。それは神様の御心に適うことだからです。洗礼式に参列し、心新たに「日本基督教団信仰告白」を捧げる時、私たちも新たな命を与えられ、神の国に生かされていることを実感します。そして、私たちのために献身してくださった主イエスに献身する信仰を新たにされます。「ただ、神の国を求める」とは、そういうことです。主イエスに献身して生きることです。先ほども洗礼式の讃美歌199番を歌いました。その4節には「我が身もたまもみなささげ、御名をたたえて日をすごさん」とありました。この献身に生きる時に、その心の何処に思い悩みなど生じるでしょうか。主イエスに身も魂も捧げる時、その生活の何処に思い悩みが生じるのでしょうか。そこにあるのは、喜びです。
 この献身の信仰に生きる時にだけ、私たちはこの世におけるあらゆる思い悩みから自由になるのです。そして、永遠の神の国に生かされる。天に宝を積むことが出来る。それほど大きな喜びは他にはありません。

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