「目を覚ましている者の幸い」
12:35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。12:36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。12:37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。12:38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。12:39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。12:40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」 12:41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、12:42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。 12:43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。12:44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。12:45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、12:46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。12:47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。 12:48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」 佐古純一郎名誉牧師の逝去 週報に記載されていますように、先週火曜日の午前に、名誉牧師である佐古純一郎先生が七年前から入居されていたホームで逝去されました。病院に入院することもなく、肉体のエネルギーをすべて使い尽くした老衰でした。佐古先生は、数年前にご長男とご次男を相次いで亡くしておられ、しめの夫人も九十三歳の高齢ですから、ご連絡をくださったのはご長男の長女であるお孫さんでした。 私はご連絡を頂いたその時には不在でしたが、その日の夕刻にホームの部屋で安らかな顔で眠っておられる先生と対面し、夫人とお孫さんお二人と共に御言を読み、祈りを捧げてご遺体を葬儀社の安置所にお見送りすることが出来ました。 当初は、息子さんらの葬儀会場であった清瀬の葬儀所でお孫さんたちだけの葬儀をすることになっていたのですが、色々な偶然が重なって、木曜日の午後に、佐古先生の時代に建てられたこの会堂で葬儀が出来たことは幸いでした。教会としては、6月末に告別式を開催する方向で準備を始めています。 私は、かねてから佐古先生の葬儀の時には司式をさせていただき、説教は関係教職のどなたかにお願いするつもりでした。それが先生の願いだと思いましたし、先生に相応しいと思ったからです。しかし、火曜日の晩に葬儀の打ち合わせをし、木曜日に葬儀となったので、とてもそのような手筈を取れるはずもなく、急遽、葬儀説教の準備をすることになりました。(2階ホールに、まことに不十分なものですけれど、葬儀説教を印刷して置いてありますので、お読みくださればと思います。) 死に備える生 私たち人間は、自分の命の終わりの時がいつ来るかを知りません。しかし、必ずその時は来るのです。私たちが意識しようとしまいと、私たちはその「時」に向って生きていることは事実です。生きるとは、死に備えることであるとも言えます。死を考え、死に備えることは、生きていることを真剣に考えつつ、いつ死んでも良いように今日を生きることだと思います。 葬儀への備え 必ずしも個人的なことを語ることではないと思うので、牧師としての自分について少し語ります。牧師は、いつでも葬儀の備えをしていなければなりません。自分の死にも備えなければなりませんが、教会員の死にも備えていなければなりません。今回は名誉牧師でしたが、葬儀がある度に、「いつも備えていなければならない」と思わされます。「葬儀をする時に、自分が牧師であることを最も強く自覚する」と言う人もいます。私は、礼拝の説教をすることが最大の務めでありプレッシャーですから、いつでもそのことを考えていますけれど、いつ来るか分からない葬儀も心の中から消えることはありません。 牧師を隠退しても、一人の伝道者あるいは説教者として、どこかの教会の説教を頼まれることはあるでしょう。でも、現役の牧師でない者が、葬儀を頼まれることはありません。あっても引き受けるべきではないと思います。そういう意味では、葬儀を司式するということは牧師であることの一つの大きな徴です。だから、現役である限りいつでも備えていなければならない。主の御名に相応しく、その方の信仰の歩みに相応しい葬儀説教をしなくてはならないからです。そのために、信徒の方すべてと信仰の交わりをもっていなければならない。そう思いますが、なかなか思うに任せません。 また、牧師が備えるように、信徒も備えねばならないことは言うまでもありません。牧師に伝えるべきことを、ちゃんと伝えておかねばなりません。両者が何の備えもなく、主の御名に相応しい葬儀は出来ません。葬儀は、十字架の死と復活の主を賛美し、宣べ伝える伝道の場でもあるのです。真剣に取り組むべきことです。 主人の帰りに備える僕 主イエスは、「僕は、いつ主人が帰って来ても良いように、腰に帯びを締め、ともし火を灯して待っていなければならない。いつでも目を覚ましていなければいけない」とおっしゃいます。まさに、そうなのだと思います。いつ帰ってくるか分からない主人を、目を覚まして待っている。それが忠実な僕の姿なのです。その点で、牧師も信徒も求められていることは同じです。 信じる者は、死んでも生きる 佐古先生は、生まれてすぐに母親と死別するという経験をされました。その経験が、先生の人生に深い影を落としたことは言うまでもありません。中学生の頃に、先生ご自身が死の問題に直面し、それ以来、自分の死の時は明日かもしれないという怖れを心に抱き、死と永遠の命の問題を考え続けたことが、『私の出会い』というご著書に記されています。 その先生が、敗戦後の虚脱状態の中で、ヨハネ福音書11章に出てくる主イエスの言葉に出会われました。それは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。(あなたは)このことを信じるか」という言葉です。その言葉を通して虚脱状態から抜け出し、郷里の徳島から東京に出て、中渋谷教会初代牧師の息子である森有正と出会い、中渋谷教会に導かれて山本茂男牧師から洗礼を受け、ついに山本先生の後を継ぐ牧師となられたのです。それ以後も、全国各地の数多くの教会で説教と講演をなさったし、文芸評論家として数え切れない著作を残し、大学の学長もするという超人的な働きをされました。 その佐古先生が、受洗者や信仰五十年を迎えた方に聖句を書いた色紙をプレゼントされました。その色紙にしばしば書かれたのが「わたしたちは落胆しません。」「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされる」とか、「わたしの恵みはあなたに十分である」「わたしは弱い時こそ強い」というパウロの言葉です。それらの言葉は、絶えず自分の死を、あるいは弱さを意識している人が愛する言葉だと思います。いつ来るか分からない死の時を、いつも心のどこかに覚えつつ、その日に備えている人の心の琴線に触れる言葉だと思います。「死に備える」と言っても、それは悲壮な覚悟とか絶望を受け入れる諦念というものではなく、命が新たにされることの希望に満ちた覚悟だと、私は思います。 プロフェッショナル 御覧になっている方もおられるかと思いますが、NHKの番組に「プロフェッショナル」というものがあります。それぞれの仕事の達人、一筋に仕事に打ち込んでいる人に密着取材する番組です。私も時々見ますけれど、その番組はいつも「あなたにとってプロフェッショナルとは何ですか」という問いに、その方が答えることで終わります。その答えに、私はいつも感銘を受けますけれど、結構多くの人が「プロフェッショナルとは、自分の仕事に決して満足しない人のことだ」とおっしゃいます。「自分の仕事に満足したら、もうそれで終わりだ」ということでしょう。人から見れば、「もうそれで十分でしょう」と思えるような仕事をしていても、本人は「まだまだだ」と思っている。だから、向上心が消えないのです。 もう何年も前のことですけれど、心臓外科の権威と言われるお医者さんが、「あなたにとってプロフェッショナルとは何ですか」の問いに対して、こう答えました。 「二十四時間、医者でい続けること。」 その言葉を聞いた時は、感銘を受けるというよりは、家族はたまったもんじゃないなとも思いましたが、私には重い言葉として今も心に残っています。いつ何時、急患の方が飛び込んでくるか分からない。緊急手術をしなければならないことがある。自分にしか出来ない手術がある。だから、いつそういう連絡が来ても良いように心と体の備えをしていなければならない。そういうことだろうと思います。 信仰に生きるプロフェッショナル 私も「プロの牧師でなければならない」と自分で思っていますし、口にすることもあります。その意味は、牧師はいつでもその場に相応しい聖書の言葉を読み、必要に応じて説き明かし、そして祈ることが出来なければならないということです。それが出来なければプロとは言えない、と。アマチュアは「一生懸命やりました」で良いと思いますが、プロは一生懸命にやるのは当たり前で、それ以上でなければならないと思います。それ以上のことが出来なければ、詫びなければならないと思います。しかし、やるべきことの数もその深さも無限ですから、すべてのことをプロのレベルでやっていくことは不可能です。だから、詫びながらでしか出来ないし、許して頂きながらでしか出来ない仕事だと思います。出来なかったことを神様と人にきちんと詫びることも、私が言う意味でのプロの条件です。 私は、キリスト者も皆、プロのキリスト者でなければならないと思っています。自分としてはあっという間のことですが、私は既に三十年も牧師をさせていただいています。生きていたとしても、そう遠くない未来に牧師であることは終わります。だから、その時に向っての備えを少しずつ始めています。牧師を終えた後は、信仰を生きる一人のキリスト者となるのです。その「キリスト者」という務めは、一生続きます。死ぬ時まで続くのです。そして、その時に、「よい忠実な僕よ」と主イエスに言って頂けるとすれば、それはどんなに大きな喜びかと思い、胸が熱くなります。その喜ばしい日に向ってなすべきことをする。それがキリスト者だと思います。 キリスト者とは、主イエス・キリストに仕える者です。パウロの言葉を使えば、「キリストの僕」、奴隷です。今日の箇所で、主イエスは、僕と主人とはどういう関係にあり、主人に対して何をなすべきか、を教えておられるのです。僕であるという点において、伝道者も信徒も違いはありません。 主の僕 主イエスは、こう言われます。 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」 「腰に帯を締めている」とは、いつでも仕事が出来る姿勢でいることです。私たちの服装で言えば、いつでも腕まくりをして備えていなさいということです。そして、「ともし火をともして」待っていなさいと、主イエスはおっしゃる。 今の婚宴は、二時間ほどで終わります。イエス様の時代は一週間ほど続いたようです。終わりの時間が決まっている訳ではないので、婚宴に招かれていた主人は腹一杯食べて飲んで、酔っ払って帰ってきます。電話がある訳でもありませんから、いつ主人が帰ってくるかは分からない。下手をすれば真夜中や夜明けに帰ってくる場合もある。街灯も何もない時代、主人が帰ってきた時に真っ暗であってはならないので、僕は「目を覚まして」「ともし火をともして」待っていなければいけない。眠りこんではいけないのです。それが、よい忠実な僕です。 目を覚ましている 「目を覚ましている」のを主人に見られる僕は幸いです。この「目を覚ましている」はギリシア語ではグレゴレオーなので、西洋ではグレゴリーという名前が広まったそうです。カトリック教会の教皇にもグレゴリウスという名前の人が何人もいますし、グレゴリアンチャントと呼ばれる無伴奏の讃美歌もあります。「目を覚ましている」ことが、よき僕、よきキリスト者の徴であると見做されたのです。たしかに、信仰において眠ってしまってはいけないのです。 本来の主人と僕の関係 ここまでの話は、よく分かる話です。ある意味で道理にかなった話であり、当然のことだとも思います。忠実な仕事ぶりを主人に見てもらえることは僕の幸いです。しかし、その後に、イエス様は全く意外なことを話し始めます。 何故、それが意外かと言うと、17章で、主イエスは通常の主人と僕の関係をこうおっしゃるからです。畑で働いて疲れて帰ってきた僕に対して、主人が「食事の席に着きなさい」と言うはずがないだろう。主人は、僕に対して「腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ」と言うものだ、とおっしゃるのです。 これが、主人と僕の関係です。僕は、疲れて帰って来ても、すぐに「腰に帯を締め」て、主人が食事を済ませるまで給仕する。それが僕の務めなのです。主イエスは、そのことをよくご存知です。 譬話の中の主人と僕の関係 しかし、今日の箇所で、主イエスは何とおっしゃっているのでしょうか? 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 ここで「帯を締めて」「給仕してくれる」のは主人の方です。真夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、どんなに疲れていても、この主人が、腰に帯をして、ともし火を灯して、目を覚まして待っていた僕たちを食事の席に着かせ、親しく給仕をしてくれるのです。 もちろん、こんな主人はこの世にはいません。これは、主イエスご自身のことだからです。私たちの主人である主イエス、私たちが仕えるべき主イエスは、実は私たちに仕えてくださるお方なのです。私たちに必要な糧を与えてくださり、私たちがその糧を食べて、何事にも落胆せず、信仰と希望と愛に生きていくことが出来るように仕えてくださるお方なのです。 礼拝 礼拝のことを、英語ではサービスと言います。仕えること、奉仕することです。私たちは今、神様に仕えているのです。善き主人に出会ったことを喜び、心の底から感謝しつつお仕えしているのです。 私は、3階の牧師館から下りてくるだけで、雨風や夏の日照り、冬の寒さも感じることなく礼拝堂に入ることが出来ます。しかし、皆さんはご自宅を出てからこの礼拝堂に来るまで、本当に大変だと思います。平日、職場で働いている方は、今日は家でゆっくりしたいと思うことだってあるでしょうし、雨風の強い日はひるむ思いもあるでしょう。高齢になり、足もとがおぼつかなくなれば、渋谷の人混みの中を歩くことに恐怖を感じると思います。駅からここに着くまでには、階段や坂もあります。しかし、主の僕として、主に仕えるために、こうして礼拝堂まで来ているのです。そこに僕の務めがあるからです。そこに僕の義務があるからです。 誰が仕えているのか 宗教改革者のルターは、礼拝をゴッテスディーンストと表現しました。直訳すれば「神の奉仕」、神のサービスです。神にサービスするのが礼拝だと、私たちは思っています。その礼拝を捧げるのが牧師や信徒の義務だと思っている。それは間違った考えではありません。この義務を果たすことに、大きな喜びがあるのですから。そこに良い忠実な僕の喜びがあるのです。 でも、実際には、この礼拝の中で、誰が誰に奉仕をしているのかと言うと、神様が主イエスを通して私たちに奉仕をしてくださっているのではないでしょうか。私たちに必要なものをすべて与えてくださっているのは、神様なのですから。生きるために必要な命の言葉、命の息、兄弟姉妹との愛の交わり。礼拝の中で、私たちに向って献身の愛をもってもてなしてくださっているのは、主イエスです。 ヨハネ福音書13章には、主イエスと弟子たちとの最後の食事の場面が描かれています。そこで、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとって弟子たちの汚れた足を洗ってくださったのは主イエスです。それは、家の僕、奴隷がする仕事です。しかし、イエス様はそのようにして弟子にお仕えになったのです。そこで主イエスは、弟子たちの罪の汚れを洗い清め、新たに生かすために十字架で死に、復活することをお示しになったのです。もちろん、弟子たちにそのことが分かったのは後のことですが。 私たちは、主イエスに仕えるために礼拝に来ているのです。でも、実は主イエスによって罪の清めを頂いている。新しい命を頂いている。主イエスが、腰に帯を締めて私たちに給仕してくださっている。その姿が見えるから、私たちは今日も喜びと感謝をもって礼拝に集っているのではないでしょうか。 実は、いつも目を覚まして私たちを待っていてくださるのは、主イエスなのです。まどろむことも眠ることもなく、いつでも私たちに必要な糧を与えようと待っていてくださるのは、主イエスなのです。ともし火をともして待っていてくださるのは、主イエスなのです。目を覚ましている者だけが、その主イエスを見ることが出来る。だから、その僕は幸いだと、主イエスは言われるのだと、私は思います。 だから、いつも目を覚まして私たちを待ち、腰に帯を締め、食事の給仕をしてくださる主人を見ることが出来る僕は幸いだ、と言うべきなのだと思います。 思いがけない時に来る 主イエスは続けて、泥棒の譬えをされます。泥棒がいつやって来るか分かっていれば、ちゃんと備えますから、泥棒は押し入ることは出来ません。でも、泥棒はいつやって来るか分からないからこそ泥棒なのです。その泥棒のように「人の子は思いがけない時に来るからである」と、主イエスはおっしゃいます。「このことをわきまえていなさい」と。 「人の子が来る」とは、もちろん、終末のことです。使徒信条の言葉で言えば、神の右に座し給う主イエスが「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審く」時です。この審判を経て神の国は完成するのです。だから、私たちにとっては恐るべき時であると同時に、待ち遠しい時なのです。 その時のことを、ヨハネの黙示録はこう言っています。永遠の福音を携えている天使が、地上に住むあらゆる国民に向って、大声で叫ぶのです。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい」(ヨハネの黙示録14:7)と。また、別の天使が、雲の上に座っておられる方、つまり、イエス・キリストに向って、「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています」(同14:15)と叫ぶのです。これは大いなる喜びの日です。今も「かりいるる 日は近し よろこび待て そのたりほ」と歌いました。 「刈り入れ」は裁きの徴です。それは、収穫の喜びの時なのです。収穫される方も収穫する方も大きな喜びで満たされるのです。刈り入れられる「穀物」とは、礼拝する人々、信仰に生きる人々のことです。「天と地、海と水の源を創造した方を礼拝」している者たちです。つまり、私たちのことです。十字架の死と復活を通して私たちに永遠の命を与えてくださった主イエス・キリストと父と聖霊なる三位一体の神の栄光を称える礼拝をしている私たちです。その礼拝の姿こそ、終わりの日に備える僕の姿なのです。その日その時は、誰も分かりません。だから、その時がいつでも良いように目を覚まして備えておかねばならない。それが、信仰者としてのプロフェッショナルなのだと思います。 心が燃えたではないか その「備え」のあり方の一つとして挙げられているのが、「ともし火をともす」ことです。この「ともす」と訳されたカイオーという言葉は、滅多に出て来ない言葉ですが、「燃える」という意味です。ルカ福音書にはあと一回、出てきます。思いつく方もおられると思います。 ルカ福音書最後の章です。弟子たちは、主イエスが十字架に掛かって死んでしまったことで落胆してしまい、二人の弟子は、故郷にとぼとぼと帰って行ったのです。その二人を、復活の主イエスは追いかけてくださいました。でも、彼らの肉眼には、それがイエス様だとは分かりませんでした。復活のイエス様は、肉眼で見えるものではないからです。パウロの言葉を使えば、「外なる人」の目は、復活のイエス様を見ることが出来ません。肉眼は開いていても、信仰の目が覚めていなければ、目の前に復活の主イエスがおられても見えません。 そういう弟子たちを見て、イエス様は嘆き、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」とおっしゃりつつ「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明」されました。その後、イエス様は招かれるままに彼らの家に入りました。しかし、イエス様はもてなされるべき客人であるのに、その家の主人のように振舞われたのです。彼らの目の前で「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」のです。しかし、二人はその後、こう言います。 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」(ルカ24:32) 私の特愛の聖句の一つですが、そう言ってから、彼らは再びエルサレムに帰って行きました。一旦は失意落胆して立ち去ったエルサレムに、彼らは帰って行ったのです。イエス様によって彼らの心の中に「ともし火がともされた」からです。消えていた信仰の炎が燃やされたのです。失意落胆していた彼らの「内なる人」が新たにされたのです。だから、彼らは喜び、感謝、希望に溢れてエルサレムに帰り、そしてそれから五十日後には聖霊の炎に燃やされて、「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」と告白する人間にされたのです。 信じる者の幸い その信仰告白をすることで殉教の死を遂げることになったとしても、「わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」という主イエスの言葉を信じている者は、死の怖れから解放されているのだし、実際に死なないのです。信仰の命は、肉体の死を越えて生きるからです。それは、信仰において、いつどんな時も、復活の主イエスが共にいてくださることが見えるからです。肉眼においては姿が見えなくなったお方が、いつも共にいてくださり、私たちのためにパンを裂きつつ永遠の命を与えてくださる恵み、十分すぎる恵みが見えるからです。 聖霊の導きの中で聖書を読み、説き明かしを聴きながらその恵みを知ることが出来る者は、心の中に決して消えることのないともし火をともされ、どんなことにも落胆せず、日々新たにされる命を生きていけます。 それが「目を覚ましている」ということです。だから、そういう者は「幸い」なのです。そして、主イエスは今日も、その「幸い」を私たちに生きて欲しいと心から願って、私たちを礼拝に招き、仕えてくださっている。その主イエスの姿を見ることが出来る者は、幸いです。 |